雫 犬飼は大量の荷物を抱えながら、プレハブをでてくるときに傘を持ってこなかったことを後悔し、肩を落としていた。今日の降水確率は低かったはずだが、予報ははずれたようだ。行きは薄く雲がかかっているくらいだったが、スーパーで色々と備品を買い込んでいるうちに本格的に降ってきていたらしい。
もう少しよわくなるまで待つか、三人のだれかに傘を持ってきてもらうよう連絡するか考えてみたが、前者はいつになるかわからないし、後者は外出許可の問題もあるがそれ以前にこんなことで来てもらうのも申し訳ないので、どちらも選択肢として除外することにした。
小雨ならまだよかったものの、この雨の中を歩いて帰るには恐らく下着までびちょびちょになることを覚悟しなければならない。さらに荷物のことも考えるとかなり憂鬱ではあったが、犬飼には溜まっている仕事が山のように待っている。
ほかの選択肢も考えてみたがいい案は浮かばず、ここで二の足を踏んでいる訳にも行かないので小さなため息とともに意を決して一歩、雨に濡れた世界への境界線に足を踏み入れようとした瞬間だった。
「犬飼」
聞き覚えのある声が雨の中からすっと耳に入ってくる。見ると雑多な人の中から他の人よりひと回りもふた回りも大きく目立つ赤い髪のおとこがこちらに向かって歩いてきていた。
犬飼がえっ、と素っ頓狂な声をあげている間にその人影はこちらに近づいてきてより解像度をあげていく。犬飼は状況が把握できないままだったが、見慣れたその姿に吸い寄せられるようにぱしゃぱしゃと水たまりを跳ねさせながら近寄った。
「土佐くん。どうしてここに?」
「傘、持ってってなかっただろ」
近寄ってきた犬飼に自分の傘を半分以上傾けながら、土佐はもう片方の手に持った開いてない傘をん、とぶっきらぼうに差し出した。
何故連絡もしていないのに来てくれたのか、これは無断外出として対処すべきなのか、いろいろと疑問は残るもののひとつの傘に大の大人二人が収まっているのも狭いだろうと犬飼はそそくさと差し出された傘を開き、土佐を見上げやすいように数歩分距離をあけた。
「ありがとうございます、助かりました」
土佐を一瞥しながらお礼を言いつつ、位置を調整するためによいしょ、と抱えていた大量の荷物を濡れないように持ち直そうとするが、傘を持ちながらというのもあり、これがなかなかむずかしい。
「荷物」
わたわたとポジション取りと格闘していると、ふと目の端で土佐がこちらに手を差し出しているのが見えた。差し出された手先から辿るように土佐の顔を見上げ、意図を探るべくしばらくじっ、と見つめる。
持ってくれる、ということだろうか。
「持って、いただけるんですか……?」
窺うように確認を取ってみる。
「早くしろ」
「あ。は、はい」
有無を言わさず半ば強引に半分以上の荷物を奪……持ってもらうことになった。
*
「こういうのって、初めてですよね」
「……何がだ」
特に盛り上がる会話もなくプレハブへの帰路を黙々とすすんでいたが、ふと犬飼が口を開いた。
「土佐くんと買い物帰り歩くのも、迎えに来てくれるのも」
「……何が言いてぇ」
「あ、いえ、いつか土佐くんには買い物手伝ってもらえたらなぁとおもっていたので、嬉しいなぁって……」
そう言って満足そうに微笑む犬飼を横目に、土佐はいつかの雑誌の犬飼のインタビューを思いだす。犬飼は手伝ってほしいと言っていた割に、そのあとも結局いつも一人で買い出しに出掛けていた。それに加え今日のようにどんなに荷物が多くても、雨が降っていても、連絡をしてきたことはなかった。
「いつも、連絡して来ないだろ」
おもわず思っていたことが口に出てしまう。
犬飼は一瞬おどろいたような顔を見せたあと、困ったように笑った。
「……本当は、連絡してみようかとおもったんですが……申し訳ないな、とおもってやめちゃいました」
少し言い淀んだ犬飼の言葉は、雨音にかき消されそうなほど主張のよわいものだったのに、傘の中で反響したせいか、やけに耳に響いた。
犬飼が何を思っているのか土佐には分からず、かける言葉が出ないまま視線をさ迷わせていると、犬飼のさしている傘の輪郭をなぞる雨粒が目に入る。ひとつひとつの雨粒が傘の上でかたまりになり、そのまま滑り落ち傘の縁をなぞって、滴っていく。
水滴の行方を追いかけ水たまりにおちた視線を、流れるままに足下から犬飼に向け直す。
頼られないのは、土佐が信頼されてないからではない。犬飼が人を頼れないからで、それは本人ですら、今はどうしようもできないことだった。
それでも、なにかしたいとおもったのは今まで過ごしてきた日々が、時間が、長くなりすぎてしまったせいなのか。
「……もっと、俺たちを頼れ」
今までたまっていたひとつひとつの小さな想いがかたまりになって、ぽつ、と言葉になって零れた。
土佐は犬飼の過去を何も知らない。今の犬飼のことだって、知っているのはほんの僅かだ。
そんな自分がどんな言葉を掛けたらいいかなんて分からなかったが、それが今の土佐に言える精一杯の本心だった。
「……ありがとうございます」
雨のカーテンに遮られ犬飼の細かい表情までは読み取れなかったが、どこか気恥ずかしそうに、嬉しそうに笑っている気がした。
そうであればいいとおもった。
*
「土佐くん。今日は本当に助かりました!」
プレハブの外屋根に入り、閉じた傘の水をぱたぱたと切りながら、犬飼は土佐を振り返る。
「水、飛んでんぞ」
機嫌がいいのか、力の加減をまちがえただけなのか、犬飼の傘の水切りは思った以上に勢いがよく、土佐の服や顔に水しぶきを飛ばしてきた。
「あ!す、すみませんわざとじゃないんです」
指摘されてあわてて手を止めた犬飼は、今度は申し訳程度にトントン、と傘の先端で地面を軽く叩いて雨水を落とした。
少し狭いプレハブの外屋根は、傘二本を広げて入れるだけのスペースはなく、犬飼が傘を完全に収めたのを確認して、土佐も自身の傘を閉じ屋根の下に入った。
犬飼が先程行なっていたように、土佐も軽く傘の水を切る動作に入る。もちろん、水が跳ねすぎないように。
身体の大きい土佐はこういった細かいコントロールは苦手だったが、犬飼にああ言った手前、自分が水を飛ばしすぎては台無しになってしまうのでいつもより無駄に気にして水を切った。犬飼はその苦戦している様子をただ微笑ましそうに眺め、終わるのを待った。
無事に土佐が水を切り終えたのを見届け玄関のドアノブに手をかけたところで、犬飼は何かを思いだしたように土佐を振り返る。
「そうだ。あとでお礼にお煎餅内緒でお裾分けしますね。…………今度もまた、お手伝いお願いしたいので」
言い慣れない台詞だったのだろうか。はじめは合わせていた視線をうろ、と泳がせながら犬飼は尻すぼみに「今度」のお願いをした。
土佐は正直、煎餅は特に好きでもなんでもなかったが、続けられた言葉を聞いて受け取らない訳にはいかなかった。
「……おう」
雨は止み、空には少し日が差し込みはじめていた。