天獄遊戯童磨との生活はつまり、何の前触れもなく地獄を見ることを意味する。
例えばこんな風に。
「あらっ、童磨さんのお友達ですか?」
「え………っと、はい」
「どうぞお入りになって」
伊黒の前で淹れたての緑茶が湯立っている。
ほんの少し生活空間が広くなった童磨の部屋を見回した。書籍の山はなんとはなしに秩序を持ち、きちんと角を揃えて積み直されている。
ノック音のあと、女が入ってきた。
「ケーキはお好きですか?」
「え……あ、はい」
三十歳くらいだろうか。これという特徴はないが黒髪の綺麗な、無害な感じの女だった。
戸棚の奥で眠っていたよそゆきの平皿にショートケーキが乗ったものを、彼女はコトリと置く。
「珈琲の方が良かったですよね? 淹れてきますね」
「あ、いえ……お気遣いなく」
「童磨はもうすぐ帰って参りますので」
女が立ち上がった途端、『んぎゃあ』とむずがる声がする。彼女におぶられた赤子が身を捩って泣き始めた。
恐竜柄の肌着から判断するに男児であろう。瞳の色はありふれた焦茶色、髪の毛はやや色素の薄い黒、肌は抜けるように白い──無意識のうちに童磨との共通点を探している自分がいた。
女は赤子をあやしながら、身を丸くして部屋を出ていった。
伊黒は安堵の溜息を吐くと、再度室内を見回す。
童磨の機種とは異なる携帯充電器、桜貝色のリップクリーム、それに女性向けの書籍が数点。来るたび山を成している灰皿が今日は見当たらない。
ローテーブルの端にあった分厚い漫画を手に取ると、伊黒は適当な頁を捲った。
女性二人が取っ組み合いをして『この泥棒猫』と罵り合っている。
見開き一頁で伊黒は表紙を閉じた。ベタ過ぎる。
触ったことが分からぬよう細心の注意を払って元に戻したところで、何故自分の方が気を遣っているのかと我に返る。
「お友達がいらしてますよ」
扉の向こうで女の声がした直後、童磨が部屋に入ってきた。
「やぁ、来てたんだね!」
伊黒の対角に座るや否や、愛用している真鍮のライターを取り出してアと言う。
女は童磨の前にも恭しく緑茶を置いた。
「お仕事ご苦労様でした」
「いけない、いけない。この部屋は今、禁煙
だったね」
女はハタ、と手の付けられていない伊黒のケーキを見つめて申し訳なさそうな顔をする。
「甘いもの、お好きじゃなかったですか」
「いえ……頂きます」
甘味を口にする習慣はあまりなかったが、食べないのも無礼である気がして、伊黒はケーキの角を落として口に入れた。
その光景を見た女はたおやかに微笑むと、そっと部屋を後にした。
童磨もライターと煙草を手に立ち上がった。
一服に出て行かんとするその腕を掴む。
「えっ、どうしたの? ケーキ口に合わなかった?」
「…………説明しろ」
■
二階の勝手口から墓地へと続く階段の踊り場で、童磨は煙草を吹かしている。
灰皿が赤洞色の傘立てに絶妙なバランスで乗っていた。最近は専らここで一服しているらしい。
「お前の子かと思った」
「そういうコトは後腐れしないようにするのが不文律でしょ」
「節操のないお前ならやりかねんならな」
信者の彼女は夫の暴力が原因で家を出たものの、行く宛がなく寺に身を寄せているらしい。
本当に駆け込み寺となった訳である。
「じゃあ、お前はどこで寝てるんだ?」
「本堂に座布団敷いて寝てる」
「祭壇の裏に閨があるじゃないか」
「あそこ俺の部屋と面してるじゃない? 赤ん坊の夜泣きで寝不足になるんだ」
太陽の元で見る童磨は目の下がくすんでいて、如何にも不健康そうだった。吐き出した煙が消えていくのをボンヤリと見つめる気怠げな姿は、一層その美しい容姿を引き立て、見るものの心を震わせるほどサマになっている。
「あんなに小さいのに、蓄音機みたいだよ」
「手が出るのも頷けると言いたい訳か?」
「女子供には優しくしろって道徳で習わなかった?」
「お前にだけは道徳を説かれたくないな」
童磨が最低限の人道を外れていなかったことに、伊黒は安堵した。
短くなった煙草を童磨は無造作に揉み消す。
吸い殻の山が崩れ、数本がスチールの踊り場に散らばった。
頓着しない童磨を横目に、伊黒は黙ってそれらを拾い上げる。
「で、これからどうするつもりだね?」
「どうしようもないね」
「専用のシェルターがあるだろう。役所にでも相談に行ったらどうだ?」
「俺オヤクショ嫌いなんだよ」
アッ、と童磨は殊更に表情を明るくした。
嫌な予感しかしない。そんな伊黒を他所に「灯台下暗しってヤツだ」と童磨は感心しきりである。
次の言葉まで伊黒には手に取るように分かった。
「「キミがやっておくれよ」」
「え?」
「だろう?」
「凄いや、読心術かい?」
童磨は無邪気に驚いている。まるでクリスマスの朝にプレゼントを見つけた小学生のように。
その表情にめっぽう弱い伊黒は、結局ノーとは言えないのだった。
中に戻ると、彼女がしなをつくって伊黒の手から灰皿を受け取った。
亭主関白な夫をもつ妻といった風情が伊黒の気に触ったが、彼女は二人の関係を知らないのだから致し方ない。そう己を律する傍ら、そもそも二人の関係とは? と自問自答をした。
当然答えは出ない。
「伊黒さんもお夕食、食べていってくださいね」
「あ、いえ……どうぞお構いなく」
「童磨さんのお友達なんて初めて拝見したものだから。私、何だか張り切ってしまって、沢山作ってしまいました」
キャベツが添えられた豚肉の生姜焼き、トマトとゆで卵のサラダ、豆腐とわかめの味噌汁──家庭料理の見本のような料理たちがダイニングテーブルを埋めている。
「………美味しいです」
伊黒は味噌汁を啜り、思ったままを口にする。
難攻不落とばかりにたっぷり盛られた白米が伊黒を暗澹とさせた。量は要りませんと今更固辞できないのが人情である。
お椀越しに伊黒は二人を見遣った。
特に緊張している様子はなく、腹の据わりが悪いのは伊黒だけであるらしい。三角関係にある男女が同席させられたみたいな気分だった。
「お二人はいつからの知り合いですか?」
学生の時分から、程度の答えを想定した何の含みも持たない質問だ。
にも関わらず、伊黒は言葉に詰まる。
「彼が法事でこの寺を利用したのがキッカケだよ」
童磨が言った。何も嘘は含まれていない。
というか、誰かを気遣って嘘をつく能力など奴には端からないだけのことであるが。
「そうだったんですね。てっきり、文学部時代のお友達かと思ってました」
「彼は化学教師だから理系だよ」
「言われてみれば、お似合いですね」
〈恋人としてお似合い〉と早とちりをした伊黒はまたも心臓を跳ね上がらせた。
そうして、自分と化学教師という職業がぴったりなのだと冷静に思い至る。
口内が乾いて仕方がなかった。伊黒が急須に手を伸ばすよりも先に、彼女が手元の湯呑みに緑茶を注いでくれた。
成る程、暴力を受けていた女はどこまでも男の機微に敏感になるものらしい。
「童磨さんのお好きなトマトですよ」
彼女はサラダが乗った皿を童磨の方へと寄せた。
「ああ、ありがとう」
ニコニコと応じる童磨を横目に、伊黒は無心で食事をかき込んでいく。
ケーキが胃の中に残っていて食欲はなかったが、食べてさえいれば会話の主導権を握らずに済むと思ってのことだった。
■
「キミって実は健啖家だったんだね」
本堂への道すがら、渡り廊下で童磨は言った。
「いや、今にもはち切れそうだ……」
伊黒の旺盛な食欲に気を良くした彼女は、作り置きだなんだと様々を提供し続けた。
人生でいちばん食べたと言っても過言ではない。
「今夜は泊まっていく? 座布団しかないけど」
「そんな訳なかろう。刺されたいのか?」
伊黒は展示されている刀を脇目に言った。
「どうせ死ぬなら、蝶みたいな可愛い子に刺されたいな」
前世の童磨はこの刀で刺されて息絶えたのだろうと、伊黒は本気で思った。罪状は痴情のもつれというところか。
軽薄に眉を下げる童磨の横顔が、薄暗い廊下で青白く浮かび上がる。
悔しいくらい美しかった。
「今晩はキミがいるから寒くないと思ったんだけどなぁ」
童磨は自分を抱きながら、上腕をさする。
秋を飛ばしてすっかり冬の気候となっていた。
「見られでもしたらどうするんだ?」
「別にどうもしないさ。チョット寒くてさ、で済むことじゃないか」
友人と聞かされていた野郎二人が仲良く毛布にくるまっていていれば、目を剥くのが良識ということが童磨には分からないのだ。
貞操観念は母親の子宮に忘れてきたのだろう。
「愛し合っている者同士をとやかく言う方が野暮ってものだろう?」
「………………俺たちは愛し合っていたのか?」
伊黒が振りかぶるように童磨を見遣れば、当の本人はさぁ? と、とぼけた顔をしている。
「少なくとも俺の取り巻きにいた女の子たちは、こういう状況を愛とか恋とか言っていたよ」
「はぁ………」
「よく分からないんだけれどね」
少しでも期待をした己の愚かさを呪いつつ、取り巻きの女の子とやらを掘り下げることはしない。
「恋と愛って何が違うんだろね」
童磨は明後日の方向に話題を振った。
過去に答えを持たない伊黒は、哲学者だか誰かの言葉を借用することとした。
「恋は自分本位、愛は相手本位だと聞いたことがある」
聞いておきながらフーンと気のない返事をすると、童磨はおやすみ、と本堂へと消えていった。
冷たい廊下に取り残された伊黒はフと思う。
お互いのことを何も知らないな、と。
外の冷え込みは一層厳しかった。
カーディガンの襟元を寄せつつ、伊黒は石段を降っていく。
童磨の最終学歴もトマトが好きであることも初耳だった。伊黒も嗜好品や出身大学を伝えた記憶はないから公平といえる。恋愛経験がなく、男女含めて初めての相手が童磨であるということすら当の童磨は知らない。
過去に踏み入らず、未来にも蓋をして、刹那的にそのときどきを共にしてきた。
「ハァー………」
感傷的に吐き出した息が白く染まった。
童磨には伊黒と違う未来があるかもしれない。
女を知らない伊黒と違って、童磨は俗にいう〈ふつうの家庭〉を築くこともできる。女の隣に自然とおさまる童磨を目の当たりにして、思うところがあったのだ。
しかし、それはまた伊黒にも言えることだった。
保留にしている案件が頭を掠める。
様々な決断を下す時期に差し掛かっていた。
その夜、伊黒は床に入っても悶々と考え続けた。
■
「結局どう返事したんだァ」
ジョッキを片手に頬杖をついた男は、前置きなく核心に斬り込んできた。
如何にも回りくどいことを嫌う不死川らしい。
「丁重にお断りした」
「だろうな。ってかよォ、何で一度持ち帰ったりしたァ? 初めから答えは出てたろ。待たせるだけ酷じゃねェか」
「………いや、実は少し迷ったんだ」
「…………へェ。そいつぁ意外だったわ」
伊黒は姉妹校の女性教師から告白を受けていた。
交流会のときに二言三言話しただけであったが、伊黒の朴訥(ぼくとつ)とした風情に古き良き男らしさを感じとった彼女は、交際を前提に伊黒を食事に誘った。
それを熟考の末に断った、という流れである。
「よっぽど魅力的な相手だったんだなァ」
「魅力………まぁ、それもなくはないが」
「随分歯切れが悪いな。らしくねェ」
レモンかけていいか? と不死川は確認する。
伊黒はどうぞお好きにと掌で示した。
若鶏の唐揚げをはくはくと頬張る不死川の、気持ちの良い食べっぷりに心が和む。
「付き合っている………のかはよく分からんが、そういう関係の奴がいる」
童磨との関係は誰にも知らせていなかった。
が、アルコールも作用して、この男になら話しても良いかと半ば諦めに似た気持ちで思ったのだ。
「ハァ!?? 何でソレを早く言わねェ」
「明るい話題ではないからな」
「聞かせろ」
途中までは話を聞きながら食事に手を付けていた不死川も、今となっては汗をかき始めたジョッキを手に、瞬きを繰り返していた。
欠陥品扱いされていた大学時代からの友人兼同僚が、まさかの男相手にトンチキな恋愛劇を繰り広げていると聞かされたのだから無理もない。
「………お前の恋人は人格を持たされたコンピューターか何かかァ?」
「フハッ……笑わせるな」
「いや、笑えねェから」
知能は高いくせにひとの機微を全く理解できないあたり、確かにコンピューターみたいだ。
不死川は粗雑に髪をガシガシ掻くと、スーツの上に着込んでいたジャージを腕まくりした。
「奴のどこがいいんだよ」
無骨な印象とは裏腹に、その所作には品がある。
綺麗に食事をする不死川をぼんやりと眺めつつ、伊黒は改めて何処に惹かれたのだろうと考えた。
「………見た目、だろうか」
「一目惚れってコトか?」
「それは少なからずあると思う」
「見た目って言うんなら、冨岡や宇髄だって相当に綺麗な面してんだろォ」
「確かにそうだな」
冨岡は甘いマスク代表という感じであるし、宇髄は夜の世界で指名を欲しいままにしているような華やかさを持っている。
しかし、そこ止まりだ。
「放っておけないような危うさ、だろうか」
「冨岡だって危なっかしいし、宇髄も剣呑な雰囲気がある」
「しかし、奴らに恋愛感情を抱いたことは誓って一度もない」
「ンなこたァ、端から分かってら」
不死川は店員を呼び止めると、熱燗と猪口二つを追加注文した。運ばれてきた徳利を手酌で傾けると、並々に注がれた猪口を伊黒へと差し出す。
日本酒の甘く柔らかい香りがした。
「結局よォ、女でも男でもなくその〈ドーマ〉って奴が好きってことだろ、お前は」
「………認めたくはないが、そうなるな」
よりによって何故と自分でも思う。
唯一、伊黒の心に触れたのが童磨だったのだ。
それは努力や意志で覆るものでもないからこそ、伊黒は途方に暮れている。
「いんじゃね? 誰かを傷付ける恋愛でもねェし」
「俺は日々、傷付いているがな」
「ハハッ………いや、でもよォ」
不死川は赤い顔で酒を口へと運んだ。
強面に似合わず、酔いが顔に出やすいタイプだと伊黒は思う。
「今のお前、今までで一番人間らしいぞ」
「言っている意味が分からない」
「考えてもみろよ。色恋に身を投じるなど愚かさの極み、みたいな涼しい顔してたろ? それが今となってはこの有り様だもんなァ」
くつくつと肩を震わせ笑う不死川につられ、伊黒も吹き出す。
「毒を喰らわば皿までを地でいくかな」
「カッケェな。馬鹿だけど」
「ははっ、間違いない」
目の前の友人は性別をさしたる問題としなかったし、それだけで伊黒には充分だった。
固定観念で己を雁字搦めにしていたのは、他ならぬ伊黒自身だったらしい。元より、告白を蹴った時点で童磨を選んだと同義だ。
そうして、数日後の放課後。
職員室で呼び鈴に受話器を取った不死川は、一直線に伊黒の元へとやってきた。
「コンピューターからだ」
「ハァ?」
保留を解除して受話器に耳を寄せると、慣れ親しんだ声がした。
「やぁ、仕事中にすまないね」
人格を持たされたコンピューターもとい、童磨であった。
■
伊黒は夕暮れの中、童磨と肩を並べている。
「いやぁ、災難だったよ」
童磨は利き腕をさすり、他人事みたいに言う。
その腕には清潔な包帯が巻かれていた。
「放っておいたら夜になって倍くらいに腫れてさ。慌てて病院に行けば入院って言うんだもの」
「当たり前だろう。マムシが毒蛇なんて、小学生でも知ってるぞ」
寺の蓮池に信者のこどもが玩具を落としたというので、取ってやろうと素手を突っ込んだ先にマムシがいて咬傷を負ったらしい。
「マムシは元来大人しい気質なんだ。人間が要らぬことをしなければ危害を加えることはまずないからな」
「やけに蛇に詳しくない?」
「好きで飼っているくらいだからな」
「そうなの!??」
一週間入院したはいいが、退院時には見受け人が必要と言われ、伊黒に電話を寄越したのだった。
「というより、入院する準備もせずに行ったのだろう? 必要なものはどうしたんだ? まさかとは思うが、スタッフと良からぬ関係を持って籠絡したのではあるまいな?」
「アダルトビデオと現実を混同してるタイプ?」
「殺すぞ」
「同室患者の悩みを聞いていたら、その家族が洗濯やら買い物を喜んで引き受けてくれたんだよ」
人たらしの才はこんなときにも役立つらしい。
「というより、いきなり職場にかけてくるな」
「だってキミ連絡先を教えてくれないじゃないか」
「聞けばいいだろう」
童磨はその顔に美しく疑問符を浮かべた。
尽くされてきた男には、能動的に行動するという選択肢はないらしい。
伊黒はぶっきらぼうに携帯を出すよう指示した。
手渡されたそれはロック画面も初期設定のままで、如何にもアナログ人間の持ち物という感じであった。
伊黒は童磨の携帯から自身に通話をし、履歴から各々の電話番号を登録して突き返した。
「現代っ子だねぇ」
唇に美しく弧を描いて、童磨は微笑む。
それだけで据え膳が完成するのだから、容姿淡麗は立派な能力だと伊黒はひとつ思った。
「雨かな」
小さな水滴が伊黒の頬を掠める。
今夜はくもりの予報だった。予想外の雨である。
「キミって雨男なの?」
「それは此方の台詞だ」
どちらからともなく走り出した。
雨に打たれて疾走していると、面映さが込み上げてきて、伊黒は思わず笑ってしまった。
三和土に並ぶ外履きに、久しく女性ものが混じっていない。
約三週間の居候生活の後、彼女は家庭内暴力から女性を保護するシェルターへと身を移したのだ。彼女に付き添って役所へ赴いたのも、手続きを主導で行ったのも当然伊黒である。
「お腹すいたな。何か作ってよ」
「ああ。何が食べたい?」
「煮物とおでんとポトフ以外。病院食ってそればっかでさ、監獄かと思ったよね」
伊黒はカレーにするかと、買い込んだ食材を調理台に並べていく。
「うわぁ……ジャガイモ入れるの?」
「嫌いなのか?」
「芋に喜んでいるうちは大人じゃないんだよ」
「文句があるなら食わなくていいが?」
童磨は眉毛を八の字にしてションモリとした。
いくら美食家とは言え、雨の中を出たくはないのだろう。
伊黒は盛大な溜息を吐いたが、童磨は特に動じることもなく、煙草に点火して優雅に咥えた。
換気扇の前であっても童磨がすれば、生活に負けていない敗退的な美しさがある。
伊黒は馬鈴薯を野菜室に片付け、灰皿を目の前に置いてやった。
「ありがとう」
童磨はニッコリとする。
女性みんなの初恋になれるような笑顔だった。
■
「お前はどんな学生だったんだ?」
伊黒は湯上がりの身体を、冷たいシーツに預けて問うた。
「質問の意味が分からない」
「友達はいたのか?」
「決まった相手はいなかったね」
「恋人は?」
「沢山いたよ。大抵の場合、俺はなったつもりはなかったけれど」
「……………」
チリンチリンと音がする。
童磨が鈴の付いた玩具を弄っていた。
赤子の忘れ物らしい。
「それで虐められたりしなかったのか?」
ベッドに頭だけ乗せた童磨と視線が交わった。
虹色の瞳の下に、豊かな睫毛が陰を引いている。
「中学くらいまでは、外見がモノを言うんだよ。俺は体格も良かったしね。高校からは学力がある程度揃うから、低俗な輩はいなくなるし」
「ふーん」
恵まれた容姿に加え、文武両道であったらしい。
学力と人間性は比例しないのだ。
「キミはどうなんだい?」
すでに玩具に飽きたらしい童磨は、次いで伊黒の毛先を弄び始めた。
童磨が身じろぎする度、香水が薫る。
歓楽街の碌でなしがつけているような甘ったるく軽薄な香りが伊黒の肺を満たした。
伊黒はこの匂いが絶望的に好きだった。
「多くはないが友人には恵まれた。学業はあまり苦労した記憶はないな。何かに依存することがなかったので、恋人もいた試しがない」
「キミらしいよね」
「恋愛経験がなさそうだと?」
「なくていいよ、そんなもの。永遠云々を誓わされて煩わしいだけさ」
「永遠ね……想像もつかんな」
「退屈だよ」
童磨は欠伸をしながら、身体をグッと伸ばした。
「え?」
「永遠なんて道楽に過ぎない。素気ないものさ」
「知っているような口振りだな」
伊黒の耳朶に唇を寄せ、童磨は囁く。
「知ってるよ」
親指で伊黒の唇をなぞったかと思えば、人差し指を口内へと差し込まれる。
「………ふ、」
「相変わらず白蛇みたいな美貌だねぇ」
本当に蛇を飼ってるとは思わなかったけれど、と呟きながら、童磨は伊黒の口内を指でぐるりと掻き回した。
「………っ、は………」
居候のおかげで長らく肌を重ねていなかった。
下半身が酷く重い。
■
「キミも俺の容姿が好きだろう?」
「それはお互い様では?」
「あはは、キミは本当に口が立つよね」
具合を見計らって指が増やされる。伊黒はくぐもった声を出して、手の甲で自身の口を覆った。
童磨は伊黒の呼吸を読むのが巧い。
決して無理に貫いたりはしないし、伊黒の身体が強張ったときには『ダイジョウブ?』と綺麗な声で聞いてくれる。
その優しさは毒みたいに伊黒を溶かす。
「けど、それだけじゃないよ」
「…………っ、は、何がだ?」
「好きなトコ」
「、………んぁ、ッ」
喋るか続行するかどちらかにしろと言いたいが、憎まれ口を叩ける余裕がない。
熱を逃したくて堪らなかった。
「あ、ごめん。辛いよね、楽にしてあげるね」
童磨の脚のあいだに座らされ、背後から抱き込まれた。滲んだ愚息に深窓の手が触れる。
「うっ………ぁ」
涙ぐむほど厭なのにどうしようもなく甘美で、たった数回の前後運動で童磨の手は白濁に濡れた。
「はっ………はぁ、」
ぐったりと背中を童磨の胸に預け、息を整える。
「俺に夢を見ていないところがいい」
「ゆ、め………?」
「両親も信者も俺を介して都合のいい願望を見ているけれど、キミにはそういうところがない」
刹那、伊黒の視界は反転した。
*
*
腹の底から沸いてきた快楽がせぐり上がるのを、伊黒は喉元でぐっと堪えた。
童磨はそれを見逃さず、的確に悦いところを攻め立てる。
伊黒はシーツを掴み、喉仏を晒して仰け反った。
本が水分を吸うためか室内はむっと湿っている。
童磨と体を重ねるときは雨の日が多いなと、頭の片隅で思っていると、顎を掬われた。
「…………っ、な、んだ?」
「俺ね、キミの端正な顔が歪むところが好きなんだ。よく見せておくれ」
地獄みたいな台詞に伊黒は目を剥いた。
童磨は構わず、伊黒の腰を抱えると自身に跨らせた。
「………は、酔狂な奴だ……」
「キミの好きにしていいよ」
「肉まで喰らってやろうか」
「骨の髄までドーゾ」
肩幅の広い童磨の上半身にしがみつき、伊黒は前後不覚に腰を振った。
限界まで張り詰め、自制などとうに失っていたがア、と場違いな声に静止する。
「、今度は何だ………?」
「相手本意」
「は?」
「コレって愛じゃない?」
月夜が微笑む童磨を浮かび上がらせる。
天国みたいに美しい笑顔だった。
To Be Continued?