薄暗く湿気た座敷牢。
生まれてこの方、世界とはこの一畳間であった。
友と呼べる者は迷い込んできた白蛇の鏑丸だけ。
山と盛られた膳は脂のすえた匂いがして食は忌まわしく、骨と臓物が薄い肉に覆われて何とか命を保っているような有り様。
丑三つの刻。天井裏の命を刈り取る気配に震え、小さな身体を一層小さくして眠ること幾夜。
生かされる理由を知ったその日、僅かばかりの延命を図る代償として口元を裂かれた。滴る血を盃に受け、満悦するは蛇鬼。
一族の首魁は鬼だったのだ。
決死の脱獄により、蛇鬼の不興を買った親族の女五十人がその腹に収まった。その事実が真に重みを持ち始めたのはいつの頃からだったか。
こどもが他人と自分を比較するのは、十歳くらいからだという。比較対象がなければ自分の不幸や業の深さに気付かずにおれるのだから、いっそあのとき死んでいた方が楽だったのかもしれない。
生きることは即ち、己の業を思い知ること。
出口のない自責から目を背けるよう夜に生きた。
鬼殺隊とは負の感情を抱え、生死の淵に生きる者の集まりであった。
■
『道に迷ってしまいまして』
雪景色に咲く椿が如く、鮮烈な恋だった。
鬼に大切なひとを奪われたでもなし命を賭す理由などひとつもないというのに、ただ生まれもった力を役立てたいと鬼殺に身を投じる。
花を花だと、空を空だと、季節を季節だと。
食事の団欒を、文を待つ時間を、心は贈り物に。
そのすべてを教えてくれたひと。
『自分より強い殿方を探しているの』
入隊理由を聞かされて尚、文を出し、食事に誘い贈り物をした。責任もとれない癖に。
それでも甘露寺蜜璃を愛さずにはおれなかった。
共に過ごす時間は平凡な青年になれる反面、相対して己の業の深さが浮き彫りになった。鬼殺で救う命があっても消えた五十人の死がなかったことにはならない。淡い恋心を抱いては、血濡れた手が爪を立て思い知らせる。
【相応しくない】
鬼舞辻無惨を葬るという大義名分を掲げ、身を引けばよい。甘露寺がそれを望まぬことは想像に難くなかったが、柱であれば首を横に振れないことをも見越していた。優しい面を被った、その実、狡猾で心の弱い男のすることだ。
例え痣者の宿命として期限ある余生であっても、甘露寺の笑顔には鬼のいない世界が良く似合う。
明るい市井で生きて欲しい。その隣に立つのは、自分でなくていい。
そんな身勝手を最後まで貫き、甘露寺を戦線から離脱させて死ぬ為に戦った。
蔑まれても構わない。いっそ罵り、遠ざけてくれたならどんなに楽か。
なのに。
「伊黒さんが好きっ」
どうしてそこまでして寄り添ってくれるのか。
何故、それを嬉しいと思ってしまうのだろう。
「もし生まれ変わったら、」
瞼の裏を生まれたての陽光が淡く照らす。
伊黒が生きながらえる所以となった忌まわしい瞳はすでに像を結ばなくなっていた。しかし、少しも惜しくはないのは、確信があるからだ。
甘露寺、君は今も美しい。初めて出会った日から一等美しいものであり続けた。
傷が付いても髪が乱れても、身体の一部を失おうとも。その美しさは揺らがないし、何者にも踏みにじれない。
「わたしのことお嫁さんにしてくれる?」
呼吸が弱くなっていく。
最愛のひとは間もなく逝ってしまう。
「君が俺でいいと言ってくれるなら──」
甘露寺蜜璃という女性を見誤っていた。
全て見越した上で添い遂げる覚悟があったのだ、彼女の方が上手(うわて)だった。
その懐の深さは測り知れず、またそれに救われる人生でもあった。
─完─
異端オタクの雄叫び(あとがき)
いち女性として、伊黒さんって狡い男だと思うんですよね…責任も取らないのに年頃の乙女の心を奪うだなんて。しかし半端なことを嫌いそうな彼がそれでも手放せない恋だったからこそ、蜜璃ちゃんへの愛の大きさを裏打ちしているという側面があり、その人間臭さこそが蛇柱の魅力ではないかと密かに思っている。
そして蜜璃ちゃんは痺れるくらいイイ女である。