ここから出ても離さないで「完全に閉じ込められているようだな」
「うーん、こういう場所って元素石碑とかスイッチとかあるんだけど……、そういうのも見当たらないね」
四方を石造りの壁に囲まれた部屋。その部屋の中心で、空と鍾離の二人は途方にくれていた。
がらんと広がる部屋には、出入り口はおろか明かり取り用の窓ひとつとして存在せず、それなのに部屋の中は明るく保たれているから不思議だ。
そんな二人の前にある石板に浮かび上がる文字があった。
"性行為をしないと出られない"
きっとこれが外に出るためのヒントなのだろう。けれど、その明け透けな文字列に困惑して他の方法がないかと部屋の中を探し始めて数十分。
壁を壊せないかと試してみたけれど、石造りに見える壁は何か不思議な力で守られているようで傷の一つもつかない。鍾離が仙力を使って脱出してみようと何かを唱えていたけれど、それも不発になったようだった。
「強固な術がかけられているようだ。おそらくは、この指示に従わないと出ることはできないだろう、しかし……」
ふむ、と口元に手を当てて考え事をはじめた鍾離を空はぼんやりと眺める。
空の片想いだった。自覚したのはいつのことだっただろうか。いつも隣にいたパイモンにはすっかりと筒抜けで、今日も彼女は気を利かせて空と鍾離を二人きりにしてくれていたのに。
想いを告げるつもりはなくとも、好きな相手とのささやかな時間を穏やかに過ごせたらと思っていたのだけれども。
(鍾離先生と、性行為……)
ちらりと、未だに考え事に没頭している男を見上げる。
沈む直前の夕日のような強い光を放つ眼に、空の全身を見つめられたら。普段は手袋に包まれた、美しい指先と骨張った大きな手に触れてもらえたら。……その胸に、息もできないほど強く抱きしめられたら。
想像したことがないわけではなかった。むしろ夜の帳に隠れて、募る恋心に夢想しながら自分を慰めたことすらあった。
想像して、じわりと腹の奥が熱をもつ。どうしてか熱が出た時のように、頭に霞がかかったかのようにぼんやりとする。
脳裏に囁く声が、しないと出られないのだからそれを理由に素直になればいいなどと、空の健気でささやかな恋心の深くに秘められた欲をひとつひとつ剥いでいく。
今ならばこの想いの向かう先を吐息に乗せても許されるだろうか。そうでなくても、せめて思い出を体に刻んでもらえやしないだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
「しょうり、先生……」
「どうした?」
ぽすりと、鍾離の背中に顔を埋める。鼻腔から全身に巡る男の香りはいつだったかに遊びに訪れた彼の仙境のようだった。
「熱い……」
こころも、からだもぜんぶがあつい。
鍾離のことしか考えられない。わずかに残った理性の端っこで、何かがおかしい!と小さく悲鳴をあげているけれど、ふわふわと酩酊したかのような頭は何も考えることができないまま、警告を鳴らす理性を叩き潰した。
「これは……、空、しっかりしろ!」
空の様子がおかしいことに気がついた鍾離に肩を掴んでゆすられるけれど、すっかり茹だった頭は掴まれた手の大きさにすら心を奪われて、空はその筋張った手首に頬を擦り寄せる。
鍾離のジャケットの袖を唇で喰むように捲って鼻先を潜り込ませて、布に包まれていない剥き出しの肌を探り当てた。
ぺろり。
舌先で手袋の縁をなぞるようにくすぐり、つつき、舐める。柔らかな肌を味わうのに邪魔だと言わんばかりに手袋を歯で挟んで脱がせるように顔を引こうとすると、いつの間にかもう片方の手が頬に添えられていた。
ぐ、と強い力で頬を掴まれて強引に手首から顔を離されるのに、幼児のようにぐずる気持ちが湧き上がる。
けれど、すぐに合わされた視線に、熱でばかになった頭は深くものを考えられずに、鍾離の黄金の瞳がこちらを映すのをただ喜んだ。
「何かの術か……?大丈夫か、しっかりしろ空」
「はふ、しょうりせんせ、あつい……さみしい……」
体を擦り寄せたくても、頬を掴まれたままでは動くこともままならない。どうやって媚びれば目の前の男に暴いてもらえるのか方法がわからず、懇願するように目を潤ませて鍾離を見上げる。
心配そうに眉根を寄せた黄金の瞳と目が合って、その不思議な光に魅入られていると、伸びてきた鍾離の手のひらによって視界が遮られた。
「空。話はできるか?」
「あ、……鍾離、せんせい……、」
視界が暗闇に包まれて鍾離の姿が見えなくなったからか、理性が少しだけ戻ってくる。吐き出す息の熱さを逃しながら、空は鍾離の手の下で目を閉じてその声に耳を傾けた。
「秘境を出る為の条件は覚えているか?お前のその状態は、その為の地脈異常によるものだろう」
「地脈異常……」
「条件を満たさずとも出られるよう今術を解いている。すまないが、もう少し耐えられるだろうか」
鍾離の低く優しい声に問いかけられる。正常な思考の部分では、鍾離の言うことに従って大人しくこの波をやり過ごすべきだと主張している。
けれど、引き摺り出された恋慕が、このまま黙ってこの熱をなかったことにはしたくないと訴える。この場所を出ても、どろどろに溶けて溢れ出た想いは元には戻らない。このまま収めてここを出てしまえば、行き場所を無くした恋心が誰にも受け止められずに死にゆくだけなのだ。
そう理解した途端に、ぼろりと目尻から勝手に涙が溢れでた。
とっさに目元を覆う手を跳ね除けて、鍾離の胸元に縋り付く。
「ねえ、せんせい……。俺、せんせいならいいよ……、おねがい……」
--先生のこと、好きだから。
口走った言葉が夢か現か判断ができないほどに思考が塗り潰される。
目の前の男が欲しくて堪らなくて、それでも手に入れられないのならばせめて忘れられぬよう、よすがにできる傷痕を残して欲しくて。
揺らしながら押し付けた腰に、潤んだ目元に、開かれた口から覗く赤く色づいた舌先に。
夢中になって男の気を引こうと熱に浮かされていた空は、鍾離の目が獰猛な光を帯びながら見下ろしていることに気づけなかった。
「いいだろう。それがお前の本心ならば」
伸ばされた手は優しく、頬をなぞる指はあやすようで。重なった視線に、射抜かれるような熱に、空はこのまま溶けてしまえばいいのにと思った。