ガンマトが結婚する話。「大魔道士……私のつがいになってくれないか」
「………………はぁ?」
かしずくように床に片膝をつき、それでもなおその巨体は寝台に胡坐をかくマトリフを見下ろしていた。丸太ほどの指先が似つかわしくない繊細さで、筋張って皺の深い手を取りやわく握る。
窟内を満たす神妙な空気がなんとも言えずむず痒かった。王子と姫なら絵にもなろうが、生憎とこちらは怪物と老人でしかない。さぞ間の抜けた構図だろうと、マトリフは空いた片手の小指を鼻に突っ込んだまま乾いた笑いを漏らす。
「お前も冗談なんか言えるようになったんだな」
面白くねぇけど、と口の端を釣り上げ、冗談にしてやると言外に含ませる。レンズ越しの愚直な視線は茶化す物言いに動じる素振りもなく、静かにこちらを射抜くばかりでどうにも居心地が悪かった。
「冗談ではない。本気で、君につがいになって欲しいんだ」
本気だからこそ性質が悪いのだ。出かかった舌打ちを飲み込んで苦笑する。この一世一代の告白が重大事として根付いてしまう前に、笑い飛ばし有耶無耶にしてしまうが上策とは培った老獪な知恵で。澄まし顔でもからかってやろうかと口を開きかけた矢先、己の手を包む青い掌にほのかな湿りを感じ取り、その憎たらしいほどの平静が取り繕われたものと知る。途端に指先から伝播した緊張がマトリフの全身を強ばらせ、舌に乗せた嘲笑は呼気にすらならなかった。
「返事は今すぐでなくて構わない。少し考えてみてくれないか」
手を取った指先にかすかに力が籠もり、ややあって離された。首筋に滴が伝うのを感じながら、己を覆う影が離れていく永い一瞬をじっと俯いてやり過ごす。やがて静かに戸が閉められ足音が遠のくのを聞き届けると、マトリフは呻きながらベッドに身を投げ出した。
「あの野郎、なんてこと言い出しやがる……」
顔を覆った掌から伝わる熱が忌々しい。常に冷静であれと謳っておきながら、動揺を隠し果せた自信などまるでなかった。小賢しい搦手であれば躱す術などいくらでもあったろうに、あの馬鹿が付くほど真っ直ぐな視線に睨まれるとどうにも弱い自覚がある。
素直に喜びを覚える己に呆れながらどこかで、胸のすっと冷めた部分があるのも事実だった。眉間を押さえたまま目を伏せ、深く深く、息を吐き出す。
智慧に焦がれた男の、どこまでも愚かな選択だと思った。
王宮を離れ、再会し、この洞窟で共にひっそりと暮らし始めてから気付けば一年以上が過ぎていた。
かつての難敵との生活は存外に心地良く、穏やかな流れに身を浸すような日々が続いた。昼には魔導書の解釈を論じ、あるいは釣り糸を垂れて日がな一日を過ごす。夜にはどちらからともなく求め合い、肌を重ねた。この関係に名を付けるつもりはなかったが、律儀な男は『恋人』と呼びたがり、マトリフも遂にはそれを受け入れた。しかし、既に十分すぎる程のその先を求めるつもりも、許すつもりもなかった。
「……どうしたもんかな」
顔を覆っていた手を両脇に投げ出しながら、マトリフは唸るように呟いた。
***
耳を澄ますと、遠く微かに雨音が聞こえていた。
マトリフはあの日と同じように、寝台に仰臥したまま天井を睨め付ける。部屋の隅にはガンガディアが、魔導書を片手に姿勢良く座していた。時折思い出したようにページを捲る音があったが、ろくに読んでもいないだろう。彼はただ静かに宣告を待っている。
あの日返答に窮したマトリフは、ひたすら逃げを打つことに決めた。行き先も告げず瞬間移動呪文で遠出してみたり、ガンガディアが口を開きかけるたび露骨に遮り異なる話題を振ったりと、策とも呼べぬ幼稚な悪足掻きで時を稼ぐ。それでもガンガディアは辛抱強く待ち続け、とうとう今こうして追い詰められている。
マトリフは口を開きかけては閉じ、閉じては開きを繰り返す。やがて、ようやく観念したように、低く声を押し出した。
「……あの話だけどな」
ぴり、と室内の空気が緊張を孕む。続きを聞き漏らすまいと、長い耳がそばだてられたのが分かった。マトリフは詰まりかけた言葉を勢いのまま一息に吐き出した。
「断るぜ」
「……っ、理由を聞いても……?」
顔を上げたガンガディアが、足音を潜めるのも忘れて寝台へと歩み寄る。膝をつき覗き込もうとする瞳には目を合わせず、マトリフは続けた。
「オレはそういう硬っ苦しいのは御免なんだ。何にも縛られずに自由に生きてたいんだよ」
ケラケラとあくまで軽薄な素振りのまま、揶揄うような声音だった。真面目に取り合う気を見せず、煽られた彼が怒り出してしまえばいいとさえ思った。そうすれば今度こそ手玉に取ってしまえるだろう。
「別に今のままでもいいじゃねぇか。何か不満でもあるのか」
「現状に不満があるわけではない。私はただ君と、きちんと契りを交わしたいと」
「こんなジジィとか? 酔狂なヤツだ」
ヤってる時点で手遅れだけどな、と下品な揶揄を付け加えると、彼の纏う空気がスッと冷めるようだった。ガンガディアは己を抑え込むように、眼鏡をそっと押し上げる。
「……もしかして君は、君の寿命のことを気にしているのかね。私を置いていくことになると」
「それもなくはねぇけどよ」
正鵠を射られることは予測していたから、平静を装うことができた。敢えて下手に否定するのではなく、理由の一つではあると嘯く。それこそマトリフが契りを結びたがらない何よりの理由だった。
仮にあと十年共に居られたとして、ガンガディアにはその先何百年と続く生がある。己と違い律儀で生真面目な男が、一時の契りに縛られることなど想像に難くない。自分の死後、ガンガディアが他の誰かと添い遂げることを思えば黒い感情がとぐろを巻いたが、それでも墓守のような真似をしながら独り寂しく長い余生を過ごされるより遥かにマシと思えた。そう遠くない内に彼を遺して逝くだろう己が、彼を縛りたくはなかった。
マトリフの思いも知らぬまま、ガンガディアは口を開く。
「それについては心配する必要はない。例え君と契りを結べずとも、私は君以外のことを——」
「気色悪いこと言うんじゃねぇ」
律儀な男は自らの言葉にすら囚われるだろう。その先を口にさせてはいけない気がして、咄嗟に強い声音で遮った。盗み見たその顔には明らかに傷心の色があり、罪悪感に胸が軋みを立てる。
「とにかく、オレにその気はねぇ。生憎だがな」
にべもない返答に、ガンガディアはただ言葉を詰まらせた。圧し掛かるような静寂が酷く息苦しい。
「……私では、だめだろうか」
落胆を滲ませた声に、じくりと胸が痛んだ。彼が大きな背を器用に丸めて小さな魔導書に齧り付き、知を磨こうとするのを知っている。それは知識への飢えを満たすためだけでない、大魔道士を自称する己に近付こう、釣り合おうとしての努力だと知っている。
釣り合わぬのは己の方だと言ってやりたいが、代わりに口を衝いて出たのは酷く冷めきった言葉だった。
「連れ合いが欲しいなら、他を当たりな」
ガンガディアはまた口を開きかけたが、何も出てはこないようだった。やがてゆっくりと立ち上がり、心なしか縮こまった背を向ける。去り際に小さくすまなかったと残すと、そのまま静かに部屋を出て行った。
巨大なトロルが後にした部屋は、老人ひとりにはぽっかりと大きい。
もしこの身が若ければ、追いかけ縋って共に生きたいと訴えただろうか。
年を重ね失ったものが先を省みぬ愚かさなのか、未来を恐れぬ勇気であるのか、マトリフには判らなかった。
***
五日が経った。
堪え性のないことを薄らと自覚しながら、誰に聞かれるでもない言い訳を並べ立ててマトリフは近くの町に降り立っていた。古馴染みの店に用事のついで、トロルの噂の一つくらい耳にすることもあるかもしれない。降り続く雨は昨晩から豪雨の様相を呈していたが、マトリフを急き立てこそすれ足を止める理由にはならなかった。あの巨体が雨を凌ぐ場所の一つも見つけられたろうかと、保護者染みた心配が胸を過ぎる。
然程期待などしていなかった筈が、町では求めていた噂をちらほらと耳にした。聞けば聞くほど俄には信じ難く、いよいよ衰えたかと己の耳を疑う。
それは勇敢な王国の騎士達によって、一匹の凶暴なトロルが退治されたという話だった。
街からやや離れた黒い森の奥深くで、マトリフは立ち尽くしていた。大粒の雨が容赦なく叩き付け、白い法衣を鼠色に染める。高く頭上から降り注いでいるだろう陽光は、分厚い雲に遮られてここまでは届かない。
かつて地上支配を目論んだ魔王の側近が討ち取られるなど、到底信じることはできなかった。何よりそのしぶとさに最も苦しめられたのは他でもない自分自身だ。
それでも、確かにそこには真空呪文で穿たれた大穴があり、焼け焦げて倒れた木々があり、豪雨に晒されてなお残されたおびただしいほどの青い血の痕跡があった。微かな魔力の残滓の主が誰であったか、マトリフが間違える筈もない。
「……あの野郎、余計な手間掛けさせやがって」
頑丈な男がそう簡単に死ぬとは思えなかったが、或いは大怪我をして身動きが取れないでいるかもしれないと思えば放ってなどいられなかった。人は呆気なく死ぬものだと、経験が最悪の可能性を胸中にちらつかせる。振り払うように飛翔呪文を唱えた。
あたり一帯は濁流と土砂とに飲まれ、人の子一人見当たらない。光るものを見つけては泥中に腕を突っ込んだ。爪が割れ皮膚が裂けても、回復呪文を使う暇が惜しい。見知った腕輪の欠片を見咎めて、背筋が凍る思いに襲われる。名を呼ぶ声は、雨音に飲まれて消えた。
相変わらず空は鈍色のまま、幾ら時が経ったかも判らない。雨は休まることを知らず、降り注いでは地上を穿っていた。案外既に戻ってきてはいないだろうかと、濡れそぼった体を引きずりマトリフは一度帰路につく。けれどそこにトロルの姿はなかった。
寝台に背をもたせ掛けるように、床に蹲る。雨を吸ってぐしょぐしょに濡れた法衣が酷く重い。がたがたと震える身体は滑稽に踊るようで、笑いを漏らすと歯の根が合わずにがちがちと跳ねた。冷え切ってとうに感覚も失せた指先に灯しかけた火が、一筋の煙を残して掻き消える。最早身体を拭い温めることすら億劫だった。
このままでいれば死ぬだろうか。
死ねば、会えるだろうか。
自ら追い出しておきながら、この期に及んで身勝手な夢想が胸を過ぎり自嘲する。彼の生を諦めたつもりも、後を追うつもりも微塵もなかったが、身を起こすには気力も体力も限界だった。
疲労を湛えた全身は鉛のように重く、現実を拒む思考は緩慢に霧散していく。抗い難い眠気に飲み込まれるままに、やがてマトリフは静かに瞼を閉じた。
「 」
遠くで誰かに呼ばれた気がした。
次いでふわりと浮きあがる感覚がある。身体を包む温みが心地良く、無意識に身体を擦り寄せる。夢うつつに漂う感覚に、いよいよ悪運も尽きたらしいと思う。
「 」
呼ぶ声には覚えがあった。あんな仕打ちを受けておきながら、迎えに来やがったのかと笑う。
わるかった。こんなことならつがいにくらいなってやればよかった。
応える代わり、大きな手のひらは慈しむようにマトリフの体を撫でる。安堵感に満たされるのを感じながら、マトリフの意識はまたゆっくりと溶けていった。
***
仄暗い室内に、やわらかな光がちらちらと揺れている。時折腹のあたりを撫ぜる感触は幼子を寝かしつけるのに似て、こそばゆいような気持ちにさせた。少しの間、微睡の中に身を浸す心地を堪能してから、ようやくマトリフはもぞもぞと体を起こす。
くしゅんと間の抜けた音を境に、ここがまだ現世であることを知る。ぼやけた視界が像を結ぶと、寝台に寄り添ったまま心配そうにこちらを覗き込む双眸と目が合った。顔を合わせるには余りにもばつが悪く、よぉ、とぎこちない愛想笑いを返す。すると眼前の額に、音を立てて青筋が走った。
「死ぬつもりか君は!」
吼えるような声音は明らかな怒気を孕んでいた。叱られて素直に謝る可愛げがある訳もなく、齢八十幾つにしては粗末な責任転嫁が口を衝く。
「……お前が悪ぃ」
青筋が増えた。歴戦の兵士ですら裸足で逃げ出しそうな元魔王軍幹部の気迫に怯むでもなく、マトリフはぼそりと続ける。
「お前が勝手に死にやがるから」
潮が引くようにすっと怒気が薄らぎ、困惑に取って変わる気配があった。ガンガディアは言葉を詰まらせたまま、じっとマトリフを見つめている。たかだか数日の留守に耐え切れず探しに出たと知られるのは決まりが悪かったが、マトリフは半ば自棄になったように町で聞いたトロル討伐の噂を口にした。流石に信じちゃいなかったが、と言い訳染みた付け足しをしてから、まるで説得力のない己の振る舞いを顧みて一層情けない気持ちに襲われる。誤魔化すように理不尽な文句が口を衝いた。
「どこをほっつき歩いてやがったんだ、馬鹿野郎」
自分で追い出しておいて、我ながら無茶苦茶な言い草だった。真っ直ぐに向けられた視線に耐えかねて、腹に添えられた指をとり顔を隠すように額に押し当てる。先程まで凍えていた身体には熱い程に血の通った、確かに生きた指先は、ひたすらにマトリフを安心させた。
もう片方の手のひらが、マトリフを支えるようにおずおずとその背に回される。あやすような手つきに子供扱いするなという文句が喉につっかえ、代わりにずびと鼻を啜る。
「心配をかけて、すまなかった」
ガンガディアは人を避けてあの森にいた。そこで、魔物に襲われる子どもを助けたのだという。おびただしい血痕は魔物のものであった。魔物を倒したあと折悪く捜索に来ていた騎士団に出くわし、子どもを攫った犯人と間違えられたのだ。
「同じ場所で暴れすぎたのが良くなかった」
結果的に土砂崩れを誘発し、ガンガディアは騎士団と子どもを弾き飛ばして身代わりに濁流に飲まれた。負った傷はそれほど深いものではなかったが、ほとぼりが冷めるまで見つからぬところに潜んでいたのだという。騎士団の実力はガンガディアの足元にすら遠く及ばぬものであり、それをまさか退治したと盛大に吹聴され、マトリフにまで届くとは思いもよらなかったのだ。
「私の見込みが甘かったな……すまない、大魔道士」
マトリフを殺しかけたのが相当堪えたらしかった。己に非があるでないのにガンガディアはしおらしく、マトリフは居た堪れない気持ちになる。彼を雨中に放り出し、勝手に何かあったかと早合点した挙句に危うく自分まで死にかけたのはマトリフの方だ。生来の性分が素直な謝罪を許さず、マトリフは大きな指で顔を隠したまま動かない。
「……君はもう少し、自分を大事にしてくれ」
真っ白な君の顔を見て心臓が止まるかと思ったと、縋るような声音で訴えられる。マトリフは今度こそ、わるかったと小さく絞り出した。
いつの間にか遠く雨音は止み、どこかで囁くような虫の声が鳴っている。
凍え死にかけていたところをガンガディアに救われてからしばらくの間眠っていたらしい。運ばれてきた温かなスープで軽く腹を満たし、自ら回復呪文をかける頃には体はほとんど元の調子に戻っていた。これではまだ当分くたばりそうにないと苦笑する。
寝台の上、ガンガディアの左手を背もたれにしたまま何をするでもなく体を預ける。ぼんやりと見上げた天井に、暖かな室内ですっかり乾いた法衣が吊るされていた。馬鹿でかい手で器用に着せ替えたものだと、室内着の胸元に手を差し入れてぽりぽりと掻きながら感心する。
隣で静かに寄り添うままだったガンガディアが、やがて小さく口を開いた。
「……その、君は覚えているかね……先ほど言っていたことを」
「あぁん、何のことだ。はっきり言えよ」
歯切れの悪い言葉に先を促すと、ガンガディアは遠慮がちにその先を繋げる。
「私と、つがいになっておけば良かったと」
「なっ、ば……ッ」
確かに、思った。思ったが、声に出したつもりはなかった。ぎゅっと全身の血が集まるように熱が走る。まずいと思ったがどうすることもできなかった。無意識のまま後ずさろうとして、壁のように聳える分厚い手のひらに阻まれる。
「大魔道士、君は」
「うるせぇ、聞き間違いだ! 忘れろ!」
「……そうはいかない」
背を支える指先がゆるく体を包む。柔らかな手つきながら逃がさないという静かな意思を感じさせ、マトリフは身を竦ませた。レンズの奥の強い眼差しに縫いとめられ、目を逸らすことすら許されない。最早誤魔化しは通じないだろう。マトリフは苦々しげに呻きを漏らす。
「……オレはよ、そのうちくたばるんだぜ。お前にとっちゃあっという間だ」
「……分かっているつもりだ」
「なら、別に――」
「蹲っている君を見つけたとき……私は、君が死んでいるのかと思った」
思い出すことさえ苦痛を生むような、酷く辛そうな声音だった。ぎゅうと歪められる表情に、罪の意識が胸を突く。
「そのとき、私が君とつがいにならなくて良かったと考えたかと思うかね」
マトリフが答えを継げないまま、ガンガディアは続ける。
「逆だよ、大魔道士。君とつがいになれなかったことを、酷く後悔した」
そこで初めてマトリフは己の浅慮を思い知った。この男はとうに覚悟を決めていたのだろう。それは一時の契りの為に、その先の長い長い生を一人で歩んでも構わないという、マトリフの想像など到底及びもつかないほどにに重い覚悟だった。その選択を愚かと決めつけた己の思慮の浅さの方が、余程愚かに思えた。
マトリフは観念したかのように、深くひとつ溜息を吐く。
「……はぁ、くそ……オレの負けだ……」
「では――」
俄に素直な喜色を浮かべるガンガディアに気恥ずかしさを覚えながら、マトリフは待ったを掛けるように指を二本突き立てた。
「二つ条件がある」
ガンガディアは神妙な面持ちで頷くと、開きかけた口を閉じて大人しく続きを待つ。
「一つ目、オレより先に死ぬんじゃねぇ」
確約のできぬ願いと分かっていながら、求めずにはいられなかった。順当に行けば己が先に逝く。もう二度と先を越されるのだけは御免だ。
「……できる限り、努力しよう。だが、君にも長生きしてほしい」
不確かなものに容易く絶対を誓わないのが彼らしい誠実さと思う。マトリフは笑って頼むぜと念を押す。
「二つ目、オレが死んだら、オレのことは忘れて好きに生きろ」
「それは……承服しかねるな」
「……ったく、馬鹿正直な野郎だな」
予想通りの返答に呆れながら、がりがりと首の後ろを掻いた。死んだ後の約束など適当に承諾してしまえば良いものを、つくづく堅物な男だと思う。
「ま、そういうところに惚れちまったんだろうけどな」
素面のまま好意を口にされることが珍しく、ガンガディアが驚いたようにマトリフを見つめる。頬が熱を帯びるのを自覚しながら、居た堪れずにマトリフはそっぽを向いた。
「なら、オレより大事な相手ができたら、で良い。死人に遠慮してつまらねぇ一生送るようなことだけはするな」
「君より大事な相手などできはしない」
当然のように即答され、そろそろ羞恥で死ぬ思いだ。マトリフは堪えるように歯を食いしばるとその双眸を睨み返した。
「あーもうしつけぇ! オレはこれ以上は折れねえぞ」
首元まで朱に染まった顔に大魔道士の威厳など欠片も見当たらなかったが、それはそれで必死な様相に圧されるように、ガンガディアは不承不承頷きを返した。
「……わかったよ。この先、君以上に大切な存在ができたときは、君に遠慮するようなことはしないと誓おう」
そんな存在などできるわけがないが、と付け加えながら眼鏡を直すガンガディアに、頑固な奴だとマトリフは苦笑する。いつか一人遺される彼を思えば胸の詰まる思いだったが、同時に死後もその心を占有し続けることに仄暗い喜びを覚えずにはいられぬ、醜い己の存在を自覚する。愛おしさに突き動かされるまま、青い指先にそっと口付け口角を吊り上げた。
「その代わり、生きてる間はオレのもんだ」
「ああ。勿論だ、大魔道士」
背後の指がマトリフの首のあたりを軽く押し上げる。誘われるまま上を向くと、お返しとばかりに口付けられた。啄むような浅い触れ合いを繰り返し、それが深くなる前に、ガンガディアが一度名残惜しげに口を離す。ごそごそと懐をまさぐり何か取り出すと、手を出すようにと促した。
ガンガディアは、彼には小さすぎるほどの小さな指輪を器用に爪の先で摘み上げ、差し出された左手の薬指にそっと嵌め込んだ。
「お前っ、こんなもんまで用意してやがったのか」
「君はこういったものはつけないと言っていたから、チェーンも用意しておいた。首からかけておけるように」
そういうことではないのだが。想定外の贈り物を見つめ口元を戦慄かせるマトリフを尻目に、ガンガディアはもう一つ同じ意匠の指輪を取り出す。マトリフの腕よりなお太いそれを寝台に載せると、付けて欲しいと己の指を差し出した。
「人間のやり方では、こうするのだろう」
本で学んだのだとどこか得意げに語りながら、ガンガディアはまた眼鏡をくいと持ち上げる。マトリフはもう平素の余裕の一欠片も見当たらぬまま、ぎこちない動作で指輪を持ち上げ青い指に嵌めるとしばらく固まっていたが、やがてふと、魔族のやり方は違うのかと問いかけた。
「種族によって異なるが……私のやり方で、君の体に証を刻んでも良いかね」
「……おう」
羞恥心の限界点などとうに超えて、半ばもうどうにでもしてくれという捨鉢な心持ちだった。ガンガディアはマトリフの服の合わせからそっと手を差し入れ、胸のあたりに恭しく当てる。
「少し、耐えてくれ」
「……んうっ」
指先からガンガディアの魔法力が流し込まれる。熱を孕んだ奔流が全身を駆け巡り、細胞の一つ一つに染み渡っていくようだった。マトリフは背を丸め、その腕に縋りついてじっと耐える。ガンガディアはぼそぼそと何やら古い魔族の言葉を呟いていた。それは呪文というより祝詞に似て、マトリフは無意識に聞き取ろうと耳を澄ます。そこに愛だの永遠だのと尻のこそばゆくなる単語を聞き咎め、すぐに聞いたことを後悔した。
流し込まれる熱は次第に勢いを潜め、やがて緩やかに止まる。マトリフは胸に添えられた手に体を預けたまま、はあはあと荒く息を吐いた。体はいまだに熱を持ち全身にじとりと汗が滲んでいたが、不思議と生命力の漲る心地がある。
「気分はどうかね」
「……悪くねぇな」
ガンガディアに促されるまま上半身をはだける。薄く筋張った身体のうえに、ガンガディアに刻まれたものとよく似た三本線の模様が走っていた。
「もしも、嫌だと思ったら……君ならば君の魔力で消せるだろう」
「いや……」
背から腹へと走る模様を指先で辿る。刺青とも異なるそれは、その指が離された今もガンガディアの魔法力を帯びていた。見知らぬ魔法への興味も相俟ってしげしげと眺めるマトリフを、ガンガディアは伺うようにどこか不安げな面持ちで見つめている。その眼差しに気づいたマトリフの胸中に、悪戯心が頭をもたげた。蠱惑的な笑みを浮かべて上目遣いのままガンガディアを仰ぎ見る。
「お前のモンになっちまったみたいだな」
「……ッ大魔道士、私はそこまで大それたことは」
ようやく取り澄ました顔がいくらか動揺を帯びるのを見て、一方的な辱めに対し多少は溜飲が下がる思いだった。マトリフは笑いながら、来いと呼ぶように手を伸ばす。おずおずと近づけられる頬に手を添え、口付けを強請った。差し入れられる舌はマトリフの口には大きすぎて、口の端から唾液が滴り落ちる。唇を合わせたままその首元にある模様にそっと触れた。これと同じものが己の身に刻まれたと思うと、妙にむず痒い心地がした。首筋を辿りながら腕を下ろし、誘うように厚い胸板に手を這わせる。するとガンガディアは慌てたように体を起こし、マトリフを引き剥がした。
「ちょっと待ちたまえ、大魔道士」
事ここに至って今更躊躇するさまが妙に可笑しかった。やはり魔族とはどこか感覚がずれているのか、それともこの男がずれているだけなのか。離れようとする体を追いかけて足を伸ばし、固く引き締目られた腹筋をつっと指先でなぞる。ガンガディアは嗜めるように悪戯な脚を抑えて封じた。
「結婚初夜だぜ? ヤることは決まってんだろ」
「……しかし、君は病み上がりだろう」
「あぁ? オレ様を誰だと思ってんだ。回復呪文でとっくに全快してらあ」
それに、と見せつけるように身体を這う模様を撫ぜる。
「お前の熱くて濃いモンをぶち込まれたせいで、体が疼いて仕方ねぇ」
握り締められた手の甲に血管が浮き出る様を見て、分かりやすくて可愛げがあると思ってしまうのは惚れた欲目によるものだろうか。噛み締められた牙がぎしりと音を立て、理性によって抑え付けられた獣性が匂い立つ。最後の一押しを愉しむように、下腹部へと伸びる模様にそっと青い指を導く。
「慰めてくれよ、旦那サマ?」
「……ッ、煽ったのは君だからな」
ぷつりと理性の焼き切れる音が聞こえたような気さえした。潰さぬようにと辛うじて勢いを抑えながら、青い巨体が伸し掛かってくる。鎖骨のあたりに舌が這わされ、捕食されるような錯覚に眩暈がした。受け入れるように首に回した指に銀の輪が光る。マトリフは心底幸せそうに、ケラケラと笑った。