雲鬢花顔「丁容、馬車の用意を。出かける」
「今からですか?こんな夜遅くにどちらへ」
「お前が知る必要はない」
督公は冷たい声でそう言うと、少し稚さの残るその白い顔をふいと背けて黙り込んでしまわれた。
ああ、まただ。
私はつい、余計なひとことを言ってしまう。
私がお仕えする西廠の提督である汪督公は、決して不必要なことは口になさらない。
幼少の頃から、宮中でご奉仕されていたので、余計な言葉が命取りにやるかもしれないことをよくご存知なのだ。
これ以上何か言うと、ますますご機嫌を損ねてしまうことは重々承知しているので、慌てて馬丁に指示する。
「馬車が参りました。督公」
私の声に促されるように、督公はゆっくりと立ち上がると、そのまま部屋を出て、中庭へと続く階段を降りていった。
私は督公の外套を携え、後を追う。
先刻より部屋の外で控えていた側仕えが、手付きの木箱を持っている。
督公はその前で立ち止まると、後ろの私を確認するかのように振り返った。
追いついた私は、いつものように督公に外套をお掛けする。
督公はほんの少し顎を上げ、私が外套の留め具を掛け終わるのを待っていらっしゃる。
月明かりの中を、督公の外套をぼんやりと眺めながら付き従い、馬車までお見送りをする。
「道中くれぐれもお気をつけて」
そうお声掛けすると、御者の手を取り、馬車に乗り込む督公が私を振り返り、「分かっている」とでも言うように小さく頷いた。
その時、満月の光が督公を照らし、その白皙をますます白く浮き上がらせた。
その清冽な美しさに私は思わず
「雲鬢花顔…」
と呟いてしまった。
聞こえていなければいいのだが、と恥ずかしさから頭を垂れていたが、馬車の中からコツコツと引き戸を叩く音がして、私は仕方なく顔を上げた。
馬車の中では、督公が私を面白そうに眺めていらっしゃる。
やはり聞こえていたのだ。
目を合わせられるはずがない。
「丁容」
と呼ばれ、引き戸の近くに顔を寄せると、
『芙蓉帳暖度春宵』
と囁いて、私をからかうようにくすくすとお笑いになった。
私は気まずさのあまり、目を逸らしたまま、御者に出発を告げた。
西廠の門前から馬車を見送ったが、先程の督公のご様子が頭から離れない。
私は悶々としながら執務室へ戻り、室内の蝋燭の始末をするように指示をしなくては、お戻りの頃には何かお夜食は必要だろうか、などと全く別の事を考える事で、気持ちを切り替える努力をした。
ふと見ると、文机に小さな紙片が、無造作に置いてあった。
督公が執務室を離れる時は、文机の上には何も残さない。
もしや、大事なものだったのでは、と慌ててその紙を見る。
【余府】
と、水茎の跡も麗しい手蹟で書かれていた。
私は思わずあっと声を出しそうになり、慌てて手で口を塞いだ。
督公は、先日から内偵を進めていた余府へ向かわれたのだ。そしてあの箱には…。
そう、確かに私が知る必要のないことだ。
万が一を考えての書き置きであることは分かっているが、結果的に私にだけは、行き先を教えてくださったことに、つい口元が緩んでしまう
それにしても、この書き置きは一体いつ書かれたのだろう。
その様子を想像しながら、私はその紙片を蝋燭の火に近付けた。
そして、督公の美しい手蹟を惜しみつつ、紙が燃え尽きるのを、ただ見つめていた。