紙銭で山査子飴を買う 柳溟煙は灰色の衣を手に取った。普段纏っている紫の絹を払い落し、百戦峰の弟子服を思わせるそれを身に着けた。
髪を高く結い上げ、顔を覆う面布を外す。
弟子時代の兄の姿を知ってる者なら、それがどれだけ似ているか驚くだろう。
夫は遠征でしばらく不在はずだった。
愛剣水色を手に、いつものように地下牢へ向かう。
地面に転がる人影は、成人男性としてはあまりにこじんまりとしたものだった。
「柳師弟…もう銭がなくなったのか?
生前から財布も持ち歩かぬ愚か者だったが…死んでもこの師兄にたかるとは……」
切られたばかりの両足からは未だ出血が続いていた。
残った左腕でなんとか身を起そうとする沈清秋のそばに、柳溟煙は火鉢を降ろす。
「自分のために紙銭を燃やさせようとする死者なぞ、初めて聞いたぞ……」
それでも目の前に置かれた紙銭を震える手で掴み、火鉢に投げ入れる。
一振りごとに疲れ果て、身を休めながらも繰り返す。
ここは寒い。
燃え上がる偽の紙幣が一瞬の温もりを与えるかのように、沈清秋の顔に浮かぶこわばりをほんの少し溶かす。
「師弟…柳清歌……まだ私はここにいなければならないのだろうか」
沈清秋の混濁した意識は柳溟煙を認識していない。彼の目には今、彼女の兄の姿がある。
「この霊犀洞を出たら……師弟はこの師兄を連れて行くと言った……そこで私たちは三拝すると……私の義理の娘とあなたの妹は良い家族になれるでしょう、そうでしょう?」
紙銭が燃え上がる。
「私はこんな有様だから……上手く拝礼できないかもしれないけど……。師弟は許してくれるだろうか」
それまでなんとか耐えていた涙が彼女の頬にこぼれ落ちた。
ついに柳溟煙は決意する。
初めはただ沈清秋を殺すために地下牢へ向かった。
拷問を受けているとはいえ、その男は生きていた。
兄は死んでいるのに。それは許せることではなかった。
兄の姿に似せたのは、少しでも彼に罪悪感を感じてほしかったからだ。
ひどく鞭打たれ熱にうなされた彼が彼女を目にした時、そこに泣き笑いのような表情を見せるとは思わなかった。
「師弟、柳師弟…、この師兄はずいぶんと長くあなたのために紙銭を燃やせなかった……。催促にきたのですか?残念ながらここには火も紙銭もないのです……」
この男は兄のために紙銭を供えていましたか?
憎しみをこめて卑劣に殺したはずの相手を弔う?
それはどんな皮肉でしょう。
霊剣水色を握る手に力が入る。
すでに片腕がなく梱仙索で縛られた身だ、柳溟煙がその体に剣を沈めるなどどれほどたやすいことだろう。
暗い目で見つめられてることにも気づかず、沈清秋は目を閉じた。
「この師兄は詫びます……師弟の妹が魔の手に落ちるのを阻止できなかった……。あなたは最後まで彼女を案じてたのに……私に頼むと言っていたのに……」
それはだまし討ちで殺されるというときに、相手に願うべきことではありません。
沈清秋は兄の死後、決して弁明しなかった。
捕らえられ地下牢で尋問という名の拷問を受けてさえも、それは行われなかった。
柳溟煙は真実を知りたかっただけだ。
なぜ兄を殺さねばならなかったのか。
どうして兄は死ななければならなかったのか。
沈清秋はただ沈黙した。
柳溟煙は復讐を欲した。半魔である彼の元弟子に嫁いだのは、それを達成するために必要な道だったからだ。
柳溟煙は聡明であった。ただ仙妹峰の筆頭弟子だったわけではない。
沈清秋と兄の間に、周囲が見ていた以上の感情があったことに気づかないわけにはいかなかった。
だからといって突然憎しみを消すことができるわけではない。
復讐だけが彼女を前に進ませることができたのだ。
彼女には冷静になるための時間が必要だった。
そうして彼女は彼の師弟に謝る小さな声から逃げ出した。
会うたび引き裂かれたぼろ布のようになっていく沈清秋に、柳溟煙は胸が苦しくなる。
初めて火鉢と紙銭を持っていったとき、沈清秋はひどく喜んだ。
「ここには何も供えるものがないのです」
えぐられた右目がこの場に残っていたら、彼はそれを供えようとしたかもしれない。
無言の柳溟煙に語りかけるという一方的な会話から、その男がそれをするかもしれないと容易に想像することができた。
頭痛がひどいのだろう、時々意識を失いかける。
えぐられたばかりの眼孔の周りは血と涙でぐちゃぐちゃだ。
そっと持ち上げた頭は熱で温かい。どろりとした液体の入った椀を口元にあてる。
その懲罰に立ち会ったという秋海棠が彼がどれほど叫んだかについて嬉しそうに吹聴していたのを耳にし、密かに準備していた鎮痛の薬草だった。
「師弟……苦いのは嫌だと……この師兄は何度も言った……」
もちろん柳溟煙がそのことを聞いたのは初めてだった。
兄と沈清秋はどれほど親しかったのでしょう……。
「祭りで買ったあの簪は喜んでもらえましたか?あの蓮の細工はなかなかよかった……」
朦朧とした男はたびたび話が飛ぶ。
柳溟煙は兄からの土産にしては妙に趣味のいい簪がすぐに思い浮かんだ。
大事な兄の形見のひとつに、この男がかかわっていたことが切なくてたまらない。
「私はあなたに山査子飴を買ってもらって……祭り……楽しかった……また行ける……?」
薬が効き始めたのか、男は徐々に夢うつつになっていく。
四大宗派の一つ蒼穹山の峰主が一人、沈清秋。
身分に見合った贅沢な品を得ることができただろう男が、山査子飴ひとつで喜んでいたことがただただ悲しい。それを差し出したのが兄だったこと。これらのことをもっと早くに知ることができていれば……。
怒りと憎しみがゆっくりと少しずつ剥がれ落ちていき、ついにそこには悲しみと切なさだけが残った。
男の艶もなくもつれた長い黒髪をそっと撫でながら、柳溟煙は静かに涙した。
洛冰河の不在中、地下牢にくる者は限られている。
かつては勝手に嬲りに来る者もいたが、夫を喜ばせるために一緒に行ったほうがいいと知れるようになると、夫の不在中は放置されるようになった。
そもそも世話もろくにされていないので、沈清秋が地下牢にいないことが判明するまで数日は稼げるだろう。
片腕もなく、両足もない体はひどく軽い。
仙師でもある彼女にとって、沈清秋は赤子ほどにしか感じない。
「沈師兄……祭りに行きましょう」
柳溟煙は初めて沈清秋に語りかける。
「でもその前に怪我を直すために医師に診せねばなりません」
これからの剣の旅でこれ以上凍えることのないよう厚く布で包んだ中から、残った片目が不安げに揺れる。
「柳師弟……千草峰に行くのは無駄です……彼らは清静の者を診ないでしょう……」
「大丈夫です……この師弟は他に医師を知っている」
沈清秋を見捨てた蒼穹山に逃げ込むことは、もとより考えていなかった。
これまで沈清秋が受けてきた仕打ちをここでも垣間見、兄さえ生きていたらこれらのことはなかったのだろうかと一瞬疑問に思う。
だがそれは今考えるべきことではない。
「沈師兄が治療を耐えたなら、この師弟は師兄に山査子飴を買うだろう」
もろい髪の間からのぞく片目が、やわらかく細められる。
「私はそれらをずいぶん長い間逃していました」
幻花宮の新たな主である半天魔が、脱走したかつての師の返還を求め蒼穹山に攻め入ったが、何も得られず引き返したといううわさ話が流れた。
切断した師の両足を投げつけたために、激怒した宗主に激しく撃退されたという。
その後幻花宮は蒼穹山と膠着状態に入り、互いに不明の師を捜索することもままならずにいるそうだと、市井の者たちは口にした。
遠く離れた地ではそれらのうわさが届くまで数か月を要した。
麓の町で山査子飴の屋台から飴を5本買い入れた柳溟煙は、いくつかの造血にかかわる薬草も入手し、満足げに顔を上げた。
天魔の血を抜くのは容易ではない。
造血を促す薬草を飲んでは血を抜き、少しずつ薄めるくらいしか考え付かなかった。
健康体である自身はともかく、衰弱した沈清秋にそれをするのは恐ろしかった。
それでも見つかれば二人とも死よりも惨い運命が待つだろうことを思えば、選択肢はそれほどなかった。
「沈師兄、山査子飴を買ってきました」
「あぁ、師弟はこの師兄にまた苦い薬を飲ませる気だ」
相変わらず沈清秋は柳溟煙を柳清歌の亡霊だと思っている。
今はそれでいい。
今日も本人の前で紙銭を火にくべる。山査子飴の代金のつもりだろうか。
「竹舎に作った祭壇ほどではないが、十分だ」
祭られる本人が作った祭壇とはなんだろう。思わず笑ってしまいそうになるが、真面目に祈る沈清秋の姿に切ない気持ちが沸きあがる。
いつの日か、沈清秋が正気に戻る日が来るかもしれない。
柳溟煙はその日が来るのを待ち望むべきなのかどうかわからない。
そのとき彼が望むなら、柳溟煙は沈清秋が兄の横に眠る手助けをするだろう。
今はただ、安らかに祭壇に祈る彼の日々を守るだけだ。