ある日の副官01 壁ドン督公の愛馬は、心に決めた主人にはすこぶる忠実な良い馬である。
しかし、賢過ぎる故に大変扱いにくい点においては、その主人とも相通じる所がある、と西廠の皆が密かに思っている。
しかも今日は殊の外、機嫌が悪く、朝から厩舎の寝床をガリガリ掻いては嘶き、主人を呼んでいる。
オマエハナケバキテイタダケテイイナ
それにつられてか、他の馬達も段々と騒がしくなってきてしまい、私はやむなく督公にお伺いを立てた。
「督公、申し訳ありませんが、ほんの一時で結構ですので、厩舎へお出まし願えませんか」
「何だ。また拗ねているのか」
「夕刻の哨戒にも差し支えます。その後で点心とお茶をご用意しますので、暫しお休みになっては如何でしょう」
「仕方がないな。丁度、上奏文も書き終わった所だ。行こう」
私は督公に付き従って、厩舎へ向かった。
西廠の門辺りから誰かの声がする。
激しく嫌な予感がする。
「汪植〜居るんだろ〜」
門衛は何をしている!
「丁容〜」
?
何故私まで名を呼ばれなければならない!
「唐泛か。奴はいつも変な時にやってくるな。点心の匂いに釣られたのか?」
年相応の少年らしいお顔でくすくすとお笑いになっている様子を、私は複雑な気持ちで眺めていた。
「仕方がない。入れてやれ。どうせ隋州も同行しているのだろう。錦衣衛ともあろう者がいつでも推官のお守りをしているとはな。まあ、陛下の御威光で都が平和だという事か」
余計な仕事を増やし、汪督公のお手を煩わせ、結果として私の時間をも奪う奴らを西廠に招き入れるのは、本当に本当に嫌なのだが、督公のご命令とあらば、致し方ない。
私は無言で頷いて、門衛に合図をした。
「どうした、丁容。そんなに奴らが煩わしいか?」
小さくため息をついてしまった私を、督公がご覧になった。
「いつも何かと面倒を…」
また余計な事を言ってしまった。
「そうだな。お前にも負担を掛けている」
「そんな事は!」
私はそのお言葉に思わず顔を上げた。
「汪植〜頼みがあるんだ!」
「突然訪ねて申し訳ない」
唐泛は相変わらずの様子で、隋州は少し申し訳なさそうな顔で立っていた。
おい。
お前ら、空気を読めよ…
今、間違いなく督公は、私に微笑んで下さっていたのに!
お前らが後ろから声を掛けるから!
あと一拍でも遅かったら、私は督公の笑顔を堪能出来たのに!
私は危うく愛用の小刀に手をかけてしまう所だった。
イツカコロシテヤル
「何の用だ。今から厩舎へ行かねばならん。急用でなければ歩きながら聞こう。付いてこい」
「厩舎?子馬でも産まれたのか?」
「唐泛。食べるつもりなら連れて行けない。そこで待ってろ」
「え?という事は本当に子馬がいるのか?」
「あぁ、確か先月…だったな、丁容?」
「はい、飼養の厩舎が一杯で、こちらで預かっている子馬がいます」
「見たいなあ!ねえ、隋州?」
「あ、あぁ。でも母馬が一緒なら余り近寄らないようにしないと」
餌やりと馬房の掃除の刻限だったが、馬達が余りに落ち着きがないので、贾逵も様子を見に来ていた。
「ほら、あれだ。余り近付くなよ。あれの父馬はこの中でもかなり気性が荒いから」
督公の注意に従い、隋州の後ろから恐る恐る馬を眺めていた唐泛であったが、そのヒラヒラした袂といつもぶら下げている箸箱に子馬が興味を示し、彼に近寄ってしまった。
不意に袂を引っ張られ、唐泛は思わず大声を出してしまった。
「ひゃっ!」
更に間の悪い事に、督公の愛馬は手綱を付けない状態で督公のお側にいた。
馬に乗った事があるなら常識とされる
「大声を出してはならない」
「馬の背後に回ってはならない」
このふたつの禁止事項を、仔馬から逃げようとした唐泛は犯してしまったのだ。
その瞬間、督公の愛馬は己の背後にいる唐泛に狙いを定めたように見えた。
この馬は、特に背後に回られるのを嫌がる性格で、後脚で蹴られると、怪我は免れない。下手をすれば死んでしまう。
「督公!」
「潤青!」
私と隋州は、ほぼ同時に声を上げた。
隋州は、その腕を引っ張って唐泛を助け出す事が出来たが、私は自分を盾にして、督公を馬房の壁に押し付けるような体勢でお守りするしか方法がなかった。
「だ、大丈夫ですか!督公」
「あ、あぁ。大丈夫だ。お前は?」
「私は大丈夫です」
私の喉元辺りに督公のお顔があって、思わぬ近さに驚いたが、私は努めて冷静を保とうとし、そのまま振り向いて贾逵に訊ねた。
「贾逵!馬は?」
「轡を取りました!」
贾逵が轡を取り、何とか押さえてくれなければ、死人が出ていた所だった。
安堵した瞬間に私は気付いた。
『あ…この体勢、壁ドンってやつ……』
思わぬ僥倖の余韻に浸る間もなく、督公が私の胸をとんとんと軽く叩いた。
「もうよいか?」
私は何もかもを見抜かれたような気がした。
「お土産までくれたよ!あのさぁ、広川。今日の丁容、ちょっとだけ優しくなかった?」
いつもは白湯も出してくれないのに、今日はお茶と点心まで供されたのだ。
「あぁ…お前のお陰だからだろ?」
「えぇぇ?」