狸の年上女房「ねぇ〜炎人さん!近くのお堀で置いてけ〜って怖い声で言ったら、また人間がお魚置いてったわ〜!」
今夜はお魚焼くね!と明るく話しかける狸の耳と尻尾が生えた年増に、炎人は苦々しい顔を向けるだけだ。
祟り神の炎人は、人間とほぼ変わらないくらい大幅に力を抑えられて、そのまま狸の狸沙子に無理矢理この廃寺に連れてこられてしまった。町人の話し言葉から察するに、ここは江戸。元いた都からはるか遠くの東の都へやってきてしまった。
狸沙子は炎人をとても気に入っているようで、甲斐甲斐しく世話をし、愛想良く話しかけ、仲良くなろうとしているようだ。どうも炎人と夫婦になりたいようだったが、顔立ちは愛嬌があるものの会ったばかりの年増と突然そんな仲になる気はさらさらなく、炎人は狸沙子を無視してばかりだ。
何度か逃亡を図ろうとするものの、炎人の美しい見た目は目立つ。神通力はほとんど使えないので空を飛んで移動もできず、町を数歩歩いただけで、
「おや、狸沙子さんとこの旦那さんじゃないの!」
「こんなところでどうしたんで?」
などとすぐに声をかけられ、それを狸沙子が見つけて連れ帰ってしまう。この狸沙子という女は妙に顔が広く、夫(仮)がとんでもない美形となれば噂が立ち、炎人のことを知らぬ者はもう江戸にはいない。
(マツリとかいう娘がこの女に僕を頼んだのは、こういうことか……!)
これでは下手に動き回れないし、狸沙子が面倒を見ていれば見張りにもなる。
炎人はイライラしながら廃寺に引きこもることしか出来なかった。
ところで、狸沙子と炎人が暮らす廃寺は境内社があった。神仏習合によって寺と神社が同じ敷地内にあるのはあまり珍しいことではない。しかし、どうもその境内社には誰もいないようである。狸沙子がこまめに掃除したり修理したりして小綺麗ではあるものの、とっくに管理する人間がいない廃寺と境内社。狸沙子はずっとここに住んでいたのだろうか?一体いつから?なんとも奇妙であった。
狸沙子は昼にどこかへ出かけ、夜に帰ってきて家事を片付ける。
「すぐに夕食にしますから〜」
と炎人に優しく笑いかけた。ずっと廃寺の一室に引きこもっていると、たとえ相手が狸沙子でも、帰ってきてくれるとホッとする。温かいご飯を食べながら、よく喋る狸沙子を観察した。
寺は寂れているのに、この女、やたら肌艶や髪の状態が良い。手は家事などで少々荒れているものの、栄養状態が悪いわけではなさそうだ。オマケに身につけている着物も、木綿ではなく上等なものだ。
炎人が見つめていたことに気づき、染まった頬を両手で隠した。
「ええ?どうしたの?顔に何かついてました?」
どんぐりのような丸い目が炎人の目を見つめた時、炎人はちょっとドキリとしたが、
「いや、ここに来て一ヶ月経つが、どういう寺だったのか、あなたがどんな神様なのか聞いた事がなかったから」
と取り繕って尋ねた。狸沙子は、ああ〜と掌と掌をポンと合わせた。
「確かに簡単な説明しかしてませんでしたね〜。ごめんなさいね〜!うーんと……」
狸沙子は少しためらい、やがて炎人に向き直って座った。
「ちょっと昔の話しますね!」
ある狸が我が子を猟師から守った末に命を落とした。偶然通りかかった仏に情けをかけられ、狸は仏の使者として側に置かれた。
やがて狸は立派なお堂を建てられ祀られた。その時に狸は人の姿になり、寺の敷地内に昔からいた神様と夫婦になった。二人は仲良く慎ましく暮らし、家内安全の象徴として人々に慕われた。
狸は節制が得意だったので、お布施をいただいても大切に使い、贅沢を一切しなかった。夫はそんな狸を尊敬し、愛しんだ。
ところが、寺を管理していた人間が居なくなって檀家が減り、寺も境内社もどんどん廃れた。どんなに狸が節制をしてもやりくりを見直しても、入ってくる金がなければ無意味だった。どうしてもお腹が空けば苛立ちも増える。夫婦仲も険悪になっていった。
ある時、狸はお賽銭箱に合わせて十二文が入っているのを見つけた。お賽銭を使ってしまうことに罪悪感はあれど、これでまた夫と仲良くなれれば、夫が笑顔になってくれたらという一心で豆腐屋に声をかけ豆腐を一丁購入してしまった。八盃豆腐(江戸の庶民の料理。これだけでご飯が八杯も食べれるほど食欲が進むと言われて名付けられた)を作り、狸はドキドキしながら夫の帰りを待っていた。
しかし、夫の口から出たのは感謝や労いの言葉ではなく、お賽銭を使ってしまった狸を叱りつけ詰る言葉だった。
「信じられない。このお金は俺たち神様の欲を満たすものじゃないだろう?人が願いを込めて託した大切なものだ!」
「私たちもう何日も何も食べていないよ!人の願いを叶える前に、私たちが参ってしまう……」
「それでも神ならこんなことするべきじゃなかった!」
「私はただ、あなたにもう一度笑って欲しかっただけなの……!」
狸はボロボロと涙を流した。夫はしばらく押し黙ると、
「君一人が食べるなら全く構わない。でも僕はそれを望まない。欲に負けたりなんかしないからだ。仏教徒の君ならわかると思ったのだけどね……」
と吐き捨て、やがて境内社から出て行ってしまった。それ以降は、ずっと狸がこの寺に住み続けた。
「まあ狸って私なんですけどぉ」
狸沙子がふふふ、と笑った。
「馬鹿な話ですよねえ。確かにあの人の言う通り、お賽銭に手を出しちゃダメだったと思っているのよ〜。でもね、あの時は本当に追い詰められて、このままじゃ元夫との仲もダメになるって思って、焦っちゃった」
「……」
「今でも寺だけじゃなくて境内社も綺麗に手入れしてるのは、いつでも元夫が帰ってきても大丈夫なようにしようとしてたんだけど、風の噂で別の人と夫婦になったみたいで……私も、新しい人を迎え入れた方が良いかな〜と思ったのよ」
狸沙子の顔に少し暗い影が入った。炎人が見ていることに気づいて気まずそうに笑う。
「なんてね。あなたがお婿さんになってくれたらとっても嬉しいけど、炎人さんが嫌だっていうなら、尊重するわ」
そう言って食べ終わった食器を片づけ始めた。流しで洗い物をする狸沙子の背中が寂しそうに見えて、炎人は慌てて目を背けた。
そこからの狸沙子は連日のベッタリ具合が嘘のようだった。夜にはキチンと帰ってきて炎人の身の回りのお世話をしてくれるが、炎人とあまり目を合わさず、話も必要以上にしなくなった。
なんとなく避けているような狸沙子の態度に戸惑ったが、自分が原因で夫婦仲が決裂したことなどを話したのが気まずいのだろうか。自分の過去を話すというのが気恥ずかしかったのだろうか。どちらにしても、連日そのような態度を取られては気になって仕方がない。
二週間経ってやがて炎人は気付いた。いつも狸沙子のことを考えていると。
(なんであんな女を気にかけたりなんか……)
炎人は困惑したが、狸沙子の優しい笑顔や明るい話し声、弾むような足取りに、いつのまにか心が絆されていたのかもしれない。
恐れられ敵意を向けられることは多かったが、誰かに優しくされたのは実に何百年ぶりだった。狸沙子の思いやりがとてもありがたくて、いつのまにか狸沙子を求めていたようだ。
(なんてことだ。僕は……)
驚きはしたが、炎人は納得していた。狸沙子を好きになっていたのだ。
狸沙子がこのまま、炎人を諦めて別の者にその優しさを振り撒くようになってしまったら……考えただけで、嫉妬の炎がチロチロと舐めるように煽ってきた。
ある夜、狸沙子は一通り洗い物を済ませると炎人に一言声をかけて自室へ向かおうとした。炎人がその手を掴んで止めてきたので、狸沙子は驚いて見上げる。
「炎人さん?どうかしたの?」
「まだ……僕を好いてくれてますか?」
炎人が緊張したように聞く。狸沙子はキョトンとしていたが、頬を染めて小さく頷いた。
「僕も、狸沙子が好きです……お婿さんに、してくれませんか」
炎人が硬い声で尋ねると、狸沙子のどんぐり眼が大きく開き、嬉しそうに潤んだ。
「でも、良いんですか?こんな年増なのに……」
「狸沙子が良いんです。どうか、僕だけを見て……」
狸沙子をそっと抱きしめた。ふくよかだと思っていたが、想像より華奢で女性らしい小柄な体だった。狸沙子もおずおずと手を回し、抱き合った。
それから二人は仲睦まじく暮らした。そうしているうちに珠のような可愛い女の子を授かった。女の赤ちゃんは亥狸子と名付けられ、大変可愛がられた。
しかしそれからまた狸沙子は外へ出かけるようになった。亥狸子は廃寺にいる炎人が面倒を見るようになったが、狸沙子は外で何をしているのだろう?と気になってきた。近所の奥さんに亥狸子の面倒を頼み、そっと狸沙子の後を追ってみた。
追わなければよかった、と炎人は冷や汗をブワッとかいていた。
狸沙子は始めは江戸の質屋へ不要になった着物を売りに行ったり、金物や調理用具、布団などの損料屋(レンタル店)へ行ったり、談笑しながら食材を購入したりと、こうしてやりくりをしているのだなというように買い物を済ませていた。
ところが、炎人を運んだ無限の空間を生み出す不思議な風呂敷に荷物を包むと、今度は大きな商家に足を運んだ。忍び込んで様子を伺えば、どうも狸沙子は主人と商売の話をしている。そんなことをいくつもの商家と行い金のやり取りをして、商家を後にする頃には百ごとに帯で留めた小判が十も手に入っていた。
(節制しながらも、こうして商売をしていたのか……)
だから人がいなくなっても廃寺を維持することができていたのだ。炎人が知らぬだけで、とんでもない蓄えがある可能性が出てきた。
やがて狸沙子は男に会った。
その数が異常に多く、若い者から老いた者、醜い者から美しい者、職のない者から雅な身分の者まで様々な男たちだった。ご飯を共にしたり、見世物小屋を見に行ったり、散歩をしたりするだけの者もいれば、部屋の一室、草葉の陰、銭湯の中などなど、まだ日も明るいというのに節操なく男女の営みを行なっていたのだ。
炎人は吐きそうになった。狸沙子はこの状況を心の底から楽しんでいるのだ。
帰ってきた狸沙子を真っ青な顔で問い詰めると、
「あらぁ、見てたの〜?恥ずかしい〜」
と笑うだけだった。亥狸子を抱く腕の力が抜けそうになった時、
「私、妊娠する相手を意図的に選べるから、亥狸子は間違いなくあなたの娘よ〜。安心してね」
と言われる。
「誰が……そんなこと信じられるか……!金を稼いでいたのを僕に隠していただけでなく、あ、あんな奴らとまで会って楽しんでたなんて……!」
炎人が怒りでワナワナと震えた。綺麗な顔が歪んで恐ろしい嫉妬が燃え上がるが、腕に抱かれた亥狸子は大人しく眠りこけている。
「隠していたわけじゃないのよ〜。聞かれなかったから話さなかっただけ〜」
狸沙子が舌を出した。
「夫が出て行って、寺を維持したくて資金繰りしていたら、私結構お金儲けの才能があったみたいで〜お金がどんどん増えていくのが楽しくて楽しくて!お金が大好きになったのよ〜お買い物も好きなの!今はまだ貯めてる時だけど、次に買い物するとしたら香炉が欲しいな〜!」
炎人がそんなもの必要ないだろ……と絶句しているのをよそにまだ話す。
「男の人たちも、あなたと会うより長い付き合いの人もいるし、今日会ったばかりの人もいるの。私ね、今までずっと夫しか知らなかったから、これからは色んな男の人とお付き合いしたいな〜と思って!今日はこの人たち、明日はこの人たち……って決めて会ってるのよね。いやらしいことするのも好きだけど、ご馳走してもらったり色んなところに連れてってもらったり、とっても楽しいのよ〜」
きゃっきゃと楽しそうに話す狸沙子に、炎人はうっすらと背筋が寒くなってきた。価値観がまるで違う。遠い異国の人と話をしているような錯覚さえ覚えた。
「うふふ、これは私の楽しみだし、もはやそういう性なのよね〜止まらないわ〜」
「じゃあ……僕はなんだったんだ……」
炎人が呟くと、狸沙子はキョトンと見つめた。
「都から連れ帰って、夫にしてくれて、子供まで授かったのに……僕も遊びだったというのか?僕が一番ではなかったのか……?」
炎人は泣きたくなってきた。せっかく愛おしいと思える存在ができたというのに、この女はずっと自分に嘘をついていたのだ。
狸沙子がうーん、と人差し指を口元に当てて、
「炎人さんは、旦那さんにしたい男の人なのよ〜。……旦那さんにしたい男の人は、今のところは炎人さんしかいないかな」
と言い、それじゃダメ?と見つめてきた。
「僕だけ……?」
「そう!家族として嫁として、愛してるのはあなただけなのよ〜」
ニコニコ笑う狸沙子の狸顔を、思い切り殴りつけて燃やしてしまいたい気持ちと共に、炎人だけ、と言ってくれた嬉しさまで湧いてしまった。妬ましくて憎いのに、とても愛おしい……。
「炎人さんがつらいなら、離婚されてもしょうがないかな……」
狸沙子が尻尾を垂らしてしょんぼりする。炎人は様々な葛藤の中、ふと腕の中で眠る亥狸子が目に止まる。目に入れても痛くないほど可愛い娘。自分が父親かわからないものの、間違いなく愛おしい狸沙子から生まれた子だ。
やがて炎人は観念したように、狸沙子に近づき抱きしめた。
「お願いだ……そばにいさせてくれ……僕は狸沙子を愛してるんだ……」
これがただの愛ではなく、執着に近いものだとわかっていても。この女のところにいれば間違いなくつらい思いをするとわかっていても。
それでも縋ってしまった。もうとっくに狸沙子のそばを離れることなどできなかったのだ。
(私の勝ち)
狸沙子は密かにほくそ笑み、炎人と亥狸子を優しく抱き返した。