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    #まほやく学会

    まほやく学会 論文もどき「神の裁き」とは―荳荳クコ年の地震の事例から―



    地域文化研究領野 西中央領域研究
    マレイ グリュン


    論文構成

    序章
    第一章 j$世紀西国の政治体制
     第一節 オスボンと精霊信仰
     第二節 ロシナンテ・キハーノ

    第二章 オスボン地震
     第一節 地震、津波、火事
     第二節 王府の対応

    第三章 オスボン地震に関する神学的論争
     第一節 国外の知識人の言論
     第二節 天譴論が社会に与える不安
    終章
    序章



     267年前にアンジョ領オスボンで発生した地震は、我が西の国において近代に向かう啓蒙主義が広がろうとしていた時代の只中に発生したということだけでなく、その運命的とも言える発生日までもが、今日まで神学的な話題に取り上げられる理由を持っている。11月26日は、当時の死者の日である。多くの人が今はない近しい人との思い出と静かな時を過していた祭日の午前に、オスボン地震は発生した。敬虔な市民の祈る日に街が壊滅する地震と津波、大火事が起きたことに精霊がどう関わっているのか、人々はその理由を探し求めた。
     本研究は、オスボン地震に着目し、地震後に発生した天譴論、すなわち不幸な出来事が起こった時にその理由を神や精霊によって下された罰であると解釈する言論に対する人々の反応と、王府によって取られた対応を観察することで、人々が災厄を天罰と解釈することが社会にどのような影響を及ぼし得るのかを当時の文献から調査、考察するものである。オスボン地震を取り上げた研究や考察は地震発生直後から主に西の国内外の神学者や哲学者によって熱心に行われてきた。あらかじめ書くが、この災害のユニークな点は、大災害としての特徴ではない。数万人が亡くなる大災害としてはオスボン地震は歴史でそれほど目立つものではないからだ。550年前に中央の国で起こったとされるカスケー地震や、218年前に東北の国境付近で起こったフレイ地震の方が、揺れの規模が大きかったことが当時の記述から推測されている。先述したように、オスボン地震の興味深い点は、この災害をきっかけとして社会がどのように変化したかというところにある。最も古い資料としては、当時オスボンにいたトボーソ家の書記官、ヒネス・デ・パサモンテが『11月26日にこの国が被った地震の真の原因についての判断』で震災直後に自身の考察した災厄の発生理由を民に説明する形で掲載している。他に、レイ・ドンサがまとめた『地震の万国史:世界の誕生から今世紀までに起こったもののうちで、情報のあるもの:この年11月26日の地震についての個別説明を含むーそして、オスボン、西の国全土、アルガルヴ、さらに中央、北、南との国境近くにおけるその影響についての事実の情報と、地震の一般的な原因、その影響、違い、兆候についての物理的な論説、そして直近の地震の個別の原因について』がある。この『地震の万国史』にはオスボン地震の当時の様子について複数の体験談や目撃談が収録されているものの、それが誰によるものであるかは明らかにされていない。比較的近代に出版されたオスボン地震に関係する政治や宗教、思想などを網羅的にまとめている本が、30年ほど前にイリスの街でT. D. リックが著した『オスボン地震』 だ。本書はオスボン地震について国内外の豊富な資料を提示しながら叙述しており、国内外の神学的な論争も取り上げているため、本稿での引用も多い。一方、この本はあくまでも網羅的にオスボン地震について述べるものであるので、リック本人がこうした情報を持って試みた考察の記述は少ないと言わざるを得ない。今日の社会学的な視点を持ってオスボン地震を観察した研究では、サンソン・カラスコの「オスボン地震:最初の近代的災害」が予備調査報告書として発表されている。社会学者であり、災害時の人間の行動を理解するための基礎となる研究を行ったカラスコの視点は筆者が目指しているところに近い。9年前に逝去しなければ、大いに興味深い研究が生み出されていただろう。総じて先行研究は決して多くはないものの、ベネンヘーリの「同時代印刷物から見たオスボン地震への反応と対策」、「プーヴァル研究序論」(2016)などが挙げられる。ベネンヘーリは主にリックやカラスコを引用しながら宰相プーヴァルを筆頭とした当時の王家の動きに焦点を当てており、特に災害対応の目的でやり取りされた書簡の題目のリストは非常に有用である。一方で論題はあくまでも筆者の将来的なプーヴァル研究の下調べと言うべきものであり、神学的な論争や動きに注視するものではない。このように、オスボン地震を人文学的に分析する論述のほとんどは、オプティミズム(最善説とも。この世は神によってあり得る限り最善の状態になっているという考え方)の終焉や神学的な議論、もしくはプーヴァルを軸とした国家改革のきっかけとなった地震に焦点を当てたものに分けられるだろう。これらの著作には、実際に被災した人々の行動、現地の人々がこの地震をどう解釈したのか、さらに、災厄がある方向に解釈された結果として具体的に起こされた行動とその影響を観察する視点での考察が乏しいと言わざるを得ない。災厄に見舞われた人々がその不運を何らかの形で納得するために出来事の意味を求めた形而上の議論が、後に人々の行動に影響を及ぼし、再び実際の出来事へと還元される流れを観察することは、現代の社会にも起こりうる事象を学ぶための大きな意義を見出すことができるだろう。
     第一章では、本稿で取り上げるオスボン地震の最も悲惨な被災地となった西の国の当時の政治情勢を確認する。具体的には、精霊の代弁者として勢力を増していたトボーソ家と、中央や北での外交使節の経験を通して魔法使いとの関係を見直す方策を探るようになっていた、後にプーヴァル侯爵と呼ばれるロシナンテ・キハーノを中心に据えて両者の関係を論じる。第二章では、地震当日の様子を極力当時の被災者によって著述された記録に拠って推察する。また、この章では地震発生直後に王府が取った対応を並べ、特に精霊の解釈に関する動きや魔法使いらとのやりとりを抽出する。第三章では、オスボン地震の国内外の解釈を取り上げる。中央の魔法使いの日記、南の国出身の冒険家、東の啓蒙思想を持った哲学者の見解を紹介したあと、国内の地震の解釈を、可能な限り当時の文献を参照しながら推しはかる。悲惨な災害の直後にこの事象の意味を説明しようと試みた人々と、そうした言説の影響を考察する。

    第一章 j$世紀西国の政治体制
    第一節 オスボンと精霊信仰
     j$世紀中頃のオスボンは、近郊のレイリアから発掘されたマナ石と埠頭に集まる商船の富が富を呼び、隆盛を誇っていた。国の財政自体は浪費家と呼ばれたアンジョ家によって疲弊していたものの、オスボンという街に富が集まり、ここが西で最もよく知られた街のひとつであったという事実は変わらない。また、王宮のあるオスボンは非常に魔法、精霊との結びつきが強い街として内外に認識されていた。精霊信仰が大きな力を持っていた理由として、この街の人々の信心深さとは別に、精霊信徒会をはじめとする修道会が商人ギルドと癒着して独自の経済圏を築いていたことがあげられる。ワイトヘドの精霊信徒会研究によれば、’%h&年までにアンジョ領土の中では約1,760人の信徒会士が働いており、その半数以上がオスボン近郊の教会に拠点を置いていた。プーヴァルを軸としてj$世紀の西国史に関する本を著したホクスウェラーによれば、精霊信徒会はラジョー島だけでも牛10万頭を有する牧場や砂糖農園を管理していた。さらに、アルガルヴで採集した薬草やカカーオ、シナモンといった品物をカヌーの船団で運河を上り港まで運んで集めていたという。これらには課税が免除され、栄光の街からの船団が入港している期間に販売されていた。また、ジョアン領ラジルの港街シルバでは#&$年から#)%年に追放されるまで、アンジョ家から委託を受けた信徒会士が地方支部長として異端審問に従事していた。このように、宣教に限らない「洗練された」営みを通して、信徒会はラジルと他の地域で精力的に活動していた。プーヴァル研究者であるボイジャーはこの頃のアンジョの教会、特に信徒会について「オスボン地震の時、精霊信徒会ほどこの土地に強固な地盤と権力、影響力のある集団はなかった」と揶揄している。この時の信徒会は、実際に王家が把握していた以上の力を貯め、その資本からアンジョ領地外においても力をつけていたと推測される。
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