🇨🇭🐍(🍡)🐏「塩化ナトリウムにならないか?」
これはかの有名な物理学者であり化学者でもあるピエール・キュリーが、後の妻であるキュリー婦人に送ったプロポーズの言葉である。塩化ナトリウムは安定性の非常に高い物質であることから、相性の良い夫婦になることを意味してるのだが、それは化学者同士だから成立する会話である。
教師である伊黒が三日三晩考え、化学を拗らせた結果導かれた求婚のかたちだった。猗窩座の方が余程、伝わる勧誘をしてくれる。
「………ん?」
「俺と、だ」
行きつけのカフェテラスで向かい合い、そう言われた甘露寺はことりと首を傾げた。
「塩化ナトリウムってお塩のこと? ふふっ、さすがに伊黒さんとでも、お塩にはなれないわ」
そう軽やかに言って、甘露寺は目玉焼きに醤油をかけた。因みに伊黒は塩派である。そのまま黄身に箸を立てると、白い丸皿にドロッとした黄色が拡がった。
同時に伊黒の心はグシャッと潰れた。
撃ち落とされた鳥のように、人生がパタリと閉じる音がした。
■
「そういうことだ、不死川」
「こんな時間に叩き起こされて何かと思えば、全然意味が分からねェ……」
バックパックひとつ背負った伊黒は、午前五時に親友の元を訪れていた。国際空港に移動して、朝いちばんにスイスへ向かう便を逆算したらこの時間になっただけのことである。不死川からしてみれば、嫌がらせ以外の何でもない。
「何でスイスなんだ?」
「景色が綺麗で、安楽死もできる。何の不足もなかろう」
「その馬鹿さは、確かにいっぺん死なねぇと治んねェかもなァ……」
傍らの木で鳩がホーホ鳴いているのを聞きながら、不死川は頭をガリガリ掻いた。今すぐにでも温かい布団に戻りたい一心だった。
「俺は甘露寺と一緒になるために生まれてきたのだと思っていたが、違ったらしい。来来世か、来来来世に賭けるしかあるまい」
「新海誠かよ」
「短い間だったが、世話になった。他の連中にもよろしく伝えてくれ」
投げ付けるように言って、伊黒は横付けさせていたタクシーへと舞い戻った。
伊黒を乗せた箱は息つく間もなく発進する。
「オイ、伊黒ぉぉおお!!!」
ニワトリよりも朝が早い制止の声は、伊黒に届くことはなかった。
キメツ学園夏休み初日の出来事である。
夏休みとて教員の仕事はある筈だ。
しかしながら、この先は『仕事クビになったらどうしよ』『今日は生協来る日じゃん』等、現実的な問題は一切ない世界線であり、読了して得られるものも皆無であることを先に断っておく。
🌲🐏🌲
さて、伊黒。高原で牛を放牧するアルプ酪農が盛んなサンクトガレン州へとやってきた。理由は明快、アルプスの少女ハイジの世界だからで、最期に瞳に映すのは綺麗な景色が良いと思ってのことである。
標高の高いところまで列車が通っており、登山する手間が省けたまでは良かったが、下車して散策するも宿泊施設と思しきものは一向に見当たらない。赤や黄色の屋根を乗せた民家と、終わりの見えない草原の中に山小屋が点在するばかりだ。
しぎに日が傾き始め、折り返しの列車も明日までないときた。伊黒は仕方なく牧草地に根を下す。
しかし山岳地帯、夜になると非常に寒かった。
死因は凍死か──と走馬灯で見たい甘露寺の表情選手権を脳内で展開し始めたとき、何かが伊黒の身体に触れた。
「メェー………」
羊だった。
伊黒と羊は不思議な共鳴で心を通わせ、寄り添い合った。白く空気感のある見た目と対照的に、その毛質はタワシのように固い。甘露寺の柔らかな髪が蘇り、伊黒は頬を静かに濡らした。落ちた涙はウールにしっとりと吸収され、安心できる温もりを彼に与えてくれた。
真新しい陽光が瞼を白く灼いて、目が覚めた伊黒は久しぶりに空腹を憶えていた。思い返せば水分ばかりで、二日ほど食事と呼べるものを食べていなかった。機内食は添えられた塩を見ただけで、視界が滲んで食欲が萎んでしまったのだ。
あたりを見回しても当然、コンビニエンスストアなどある筈もない。死因は餓死か──と美味しそうに食事をする甘露寺で脳内エンドロールを作成していると、目線の先を羊より華奢な動物が横切った。
「ヤァー………」
ヤギだった。
羊は民家の裏庭で野放しにされているが、ヤギを見たのは初めてだった。夜間は専用の小屋に入れられているのを、逃げ出してきたのだろう。
よく分からないが、ヤギは身体を擦り寄せてくるので試しに乳を絞ってみた。乳白色の液体がパタタタ、と伊黒の手を濡らした。雌だったらしい。バックパックからタンブラーを取り出し、ヤギのミルクで満たして口にした。甘くて生クリームみたいにもったりと重い飲み応えであったが、お腹が空いている伊黒にはご馳走様のように感じられた。乳を搾ったあとも、ヤギは伊黒の元を離れようとせず、傍に脚を畳んで腹這いになった。羊といい、動物に好かれる質らしい。伊黒自身は知る由もないが、知能指数の低い蛇まで懐かせる彼、その上位にある鳥類や哺乳類は顎ひとつで任意に操る才を持っていた。
徐々に日が高くなってくると、今度は羊の方が何やら暑そうな素振りを見せ始めた。周囲の羊たちは毛を刈られているものと、豊かな毛の内側にいる者が半々で、剃毛の只中であることが窺える。
伊黒はいちばん近い民家の敷地内にある倉庫を漁り、バリカンを拝借して戻ってくると、早速羊毛に刃を立てた。やっぱり甘露寺の春色の髪が恋しくて、泣きながら毛を落としていく。
そんな折、屈んだ状態の伊黒の視界が陰った。見上げてみれば、チェックシャツにデニムサロペット姿の老人が立っている。ケンタッキーフライドチキンの店前にいる人形を判子にして押し付けたような、彼そのものの風体をした男は低く、それでいて良く通る声で言った。
「何ひとんちの羊の毛を、勝手に刈ってやがる」
爺にとって羊はペットではなく大事な収入源だ。怒られて当然と言えよう。
しかし、伊黒は甘露寺を思い出してうっうっと嗚咽するばかりだった。爺は何だか知らんが、傷心なのだと理解する。が、これまた自分が所有するヤギが後ろに控えているではないか。その傍にはタンブラーまである。
「ミルクまで搾ってんの?」
爺を認めながら、止めようとはしないバリカンの扱いも、見事板に付いている。刈るのを嫌がられがちな顔周りも、ウネウネと小回りのきく刃使いで羊は実に快適そうであった。
酪農者としての経験と勘が、この若者は只者ではないと直感させた。東洋系の見た目をしているので、多分、中国人だろう。傷心旅行に来たはいいが、行く宛もなさそうな風情である。
ちょうど冬支度があるこのシーズンは繁忙期だ。人手はいくらあってもいい。頭の中でバチンと算盤を弾き、爺は伊黒に手を差し伸べた。
「うちに来ないか?」
この地域の主言語はドイツ語だった。
因みにスイスには決まった公用語がなく、ドイツ語やフランス語が主流である。英語を話せる国民も多い。都心部では英語が通じたがと、試しに伊黒が話してみても、爺は分からないと顔を顰めるだけだった。となれば、ドイツ語を話さねばならない。伊黒が話せるドイツ語は二種類のみだった。ひとつはダンケ(ありがとう)。それから──
「イッヒ ハイセ 伊黒(名は伊黒です)」
そういって、二人は男の握手をした。
🇨🇭🐍🇨🇭
そうして、伊黒のアルプ生活は幕を開けた。
放牧民の朝は早い。簡易な山小屋で目覚め、牛とヤギの搾乳で一日を始める。
実は、スイス国内ではアルプ農業を一生に一度でも経験することが、男のロマンのひとつとなっている。希望者は酪農とチーズ作りの研修を受けてから従事することになっているのだが、何故だか伊黒、矢鱈と酪農の才があった。ギフテッドというやつだ。他のスタッフがやっているのをチラと見るだけで、彼らに遜色しない手技をもって搾乳することができた。大きなミルクタンクはあっという間に満タンになり、また次のタンク、次の牛へと伊黒はテキパキ作業を進めていく。
しかし唐突に泣き始めるので、他の放牧民も最初こそ戸惑いを見せたが、何よりその成果が素晴らしいため誰も気に留めなくなった。爺からも、何やら傷心旅行だと聞き及んでいるし。
搾乳が終われば牛乳を工場へと出荷し、採れたてのヤギミルクをチーズに加工するべく、伊黒は畜舎付近にある小さな工房へと向かった。
成人男性が大きく手を広げた直径くらいある銅の釜にざあさあとミルクを注ぎ、薪で火を起こす。
「ここはイグロに任せよう」
「彼ひとりいれば万力だしな」
他のスタッフたちは伊黒が作業にあたると知ればそぞろと撤退して、畜舎の清掃などに散っていくようになった。今世の伊黒は、万力を握力ではなく撹拌力として発揮した。酵素を加えて、汗だくになりながら撹拌する。どのように混ぜれば分離が起こりやすいかを体得するのも非常に早く、持ち前の洞察力で薪の火力も常に一定、上澄みの水分をバケツで排水する頃合いも完璧ときた。
次いで残った固形分を布で濾し、型に嵌めて水分を抜く。この工程、綺麗に型嵌めするには熟練したコツが要るのだか、初回作業時から伊黒は掛け値なしに上手かった。指導者も口を挟む余地なく「oh…」と脅威の声を上げたほどであった。
後は型から出したチーズを食塩水に一日浸けて、熟成させるだけだ。
「ううっ……甘露寺……」
よく伊黒は『カンロジ』と言いながら泣いていたが、とりわけ動物と塩水に触れると泣くことが多かったので、爺も含めた放牧民たちは、ペットが海で溺死でもしたのだろうと検討をつけていた。
熟成中のチーズは週に数回、塩水で磨いたりひっくり返したりを繰り返す必要があるが、もうここに及んでは誰が何を伝えるまでもなく、伊黒はその感性だけを頼りに正しく作業することができた。蛇と会話できれば、カビとも会話できるのだろう。(パタリロ!ってこんな感じであってる?調べたら全104巻で、それはさすがに読めんかった…)
そうして、午後からは放牧。
畜舎にいるヤギや牛を毎日違う草原へと連れていくのだ。移動の際には縄など付けず、家畜のペースで自由に歩かせる。住人の交通を止めるのは渋滞や赤信号ではなく、もっぱら道を横断する家畜の群れだった。それに腹を立てる住人はいない。慣れているのかエンジンを切って、静かに待っている。ここは時間の流れ方が非常にスローだ。
「あ、コラ道から外れるんじゃない」
オンオンと犬が吠えたり、牧童が杖で叩いたりして牛の群れを誘導する。ちょうど学校が夏休み期間中の酪農家のこどもたちも、家の仕事を手伝うのが普通らしい。
威勢の良いこどもたちの声を遠くに聞きながら、伊黒は甘露寺との色めく日々を思い出しては、元気にしているのかな…と涙するのである。
「このひと、いつも泣いてるよね」
「なんか悲しいことがあったみたいだよ」
「中国人なんでしょ? それでこんなところまで来たの?」
「知らね。暇なんじゃないw」
伊黒には牧童たちが何を話しているかは分からない。というか、そんな会話が耳に届かぬ勢いで泣いている。
こどもたちは何だか情けない大人だよな、と内心嘲っていた。ほうら見たことかと言わんばかり、伊黒担当の牛が進行方向から大きく外れていく。
「こっちだ」
伊黒はパンとひとつ手を叩いた。すると、手綱でも引かれたように牛は軌道に戻った。笛も杖も伊黒には必要ない。蛇の呼吸の使い手は(以下略)
その光景を垣間見たこどもたちは『カッケー』『スゲー』と伊黒への印象を一瞬のうちに改めるのであった。
そうして伊黒はこどもたちのヒーローへと台頭していく。前世で柱まで上り詰めた男、やはり平凡ではなかった。
他にも畜舎の清掃をダスキン並みにこなしたり、食事担当としてキッチンに立つ等、伊黒は忙しいながら充足した日々を送った。とりわけ彼が作る食事は放牧民のあいだで人気を博し、ビザをとってアルプ定食屋を開けと、伊黒を説得する者まで現れた。
週末は安息日として思うままに景色を見て過ごしたり、刈った毛からセーターを作る伊黒のことを爺は静かに見守っていた。
ここでもやはり『カンロジカンロジ』と涙しているから、それほどまでに好きだったのかと頭の中に綺麗な犬を思い浮かべながら、爺は伊黒のために人知れず胸を痛めるのだった。
「さすがに食事には飽きてきたな……」
ここでの生活も早一ヶ月を迎えようとしている。
変わり映えのしない食卓に、伊黒は日本語でひとりごちた。
バケット、チーズ、ハム、ベーコン、卵の毎日。
野菜など滅多とお目に掛かれることはなかった。
「寿司が食べたい……贅沢は言わん。回っているので良い……」
爺は恭しく、ベーコンのチーズ掛けを伊黒の前に置いた。何やら言っているが、腹が減っているのだろうと捉えてのことである。
因みに今まで、二人の間で上手く意思疎通が成立したことはない。しかし言語も文化も違うのだから仕方ないと、互いに割り切っているので何の諍いもなくやれている。
ダンケ、と言って一口ベーコンを口に含み──
今帰りたいと思ったなと、伊黒は静かに驚いた。ごく自然な感情過ぎて見過ごすところであった。
呑まれるような大草原とアルプス山脈、澄み渡った空気に、都会の夜景にも劣らぬ眩い星空。
失恋の感傷から完全に立ち直った訳ではなかったが、大自然の中にあって己の悩みなど掃いて捨てるほどありきたりな、矮小なものだと思えるようになりつつあった。大きな心境の変化である。
🌲☀️🌲
その日は特別な朝だった。搾乳やチーズ作り、放牧も今日ばかりはお休みである。
夏の間をアルプスで過ごした牛たちが麓にある牛舎へと牧下りする日だった。この日をもってしてスイスでは夏が終わり、秋の訪れとされている。
身体を洗われた牛たちは野花でカラフルに頭を飾られ、首に大きなカウベルを付けて貰う。その風体はどこか清々しいものがあった。
伊黒はひと月を共に過ごした牛たちを同志のように思い、労いを込めて飾り付けてやった。そして民族衣装を纏った人々に導かれ、ガランガランと陽気な音を鳴らし牧下りする牛たちを見送った。
厳しい冬の気配がすぐそこまできていた。
牧下りの翌日。
伊黒は荷物をひと纏めにしたバックパックをドサッと、足元に置いた。
明朝のその光景に、爺は静かに悟る。
「……イグロ、傷は癒えたのかな?」
「ヤー ダンケ(ああ、世話になった)」
この二人が初めて正しく意思疎通できた瞬間だった。爺は伊黒を抱擁して、その両頬に軽いキスを施した。モブ爺×蛇だからではない。そういう立派な文化である。
そうして、伊黒の約一ヶ月に渡る放牧民生活は幕を閉じた。
国際空港にて、伊黒の腕には真新しい腕時計が巻かれていた。SWATCHである。スイスに来たらSWATCHを買わねばならない。SWATCHをつけている勤め人を見たことがない気がするが、話の都合上、伊黒には買ってもらう必要があった。彼、科学教師から足を洗うつもりでいる。授業で塩化ナトリウムが出てくる度に泣いていたんじゃ仕事にならないし、何より甘露寺と同じ生活圏で暮らすことなどできそうもない。伊黒以外の伴侶と仲睦まじく寄り添っている姿でも見かけた暁には、心電図が平らになってしまう。故に、酪農家として生きていく覚悟を決めた。帰国後は北海道へ移住する心積もりである。
搭乗直前、不死川には知らせておくべきかとメッセージを打った。
『その節は迷惑をかけた。今から帰国して、北に向かう』
それだけ送信し、機内モードにする。
これを見た不死川は当然、意味不明であったが、『生きているなら結構、後は好きにやってくれ』という具合で、心底心配していた甘露寺に全てを丸投げするのであった。
✈️🇯🇵✈️
眠りは浅かったものの、伊黒は無事に東京の地を踏んだ。預けてある荷物もないので、先陣で帰国ゲートを潜る。
「伊黒さん!!!」
懐かしい声、と思う間もなく、伊黒の胸に甘露寺が飛び込んで来た。
「不死川さんから今日帰ってくるって聞いたのよ。ひとりでスイスに行っちゃうだなんて、どうしたの? ずっと心配してたのよ! 寂しかったんだからぁ……」
伊黒は甘露寺の胴のあたりで彷徨わせた両手を、どうすれば良いのか分からず、宇宙を見る心地であった。そのままエーンと泣き始める甘露寺に、やっとのことで腕を彼女の背中に回した。三つ編みに触れて、その柔らかさに心が揺さぶられた。羊みたいにゴワゴワしていないし、文明的な良い匂いがする。
「甘露寺……すまないことをした。しかしこれからは、北の地で誰にも恥じないよう生きていく。心配しないでくれ」
「北の地……? また何処かに行っちゃうの?」
「ああ。俺は狭量だから君に選ばれなかった人生を、君の近くで生きていくことはできそうもない」
「ずっと何を言っているのか分からないわ。なら、私も北の地にいっしょに連れていって」
「しかし、君はプロポーズを蹴っただろう?」
「プロポーズ? された覚えがないわ」
「え………?」
伊黒は全てを正しく理解した。
あらましを聞かされた甘露寺はポカポカと伊黒の胸を打ちつけ、彼は平身低頭謝り続けた。
そうして、甘露寺は伊黒の腕の中でキュルンと上目遣いに問う。
「北に行ったら、新鮮な牛乳とたっぷりのバターでパンケーキを焼いてくれる?」
その暴力的な魅力に、脳内全ての元素記号が消滅し、可愛いと大好きに上書きされてしまった。
化学教師への道は完全に断たれたのである。
「ああ、君が俺で良いと言ってくれるなら」
「やったぁ♡ 養蜂も始めたいな」
こんな男を良いと言ってくれるのは、世界中を探しても甘露寺だけである。
あとはもう子供五人作って楽しくやってくれ。
🐏 完 )))
あとがき
結構調べることが多くて、書き終わった今、4時間を費やした事実だけが残りました。虚無…