沈清秋の下山 寧嬰嬰が期待に顔を輝かせているのを見て、沈清秋は小さくため息をついた。
一番年下の弟子である寧嬰嬰は、師弟か師妹ができる日をずっと待っていた。
それで沈清秋は気が重いまま穴を掘る志望者たちを見渡して、特にひどく汚れている子供に目を付けた。
彼は痩せており、まわりの子供たちと比べると特にみすぼらしかった。
彼なら清静峰の生活に耐えられるだろう。
沈清秋は嘲笑いを浮かべ、希望を持って蒼穹山へ来ただろう憐れな子供を選んだ。
洛冰河はなぜ彼が頭から茶を浴びなければならないのか理解できなかった。
精霊のように美しい仙師が彼を選んだ時、彼は神に選ばれたのかとすら思った。
だが彼の神は、彼の師尊は彼の献茶を受け入れなかった。
「阿洛!どうしたの?」
困惑と失意のまま竹舎を出た洛冰河を、彼の師姉が呼び止めた。
ついに堪え切れなくなり涙をこぼした彼に、寧嬰嬰は鼻をならす。
「まぁ師尊たら!また何も言わずに薬をかけましたね?」
「薬?」
「阿洛は…たぶん何かの病気でした!その匂いは師尊の持ってる薬草でもとても高価でいいものです」
洛冰河は献茶の儀ために渡された茶葉を思い出す。
それはおそらく何種類もの乾燥した葉と花弁で構成されており、そしてとても少なかった。
だが貧しい出身の洛冰河は茶を入れたことなどなく、それが普通と異なることを知らなかった。
「髪によく揉みこむといいです。いい手触りになります」
寧嬰嬰はやわらかい草の生えた日当たりのいい場所へと少年を導き、二人で腰を下ろすと彼の髪の毛で遊び始めた。
師尊は彼を受け入れましたか?
洛冰河は湧き上がってくる喜びから息が詰まりそうになる。
洛冰河は彼の背丈の半分ほどもある荷物を背負い、彼の師兄の後に続く。
清静峰の階段はとても長く、小さな少年の膝を震えさせる。
彼の師兄たちの荷物は、彼のものよりはるかに小さく見える。
だが洛冰河はその重さを知っている。
「洛冰河!そんな荷物にも耐えられないのか?」
先頭の師兄の声に、慌てて彼は顔を上げる。
「この師弟は大丈夫です明師兄!」
5日に一度、沈清秋は弟子の半数を連れて山を下りる。
今、清静峰に弟子は12人しかいなかった。
それは他の峰が抱える弟子の数に比べると、はるかに少なかった。
弟子たちはまだ若く、子供で、食べる必要があった。
沈清秋は町で彼らの食べ物と生活のための物資を手に入れる必要があった。
彼らが徒歩で町に着くころ、彼らの忙しい師尊は御剣で町に降り立つ。
そして露店や屋台の並ぶ通りへと足を踏み入れると、師尊は次々と必要なものを選び取り、弟子たちに渡していく。彼らはそれを荷物番を担う弟子のもとへと運ぶ。
最後に師尊が彼らに渡すのは揚げたての芝麻球だった。前回は豆沙包だった。
清静峰で彼らの望むような菓子が出されることはなく、これは彼らが口にできる唯一の機会だった。
5日に一度半数の弟子である6人が交代で選ばれるが、それらに寧嬰嬰が選ばれることはなかった。
洛冰河だけが毎回選ばれた。
買い集めた物資は6つに梱包されていく。
順番に大きくなっていく荷物に、洛冰河は今回も最後の大きい荷物を渡されるだろうことを知っている。
初めて買い出しに参加したときのことを、洛冰河は憶えている。
大きさの異なる荷物を前に、彼の師兄である明帆が笑いをかみ殺しながら言った。
「洛冰河、お前はどの荷物なら持てるだろう?」
梱包に立ち会わなかった洛冰河は、中身を目にしていなかった。
彼はとても小さく、貧弱だったので、恐る恐る一番小さな荷物を選んだ。
それを持ち上げようとしたとき、彼は選択を誤ったことに気づいた。
それは剣や鎌や砥石で、見た目よりはるかに重いことを知った。
笑い出す師兄たちの声のまま、小さいものから順番に持ちあげていく。
書道のための紙の束は本当に重かった。
服になる前の反物は思いのほか重かった。
水気を多く含む野菜もとても重かった。
そうして彼は一番大きな荷物を背負うことになる。
それは乾燥した茸や草花、時に軽い毛皮や綿や羽毛だった。
師兄たちはいたずらが成功した喜びの声を上げた。
それ以来洛冰河は、5日ごとに菓子を口にできる唯一の弟子となった。
そして彼の師尊は小さな飴を洛冰河に渡す。
それは彼の師姉のためのものだった。
寧嬰嬰はいつも一緒に町に降りたがったが、行き返りに立ち会えない師尊は、安全を考慮し決して許さなかった。
そして平等であろうとした師尊は、労働に耐えた洛冰河たちに与えたような菓子を彼女には与えなかった。
荷物を背負った弟子たちが町を離れるのを見送ったあと、沈清秋は疲れた顔で妓楼へと向かう。
彼はたびたびそこの一室で、蒼穹山にかかわらない商人たちと商談をしていた。
沈清秋は彼の家族である蒼穹山の仲間に蛇蝎のごとく嫌われていた。
それは彼自身だけでなく、彼の支配する峰にも及んだ。
彼の弟子たちの剣は粗悪で、1つの任務の間に耐えられなかった。
支給される薬草は、おおよそ薬として役立つものではなかった。
野蛮な峰の野放しにされた弟子たちは、彼の弟子たちを好きな時にやってきて好きなように殴り倒し、壁や扉を破壊した。
修繕の請求はのらりくらりと引き延ばされ、いつまでたっても叶うことはなかった。
届く食料はまったく必要な量に足りず、痛んでいた。
馬や馬車は保全のために確認すると持ち去られてから、戻ってくることはなかった。
情報は常に遅れて届き、不正確で、任務に関することですら岳掌門師兄からの直接の依頼でないかぎり、正しくは伝わらなかった。
彼の弟子はかつて12人だった。
洛冰河が来る何年か前、12人だった。
任務中の怪我から片足を失い、清静峰を辞した弟子を見送ったとき、沈清秋は肺に砂が吹き荒れるのを感じた。
それは必要のない事故だった。
正しく知らされなかった任務の内容と、簡単に折れる剣、見習いのようなおぼつかない弟子に任された治療。
沈清秋の言葉は届くことはなく、師である彼の導きが悪かったために、前途洋々であったはずの少年の未来を奪ったと責められた。
彼は子供が好きだったことはなかった。
11人となった弟子たちを見て、沈清秋はただこれ以上砂に窒息したくないと思った。
彼はすべてを背負い出した。
伸び盛りの子供たちはたくさん食べなければならない。
衣服の丈はすぐに足りなくなり、身の安全のための剣は妥協できない。
まだただの人の子の身である彼らは、しばしば病にかかり、他所の峰からの襲撃や任務で怪我や毒に侵された。
学問文芸に秀でた峰として、高額な書籍や楽器、文具が必要だった。
それらを解決するために、沈清秋は密かに走り回った。
彼は弟子たちの修練と体の育成に役立つ血肉を持つ獣を狩った。
彼は自らに薬草の知識を叩き込み、弟子らとともに採集した。
彼は手に入れた獣や薬草をもとに、蒼穹山と関係していない商人たちと交渉した。
彼の安眠のための場所だった妓楼は、彼の安全な取引のための場所になった。
もちろん清静峰の名に恥じない子供たちにするために、彼は弟子たちの教育もおろそかにしなかった。
彼は言葉通り、寝る間も惜しんで働いた。
当然だが沈清秋は全能ではなかった。
彼の峰の食事は貧相で、なんとか量こそ満たせたものの、美味しいと言えるものではなかった。
校服も支給品が途絶えて以来、数段品質の落ちる生地で作った模造品を密かに着用していた。
衣類や武器や家屋の修繕や管理はままならず、弟子たちは自分たちでそれらをしなければならなかった。
それでも弟子たちは師尊が彼らに精一杯のことをしてくれていることを、心から誇りに思っていた。
その日は定例の12の峰主たちが集まる会議だった。
ふいに沈清秋は彼と一緒にいる人々がはるか遠くにいるように感じた。
彼はいつも通り、岳掌門師兄以外の10人と、言葉で物理的に刺そうとしてるかのようにお互い攻撃しあっていて、それはこれまでの短くない年月と同じできごとだった。
同じ円卓についているはずなのに、沈清秋と彼らの間に、彼は蜃気楼の砂丘を見た。
遥か遠くまで広がる砂丘を前に、彼は途方に暮れた。
沈清秋がどんなに正しい言葉を紡ごうとも、彼の兄弟弟子たちはそれらを疑い続ける。
ありもしない悪意さえもそこから探し出し、彼を責め続けてきた。
彼はなぜ自分がここにいるのだろうとぼんやり思った。
鋭い視線を放ち、隙あらば噛み殺そうと口を開く毒蛇が、突然停止したことに峰主たちは驚き警戒した。
「沈師弟…どうか落ち着いて」
すでになんの言葉も発していない沈清秋に、岳清源はいつもの困ったような笑顔を向けた。
沈清秋は気づいてしまった。
彼は彼の七哥のためにここにいたつもりだった。
だがここにはもう彼の七哥はいなかった。
本当はとっくの昔に知っていたことだった。
沈清秋は岳清源を見た。
いつも不誠実な謝罪を繰り返すだけの、憐れな男を見た。
約束は守られることはなく、言い訳すら与えられず、沈清秋はそれらに値するものではなかった。
「私は清静峰峰主を辞し、清秋の名を返上し、そして蒼穹山を下ります」
言葉は勝手に口を滑り降りた。
そしてそれは想像以上に彼の体を軽く、爽やかにした。
彼は彼を縛るものを憐れみをもって見た。
沈清秋は岳清源を解放することにした。
それは沈清秋自身の解放でもあった。
その後残された峰主たちは散々に彼を嘲った。
岳師兄以外のほぼすべての人が、彼の癇癪を嗤い、真に受けなかった。
そして次の会議で彼が自分の思い通りにいかないことで、また激怒し叫ぶだろう姿を容易に想像した。
岳清源は小さくため息をつき、翌日からのほかの宗派との合同会議から戻ったあとに、沈清秋と話そうと思った。
彼は彼の小九のために、新しい扇を手に入れなければならないだろう。
十日後、清静峰峰主の主だった男の前で、彼の弟子たちは泣いていた。
「師尊、行かないで」
「師尊、連れて行って」
弟子たちは十分理解していた。
彼らの師尊はここにいる限り、身も心もずたずたに切り裂かれていく。
彼らの師尊はここにいるべきではなかった。
しかしそれでも彼の弟子である子供たちは、本当に離れたくなかった。
「お前たちは沈清秋の弟子であるというだけで、本来必要のない苦渋を強いられてきました。
これからはそれぞれの先で、適切な修練と蒼穹山の弟子として受けられるはずの恩恵を受けることができるはずです」
今までになく穏やかな顔と穏やかな口調で彼は言った。
沈清秋だった男は、死に物狂いで得たその名を捨て、今は沈九と名乗っていた。
弟子たちは沈九を見た。
幾重にひらめく薄絹を纏い、繊細な冠が髪を飾り、優美な扇を手にしていた彼らの師尊は、今、布の切れ端で髪を結い、膝と肘が薄く透けるほどに抜けた古着1枚で、この峰を去ろうとしていた。
彼の手元には弟子たちが泣きながら作った素朴な扇があった。
それだけが彼の持ち物だった。
彼の個人的な所有物はそもそもさほどなかった。ほとんどが清静峰峰主としての公のもので、それらはすべて清静峰に置き去りにしなければならなかった。
わずかな彼の所有物は残すことなく売り払われ、一人1本の上質な筆と弟子たちの薬草袋の中身へと変わった。
「体を大事にして下さい。無理な修練で仙骨や霊脈を傷つけないで下さい。あなたたちが清静峰の最後の弟子だったことを覚えていて、学問や芸術を愛することを忘れずにいてくれたらと思います」
最後に沈九は竹舎に一礼し、彼が学び、そして教鞭を振るってきた学び舎へ更に一礼した。そして顔をくしゃくしゃにした弟子たちを愛おしげに見回すと、小さくうなずき、歩き出した。
長引いた合同会議が終わり、蒼穹山へと戻った岳清源は清静峰を訪ね、唖然とした。
竹舎の中はさほど変わってはいなかったが、竹舎の主の寝台には、見慣れた冠と薄衣、そして修雅剣があった。
剣仙が己と契約した霊剣を手放すなど、決してありえないことだった。
修雅剣は主を失ったことで、小さく鈴のような音を鳴らし、ひどく悲しんでいた。
そして岳清源は彼が送り続けてきた大量の贈り物が、活用されることも、一緒に持って行ってもらうこともされないまま、ただ丁寧に並べられているのを見た。
岳清源はまた間に合わなかったことを知った。
「師尊は弟子たちを虐待などしていませんでした。必要なものを何も届けて頂けないのは虐待ではないのですか?師尊は私たちを健やかに保つために、本当に寝ることなく働きました!私たちに師尊を返して下さい!」
沈清秋は彼の弟子たちを案じ、岳清源に弟子たちの受け入れ先の世話を懇願する手紙を残した。
それは初めての沈清秋の頼りだった。
そして彼からの最後の便りでもあった。
さまざまな業務の処理能力の高さから、穹頂峰にて岳清源の補佐の一人になれるだろうと推薦された明帆は、清静峰から動くことを拒否した。
全身を硬く強張らせ、彼は叫び、その後小さくつぶやいた。
「師尊に会いたいです…」