記憶喪失になった徳が記憶を取り戻すためにリョガとヨーロッパ旅行する話「カズヤ!」
コーチの声が聞こえる。振り返ればベンチから身を乗り出しコーチが叫んでいた。
「ペースが早すぎる。何を焦っているんだい?確かに試合は劣勢だが、覆せないスコアじゃない」
そこに戻れば言い聞かせるような声色でコーチが話しかけてくる。なんだか今日はそんなコーチの言葉が酷く鬱陶しく感じた。わかっていますと手で制し、意識を相手コートに向ける。相手は格上とは言えないが油断は出来ない相手だ。再びコートに入って構えをとる。今回、テクニックの面では俺の方が上かもしれないが、パワーの面では押し負けてしまっていた。ギアを上げ切る前にポイントを取りきるのが最善だと判断して攻めへの切り替えを早くすることを意識する。
__右だ!
勘が働き素早く踏み込む。しかし、俺はコーチの言う通り、なにか焦ってしまっていたらしかった。相手は先回りするように動く俺を見て驚いたためか、直前に自慢のパワーで無理やりコースを変えようとした。
それはものすごく早いショットだった。しかし無理やりコースを変えたため、狙いが甘い。
アウトだ。
左に体を切り替えながらそう判断したそのとき、豪速球がポストに当たり弾かれ、あろうことか俺の方に飛んだ。
「あっ!」
気がつけば、縫い目にこびりついた汚れや毛並みの乱れがわかってしまうほどの距離にボールがあった。
ドッ
あたまのなかでなにかがひかった。
***
目を開くと白い天井が見えた。思い体を起こして周りを見渡す。よくわからないが、ここは病室だと思った。しばらくして、看護師と思われる女性が部屋に入ってくる。俺が目を覚ましていることにたいそう驚いたようで、腰を抜かす勢いで体を仰け反らせ、慌てて部屋を出ていく。少しすれば廊下を走る足音が聞こえてきた。大きな音を立てて扉が開けられれば、茶色いスーツに身を包んだ西洋人の顔つきをした男と白衣を身につけた医者と思われる老人が看護師と思われる人々を連れて入ってきた。
スーツの男は俺が目を覚ましているのを見ると破顔して俺を抱き寄せた。
「カズヤ!良かった、目を覚ましたんだね!本当にどうなるかと……」
俺はどうしていいかわからずにとりあえず笑みを浮かべた。それを見て、男は嬉しそうに笑った。
「シュワルツさん。念の為、彼の状態を確認させてください」
彼の後ろから医者の声がした。すみませんと言ってスーツの男は離れていき、代わりに医者が近づいてくる。
「おはようございます。徳川カズヤさん。起きがけに申し訳ありませんが、このカードに描かれているものを答えてもらえますか?」
そう言われ、何枚かのカードを渡された。指示に従い描かれている動物やら数字を答えていく。医者の後ろでスーツの男が嬉しそうに何度も頷いていた。
「認知も異常はなさそうですね。一応また精密検査を行いますがおそらく問題ないでしょう」
するとまたスーツの男が近づいてきた。
「カズヤ!元気そうでなによりだよ!大会は残念な結果になってしまったが、まだまだこれからだ。気を落とさず持ち直していこう!」
大会、持ち直す?彼は何を言っているのだろう。それよりも___。
「すいません。………あなたはどちら様でしょうか?それに……徳川カズヤというのは俺の名前なんですか?」
途端にその場にいた全ての人間の顔が青ざめたのが見えた。
***
「記憶障害」
俺は医者の言った言葉を復唱した。
「あなたの場合はエピソード記憶障害に該当すると思われます」
「先生!カズヤの記憶は戻るんでしょうか?」
俺の後ろで同じように話を聞いていたシュワルツが声を上げた。
「それは……なんとも言えません。取り戻せる例もありますし、記憶を失ったまま今も生活している方もいらっしゃいますから。とりあえず、なにか失った記憶に関するもの……、あなたの場合は特に付き合いのあった人々との記憶の損失が激しいので知り合いに片っ端から会ってみるのがいいかもしれません。結果は保証しかねますが」
記憶が戻らないかもしれない。その言葉にシュワルツがガックリと肩を落とした。
「ただ、認知は問題ありません。精密検査の結果が出れば、経過観察は必要ですが退院はしても問題ありません。元通りテニスも出来るはずです」
「そうですか」
テニスが出来ると言われても、シュワルツの表情は暗いままだった。診察室を出て2人きりになったところで、シュワルツが口を開いた。
「確かに認知能力や運動能力に問題なければテニスはできるかもしれない。けれど、君の強さはただそれだけじゃ無かったんだ。誰よりも努力してきた、誰よりも辛い経験をしてきた。その自負が自信を生んでいた。君の過去の積み重ねが君の最大の強みだったんだ。それが無い今、本当に君が前のようにプレーできるとは、僕には到底思えないよ」
隣に立つ彼の横顔を見つめる。記憶を取り戻すために見た俺が記憶を失った試合の映像の中の彼は、もう少し頬にハリがあって若々しかった気がする。なんだか数日で、彼はやつれてしまったように思える。でもね、ととシュワルツは続けた。
「俺は諦めるつもりは無いよ、カズヤ。俺は確信していたんだ。君は世界一を取れるプレイヤーだって。君が元通りになれば、努力家な君のことだ。すぐに持ち直してまた上を目指せる。そのために協力は惜しまないし、君の元を去るつもりもないよ。一緒に頑張ろう、カズヤ」
それから数日間、俺の病室には入れ替わりで色々な人がやってきた。俺の姉だという人、俺のスポンサーである企業の社長とその社員だと言う人、俺が記憶を失った原因である試合の対戦相手だったという人など。全員に見覚えが無く、俺がそれを伝える度に皆悲しそうな、同情するような顔をした。
それは何回目だっただろうか。
「徳川さん、面会の方がいらっしゃってます」
看護師は病室にはいってきて、そう告げた。
「今日は団体さんですね。テニス合宿でお世話になった人たちが集まってくださったんですって。よかったですねぇ」
恰幅のいい看護師は朗らかに笑う。その情報から何か思い出せるか試しているが、やはりまるで最初からそんな記憶なんてないように何も浮かんではこない。
「病室にお呼びしても大丈夫ですか?」
__はい。
そう返事をしようとしたが声は出ず、代わりに嗚咽が漏れた。看護師が驚いたように駆け寄ってくる。
「徳川さん?どうしましたか?」
「__すいません。本当にすいません」
「何かご気分が悪いですか?先生をよびましょうか?」
「大丈夫、大丈夫です……」
すると、看護師は何か察したように俺から離れた。
「面会にきてくれた方々には、体調が崩れて面会はできなくなった伝えておきましょうか」
思ってもみない提案に思わず顔を上げた。看護師はニッコリ微笑んだ。
「毎日色んな人が来てくれて、少しだけ疲れてしまったんですね。大丈夫ですよ。来てくださった方々には私がちゃんと事情を説明しておきますから。面会も減らしてもらえるように先生たちに提案してみます。今はゆっくり休みましょうか」
俺は何も答えられなかった。看護師はそれで十分だと言うふうにまた頷いて病室を出ていった。
しばらくすると、病室のドアがノックされ、先ほどの看護師が戻ってきた。
「みなさん、ご理解いただいてお帰りになられましたよ」
すると、看護師は俺のそばにやってきて、手に持っていた本を手渡してきた。
「元気になったらぜひ読んでほしいと渡されました。気分が落ち着いたら読んであげてくださいね」
そう言って看護師は病室から出ていった。本を開いて見れば、それはアルバムだった。そこには今より少し幼い顔つきの俺が写った、おそらくテニス合宿中に撮られた写真がたくさん貼り付けられているようだった。俺だけが写っている写真の他に、俺以外の人も写っているものも一緒だ。そういった写真には、一つ一つ写っている人の名前が書かれた付箋が貼られている。その一つ一つの筆跡はバラバラで、多くの人が集まってこのアルバムを作ってくれたことがうかがえた。ページをめくっていけば、最後のページは寄せ書きで、皆がそれぞれ俺の回復を願うメッセージを書き連ねてくれていた。
情けなさから涙が出て、寄せ書きの文字を濡らしてしまった。慌てて拭うが止められない。
「う……ぐっ、う、うぅ」
誰も居ない静かな個人病室で、俺のこんな姿を見る人がいないことだけが救いだった。
***
退院した俺は愛媛の実家に戻ることになった。この状態ですぐ一人暮らしを再開するのも心配だという話になった結果だ。実家までは俺と同じく都内で暮らしている姉(らしい)がついてきてくれた。
「この道、いつ通ってもガッタガタで最悪。カズヤ〜大丈夫?酔ってない?」
「大丈夫……」
今は。
空港から姉の運転するレンタカーに乗り継いで実家に向かう。気を紛らわすために窓の外に目を向けるが、当然懐かしさは無い。
「カズヤ」
姉に名前を呼ばれ向き直る。姉は何やら神妙な顔つきで、酔ったから運転を代われなどと言われるのかと身構えた。
「なんかあったらすぐに連絡してね。仕事があるから今日中に東京にかえらなきゃだけど、アンタのためならいつでも有給取って飛んでくるから。我慢しないでちゃんと言いたいこと言うんだよ」
俺はなぜ姉がそんなに真剣な顔をしてそんなことを言うのか、そのときはわかっていなかった。
松山空港から30分ほど車を走らせて、車は立派な門をくぐり、大きな屋敷の前にとまった。
「本当にこれが俺の家……?」
「そーよ。確かに久々に見るとデカいわ。東京じゃ考えられない」
そう言って姉は俺の父と母と祖父が暮らしているという実家の戸を叩いた。
「おかーさーん?いるー?」
すると、その音に反応したのか、庭の奥から犬の鳴き声がした。庭を進み覗いてみると、奥の犬小屋に柴犬が繋がれていた。どうやら俺の実家には犬もいるらしい。
「あ!藤吉!元気にしてたー?」
「わっふ!」
なんだか空気を含んだおかしな鳴き声をする犬だった。姉が近づけば嬉しそうに尻尾を振る。
「おーよしよし。お前はいつでも癒しだねー藤吉。もうすっかりおじいちゃんだけど」
そのとき、後ろで物音がした。見れば高齢の女性がたいそう驚いた顔をして立っていた。
「カズちゃん!」
女性は駆け寄ってきて俺を抱きしめた。
「あぁ!カズちゃん!」
「えっと」
「お母さんちょっと待って」
そう言って姉が俺から女性を引き剥がした。
「なにするの!」
「電話でも説明したよね?今カズヤは大変な状態なんだって。私のことだって忘れちゃってるの」
すると母親と思わしき女性はハッと俺の方を見た。
「カズちゃん、私のことわかる?」
俺は正直に首を横に振った。すると女性はそれがこの世の何よりも苦痛であるような顔をした。
「__なんでッ!」
「叫ばないでよお母さん!近所の人に聞かれちゃうよ!いいの!?」
すると急に女性はハッとして後ろに向き直った。
「……2人とも、早くうちに入りなさい」
相変わらずね、と姉が隣で静かに呟いたのが聞こえた。
母の後に続き、2人で家の中に上がる。見回せば、まさに伝統的な日本家屋といった風だ。そして茶の間に入ると、俺の前に居た姉が短い悲鳴を上げた。
「なんでいるの……」
「俺の家だが」
そう言って茶の間に座り込んでいた初老の男性がこちらに向き直る。
「お父さん。もしかして私たちが帰ってくるの待ってたの……?」
「これから中国に出張だ」
すると姉は失望したような顔をした。
「あっそ……」
すると父親と思われる男は立ち上がり俺の前に立つ。なんだか向き合うだけで息苦しくなるような、そんな雰囲気をたたえた人だった。
「これからどうするつもりだ」
「これからどうするって、まだ記憶が戻るかわかんないのにそんなの考えられるわけないでしょ!」
言葉を詰まらせた俺の代わりに姉が答えた。すると、父は鋭い視線を姉に向けた。
「そうやってカズヤの話に横入りしてくるところ、母さんに似てきたな」
「なっ……!」
姉は悔しそうに唇を噛み締めた。薄々感じていたが、多分姉と両親は折り合いが悪い。
「俺は、記憶を取り戻してまたテニス選手として復帰したいと思っています」
「そうか」
それだけ言って父親は俺たちの横をすり抜けていく。慌てて母がその後を追った。
「二週間ほど帰らない」
「はいはい。わかりました。身体に気をつけて行ってきてくださいね」
そう言って玄関に置いてあったキャリーケースを掴んで出ていってしまった。
「長男が記憶喪失になってそれだけ!?ほんと、大人になっても何考えてるかわかんない」
姉はまた隣で文句を言っていた。
父が出ていって、俺が元いたという部屋に通される。そこで荷解きをしていると、姉が部屋にやってきた。
「ちょっと来て」
そう言われついていくと、姉は家の奥へと進んでいく。
「姉さん。一体どうしたんですか」
「もう私は空港に向かわなきゃだけど、その前におじいちゃんに挨拶していきたくて。一緒に来てちょうだい」
おじいちゃん。そういえば祖父もこの家に居るんだったか。確かにまだ顔も見ていない。そんなことを考えているうちに、祖父の部屋にたどり着いた。姉が声をかけ襖を開ければ、和室に置かれた不釣り合いなソファーに老人が座っていた。
「おじいちゃん。久しぶり」
すると祖父だという老人は少し首を傾げて、はぁ、と返事をした。
「今日はね、カズヤも一緒に帰って来たの、ほら」
そう言って姉は俺の腕を引き祖父の前に引き出した。俺はなんて言ったら良いかわからず、とりあえず頭を下げた。すると、祖父は急に声を張り上げた。
「__かぁさん!客が来てるぞ!茶を淹れてくれ!!」
何かおかしい。そう思って姉を見ると、彼女はため息をついた。
「カズヤ、あのね……おじいちゃんは__」
「ボケちゃったのよ」
驚いて振り返れば、母が立っていた。
「ボケちゃって、もう毎日世話してる私のことも息子の嫁じゃなくてヘルパーだと勘違いしてるの。あなたたちのこともとっくに忘れちゃったわ」
「……カズヤ、アンタはおじいちゃんにとっても可愛がられてたの。だからアンタもおじいちゃん子だった。思い出せない?」
そう言われても何も思い出せなかった。すると、急に母親がワッと泣き出した。
「どうしてこんな……お義父さんも、カズちゃんまで……」
それを見た祖父は慌てたように声を上げた。
「かぁさん!ちょっと来てくれんかぁ!」
「お義母さんは2年前に死にました!!」
母はさらに大きな声で泣き出した。姉は脱力したようにソファーにもたれかかり、そんな2人を黙って眺めていた。
***
やっと慣れてきた姉と離れるのは少し心細かったが、わがままを言ってはいられない。それに俺も記憶を取り戻すために努力しなければならないと家を見てまわってみたり、近所を歩き回ったりもしてみた。母から幼い頃通っていたテニスコートの場所も聞き出し自転車で向かってみたりもしたが、そこはもう閉鎖され荒れ果ててしまっていた。
一向に手応えがない日々。それも苦しかったが、何よりも母が毎日のように俺に記憶は戻ったかと尋ねて来ることが一番苦痛だった。だんだんと気が沈んできて、ここに来てから1週間足らずで俺は部屋から出るのさえ億劫になってしまった。部屋から出なければ母と顔を合わせずに済むと思ったからだ。
それでも落ち着かないので、俺の子供部屋の整理してみることにした。そのときの精神状態で、このなけなしの気力を与えてくれたのはあのアルバムの寄せ書きだった。
俺はもらった賞やトロフィーは全て実家に置いていたようだ。その輝かしい過去は、今になっては俺の心をかき乱すだけだったが。そんなトロフィーたちと一緒に、俺は古ぼけだノートを見つけた。開いて見ればそれは日記だった。読み進めていくと、それは俺がヨーロッパにテニス留学しているときの記録だった。内容から、これは親への報告のために書いていたものだとわかった。何冊にも渡る日記を全て引っ張り出し、何時間もかけ夢中で読み耽ける。
そして、俺の中でひとつ、やることが決まった。
我慢しないで言いたいことを言うんだよ。
姉の言葉が蘇る。すぐにスマートフォンを起動させ、姉に電話をかけた。
「もしもし」
「姉さん。俺、ヨーロッパに旅に出たいんだ。だから、東京に戻りたい」
「__わかった。迎えにいくから、荷物をまとめて待ってて」
姉は理由を聞かなかった。
東京に戻ってからヨーロッパに行くと母親に言うと、母親はただ、そう、とだけ言っただけだった。
翌日、姉が乗ってきたレンタカーに飛び乗った。空港に着き飛行機の座席に座ってやっと、姉が口を開いた。
「ヨーロッパに行くって言ったって、少しの間は東京で準備しなくちゃでしょう。その間はどうするつもり?」
「記憶が無いって言ったってもう子供じゃない。部屋はあるから1人で大丈夫だよ」
すると姉はうーんと唸った。
「……変なこと考えて欲しくなかったから黙ってたけど……記憶障害で気を病んで最悪の事態ってのも無いわけじゃないらしいの」
「……最悪の事態?」
「自殺」
「…………」
「だから、なにか異常があったら気がついてもらえる環境に居て欲しいのよ」
「わかった」
しかしそうなると、どうすればいいのかわからない。姉が暮らしているところは狭いらしく、しかも現在交際している男性と同棲しているらしい。そこに厄介になるのは気が引ける。あとはシュワルツなら頼れるかもしれないが……現在俺が回復したときのために奔走してくれているようだし、負担を大きくしたくない。それに、病院での彼の言ったことを思い出し、一緒にいる時間が長くなるのはあまり好ましくないような気がした。
「どうするか考えずに呼んだでしょう」
正直に頷けば、姉は仕方がないやつだという風に笑った。
「そうだろうと思ったから、私、勝手に連絡しちゃった」
「連絡したって……誰に」
「カズヤにはさぁ、すごく良くしてくれたとかでとても懐いてる先輩が居たのよ。私も一回会って連絡先知ってたから、その2人に事情を話してみたの。そしたらその2人は地方に住んでて東京に何日も居るのは難しいって言われちゃったけど、知り合いに色々連絡してくれたみたい」
もしかしたら直接連絡来てない?と姉に促され、恐る恐るメッセージアプリを起動した。今まで、なんだか恐ろしくてそういったものの通知を一切切ってしまっていたのだ。一気に新着メッセージが表示される。それをひとつひとつを姉と一緒に確認していった。
「困ったときに手を差し伸べてくれる知り合いが沢山いる弟で、お姉ちゃんは嬉しいよ」
***
送られてきた住所を頼りに目的地に向かえば、言われた通りの石段が見えてきた。
行くあてが無かった俺に、多くの人が連絡をくれた(中には自らの財閥が所有するホテルのスイートルームを無償で提供すると言ってくれた人もいたが、流石に断った)。その中で彼のところで世話になることを決めたのは、それが彼の実家でなにかあったときに姉が駆けつけられる程の場所であることと、ちょうど連絡をくれた彼自身に家をしばらく空ける用事があり、部屋が空くため都合がいいというため。それに、彼は多分俺と仲が良かったのではないかと思ったからだ。
あのアルバムの写真に写る俺は写真嫌いだったのかいつでも仏頂面であったが、特定の人物と写っている時は比較的柔らかい表情をしていることがあった。彼、越前リョーマという人はその中の1人だった。
石段の元にたどり着き一息つく。この上にある寺が彼の家だ。スーツケースを持って上がるのは一苦労だと思っていると、誰かが石段の上から駆け下りてきた。
「徳川さん!」
駆け下りてきた青年は俺のもとに駆け寄ってきて、俺の名を呼んだ。
「ええと、もしかして君が……越前リョーマくん?」
「__はいっス」
彼は表情を隠すようにキャップを深く被り直した。それは写真で見たよりはるかに背の高い青年だったので驚いてしまった。写真を撮った頃よりかなり背が伸びたのだろう。
「久しぶりッスね。……覚えてないんだろうけど。会えて嬉しい……てか、なんか徳川さん痩せた?」
「そう……かもしれない」
「まだお昼食べてないっすよね。準備してあるんで上に来てください」
そういうと越前リョーマは俺のキャリーケースを掴むと先に石段を上がっていってしまう。慌てて追いつき、2人でキャリーケースを運んだ。上に着くと、3人程の人影があった。
「ようこそ好青年!事情は聞いてるぜ。大変だったなぁ」
「いらっしゃい。ここまで来るの大変だったでしょう。ご飯を用意してあるから、まずは荷物を置いて一緒に食べましょうか」
壮年の男女が近づいてきて俺に労いの言葉をかけ、家の中に招いてくれた。席に着くと、何故か越前の家族はどこからかクラッカーを取り出してきて、景気よく鳴らした。
「すいません徳川さん。なんか俺の家族はしゃいじゃって」
「リョーマ、この方に世話になったんでしょう?それなら歓迎しなくっちゃ」
「いやーコイツはアンタに色々目かけてもらってたみたいでね。感謝してんだ。どうぞ気を張らずにくつろいでくれていい」
「こんなことされたら逆に居心地悪いでしょ……ねぇ?徳川さん」
「あ、いや……世話になる身なのにこんな風に歓迎してもらえて、とても嬉しいです。本当にありがとうございます」
実家よりも雰囲気が良くて居心地がいいとは流石に言わないでおいた。
「聞いてた通り、礼儀正しくていい子ねぇ。それに比べて……リョーガ、ちょっとは待ちなさい」
「えー」
声がした方を見れば、越前リョーマに顔つきがよく似た男が既に食事に箸をつけているところだった。
「腹減った」
「兄貴……アンタほんとにいくつなわけ?」
「でも確かに腹減ったなぁ。そろそろ食おうぜ、母さん」
「そうね。じゃあ食べましょうか」
「よっし!じゃあ、いただきまーす」
和食メインの昼食は家庭的でとてもほっとする味だ。なんだか気が抜けて、夢中で箸を進めていると、なにか足元に違和感を感じた。そっと下を覗くと、毛玉と目があった。
「わっ!」
「あ!カルピン!今日はそんなところにいたの」
「ほあら~」
カルピンと呼ばれた猫はなにやら不思議な鳴き声を上げながら俺の足元をぐるぐる回る。
「徳川さん、カルピンの誘惑に負けておかずとか分けてあげちゃダメッスよ。カルピン、知らない人がいるとそうやって甘えて食べ物ねだるんだから」
「そ、そうなのか……」
少しして、俺からは食べ物が得られないと悟ったカルピンは俺から離れ向かいに座っているリョーマの兄の方の椅子に掴まり立ちした。
「おー、カルピン。腹減ったか?ほれっ」
そう言って越前リョーガはカルピンに茹でブロッコリーを与えた。それによって弟から叱責を受けることになった兄を尻目に、口元にブロッコリーの欠片をつけたままカルピンは去っていった。
***
「それじゃあ、俺はそろそろ家を出なくちゃなんで」
「ああ。越前くん、本当にありがとう」
「いいんすよ」
そう言ってリョーマは玄関に向かうと、家族に見送られながら家を出た。
見送りが済むと、俺は使っていいと言われた部屋でノートを広げ、ヨーロッパに行くために必要な準備を書き出していった。まずは順路、どういうルートで各国を回るのが効率が良いか考えなければならない。そしてホテルや移動手段などなど、考えなければ行けないことが沢山ある。姉を安心させてやるためにも誰か一緒に着いてきてくれるガイドも雇わなければならない。そんなことを考えていると、ノートに影が落ちた。見上げると、越前リョーガが立ったままこちらを覗き込んでいた。思わず声を上げて驚いてしまった。
「えっと、越前リョーガくん?……一体何しに……」
いつの間にこの部屋に入ってきたのだろうか。するとリョーガはしゃがんで俺に顔をグッと近づけてきた。思わず仰け反る。
「なにしてんの?」
「え?えっと、記憶を取り戻すためにヨーロッパを回ろうと思っていて……その計画を立てているところで」
「へぇ」
彼はそう言うと、俺のノートを手に取って読みはじめた。
「あっ……」
彼は黙ったままノートをパラパラとめくる。
「俺が付いてってやろうか」
「……え?」
「ヨーロッパ旅行、おれがガイドしてやるよ」
「いや、そんな……」
「心配すんなって。俺は小さいときから世界回ってたんだ。当然ヨーロッパ諸国だって行ったことあるし。アンタに縁のある奴らも紹介出来るぜ?」
「お気持ちは嬉しいですけど……行くところも多いし、君だって仕事とか学校とかあるんじゃないんですか?」
するとリョーガは何も答えずに高らかに笑った。
「決まりな!行きたいとこ、やりたいこと、リストアップしときな。飛行機とか宿の手配は全部俺がしてやるから。出発は3日後。荷物まとめておけよ」
そうまくし立てるとリョーガは部屋から出ていってしまう。なんだか妙な話になってしまった。
そして越前リョーガは冗談を言っていた訳ではなく、本当にドイツ行きの飛行機をとってきて俺に握らせた。
「楽しもうな。ヨーロッパ旅行」
そんなこんなで、俺と越前リョーガのヨーロッパ旅行が始まった。