栄光捨て去りし今の光 茜色と藍色が混ざり合うこの時間が類は好きだった。日が終わり、夜がくる。空の色がバトンタッチするように色が移り変わる様が、なんだか自分たちのようだと何気なく隣に立つ男を見つめた。
金色の髪に黄昏色の瞳が煌めく。いつでもキラキラと輝き続ける彼の瞳は曇ることなく自分たちを見つめてくる。そんな色が、好きだった。
「今日もお疲れ様! お客さんいっぱいでとってもわんだほいだったね〜!」
公演が終わったばかりだと言うのに、疲れも見せずにえむが飛び跳ねる。はしゃぐ彼女の声に、寧々は疲れた顔で対応していた。
「ああもう、なんでそんなに元気なの? えむは」
「だって、今日のショーすっごく楽しかったし! 早くまたやりたいなぁって思ったら元気が湧いてきちゃった!」
「なにそれ」
元気すぎるえむの様子に、疲労していたはずの寧々に笑顔が宿る。笑顔は伝播する、とはよく言ったものである。女の子たちの楽しそうな声は司の耳にも届いていたようで、彼はタオルを手にして言い放つ。
「早いとこ汗拭いておけよ! 風邪をひくからな」
「はーい! 更衣室いこっ寧々ちゃん!」
このままこの場で話していれば母親のような小言が司から飛んでくる。母のようで父のようなこの座長は、とにかく体調管理に口うるさかった。
身内に身体が丈夫ではない存在が居たからか。ショーキャストとしての基本だからか。恐らくはそのどちらもだろう。機材点検をしていた類の肩を叩くと、彼にも更衣を促した。
「最近は早くに冷える。ほどほどにして、オレ達も着替えよう」
振り返った宵の口のような男は、目を細めながら座長を見つめる。そうして目を細めて愛おしそうに笑うのだ。
「……ん、ああ。そうだね」
ステージには誰もいない。客も、えむも、寧々も。ただ二人だけがこの空間に取り残されたような錯覚。司の背後には落ちかけた太陽。逆光で彼の顔に深い影が差し込んでいるものの、輝く黄金のような瞳だけは、いつまでも類を射抜いていた。
「ねえ」
立ち上がり、するりと指を伸ばす。その先には司の指先。同じ歳の少年にしては少し固くて、それでいてしなやかな指。機械いじりばかりしている類と比べて傷は少なく、節榑立っていない。
「手を繋いでもいいかい?」
「更衣室までな」
ほんの数十歩の距離。それまでは、この美しい存在を独り占め出来る。時間にして数秒。その僅かな時間が、神代類にとって天馬司から与えられるご褒美なのだ。
美しいが男らしくないわけではない、絶妙なバランスを保つ司の手に触れる。指を絡めて、手のひら同士を擦り寄せれば、類よりすこし下の位置にある頭がむず痒そうに動いた。
「ふふ、顔赤いよ」
「夕陽のせいだ!」
「そういう事にしとこうか……もう沈んでしまっているけれどね」
お互いに幸せだなぁ、なんて頭の片隅で思って。いつもの日曜日が、終わるはずだった。
「お前、天馬司だろう」
えむや寧々、送ろうかと言ってきた類に断りを入れた後に別れて、ひとり帰路に就いた司を待ち構えていたのは見覚えのない男だった。住宅街の道路。ゴールデンタイムを少し過ぎた辺りの時間帯では、それぞれの家庭でプライベートな時間を過ごす頃合い。
目の前の男は自分と同じくらいか、少し上か。育ちの良さそうなジャケットを身に付けた男は、納得できない何かを顔に張りつけた様子で立っていた。
「……いかにも、オレは天馬司だが」
お前は誰だ、と言葉を続けようとしたところで、男は頭を振りながらため息をつく。
「やっぱ覚えてないか。所詮俺もその程度だったという事だな……俺はお前のこと一日だって忘れた事はないのに」
「……すまない、何処かで会っただろうか」
見ず知らずの人間のはずだが、向こうは司のことを知っている。果たして一体どこで……いや、考えられる可能性はひとつだ。
「もしやオレたちのショーを見てくれていたのか? どうだ、笑顔になれただろうか!」
ワンダーランズ×ショウタイムの公演を見てくれたお客様。それならば一方的に自分を知っていても納得が出来た。ぱっと笑顔になって男に話しかけるが、しかしすぐにそれは失敗だったと司は悟ることになる。
男は笑顔どころか憎しみの籠ったような瞳で司を見ていた。なぜ、どうして、と唇を震わせながら。
「あ……」
鬼のような形相だ。視線だけで人を殺せるならもう司はきっと冷たくなっていたかもしれない。
一歩、後退する。
「お前……いつになったらあんなくだらないショーを辞めるんだ! いつになったら! またピアノの世界に戻ってくるんだよ!!」
まさに咆哮。ビリビリと空気を震わせるかのような怒鳴り声に、流石の司も心臓が一瞬縮み上がる。チラ、と視線を周囲に向ければ何軒か窓のカーテンが揺れた。男の怒鳴り声に驚いた家の住人たちが様子を窺っているようだ。このままこの場所で話すのも迷惑になるだろう。
「場所を……変えよう……」
絞り出した声は、司自身でも驚くほど弱々しい。スターたるものいつだって堂々としていなければならないのに、と自らを叱咤する。
「ああ……」
まだ感情が燻っているような男は何にイラついているのか、舌打ちをするものだから更に司の心臓が跳ね上がる。けれど、このまま放置で逃げ帰る訳にもいかなかった。
彼は、過去の天馬司を知っている──。
街灯が照らす公園には人の気配はなかった。昼間は子供たちに遊ばれた遊具がもの寂しげに鎮座してまた使われる時を待っている。
「まあ座れ」
素直に司の後を着いてきた男へと言葉をかけて、自分もベンチに腰掛ける。司の隣に渋々と言った様子で腰を下ろした男は、ちらりと司の顔を横目に見ると、やはり納得できない様子で口を開いた。
「何で辞めた」
簡潔な質問だった。回りくどい前置きもなく、ストレートに自分の疑問をぶつけてきた。何を、など言わなくてもわかるだろうと言わんばかりの直接的な言葉に、司も少しだけ息を詰める。
「……妹が、笑ったんだ。ショーを見に行ったあの日、妹がずっと、笑っていたんだ」
思い出すのは眩しいライト。ステージを明るく照らした光源の熱量で、舞台上の人物たちは皆汗を流して、飛ばして、演技をしていた。キラキラ光るのは飛び散った汗なのか、それとも彼らの眩しい表情だったのか。
それを見て嬉しそうに楽しそうに笑っていた咲希は、今までに見た事がないくらいに輝いていたのだ。幼い司は、初めて妹のきらめく笑顔を目にした。
「オレは、妹があんなに喜んでいるのを見たことがなかった。ピアノを弾いても咲希は喜んでいたが、それの比ではない。ピアノでは咲希からあんな笑顔は引き出せない……だからピアノは辞めた」
静かな公園に司の声が落ちていく。淡々と語る少年の様子に、男は思わず立ち上がると司の胸ぐらを掴んでいた。
「……ッ、ふざけるなよ! お前が手放したのは! 俺がッ、俺たちがどんなに努力しても手に入れられなかったものだ!!」
ばさりと、男の荷物がベンチの下に落ちる。悔しそうに、悲しそうに、迷子になってしまったかような子供のような表情で、男は手を離す。襟ぐりのあたりがシワになってしまったシャツをそのままに、司はただ男を見ていた。
「俺は……!」
何かを言いかけて、すぐに口を噤むと彼は落としてしまった荷物をかき集めて走り去ってしまう。聞きたいことは聞けたのだから、満足したのだろうかと、どこかズレた思考をさ迷わせながら司も帰ろうと荷物を持った。
「ん?」
ベンチの下に何かがある。スクラップファイルか。手帳よりも少しだけ大きなそれにはいくつかの切り抜きがたたまれて収納されていた。
あの男のものだろうか。砂が着いてしまっているが、綺麗なものだ。長時間ここにあった訳では無いことが一目で窺えた。
ぱらりと数ページ分だけ見て、すぐに閉じる。
あの男は、随分と真面目で几帳面らしかった。
前回のショーが成功して、無事に千秋楽を迎えた事によりワンダーランズ×ショウタイムは新しいショーへ取り掛かっていた。
彼らが得意とするのは観客が笑顔になるようなハッピーエンドの物語。途中クスリと笑わせてくるようなコメディを混じえた年齢、性別を問わないワクワクするようなものだ。
基本的に脚本は司が手掛けるが、草案として類や寧々がこう言ったものはどうか、と持ちかけてくることも多い。
今回は音楽がテーマの不思議な国のお話。その劇中歌で、寧々がどうしても上手く歌えない箇所があるようだった。
何度も咳払いをしながら調声を試みる。しかしやはり譜面通りの音へ移行できないようだ。
「珍しいね、寧々が苦戦するなんて」
離れた場所で一人で声を出し続ける寧々を心配そうに見ていた類が、こそりと司に耳打ちをした。
「そうだな……ふむ」
水分を摂っていた司は、客席に置かれたままの寧々のドリンクを手に取ると、まだ頑張り続ける彼女へと声をかける。振り向いた寧々に向かって軽くドリンクを投げてやると、彼女はそれを反射的にキャッチした。普段ゲームで鍛えられているのか、反射神経は悪くない。
「ちょっと急に投げないでよ」
「休憩しろ。あと、ずっと歌い続けても耳が慣れておかしい所が分からなくなる」
「そんなこと……」
分かってる、と司の言葉に続けようとするが、バツが悪そうに俯くと素直にドリンクの蓋を開けた。ボトルの外側が汗をかいている。家から持ってきた時からは当たり前だが温くなってしまったスポーツドリンク。
「……えむ、キーボードあるか?」
「確か倉庫にあるかも! 埃被ってるかもしれないけど」
「音が出ればそれでいい」
言いながら歩き出せば、類もついて行くように立ち上がった。
ふたりで倉庫の扉を開けば、少し篭った熱気が肌を伝う。扉も窓も締め切られて換気がされていないのだから当たり前であるが、日差しが強い日にはどうにも蒸し暑い。
「この環境で放置されてたとしたら、まあまともに音が出るとは思えないよねえ」
「ダメだったら明日だな。家から持ってくるさ」
大道具にかけられたブルーシートの合間を縫いながら、司はガサガサと目当てのものを探し始めた。類もそれに倣うように漁り始めれば、倉庫の片隅にアンプやマイクと一緒に置かれたキーボードを発見した。
「あったよ。ずいぶん古い物みたいだけど」
「ああ、大きいな……しかし旧型だが問題は無い……スタンドは……ないな、仕方ない直置きするか」
「音、出るといいねぇ」
「お前はこういうの直せないのか?」
「うーん、直せないことは無いと思うけど、鍵盤と違う音が出るかもね?」
にこり、と微笑まれる。普通に直せないのかコイツは、と小さなため息をひとつ。以前も寧々の雛人形が大変なことになったとの話も聞いた。どうにも改造したくなってしまうのだろう。
キーボードを抱えて倉庫を出る司の後ろから、類は倉庫の扉を締める。しっかりと施錠をして、確認も怠らない。
古い道具が多いが、大切なショーに使うものなのだ。万が一盗難や損壊があってはたまったものではない。
「待たせたな」
大きなキーボードを抱えて戻ってきた司に、えむは目を丸くして両手を挙げた。驚きのポーズと共に瞳をキラキラさせて、ステージの端まで走っていったかと思うとそこから延長コードを掴んで戻ってきた。
「おっきなキーボード! ねえねえ! 音鳴るかな?」
「どうだろうな」
えむから受け取った延長コードに、キーボードのコンセントを差し込む。電源ボタンを入れればチカ、と赤いランプが点った。
白い鍵盤を人差し指で押し込めば、パーンと音が鳴った。キーボードではお馴染みの電子音。
「ん……鳴ったが……このタイプのは家にあるヤツの旧型だから多分……ここを……」
ブツブツ言いながらいくつかボタンを押しては鍵盤を叩く。様々な音に変わりながら、ピアノに近い音色に辿り着いたようだ。
「寧々、お前が上手くいかないところ、コードが変わってる所だろ? ここから……一拍置いてマイナーに変わる」
「そう。コードもだし、音も一気にオク上になって……演出でも急にここからスポットになるから、失敗はしたくない……」
「ゆっくり行くぞ。いきなり本来のテンポでやっても付け焼刃だ」
メジャーコードの三和音を右手で叩くと辺りにピアノの電子音が鳴り響く。聞きなれた音階が、普段の寧々の歌声よりもゆっくり流れていく。
「〜♪、〜〜♪」
音に載せられるように、おずおずと歌声が重なる。しかしやがていつもの調子を取り戻したのか、ワンダーランズ×ショウタイムの歌姫の美声が練習場となっているワンダーステージを包み込んでいった。
司の指が、面白いように鍵盤の上で踊っている。滑らかに、たおやかに。
それを、類は不思議なものでも見るかのように見つめていた。
スポットライトに照らされた少年は、自由だった。
楽譜という鳥籠に囚われていながらも、88鍵の上をまるで歌うように指が踊る。奏でられる音は今までの誰とも違う。
課題曲の中でもそれだけが異端。彼だけが、新たな解釈とともに会場の誰もを魅了していた。
縦を抱く少年を皆が賞賛の拍手で包んだ。熱気と幸福感。あの場はそれで支配されていた。音楽の新たな幕開け。そう、信じられていた。
『現代に生きる神童』──大きな見出しが、あらゆるクラシック雑誌に載っていた。それを全て切り抜いて、スクラップして、大切に保管した。
天馬司という少年は、突如小さなコンクールに現れて嵐のように賞を取っていく。ピアノを嗜む誰もが彼に憧れて、真似をしようとしたものだった。
今度はいつ彼のピアノが聞けるのだろうか。どのコンクールに参加するのだろうか。
幼心に胸をときめかせながら、彼に聞かせるに値するまで練習を頑張った。周りの子供たちも、年上のお兄さんやお姉さんも。みんなが彼に認められるほど上手くなりたいと、そう思って励んでいたのに。
天馬司は、突如ピアノの世界から姿を消した。
「これ今SNSで流行ってる動画なんだよ、フェニランのナイトショー!」
友人から見せられた動画には楽しそうな色や音。クラシックとはまた違う人々を魅せるものがある。その中に、見つけてしまった。
金色の髪に黄昏の瞳。あの顔立ちは忘れるわけが無い。何度だって見た。彼の演奏を思い浮かべる度、その顔がスポットライトに照らされていた。
「天馬……司……」
ずっと探し求めていた人物が、笑顔でショーに興じていた。
お前は、その道へ行ったのか。ピアノはただの通過点だったと言うわけなのか。
自分たちがどれだけ努力しても至れなかったあの演奏を捨てて。
理不尽だと思った。彼に自分の怒りをぶつけても、何にもならない事は分かっていた。それぞれの生き方があると、何度も自分に言い聞かせた。それでも、納得が出来なかった。
けれど、司の公演終わりを狙って接触したあの日、ずっと知りたかった答えを彼の口から聞いた瞬間に後悔をした。
聞かなければ良かった。ずっと、ピアノを辞めた天馬司を恨み続けられたらどれだけ良かっただろうと。もう、そうは出来ないじゃないかと。
人には人の理由があるなんて、分かりきっていたはずなのに。自分は認めたくなかったのだ。この怒りにも似た感情の正体が、ただ『天馬司の演奏を聞いていたいだけだった』だなんて。
数ヶ月後、男はチケットを握り締めていた。
『再演・ピアノ弾きのトルペ』
有名な児童文学を元にしたワンダーランズ×ショウタイムのリバイバル公演。非常に人気が高く、彼らのショーの中でも屈指の人気を誇るそれのチケット倍率は非常に高かった。
自分でチケットを入手しようとした際には回線問題に負けてチケットを手に入れることは出来なかった。
けれど、もう一度彼のショーを見に行こうと数日前にフェニックスワンダーランドへ足を運んだ際に、今度は天馬司に声を掛けられたのだ。あの日とは逆に。
「これ、お前のだろう?」
天馬司から渡されたのは、スクラップ帳。何処かで落としてしまったと思っていたそれは、もう帰ってくることはないと思っていた。
「オレのこと、覚えててくれて……感謝する」
そう言って微笑んだ少年の顔はどこか安心したかのような表情をしていた。ピアノを弾いていた天馬司はもう居ない。完全にその世界から姿を消した。
けれども、それを覚えている人間がいた。綺麗に雑誌の切り抜きを保管して。
男はスクラップ帳を開くと、目を見開いた。
「これ……!」
「ピアノと共にあったオレを覚えていてくれた事への……些細な礼だ。良かったら受け取ってくれ」
挟まれていた一枚のチケット。ピアノ弾きのトルペ。
主演の天馬司がその持ち前の腕を活かしたピアノ演奏が話題の公演だった。
「司くん、どうだった?」
「無事受け取ってくれたぞ」
夕暮れの帰り道。オレンジと紫が入り混じるこの時間が類は好きだった。
「けれども妬いてしまうね。僕の知らない時代の司くんのファンだなんて」
「はは、オレだって昔の類のこと知らないからな」
お互い様だろう、と言いたいのか司は類の顔を覗き込んでいた。
「……ねえ、司くん」
「うん?」
「手を……繋いでもいいかな」
もうフェニランはとうに出てしまっている。今はただの帰り道。けれど、司はクスリと笑うと類の長い指に自らの指を絡めた。
「いいぞ、分かれ道までな!」
鍵盤の上を歌うように踊る司の指は、類のよく知る少しだけ先の固い少年の指だった。