◆「おチビちゃん。今日の仕事終わり、ダイナー行こうよ」
フェイスがジュニアを夕食に誘ったのはその日の朝のことだった。それぞれのスペースで出勤するための身支度を整えているときのことで、制服のボタンを留めている最中だったジュニアはその手を止めて、やや怪訝そうにフェイスを見つめていた。
何か言いたそうな表情にフェイスは「おや?」と首を傾げる。
「何か予定あった?」
「いや、ねーけど」
そうは言いつつ依然として変わらない表情に、言いたいことがあるならはっきり言えば?という意味を込めた視線を送ると、ジュニアはもごもごと口を開いた。
「お前からそんな風に誘われるの、なんか、珍しいなって…」
ジュニアの言うことは尤もだった。食事に誘うこと自体はまあよくあることだが、いつもはその場の成り行きで一緒に行っているようなものだ。こうして先に予定を確約しておくことはこれまで無かったかもしれないなとフェイスもぼんやり思い返す。とはいえ、予定を変えるつもりはない。
「アハ、たまにはいいじゃん。今夜は俺に付き合ってよ」
どうして事前に約束を取り付けるのかと不思議がるジュニアに、フェイスは明確に答えなかった。
まだ納得しきっていないような表情でいるジュニアだが、どうせ時間が経てば忘れて気にもしなくなるだろう。そんなことを思いながら、お互い中途半端になっている身支度の続きを促すのだった。
本日の任務を終え、待ち合わせの場所で合流したジュニアはフェイスの予想通り今朝のことなどすっかり忘れているような素振りだった。
顔を合わせた直後、開口一番に「腹減った!」とくれば思わず笑いがこぼれてしまう。フェイスは決して馬鹿にしたつもりはなかったが、喉の奥でクツクツ笑う声がお気に召さなかったようでジュニアはムッと唇を尖らせた。
これは言い返されるなとほんの僅かに身構えたフェイスの予想に反して、ジュニアはふいっと顔を背けると「早く行こうぜ」とぶっきらぼうな声でダイナーへの歩みを促した。
いつもより少し大股に、フェイスより少し先を歩くジュニアのつむじを見下ろしながら、そんなに急がなくてもダイナーはどこにも行かないよと言ってやりたくなったのを飲み込んだ。
そういえば、待ち合わせで会った時から何となく不機嫌だったかもしれない。おチビちゃん、よほどお腹が空いてるんだな。
つい先程ジュニアの言動を笑ったことなどは棚に上げ、そう結論付けたフェイスはいつもよりほんの少しだけ歩幅を広げた。ジュニアのつむじから、横顔が見える位置まで追い付いて今日の任務であったことなどをお互いにポツポツ話しながら少し歩いた頃には、もうダイナーは目前になっていた。
店内に入ると、ジュークボックスから流れる陽気な音楽と共に聞こえる誰かと誰かの談笑、オーダーを受ける店員の明るい声、ご機嫌にぶつけられるグラス、皿の上で忙しなく動かされるカトラリー、様々な音が混ざり合って賑やかな空気に包み込まれた。
「この時間だとけっこう混んでるな」
カウンター、テーブル、テラスと空いてる席は無いか一通り視線を巡らせていたらしいジュニアが店内の賑やかな雑音に負けないよう声を張ってフェイスに話し掛けた。空席が無いなら店を移動するかと問う瞳がフェイスを見上げてくる。しかしながらフェイスには今夜ダイナーで食事をするという予定を変えるつもりはないし、残念ながらジュニアの視界からは見つけられなかった目当ての席がしっかり空いていることも、彼が一生懸命空席を探している間に確認済みだ。
「あっちの奥の方。座れるから行こう」
「え?あ、おう」
「席、空けといてもらって正解だったな」
「は?今なんて…」
迷いなく足を踏み出したフェイスの後ろから戸惑うような声が聞こえたが、チラッと顔だけ振り向けばジュニアは素直に付いてきている。うなじの少し上で括られた髪の毛の束がジュニアが歩くたびピョコピョコ揺れるのを見て、まるでヒヨコの尾羽のようだと思った。フェイスは込み上げてくる笑いをジュニアには聞こえないよう、こっそり吐息と一緒に漏らして、店内のBGMに紛れ込ませた。
「やっぱここのハンバーグは美味いな!」
メガ盛り、と名付けられるに相応しい肉厚なハンバーグを頬張りながら満足そうな笑顔を見せるジュニアはすっかりご機嫌だ。
相当に空腹だったようで、ステーキ皿の鉄板に熱せられて肉汁を飛び跳ねさせるメガ盛りハンバーグが来たときの瞳の輝きようと言ったら。写真にでも撮ってメンター達に見せてやりたいくらいだなと、フェイスが思っているとジュニアと目が合った。
「なに?」
「クソDJは食わねーのか?」
一瞬、何のことかと思ったがジュニアがガトーショコラ、と呟くように付け加えたので、ああ、と合点がいった。
ジュニアがメガ盛りハンバーグを気に入っているように、フェイスもアンクルジムズダイナーのガトーショコラはお気に入りのメニューだ。食事に来るときは大抵、ガトーショコラをメインに頼んでサイドメニューを摘むといった感じである。
それが今日は、ジュニアと同じようにハンバーグ(流石にサイズはレギュラーだが)を食べているので珍しがっている、といった様子がよくわかった。
「一緒に食べようって言ったじゃん」
「はあ?いつ?」
「朝。ダイナー行こうよって」
「いや、行こうとは言われたけど一緒に食べるってそういう」
「…で、ガトーショコラだっけ。もちろん食べるよ、注文もしてあるしね」
ジュニアの言葉を遮るようにフェイスが強引に話を戻すと、それが合図だったかのようなタイミングで二人の座るテーブルに件のガトーショコラが運ばれる。それを見てジュニアは「はあ!?」と声を上げる。
「二つも食うのかよ!?」
「まさか。一つはおチビちゃんの分」
「はああ!?」
目を見開いて驚くジュニアは今にも立ち上がりそうな勢いだ。何か言いたいのに、何から言えばいいのかわからないといった表情で尚も見つめてくる視線を受け止めながらフェイスは機嫌よさそうにガトーショコラを食べ始める。
「おれ頼んでねーぞ」
「俺が頼んだんだよ。たまにはいいでしょ、奢りだから。遠慮なくドーゾ」
「奢る!?クソDJが!?」
今度こそ立ち上がろうとして、しかし絶妙な高さのテーブルの縁に太ももを打ち付けたジュニアは「うぐっ」と呻くと気まずそうに再び腰を落ち着けた。自分の目の前に置かれた皿と、向かいに座るフェイスをソワソワと交互に見つめながら、納得いっていない内心がダダ漏れの呻きを漏らしている。
「まあ、ゆっくり味わってなよ。俺はちょっと店長と話してくるから」
「なっ…おい!」
ジュニアが戸惑っている間にさっさと、しかししっかりガトーショコラを味わったフェイスはスマートな動作で立ち上がる。それを見ていた近くの席の女性客達が一瞬キャアとざわめき立ったがフェイスは気にしなかったし、ジュニアもそれどころではなかった。目の前にあるガトーショコラはまだ手付かずだが、しかしそのまま置いて自分も席を立つわけにもいかず。
店長がいる入口近くのカウンター席の方へ先に歩き出すフェイスの背中が、もう声を掛けても届かない所まで離れてからようやく決心したように「ふぁっく!」と小さく吐き捨てて、それからデザート用の小さなフォークを手に取った。
ダイナーの外へ出ると、ほんの少しだけ冷たい風がフェイスの前髪を撫でていった。人が集まる場所は必然と熱気がこもりやすいので、今の季節に吹く夜の風がほてった頬にはちょうど良い。仕事終わりの頃は大分沈みながらもまだ街を照らしていた太陽の光もすっかり無くなり、交代するようにウエストの街並みから放たれる人工的な明かりがむしろ昼間よりも華やかに夜空を照らし出していた。
いつでもこの街は明るいな。もう何度も繰り返し感じることをまた感じながら、フェイスはとても気分が良かった。
自分の思惑通りに、予定が進められたので。
いっそ鼻歌でも口ずさもうかと思ったところで後ろから追い掛けてきた騒がしい声にその考えを打ち消される。
「おい待てよ!!!クソDJ!!!」
怒りというには勢いが足りず、どこか困惑したような、しかしいつもに増して落ち着きのない様子でジュニアがフェイスに追い付いた。別に置いていくつもりは無かった。焦っていたのか慌てていたのか、隣に並んだジュニアは膝に手を置いて呼吸を整え始めた。その様子を口元を緩めさせながらフェイスが眺めていると、唐突に顔を上げたジュニアが少し赤い目元で睨みつけてきた。まだ少し、肩が大袈裟に上下している。
「どういう、つもりだよ」
「何が?」
「会計!払おうと、したら、もう、払ってあるって…!」
「ああ、だって。奢りだからって言ったでしょ」
「はあ!?だって、それは…っ」
「はいはい。ちょっと落ち着こうね」
のんびりとあやすような声で話を遮るフェイスにジュニアはまた目つきを鋭くしたが、自分でもわかっているようでまた話し始めることはせず、一人深呼吸を繰り返した。
そろそろ息も整うという頃合いになると、フェイスは静かに歩き出した。つられるようにジュニアも無言で隣に並んで歩き始める。相変わらず、夜の風は肌に心地よかった。隣のジュニアも同じように感じているのか、フェイスよりも長い前髪をなびかせながら微かに目を細めている。
そのまま何の会話もなく歩みを進めていたが、エリオスタワーに真っ直ぐ向かう通りに出たところで先に口を開いたのはジュニアだった。
「何か、気色わりい」
「はあ?」
再開された会話の切り口がどう聞いても悪口としか思えない台詞に、フェイスも思わず不満の声が上がる。
「奢ってもらっておいて、気色悪いはあんまりじゃない?」
「誰も奢ってくれなんて頼んでねーし!だいたい、何だよ急に」
「何でって、それは…」
言いかけたところで、フェイスは言葉を止めた。続きが気になるジュニアがフェイスを見上げると、じっと見つめる瞳に捉えられて思わず身じろぐ。
「な、なんだよ…」
「おチビちゃん、本当にわからない?」
「はあ?てめ、今はおれが訊いてんだよ」
なのに質問で返すなと言い返そうとしたのに、尚もジュニアを覗き込む濃い色の瞳に息が詰まる。こんなの理不尽だ。ジュニアだって、朝からずっと納得いっていないのに。
フェイスはもう気にもしていないのだろうけど、朝、唐突に食事に誘われたときからジュニアはずっと落ち着かない。何でと訊いてもはっきりと答えないフェイスが何を考えてるかなんてわかるわけがないのに。それなのにわからないのかと問い詰めるなんて、ずるいのではないか。
「…わかんねーよ、クソッ」
素直に認めるのが悔しくて、吐き捨てるように悪態をつくものの、そんなことでフェイスが動じないことはもうとっくにわかりきっていた。
「そっか」
返ってきた声は予想に反して優しくて、ジュニアはますますわからなくなる。
「別にわからなくてもいいよ」
「何だよ、それ」
「まあ、強いて言うなら」
前を向いて歩くフェイスの横顔を、ジュニアは見上げる。また風が吹いて、二人の頬を撫ぜて通り過ぎていった。
「俺にとっては、少しだけ特別な日だってことかな」
*
「――なんてことがあってから、毎年この日にこうやってクソDJと一緒にメシ食ってるけどさ」
「そうだね」
「これって、お前からの誕生日祝いだったんだな」
「アハ、やっと気づいたの?おチビちゃん」
向かいに座るフェイスがさも可笑しそうに笑うので、ジュニアはムッと唇を尖らせる。ここが静か且つ上品な空気が漂うレストランでなければ、大声で馬鹿にするなと騒いでいたかもしれない。
けれど騒ぐようなことはしない。ジュニアも少しは大人になったので。
「別に、今さっき気づいたとかじゃねーからな」
「へえ?そうなんだ」
尚も面白がるように目を細めてフェイスがジュニアを見つめる。思えば毎年この日のフェイスはいつもよりどこか楽しげで、機嫌がいいかもしれない。
フェイスに誘われて二人で食事に行く。フェイスの奢りで。その日の為に前もって予定を組み込んで。それはいつもジュニアが誕生日を迎える、その前日のことだった。
「何で言わねーんだよ。隠すことでもないだろ」
「別に隠してなんかなかったけど。おチビちゃんの察しが悪いだけでしょ」
「ぐぬ…」
「アハ、すごい顔」
せっかく鼻を明かせたと思ったジュニアだったが、当の本人が全く気にしてないとなっては依然として悔しさが残るだけだった。それでも、単純に馬鹿にされたと憤ることができないのは、悔しさの中にほんの少し、本当に僅かにチラつく寂しさのようなものがあるからかもしれない。
無意識にうつむいた口からポツリとそれがこぼれ落ちる。
「…あのとき、クソDJにとっては特別な日だって言ってたけど」
「『少しだけ』ね」
「理由、知ってたらおれだって…」
変に勘繰ったりせずに、フェイスからの祝福の気持ちを素直に受け止められたかもしれないのに。
「おれだって、何?」
聞き返すフェイスの声に、ハッと我に返った。
「な、なんでもない!!!」
自分でも何を言い出すつもりだったのかと内心焦っているジュニアに気づいているのかいないのか、「ふうん」と返事をしながら、フェイスはゆったりと頬杖をついた。口元に微笑みを浮かべながらジュニアを見つめる。
「…それで。今年の誕生日祝いの感想は?」
もうわかりきってるだろうに、それでも言わせようとするフェイスはとても機嫌が良さそうだった。それを見てジュニアは「うぐ」と返事に詰まる。
返す言葉なんて、そんなのとっくに決まっている。けれど、それを伝えるのはまだ悔しいとか、気恥ずかしいとか思ってしまうのだ。次の『少しだけ特別な日』には、伝えられたらいいと、思わなくもないけれど。今はまだ。
ジュニアがぶっきらぼうに「…まあ、悪くはないんじゃねーの」と言うので、フェイスも「そりゃどーも」と素っ気なく返す。
それから満足そうに、デザートのショコラを口にした。
おわり