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    まつり

    @matsuri_92865

    落書きか加筆予定の小説しか上げないと思います。雑多。ワートリ、呪術、金カムあたり。
    金カムは夢が多い。
    アイコンはいらすとやから。

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    まつり

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    以前あげたものの加筆修正版です
    大i豆i田iとiわi子iとi3i人iのi元i夫のパロを誘拐組でやってみようというやつでして…
    原作に沿った展開ではありませんが、セリフとか細かいシーン・設定はちょいちょい借用してる部分があります。

    ##豆パロ
    #金カ夢
    aimingForTheGoldenHelix

    1-1 再会 この1週間、厄年も抜けているというのに、不思議なほどにツイていなかった。
     まず実家の猫が死んだ。享年20歳。家猫にしては、とても長生きした方だ。
     その知らせを聞いた当日、3番目の元夫と偶然街で遭遇した。3番目の元夫、尾形百之助は幽霊でも見るかのように私を見たあと顔面を喜色で満たし、歩行者信号が赤だったのにも関わらず、勢いよくこちらに駆け寄ってきた。脱兎のごとく逃げる私と、両手に買い物袋を下げたまま追いかけてくる元夫。結局、女の脚力とパンプスが男の脚力とスニーカーに勝てるわけもなく、100メートル走ったあたりで捕まった。その後別に興味もなかった彼の現在の暮らしぶりを聞かされ、しまいには「自分の店開いたんだ」と名刺を押し付けられた。
     その翌日、出張で新幹線に乗ろうとしたら、ホームで2番目の元夫に遭遇した。2番目の元夫、菊田杢太郎は私の顔を三度見した後、これまた満面の笑みでその長い脚と逞しい身体を有効活用し、人波を掻き分け大股で歩み寄ってきた。不運だったのは、場所がエスカレーター付近で混雑しており、逃げ場がどこにもなかったということ。この時も結局捕まり、ハリウッド俳優かと思うくらいのハンサムを振り撒かれながら、興味もなかった近況を聞かされた。別れ際には、裏に私用の携帯番号とメールアドレス、それにラインのIDが書かれた名刺まで渡された。
     そんなことがあったので、最初の元夫にまで出くわさないだろうかと、過剰に警戒しながら残りの日々を過ごしていたのだが、結局会うことはなかった。安堵しつつも、勝手に振り回されている気がして若干腹が立った。そんな1週間も週末を迎え、流石に大丈夫かと気を抜いた瞬間、今度はインフルエンザに罹患した。体調不良を隠しマスクをせずに出社した若手が発端となった、部署内のプチパンデミックに巻き込まれたのだ。
     そうして、カーテンの閉められた薄暗い寝室で一人ベッドに横たわるという現在に至る。
     額に貼った冷却シートが剥がれて眼前に落ちる。貼り直そうと思って拾うと、冷却ジェルの部分があり得ないくらい熱を持っていた。もはや冷却という本来の意味をなしていない。温熱シートである。
     ちょうど計測完了の合図を鳴らした体温計を脇の下から出す。すると、液晶の画面には「39.0℃」の表示が出ていた。これはいけない、早急に解熱剤を飲まねば。しかし余りに体調が悪すぎて、昼食はゼリー飲料しか摂っていない。空腹状態での服薬は避けるべきではなかったか。何か食べないと。
     ぐらぐらする視界と悪寒の絶えない身体を叱咤激励し、何とかベッドから抜けだしキッチンへと向かう。
    「予防接種したのにな」
     苦手な注射を頑張って受けたのだが。まあ予防接種は感染した場合の重症化を防ぐためにあるもので、完全に感染を防ぐものではない。かかる時はかかるのだ。
     何かすぐに食べられる物はないかとキッチンの棚を漁ると、賞味期限の切れた袋ラーメンを見つけた。熱が出る前に買った野菜や肉などの食材は大方残っている。しかしそれを切ったり焼いたりと、調理するだけの元気が無かった。仕方ないので、もう麺だけ茹でて食べてしまうことにした。食器を出すのも洗うのも面倒くさいので、茹でた時に使った鍋と菜箸も再利用する。かなりお行儀が悪いのは自覚しているが、一人暮らしの女の行儀など誰が見ているというのか。
     ラーメンを食べ終わり、一息ついたあたりで咳が喉の奥から込み上げてきた。一度咳き込むとなかなか止まらず、身体を折り曲げると拍子に冷却シートが再び剥がれて床に落ちた。
     それを拾った時、なぜだか堪らなく虚無感を覚えた。立ちあがろうとした身体が止まる。
     自由度の高さが独り身の醍醐味ではあるのだが、如何せん「咳をしても一人」である。虚空に咳の音が響き消えることの、なんと味気ないことか。こんなとき、かつて存在した隣の温もりを思い出す。病というのは、どうしたって人を弱気にさせるものらしい。こんな気分になっていることに、自分自身が最も驚いていた。
     すぐに気を取り直し立ち上がる。使った鍋と菜箸を洗うと、本来の目的だった解熱剤を飲んだ。その後は寝室に戻り再びベッドに横たわった。腹が満たされたことで眠気が出てきて、夕方までぐっすりと眠ることができた。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     数時間後。
     冬の日差しはあっという間に沈み、暗い夜が訪れる。
     悪寒と熱にうなされながらも大人しく眠っていた最中、唐突にインターホンの音が鳴った。何か宅配を頼んだ覚えもないし、来訪者の予定もない。勧誘かセールスの類だろうか。
     緩慢な動作で布団から起き上がり、マスクをつけ、厚手のパーカーをスウェットの上から羽織る。寝起きでぼんやりしていたとはいえ、インターホンの画面確認を怠った自分をこの時ばかりは呪いたい。
     扉を開けると、そこには予想だにしていなかった人物が立っていた。
    「何で?」
     高熱でついにおかしくなったかと、我が目を疑った。一瞬で覚醒する。思わず一度扉を閉め、インターホンの画面を見る。
     不健康に色の白い顔と、光のない目。太い眉に下げられた口角。無造作に整えられたオールバック。間違いなく3番目の元夫・尾形百之助本人だった。顔を見るなり扉を閉められたことで少し機嫌が悪くなったのか、眉間に皺が寄っている。あまりに驚きすぎて、何を言えばいいのか分からず、しばしの沈黙の間に思考をフル回転させて、言葉をひねり出した。
    「よく私がまだ引っ越してないって知ってたね」
    「この間会ったとき、後つけてここまで来た」
    「どうやってエントランスのオートロック突破した?」
    「駐車場側の入り口がたまたま開いてたから、そこから入った」
    「部屋番号は?」
    「郵便受けで見た」
    「あのね、世間じゃそれをストーカーと呼ぶんだよ」
     ただでさえインフルエンザで体調は最悪の状態なのに、今発覚した犯罪すれすれの行為に卒倒しそうだ。眉間にできた皺を親指で必死に揉んで伸ばしながら、私はぶっきらぼうに訊ねた。
    「で、何の用?」
     彼は眉間をしかめ、心外と言わんばかりの顔をした。
    「一昨日ふらふらになりながら病院行って、その後部屋の電気は一日中つきっぱなしだから、体調悪いのかと思って看病しに来たんだが」
    「誰がいつ頼んだ?一昨日病院行ったって何で知ってる?」
    「この間会ってから、毎日外からここの様子を見てたから」
    「完全にストーカーだなあ」
     若い時の自分なら、金切り声をあげてすぐに警察を呼んでいただろう。しかし現在の私には、そんな新鮮な感覚も体力もない。むしろこういうタイプの男だったと思い出して懐かしくなっている部分すらある。慣れとはなんと便利で恐ろしいものか。
    「お店は?もうすぐ夕ご飯の時間だし、お客さん来るんじゃない?」
    「今日は休みにした。俺が店主だから、休みたい日を休業日にしていいんだ」
    「私感染症なんだけど、飲食店経営者が接触して大丈夫なの?」
    「客よりお前の体調のほうが優先だ」
    「さいですか」
     私はひとつ深呼吸をした。首を回すと顔を上げ、画面の中の尾形と目を合わせる。予想外の助っ人ではあるが、技能だけ考えるとあながち役に立たないわけではない。結婚していたとき家事全般を担ってもらっていたこの男ならば、何かしらの看病はできよう。自分で自分の面倒を見ることすらままならない状況なのだ、利用できるものは何でも利用しようじゃないか。
     腹をくくった私は、再び玄関の扉を開けた。尾形が両手に下げているスーパーのビニール袋には、何やら食料品がぎっしりと詰まっているようだった。一方、改めて今の私の状態――スウェットにパーカー、マスク、額の冷却シート、充血した目、その他諸々――を見た彼はおやと眉を上げた。
    「マスクと手洗いうがい必須。アルコール消毒もね」
     玄関に備え付けたマスクを渡す。素直に受け取り着用した後、彼は改めて私のことを隅から隅まで見つめた。
    「目死んでるな。何があった?」
    「インフルエンザ」
    「分かった。とりあえず寝とけ」
     尾形は家の中に上がってくると、眉間の皺をさらに深めた。「家事回ってねえな」
     ソファの上で畳まれないまま放置された洗濯物、シンクで水につけられた使用済みの食器類、書類や薬など色々なものが散乱した食卓。意外と几帳面な部分がある彼としては、許容し難い光景だろう。
    「お前こんなズボラな性格だったか?」
    「インフル罹る前も、仕事が忙しくて家事にまで手回ってなかったんだよ」
     尾形は盛大なため息をついた。
    「全く、俺が来て正解だったな。お前、何でもかんでも割とギリギリまで一人でやろうとするタイプだからな」
    「そうですね、はい。救世主ですね、まさに」
     適当にそうおだてると、尾形はふんっと鼻息を鳴らし、少しだけ口角を上げた。分かりやすい男だ。プライドの高さや器の小ささの割に御しやすいところは昔と変わらない。
     彼はキッチンまで買い物袋を持っていき、まるで我が家かのように何の躊躇もなく冷蔵庫を開けて、中にある要冷蔵・冷凍品をしまっていった。どうやら自分が本来ならば出禁を敷かれている身で、今回は特例で許可されているだけということを完全に忘れているらしい。
    「来たからには働いてもらうよ」
    「言われなくても」
     尾形はジャケットを脱ぎコート掛けにかけると、早速皿洗いにとりかかった。その光景を、自室の戻る廊下の出前で眺める。懐かしさに自然と口元が緩んだことで、案外この状況を素直に受容できている自分がいることに気が付いた。離婚したとはいえ、一度は生活を共にしていた相手なのだ。
    「食器にはピンクのスポンジ使って。鍋とかフライパンには黄色。青はシンク掃除用だから」
    「分かった」
     そうつぶやき、言われた通りに寝ていようとリビングに背を向けたその時。
     再びインターホンが鳴った。
     何かと玄関に出ようとする私を手で制し、代わりに尾形がインターホンの画面を覗いた。しかしすぐにこちらを振り返る。その顔は、般若かと思うくらい険しい。彼はものすごい剣幕で問い詰めてきた。
    「この男誰だよッ」
    「は?」
     のそりと隣から画面を見てそれが誰なのか理解した瞬間、私は再び目を剥いた。意識の外に置いていた倦怠感、頭痛ほか諸症状が一気に倍増して押し寄せてくる。
    「何で?」
    「誰だこの男。不審者か」
    「不審者では、ないけれど」
     御しやすいが嫉妬もしやすいこの男を、現状最大に刺激する要素が来てしまった。正直に事実を言ってしまうと、今後の修羅場展開が必至であることは容易に想像ができる。しかし、下手な嘘をついたところですぐばれそうな気もする。
     逡巡した後、私は現状に抗うことを諦めた。もう、どうにでもなれ。努めて平静な声で事実を伝える。
    「2番目の元夫だよ」
    「……は?」
     地獄の底から出たのか、と思うほど低い声。尾形の嫉妬と怒りは瞬時に沸点を軽く超えた。私の「ちょっと待て!」という制止の声も空しく、彼は勢いよく玄関へ走り扉を開けた。この先確実に、かつ勝手に繰り広げられる修羅場を想像すると、頭がかち割れそうなくらいに痛む。しかしさすがに玄関先で喧嘩をされるとご近所に迷惑なので、仲裁するべく体を無理に動かし、尾形の後を追った。
     玄関へとつながる廊下に出ると、男2人のつまらない言い争いの声が聞こえてくる。
    「それで、どうして元夫のあなたがここにいらっしゃるんでしょうねえ?」
    「誰だか知らねえが、随分血気盛んなことだな」
    「はいはい尾形ァ、一旦落ち着こうか」
     ステイステイと犬にやるように背中を撫でてると、彼は未だ敵疑心ありありの顔をしているが一応黙った。そうして宥めながら、改めて目の前に立つ男を改めて確認する。濃紺のスーツに身を包んだ菊田は、相も変わらず、むしろ憎たらしいほど洒脱さに溢れていた。世の女子ならばその色香に一目でくらりとやられてしまうのだろうが、このとんでもない体調不良と精神的余裕不足の中では、もはや拒絶反応による吐き気とタイミングの悪さに対する怒りしか出てこない。
    「ひでえ顔だな」
    「何であなたがいるんですか?」
    「君の同僚がインフルで休んでるって教えてくれたから」
    「何でここの住所分かったんですか?」
    「その同僚の子から聞き出した」
    「ああ、お得意のたぶらかしで」
    「人聞きの悪い言い方だな」
     彼は苦笑したが否定しなかった。今日何度目かの深いため息をつく。この稀代のハンサムかつ女たらしは、自分の武器が何なのかをよく理解している分、ある意味尾形よりも面倒の種である。
    「それで、体調大丈夫では……なさそうだな」
     こちらも気を利かせたのか、ドラッグストアの袋いっぱいに詰め込まれた物資をもって玄関前に立っていた。
    「この小僧は、どうしてここに?」
    「勝手に来たの。それに小僧だけど、累計3番目の元夫です」
    「再婚していたのか」
     ほう、と菊田は髭を撫でながら呟いた。尾形に向けられたその目は、明らかに値踏みをしている。それに気づいて、尾形がより一層警戒態勢に入るのが、彼の背中に添えた手のひらから鋭敏に伝わってくる。面倒くさいことになるし、既に離婚した今、変な対抗心を持ってほしくないのだが。
    「なあ、なんで初対面から他人のこと見下すような目で見てくる野郎と結婚したんだ?」
    「その後離婚してあなたと結婚したじゃない。それが答えでいいでしょ?」
    「……まあ」
     途端に黙る尾形百之助。何度でもいうが、御しやすい男で本当に良かった。
     さっきまでぎゃんぎゃん騒いでいた尾形が黙った隙に、今度は菊田が口を開いた。
    「熱はあるのか」
    「もちろん。解熱剤飲む前は、39度だった」
    「はあ!?そりゃそんなにとし目が虚ろなわけだよ。とにかく、一旦上がるぞ」
    「目が虚ろなのは熱のせいだけじゃありませんけどね?とにかくその袋と中身だけ頂戴。そうしたら帰って」
    「何で。看病する人間は多いほうがいいだろう」
    「あなたがいると、この子がずっとピリピリするってこと目に見えてるのよ。余計な争いの種を生まないで」
    「分かった。じゃあ何か作るから、それ食べて薬飲んで寝とけ。うどん食えるか?おかゆの方が良いか?」
    「私の話聞いてた?」
    「おや、俺が今から作ろうとしてたところに割り込みとはいい神経してますね。大体、彼女を満足されられるだけのものを作れるという自信はあるんですか?」
    「若造は引っ込んでな」
    「俺だってね、こう見えて料理店のシェフやってるんです。料理は大得意ですよ」
    「家庭料理作るのにプロかそうじゃないかなんて関係ないだろう、大切なのはその味を気に入るかどうかだ」
     来て早々、人の話を華麗に無視して世話を焼き始める菊田に案の定早速噛みつく尾形。年上なのだから流せばいいだけのことなのに、菊田はご丁寧にその煽りに乗っかった。最早仲裁する気も失せた。大人げなく、くだらなすぎる。質的には動物が縄張り争いで吠え合っているのと同じではないのか?
     まあ家のことをやってくれるというのなら、多少言いたいこともぐっと腹の底まで飲み込もう。言い争う二人のことは放っておいて、今度こそ寝に戻ろうと背を向けた瞬間、再びインターホンが鳴った.今度はエントランスからだ出ようと。なぜ今日はこんなに来訪者が多いのか。応答しようと動きかけたが、これも尾形と菊田に制止された。菊田が通話ボタンを押す。二人の後ろから画面を見ると、スーツの男が二人立っているのが見えた。
    「はい」
    『突然すみません、我々――警察署のものなんですが。今応対されているのは、―――号室の家主さんでしょうか?』
    「警察?」
     思わず素っ頓狂な声が出た。呼んだのはお前か、という目を尾形が私に向けて来るが、思い切り首を振って否定する。
     菊田は流石に年長だけあって、落ち着いていた。
    「私は違うんですけれども、家主なら在宅しております。何のご用でしょうか?」
    『この近辺で最近、空き巣被害が多発していまして、それに加えて、ここ数日このマンション付近で不審者の目撃情報が相次ぎまして。そのことで、今全ての居住者の方に捜査へのご協力をお願いしているところなんです。つきましては、ご自宅に直接伺ってもよろしいでしょうか?』
    「一旦家主に状況報告しますね。……って言ってるけど。どうする?」
     菊田が振り返って聞いてくる。
    「そりゃ、善良な市民として協力しないわけにはいかないでしょう」
    「オーケー。……お待たせしました、今解錠します」
    『御協力ありがとうございます』
     男達はぺこりと頭を下げてから、エントランスの扉を抜けていった。
     いなくなってから、尾形がぼそりと呟いた。
    「あれ本当に警察なのか?もしかしたら、あいつらこそ強盗か何かだったりして」
    「物騒なこと言わないでよォ」
    「そういえば、警察手帳確認するの忘れたな」
    「もし仮に不審人物だったら、あんた達どうにかして」
     そうこう言っているうちに、玄関のインターホンが鳴った。ふらふらとしながらも、男二人と一緒に玄関まで行く。
     しかしこの時も私は行動の選択を間違えていた。応対は二人に任せてそのまま寝ていればよかった。そもそも警察の捜査協力になど、インフルエンザで体調が頗る悪いので、とでも言って断っておけばよかったのだ。
     玄関の扉を開けると、先ほどインターホンの画面に映っていた警官二人で間違いなかった。目の前に立っていた男が警察手帳を掲げながらお辞儀をした。スーツ姿でも分かる頑強な身体。私とほぼ同じくらいかと思うくらいの、男にしては珍しい身長の低さ。
    「どうもすみません、私――警察署の月島と申します」
     声を聞いた瞬間、文字通り頭が真っ白になった。
     彼が頭を上げることなくこの時が過ぎてくれ、と本気で願う。しかし無情にも、月島は30度屈曲した腰を直立姿勢に戻した。重なる目線と目線。たちまち、彼の顔が驚きで埋め尽くされる。私は息を呑んだ。
    「基」
     二度と呼ぶことは無かったはずの名前がするりと唇の隙間から零れ落ちた。
     天地がまるごとひっくり返ったような心地。体の熱がかっと全身に回って、脳を隅々まで焼き尽くす。不意に身体の中のヒューズが切れ、視界がブラックアウトした。その後の記憶が、ない。

     
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