幾星霜の恋男はこの関係に穏やかに終止符を打つため、どう言ったものかと試行錯誤しているようである。
どうもこうもない。そんな関係はこちらから願い下げだった。
蜜璃はテーブルの端に置かれた筒から、自分の伝票を摘むと腰を上げた。
「このお話はなかったことに」
途端、男はパッと顔を明るくした。厄介事がひとつ減った顔だった。しかしそれを前面に出すことはしない。
「貴方がそういうのであれば仕方ありません」
男はあくまで蜜璃が望んだことだ、という風情を崩さなかった。交渉不成立ばかり続くとなれば、次の見合いに響いてくるからだろう。
「支払いはこちらが持ちますよ」
これは宇宙に数多ある『マナー』のひとつ。
女性に支払いを持たせることは男性として名折れに他ならない。勘定を折半させるだなんて風の噂になれば、縁談は波のように引いていく。
蜜璃から言われせば、そのような理由で男性を袖にする女性も女性だと思うが。
「結構よ。たくさん食べたので、自分の分くらい自分で支払います!」
コンコンコン、と宇宙素材の真っ青なブーツを鳴らし、蜜璃はその場を去った。
最後に見えた男の顔は地球みたいに青かった。
■
「それは三行半を叩きつけて当然ですね」
しのぶちゃんは豊かな睫毛を伏せがちにし、コーヒーゼリーに生クリームを掛けた。半透明の黒に白が伝い、広がっていくのが綺麗だ。
クリームソーダにさくらんぼが乗った、しのぶに比べると些かこどもっぽいドリンクを蜜璃は荒ぶるままにギュッと啜る。メロンソーダがハート型をしたループストローの中を突き進み、ジェットコースターみたいにくるんと一回転した。口元に届くころには恋愛の現状とは裏腹に、満ち足りたハートが出来上がった。
「宇宙はこんっっなにも広いのに! どうしてこんなに窮屈なマナーばかりなのかしら!?」
先立って二人の関係に隙間風が吹き始めたのは、喫茶への道中、いずこから飛んできた隕石を蜜璃が素手で軽々と持ち上げたことに始まった。
だって航路のど真ん中に落ちたのだ、移動させないことには往生してしまう。
取り巻きからは感謝喝采が上がったが、お見合い相手は「信じられない」という胸中があけすけに顔に出ていた。獰猛な獣でも見るようだった。
前回時点で蜜璃の食欲に尻込みしていることが見てとれたが、そこに『人並外れた力』が加わり、破談の決定打となってしまった。
蜜璃は正しいことをしたまでと、後悔のひとつもなかったが、幼い頃からの夢である『運命の殿方と恋をする』からはまた一歩遠ざかった。
「再三言っていますが、自分の飲食くらい女性も負担すべきなのですよ」
キャリアウーマンの彼女が言うと説得力が伴う。
「そうなのよ! 奢られるとなると、気負ってしまって満足に食べられないもの」
蜜璃はフォークに巻きつけたナポリタンを大きな一口でぱくりと頬張った。
柔らかめのパスタがもちもちとして、仄かに甘いトマトソースとよく絡んでいる。宇宙広しといえ、ここのお店より美味しいナポリタンを蜜璃は知らない。こどもが好きそうなウインナーと、歯ごたえの残ったピーマンも最高だ。
「しのぶちゃんと食べるご飯の方が、うんと美味しいわ。もうしのぶちゃんと結婚したいくらい」
「わたしも蜜璃さんみたいに可愛くて自立したお嫁さんなら、いつでも大歓迎ですよ」
「しのぶちゃんほど甲斐性があって、素敵な殿方なんていない気すらしてきたわ…」
「あらあら。珍しく弱気ですね」
蜜璃の弱気の正体は、昨日に遡る。
「また関係を解消されたらしいですね」
きっちりと纏めた髪型に、瞳の大きさが変わるくらいの分厚い眼鏡を掛けている。
蜜璃の過去のお見合い相手だった。
『人族との見合いを希望したのですが、どうして猪みたいな貴方が選ばれたのでしょうか。その髪色も遺伝したらと思うとゾッとします』。
彼が最後の席で放った台詞だ。言わずもがな、蜜璃の過去で最も暗い記憶として尾を引いている。
さらに悪いことに、同じ星に住んでいるのが災いしてこうやって顔を突き合わせる度にチクチクと言われるのだから閉口してしまう。
彼は言いたいことだけ好き勝手に言うと、去っていったが、心が弱っているときには胸に来るものがあった。
その一部始終を聞いたしのぶは『その男は世間体とでも結婚すればいいのでは? 宇宙のゴミですね』と、身も蓋もないから笑ってしまったが。
「蜜璃さん、箸が止まってますよ。空腹で悩み事をすると碌なことがありません」
しのぶは自分の側にあったフィッシュアンドチップスからパセリを取ると、蜜璃の方へと寄せた。
「パートナーを持つことがひとつのステイタスとなっている割に、皆簡単に離縁しますよね」
「それはそうね」
「多くの者にとって恋愛とは、所詮、このパセリのようにお飾りみたいなものです」
「耳が痛いわ……」
3XXX年。
人類の移住は宇宙各所にまで進展し、生まれが宇宙という人族も珍しくないところまで来ていた。自由度が増した分、難しくなったこともある。
その筆頭が恋愛だ。
窓の外を見れば果てなく星々が瞬き、惑星が神秘的に浮かんでいる。この銀河系には兆を越すほどの銀河があり、全域には人魚から獣人まで多岐にわたる種族が共存する。惑星間の移動が容易となった昨今、多様な文化や信仰が行き交い、故に恋愛も一筋縄とはいかなくなっていた。
この辺りは比較的人族が多い地域であるが、同じ種族に出会うだけでも一苦労、その中から恋愛関係になるなんて正しくミラクルロマンスだった。
故に、カウンセリングで適切なペアを提案する『お見合い式』の恋愛が宇宙では一般的となって久しい。その縁結びをする相談所というのが、蜜璃としのぶの勤務先であった。
キュンに携わりたいとの一心で選んだ仕事だが、近頃では『これって正しいことなのかしら?』と立ち止まることも正直少なくない。
「蜜璃さんには、自分を捻じ曲げなくていい恋愛をして頂きたいです」
しのぶはスミレが花開くようにニコッと笑う。
彼女が『には』などと言って、恋愛から自身を度外視するのは恋愛願望がないからだ。
しのぶが縁結びを職にしている理由は、ひとえにデータ収集のためである。優秀な心理学者である彼女は、多種族の恋愛行動にまつわる論文執筆に利用する目的で縁結びに従事していた。カップリング後の関係を追跡するのも業務に含まれるのでサンプル収集にはお誂え向きなのだ。
実にしのぶらしい就職動機である。
「そう言えば、いちばん最近担当したカップルなんて『洗濯機に靴下を裏返して入れるところが許せない』って理由で関係を解消していたわ」
「『カレー皿を水に浸けずにシンクに放置』というのもありましたよ」
蜜璃としのぶは顔を見合わせて吹き出した。
「学歴、収入、身長、趣味、エトセトラ…価値観を擦り合わせておいて、どうしてこうも短絡的な理由で駄目になってしまうのでしょう」
診断のためのマッチングシートは非常に緻密であるにも関わらず、彼らは思わぬ理由でときに破談する。摩訶不思議だ。
そんな小さな綻びから駄目になるのだから、あるがままでいられない恋愛なんて先が知れている。
それが職業柄、蜜璃が得た教訓だった。
悲しい出来事が立て続けに起こり、すっかり自信を失いかけていたが、しのぶと会話するうちに思考がクリアになってきた。
「しのぶちゃんのおかげで気持ちが軽くなったわ。やっぱり恋愛結婚がしたいと思っちゃった」
「唐変木なんて相手にしないでも、蜜璃さんにはきっと素敵なひとが現れますよ」
「しのぶちゃんが確証のないことを言うだなんて珍しいわね? ブラックホールが縮小しちゃうかも!?」
エビデンスは? が口癖のしのぶから出た言葉とは、まさか信じられない。
「うふふ…蜜璃さん、良いですか。女の勘は当たるんですよ」
しのぶは不敵に、美しく笑った。
■
ブラックホールは縮小したかは確かめようがない(今朝のニュースでそのような報道はなかった)が、珍しいことが起こった。
仕事への道中、通過すべき惑星にて蜜璃は足止めをくらっていた。
目前には苦しげに白煙を吐くスクーターが一台。
桃色と若草色をした、蜜璃の愛車である。
「前回の点検のときは異常なしだったのに、どうしちゃったの!??」
大きな破損がないか機体に視線を這わせてみても素人目に分かることはひとつもなかった。
通常運行ながら、蜜璃は家を出るのがギリギリだった。乙女は身支度が多い上に、行き当たりばったりな蜜璃の性格からして突如さまざまな用事が降りかかってくるのだ。特に朝は。
それにしても、とことん運に見放されてしまったらしい。運命の出会いどころか人通りの少ない惑星で足止めされ、仕事にも遅刻する未来が待ったなしだ。手当たり次第助けを求めなければ、いつまでここに留まることになるかも分からない。
「ん?」
今、微かな音が聞こえた気がする。
耳を澄ませばそれはエンジン音で、しかも近付いてくるではないか。
蜜璃は威勢よく声を張り上げた。
「すみませーん! Help me!!!」
縞々のスクーターに乗ったひとの男性は蜜璃のSOSに気付いてスピードを緩めたが、少し行き過ぎてしまったところを律儀に戻ってきてくれた。
「どうされました、か………」
白衣を着てマスクをしている。季節外れのマフラーかと思った首元は、なんと白蛇だった。左右で異なる色を持つ瞳はトパーズと翡翠みたい。
何とはなしに惹かれるものがあって、心を奪われていた蜜璃だったが、相手も蜜璃を見るなり声を失っている。
この反応は身に覚えがよくあった。初対面で髪色に驚いているひとが見せる反応だからだ。
またその理由かと、悲しい色が心を覆っていく。
しかし今はこの人を頼る他ないと、意を固めた。
「スクーターがエンストしてしまって…目的地が同じ方向なら同乗させて貰えませんか…」
好意的だった分、口調も尻すぼみになる。
男性は静止画みたいにこちらを凝視していたが、蜜璃の言葉を受けて一際大きく瞬きをした。
「……私に何か可笑しなところがありますか?」
毅然とした、それでいて意地悪な質問だった。
男性は定規でもあてたみたいに背筋を伸ばし、居直った。
「も、申し訳ない! あまりに綺麗な髪色だったもので、つい不躾に見てしまった」
見るからに狼狽え、彼は許しを乞うよう俯きがちに言った。
「………えっ?」
今度は蜜璃が狼狽える番だった。
夢にも見ない甘い台詞に理解が追いつくと、ボッと点火したように身体中が熱くなる。
彼は確かに、蜜璃の髪が綺麗だと。そう言った。
目眩がするくらい嬉しくて言葉が出ない。
「用向きが済んだ帰りで、この後予定もありません。貴方の目的地まで乗せていきましょう」
「え、あ、ありがとうございます……!」
「荷物はありますか」
蜜璃は迷ったが、お昼ごはんのたっぷり詰まったショッピングバックを差し出した。もう少し慎みのある量にしておけば良かったわと、仄かな後悔を滲ませながら。
「買い物帰りですか?」
男性はバッグの中身を食品だと察して、足元につかないように置いてくれた。美しい配慮に蜜璃の胸はまたもときめく。
そんな男性に嘘で返すのも野暮というもの。
「……いえ、全部お昼ごはんです。わたし人よりよく食べる体質で」
「そう。俺は少食だから、快活で羨ましい」
え、それだけ? と拍子抜けしていると、彼は背後を掌で示し「どうぞ」と同乗を促した。
蜜璃は愛車の回収だけをワンクリックで依頼し、彼の後ろに跨った。
身体に触れていいのかしら? 掴まっておかないと、飛ばされちゃうもの。良いわよね。
手はどこに置くのが正解なの? 腰に回すのは馴れ馴れしい気がするし…
ありとあらゆる考えが脳内を駆け巡り、その結果彼の肩に手を置くに落ち着いた。存外、肩幅がしっかりとあって何度目か知れずドキッとする。
「伊黒小芭内と言います」
「……か、甘露寺蜜璃です」
その綺麗な名前を反芻していると、伊黒の首に蟠を巻いている白蛇とパチっと目が合った。
「うふふ、綺麗な蛇さんね。お名前は何というのかしら?」
「鏑丸」
「鏑丸君、お邪魔します。どうぞよろしくね」
鏑丸は主人の肩口に顔を埋めると、寛ぎ始めた。
受け入れてくれたらしい。
浮力を感じ、滑らかにスクーターが発進する。星々が後方へ流れていった。
■
伊黒は蜜璃の二歳年上だった。
それが分かってからは堅苦しい言葉遣いも幾分、気心の知れたものに変わった。
「髪はいつも三つ編みに?」
「ええ。今どき珍しいですよね」
ドライヤーをあてるだけで好きな髪型をつくれる時代に、あえて三つ編みをオーダーするなんて、それだけで風変わりだった。
「よく似合っている。髪色も宇宙には見ない取り合わせなのに何処か懐かしく思えて、先程は見入ってしまった」
「この髪型にしていると、運命のひとと出会える気がして。子供の頃から三つ編み一筋なんです」
「ふぅん…それで? 運命の人とやらとは、もう出会えたのか?」
「ナイショです。けれど、それは今日かもしれないわ」
「だから毎日可愛くあれという格言があったな。あの建物だろうか?」
進行方向の先、白亜の建物が見えた。
てっぺんにあるアンテナがキラリと光る。電波は今日も誰かの恋を結ばんと、遥か光年へと飛ぶ。
「ええ、あれです」
スクーターは徐行に入り、やがて停まった。
蜜璃はふわんと着地する。
「ご親切に、どうもありがとうございました」
腰を折って、丁寧にお礼を言った。
「礼には及ばん」
「伊黒さんは不思議なひとね。髪型もたくさん食べることも、変に思わないみたい」
「かけがえのない人間になるためには、常に他人と違っていなければならない。同じ偉人の言葉だよ。さあ、お行き。仕事に遅れてしまう」
それでもその場を離れようとしない蜜璃に、伊黒は宥めるような柔らかい笑みを浮かべた。
「仕事終わりにまた迎えに来よう」
「………い、良いんですか?」
「今夜は流星群だ。ドライブに誘っても?」
「もちろんです!!!」
前のめりに返事をする蜜璃に、伊黒は目尻に皺を作って微笑んだ。
そんな、SF映画みたいな恋の始まり。