月見酒眠れない夜のことだった。
ティーダは飛空艇の中を当てもなく歩き回っていた。船の中とはいえ、散歩らしい散歩が充分にできる広さの飛空艇は、一歩間違えたら迷子になるかもしれない小さな恐怖と好奇心をティーダに与える。
明かりの落とされた廊下は静まり返っており、皆明日の出撃に備えてしっかりと休息をとっているに違いない。
ここのところ立て続けに編成されていたティーダはしばらく出撃の予定はなかった。今日までの戦いの昂りが、素直に寝ることを邪魔したのかもしれない。もしくは、故郷の眠らない街の面影のせいか。
ティーダは夜に眠ることが勿体無いという感覚を久々に感じていた。
ふと思い立ってデッキの方に出てみようという気分になった。夜風に当たりたかったのかもしれない。ザナルカンドでは、船の家から一歩出れば心地の良い海風に当たることができたので、ティーダにとってそれはごく自然な気分転換だった。
極力足音を立てないようにしながら目的地へと向かう。
デッキに繋がる扉を開き、跳ねた金髪を揺らす心地よい夜風を感じたその瞬間、漸くティーダは自分が少しだけ、郷愁の念に囚われていることに気付いた。
しかし、そんな気持ちを吹き飛ばすほどに、エンジン音だけが響くデッキに流れる風は心地よい。そして視界いっぱいに広がる夜空は美しかった。
大きく伸びをして肺いっぱいに空気を吸い込んだ。星が煌びやかに舞う夜は、昼間とは違う高揚感をティーダに与えた。
丁度半分に欠けた月が、輝いている。
それをもっと見たいと、歩き出した時、ようやくティーダはこのデッキにいるのが自分一人ではないことに気付いた。
「…アーロン」
デッキの物陰に、片膝を立てて座り込んでいたのは赤い衣を纏った養父だった。
「…見つかったか。今夜は、ゆっくり飲めると思ったんだがな」
そう言ったものの、こちらのことなど気にする様子もなく、煙草を親指と人差し指で挟むいつもの持ち方でゆったりと紫煙を燻らせた。
千切れた雲が灰色に浮かぶ空に、煙が溶けていく。そして何処から持ってきたのか一升瓶を傾けては小さな杯を満たし、こくりと飲み込んだ。
ふ、と吐き出された吐息の音がティーダの耳にはやけに響いた気がする。これが大人の雰囲気なのだ、と言われたら問答無用で納得するだろう。
今のアーロンにはそんな、近寄り難くてそれでも遠くから眺めていたくなるような、ティーダですらどきりとさせる独特の色気があった。
「…なんでここにいんの」
辛うじて、ティーダが発せられた問いはそれだけだった。だが、アーロンは片眉を上げながら琥珀色の瞳でティーダを見上げ言った。
「たまには夜風にでも当たろうかと思ってな」
「それ、オレも思った。なんか、ザナルカンドが懐かしくなっちゃってさ」
「ふん、ホームシックか?」
「ちげーよ!」
にやりと笑う姿に思わず声を荒げたが、アーロンはただ煙を深く吸い込んで長くゆっくりと吐き出した。
「まぁ、俺も似たようなものかもしれん」
「アーロンも?」
「ここは海の上だからな。お前の家を、思い出していた」
「うん、オレも…」
ティーダは頷きながら、隣に座り込む。座って空を見上げると、さっきよりも雲の流れる空が視界いっぱいに広がった。
ちらりと隣の養父を見遣れば、同じように空を見上げている。
二人きりの静かな時間は、久しぶりのような気がした。
「ホームシックならさ、ベベルとかを思い出すんじゃねーの?」
いつぞやジェクトと話したアーロンの"帰る場所"のことを思い出しながら、ティーダはそんな事を問いかけた。もし懐かしむ場所が、あの船の家だと言うのなら、いつかは自分と同じ場所に帰れると思ったからだ。
「いや…俺の生まれた村は『シン』にやられて、何もわからないまま連れてこられた先がベベルだ。育ったところではあるが、故郷と呼ぶのは、違う気がしてな」
それは、ティーダにとって初めて聞くアーロンの生い立ちだった。ザナルカンドで共に暮らした10年間、ティーダはスピラのことすら知らなかったのだ、だから養父がどんな人生を送ってきたかも語られることはなかった。
だけど10年も一緒にいたのに何も知らない自分が無性に情けない。そして仕方がないとはいえ教えてくれなかったアーロンにも腹がたった。
しかしこの怒りを表に出すのも子供じみたわがままのような気がして、ティーダはアーロンの話にじっと耳を傾け続けた。
「生まれた村の記憶もほとんどないんだ、俺がまだ幼い時だったから」
「そっか…」
生まれた場所の記憶がない、帰りたいと願う故郷がないとはどんな気持ちなのだろう。
そう考えるとさっきまで胸の奥で燻っていたアーロンに対する嫉妬にも似た苦い熱はすぐ冷めてしまった。代わりに、自身の故郷に対する思いが脳裏を埋め尽くす。
見上げた空のように、夜景がどこまでも続く大都市ザナルカンド。だが、自分がこの手で『シン』と共に消し去った。
そう思った瞬間、言葉が勝手に口からこぼれ落ちていた。
「もうザナルカンドもないから、オレにも故郷はないのかも」
「…ザナルカンドは実在したさ」
アーロンがしっかりとその茶色い瞳でティーダを見据えていった。夜だからなのか、サングラスをかけていないことに漸くティーダは気付いた。
「お前も、お前の両親もちゃんと生きて、あの場所にいたんだ」
「うん…そうだ。そうだよな」
ユウナたちと過ごす未来を勝ち取ったのだ。過去に未練はないけれど、目を閉じれば今の自分を作り出してくれたあの夢の街の記憶は瞼の裏にしっかりと焼き付けられている。
そしてあの場所で両親よりも長い間寄り添ってくれたこの男のことも、絶対に忘れたくない。
「アーロンも、あの街でちゃんとオレのそばに居てくれたよ」
「…約束だった、からな」
そう呟くと、また空を見上げてだいぶ短くなった煙草を吸い始める。口ではそう言っているが、それだけじゃない思いをティーダは感じ取った気がした。
異世界に来ても、変わらない関係に安心する自分がいる。だけど「ザナルカンドに一緒に帰って欲しい」とは何故か、この時ティーダは口にできなかった。
「ジェクトとは、どうだ」
酒を煽りながらアーロンが問いかけてきた。
「別に、どうもこうもねぇし。反省したと思ってたのにさ、全然変わってねぇじゃん」
「はは、全くその通りだ」
「でも、今度トレーニングのメニュー、教えてくれるって…」
アーロンは何も言わなかった。だけど、ポンと肩を叩かれた。それはとても優しく穏やかで、ティーダは何も言えなくなる。
いや、そもそも言葉なんて必要なかったのかもしれない。そう思わせるほどに、雲と煙草の煙とそれから穏やかな時間が流れていた。
思い返せばアーロンと過ごした時間はこうだったような気がする。
余計なお喋りは殆どしない。
だけど決して、ティーダが寂しくないように、見捨てられたと感じないように。ふとした瞬間にも視界のどこかで見守っててくれるような、そんな安心感にいつだって包まれていた。
両親よりも親らしいアーロンの愛情は、幼いティーダの心を何度救っただろう。決して手放しで甘やかした訳ではない、だけどいつもアーロンはティーダを大切にしてくれたのは幼いながらによくわかっていた。
ジェクトの息子として自分を見ない、ティーダという存在として扱ってくれるこの異邦人が両親を失ったのちのたった一人の家族だった。
なのに、いつからだろうか。
アーロンの方からティーダの視界から消えたがるようになったのは。
「アーロン」
「なんだ?」
「なんで一人で飲みたがるんだよ」
オヤジが煩いのはわかるけど、と呟いてから、言いたいことはそうじゃないのにとティーダは歯痒く思った。
だが小さく笑ったアーロンは、ティーダの聞きたいことの本当の意味を理解したらしい。長年の生活のおかげかもしれない、本当の家族とは血の繋がりだけではないことをティーダは実感した。
「…仲間に囲まれていることに馴れたくない、のかもしれないな」
苦笑いと共に吐き出される煙がやけに頼りなく見えた。
「そんな寂しいこと、言うなよ」
辛うじて発せられた言葉はその程度だった。
「あの旅は楽しかったぞ」
眉を下げるようにしながらアーロンが珍しく途方に暮れたような情けない笑いを浮かべる。あの旅というのは、自分たちとの旅なのか、それとも10年前のものなのか、ティーダには分からない。だけど多分、どちらも指しているのではないかとも思った。
その間にもアーロンは目を閉じて、煙草の煙を吸っては吐き出す。まるで何かを思い出すようだった。煙を吐き出すかすかな呼吸音と、エンジンの音だけが夜の静寂の中で響く。
そして杯の中の水面に揺れる半月をぼんやりの見つめながら言うのであった。
「くだらんかもしれんが…また突然失うのが怖いのかもしれない」
「アーロン…」
1度目の旅で全てを失い、そして2度目の旅で未練を果たし物語に決着をつけたはずの男は、今もその続きの物語から出ることができないでいた。それが、幸せな物語だとしても終わりとその続きが見えないのはきっと辛いことだとティーダは思う。
だが、誰だって先のことなどわからないのだ。だから約束をする。
共に未来を歩む約束をすることで、お互いの存在を認め合うのだ。そばにいる事を欲し合うのだ。それが固い友情や愛情のようなものだと、朧げながらティーダは考えている。
ジェクトはアーロンとの未来を望んでいた。そして、ティーダ自身もいつかは同じ場所に帰ることを望んでいる。
父とも、アーロンとも家族でいたかったからだ。
「オヤジは、あんたと」
だが、言い掛けた言葉を遮るようにアーロンは首を振った。
「たとえ異界がどんなところでも、ずっと一緒に居られるわけがないだろう?」
それは優しい響きだったが、同時に取り付く島もないほどの諦めを滲ませていた。
人の心は移ろうだろう、願っても叶わぬこともあるだろう、それに全員の願いが同時に叶うことはない…。そんなことをアーロンらしからぬはっきりしない声で呟いた。
「はは、喋り過ぎたな。酔いのせいか」
それがあまりにも淋しく響くから、ティーダは何も言い返せないままデッキの床を眺めることしかできなかった。
「俺は引き上げるが、お前はどうする?」
アーロンが緩慢な動きで立ち上がる。見れば一升瓶は半分以上無くなっていた。
「もう少し、ここに居る」
「そうか。体を冷やし過ぎるなよ」
「わかってるって」
保護者らしい発言に思わず反抗したくなる。懐かしいやりとりに感じたが、やはりどこかその背中が遠く見えた。
父親の言う、ふらっとどこかに消えてきまいそう、という言葉の意味がこの時なんとなくわかったような気がした。