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    オオカミの獣人🎲×小説家の📚
    警戒心MAX人間絶対〇すマンのオオカミ🎲を拾った📚が献身的に看病した結果、回復した🎲に『俺のモン』『俺のツガイ』認定されて溺愛されるようになる、書きたいところだけ書いたお話です。
    ゆくゆくは🎲が📚への匂いつけ種付けに執心する発情ケモ交尾な展開も書きたい。
    マロくださった方ありがとうございました♡

    #帝幻
    imperialFantasy

    狼獣人🎲×小説家📚小生は自分のことを、この世界に数多いる"不幸な人間"の中でも殊更…頭2つ3つ分抜けたぐらいには悲惨な人生を辿っていると、そう思っていたのですが。

    飢えず、住むところにも困らず、暮らしに困窮もせず、健常なこの身体で前に進むことが出来るだけ幸福だと思った方がいいのかもしれません。"人間として生まれたこと"自体が最大の幸福なのかもしれないとも思う。小説の原稿を担当へ提出してきた帰り道、ネタ集めのついでに立ち寄った商店街で思わぬ気づきを得てしまった。

    さて、なぜ小生が唐突に悟りを披露したのかというと……まずは目の前に広がる光景を説明致しましょう。
    端的に言うと、道の中央で、人型の生き物が倒れています。後ろに手錠をかけられ、血まみれになった身体をべったりと地面につけ、虫の呼吸をしています。客を呼び込む威勢の良い掛け声が飛び交う商店街のど真ん中で、ですよ。頭頂部の左右から生えた3角耳、赤黒く染まった薄汚い下穿きから覗く黒ずんだ大きな尻尾。それが人ならざるものであることは一目瞭然だ。

    これは夢か幻か。―否、小生の生きるこの世界では、こんな景色は別に珍しくない。だから特に驚きもしない。
    大通りを歩く小綺麗な格好をした人間様たちは、目の前に広がる惨状など目に入っていないかのように早足に歩き去っていく。最もそこに落ちている物体を中心に、大きく楕円上に人が避けて歩いているのだから、視界に入ってない訳では無いだろう。丁度小生の後方から獣人が牽引する獣力車がやってきたが、あれを避けて迂回するにはやや車体が大きすぎる。惨状を目の当たりにした乗車主は舌打ちをして、車を引く2人の獣人の背を打った。悲鳴もあげずに獣車はスピードを上げ、地面に転がる赤黒い人型を踏み越えて通り過ぎて行った。骨、折れただろうな。痛みに声すら上がらないあたり、もう死んでいるのかもしれないけど。

    X歴には、人間と獣人、2つの種族が存在する。悲しいかな、仲良く手を取り合って共存……とはいかないらしい。いつの時代か、獣と人間がまぐわって誕生した獣人族は蔑まれ、差別を受け、純血の人間により支配されている世界。
    力の強さ、スタミナ、身体の丈夫さ、俊敏さ……獣人は人間よりも高い身体能力をその身に宿している。未だ弱肉強食のヒエラルキーの頂点に君臨する人間たちは、自分たちより力を持った異形の存在に怯え、弾圧し捩じ伏せる方向で団結を固めた。獣人と言っても獣は獣、知能ばかりはやや人間よりも劣ってしまうらしく、獣人はよく罠にかかる。獣人は皆、比較的人間の集落に近い位置で罠にかかることが多いため、恐らくはこの世界のどこかに存在する獣人国に持ち帰る物資の調達、または人間文化の窃盗が目的か。遠い森の奥、悪知恵を働かせた人間の罠に掛かった獣人は鎖に繋がれ、人間の街へ運び込まれ、飯を抜かれ拷問を受けて飢えと衰弱に瀕し、抵抗の気力を失ったところで人身売買の市にて売り裁かれていく。国を挙げて獣人を下等種族と指定した上で支配し、国民皆が特定の対象を蔑んで1つに纏まることで、"人間"同士の諍いは減少した。貧民や身体に障碍を抱える者が差別されることもない。皆平等だ。なぜなら人間様だから。……同じく"人間様"の一員である小生にとって、現世の制度はそれはそれはもう素晴らしく、心地よく、息がしやすく、この平和が永遠に続くことを願うばかりですね。嘘ですけど。

    「―ッたく、だから道端に捨てんのはやめとけっつったろ、俺まで上に怒鳴られちまったじゃねぇか」
    「あーあー悪かったよ。何回殴っても反抗的な目で睨んでくるからよ、ムシャクシャして運搬車から蹴落としちまった」
    「どうせ死にかけだったから良かったけどよ、これで市民に危害が及んだら俺たちまで首切られちまうんだぜ? こんなに稼げる仕事もねぇんだ、勘弁してくれ」

    2人の商人が人混みを掻き分け、ぽっかりと空いた楕円の中心部へ向かっていくのが見えた。重怠そうな足取りで、地に伏す物体へ歩いていく。薄汚い言葉使いと、派手な装飾に彩られた身なりが不釣り合いだ。会話内容とその様子、大方奴隷商人として成功を収めた一派の端くれの成金でしょう。

    「ゲェ……触りたくねぇ」
    「お前がきちんと処理してりゃあこんな有様になってねぇんだ。お前が運べよ」
    「このまま転がしときゃ勝手にカラスかなんかに食われて消えるだろうよ」
    「ゴミ捨て場まで運ぶのが上からの指示だろうが。黙ってやれ」

    どうやら、あそこに転がる獣人の処理に駆り出されているようです。奴隷の売買が盛んな地下市や裏路地ならまだしも、一般市民の往来が耐えないここにあんなグロいものが落ちていたら、街の景観に反しますからね。国から撤去の命令が下るのは当然のことでしょう。

    小生には関係の無いことです。あの獣人、放っておけばそのまま彼らに回収され、ゴミと一緒に捨てられて死ぬでしょう。この先小生の人生に交わることもない。余計なことに首を突っ込むと痛い目を見るのはよく分かっている。足早に此処を立ち去るのが正しい選択と言えるだろう。

    ……ただ、何でしょうかね。思い出したくもない、過去の記憶がまざまざと蘇ってきてしまいました。実はね、小生のお兄さんは、獣人だったんです。顔も声もそっくりの双子なのに、小生は人間で、兄だけが獣人。小生たちは捨て子だったので、実の父母の顔を見たことがありませんが、どうやら"人間"と"獣人"がまぐわって子を為した結果生まれたのが、僕達だったようです。産まれてくる子供が獣人か人間か、その確率は五分五分らしい。
    『幻太郎、おじいさん、おばあさん』って泣き叫ぶ兄が、政府の獣人狩りに連れ去られて行ったあの日の記憶が、瞼の裏に蘇る。激しく抵抗し兄を守ろうとする老夫婦にまで暴行が加えられ、それがきっかけで寝たきりになって衰弱し、数日後には弱って死んでいった、あの時の記憶が。

    「――もし、商人さん方」

    ……ああ、僕は一体何をしているんでしょうか。

    深く考えるより先に、反射的に声を掛けてしまった。やめておけばいいのに。2人の屈強な男が、訝しげな表情でこちらに視線をやる。
    「……ああ?なんだ、キレーなにーちゃん。こっちは忙しいんだ、道案内なら他当たってくれや」
    「いえ、道案内ではなくて……ひとつお聞きしたいことが。そちらの獣人、如何なさいますので?」
    「イカガナサイマス、って……ちっと考えりゃあ分かんだろ。捨てに行くんだよ、捨てに」
    「奴隷にはしないのですか」
    「ヘッ、こんな風にくたばっちまえば奴隷もクソもねぇよ。コイツはなァ、他の畜生どもと違っていつまで経っても言うこと聞きやしねぇ。獣人の中でも狼族は珍しいし高く売れるってんで調教を急いだんだけどよォ、俺の同僚なんか腕を食いちぎられちまった。人間様に抵抗した罪で殺処分することなったもんで運んでたんだが、途中で落っことしちまったみてぇでなァ、こうやって回収しにきてやってんだよ」
    『蹴り落としてやった』の間違いだろう。心の中で突っ込みを入れつつも、男の言葉は大体想定通りの返答だ。覚えておくべき情報は、この子はとりわけ狂暴だってことと、狼の獣人ってこと……ぐらいでしょうか。商人2人は吐瀉物でも見るような目で獣人を見下ろしている。
    ……もう、やめておけやめておけ。どうせろくな事にならないと、頭ではそう分かっているのに、心はその真逆を突き進む。だってなんだかこの獣人が、あの日の連れ去られた兄の姿と重なってしまって。『助けて』なんて頼まれてもいないのに、獣人を中心にじわじわ地面に広がっていく血潮が、そう叫んでいるような気がして。目の前で死にゆく獣人を見捨てて帰るなんて、今の僕にはとてもじゃないけどできなくて。
    「まぁこの通り視界に入れたくもねぇ状態になっちまってるし、俺ァ絶対触りたかねぇな。変な病気でも移ったら大変だ」
    「病気、ねぇ」
    「なんだァ?ジロジロ見て。これを拾って奴隷にでもするつもりだったのかい? ッハハ、にーちゃんがこれ持ってってくれたら、俺ら的にはめちゃくちゃ楽なんだけどなァ」
    「ハッ、馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。ンなモノズキいる訳が」
    「ではこの獣人、小生が頂くとしましょう」
    「「……はァ?」」
    切れ長の腫れぼったい4つの瞳がこれでもかと言うほど見開かれ、一斉に小生の方を見る。まあ、当然の反応でしょう。
    「オイ……正気か?」
    「もちろん正気ですとも」
    「にーちゃんのためを思って言っとくけどよ、コイツは多分もう死んでるぜ。ゴミ同然だ」
    「どうでしょう、生命力の高い獣人のことですから、生きているかも」
    「仮に生きてたとしても、目覚めた途端食い殺されちまうのがオチだろうよ。悪ぃことは言わねぇ、辞めといた方がいい」
    「おや……先程まで小生が頂いても良いと言ってくださっていたではありませんか。小生が食い殺されては後味が悪い…ということでしたら問題ありません。こうみえて小生、極真空手の世界大会でトップ3に入る成績を納めたことがあります」
    勇ましく太い声色で言い放つ。まあ、嘘なんですけど。
    商人の目が次第に不審人物を見る色に変わっていっているのに気付いていないわけではないが、この獣を連れ帰ることが出来るのならばなんでもよかった。獣人を見下げたその態度が気に食わなくて、意地になっているのかもしれない。咳払いをして声を潜め、追い打ちをかける。
    「勿論このことは誰にも口外致しません。仮に死んでいたとしてもこちらで勝手に処理しますから、あなた方に実害が及ぶこともありませんよ。襲われそうになったら小生の中断回し蹴りが火を吹くだけですし、罪なき一般市民があなた方のおかげで死んでしまうということもないでしょう。こんな面倒事、さっさと終わらせてしまいたいのでしょう? 小生に引き渡してしまえば良いではありませんか」
    小生の言葉を受け、男たちは顔を見合わせる。
    オイ、どうする?なんかコイツ、やべぇぞ。
    いいんじゃねぇか、くれてやっても。断ったところで、どうせこれから捨てに行かなきゃなんねぇんだ。
    互いの様子を伺う2人の表情から、そんな会話が聞こえてくるようです。ヤバくて結構。この子を頂けるならどこまでもヤバい人間になりましょう。
    こちらの覚悟は固い。了承を得るまで此処を離れるつもりは無いと、意志を込めて2人を見据え続けた。恰幅のいい二人の男はやや怯み、好き好んで死にかけの下等種族を連れ帰ろうとする人間の気味悪さにやや恐怖したような顔色で口を開いた。
    「……にーちゃんがそこまで言うならくれてやるけどよ、俺たちは責任取らねぇぞ」
    「交渉成立ですね。ご理解いただき感謝します」
    「あー……そいつは考えられねぇぐらい凶暴だった。仮に生きてたら絶対に錠と猿轡は外すんじゃねぇぞ」
    「……お気遣い、痛み入り、ますっ」
    獣人の片腕を持ち上げて自分の肩にかけ、なんとか巨体を持ち上げる。何日も身体を洗っていないのだろう、物凄い悪臭が間近で鼻を刺した。ぼたぼたと地面に滴る血が痛々しい。小生の方をちらちらと見ながら距離を取る商人たちは、信じられないものでも見るような目でこちらを観察している。そうですよね、あなた方にとってはこの子はゴミ同然、いや、ゴミ以下の存在かもしれません。今どき、奴隷制度の撤廃、獣人との共生なんかを望んでいる小生の方が頭のおかしいやつなのだ。
    身長は同程度と踏んでいたが、この獣人、やけに重い。骨格から人間とは異なるのだから当たり前か。小柄な兎族とかならまだしも、この子は強くて逞しい狼なんだから。
    半ば引き摺るようにして、左右によろめきながら歩みを進めた。密着した身体に僅かな体温が残っているような気がする。流れていく血が止まらないが、きっとまだ死んでいない、まだ間に合う。小生は道行く人々の奇異の目に晒されながら、自宅へ続く裏路地へと逃げるように足を運んだのだった。



    「はあ、はぁ、…! っはあ、うぅ"……」
    着いた、家に。なんとかドアを開け、玄関先に倒れ込んだ。意識のない獣人もどちゃりと横に崩れ落ちる。僕の足が、腕が、震えている。酸素不足で意識が朦朧とした。これほど自身の体力のなさを恨んだことは無い。
    「はっ、ふぅ、はぁーッ……ッしけつ、止血、しないと……」
    上がり框から血が伝い、靴を脱ぎ捨てた石畳に血の水溜まりができていく。指先1本動かすのも苦しいが、今はこの獣人の命を救うことに集中しなければ。ふらつきながらも何とか立ち上がり、救急道具を取りに急いだ。
    怪我の手当は慣れている。書き上げた小説に潜ませた政治批判が検閲を免れることが出来ず、政府の役人に暴行を受けることなんてしょっちゅうあるから。
    新聞紙と、保管していた大量のガーゼをボックスごと玄関へ持っていく。赤が滴る石畳には取り敢えず新聞をばらまいて血を吸わせ、うつ伏せのまま動かない獣人の腹に腕を差し込んでひっくり返した。彼を後ろ手に拘束する手錠がフローリングに擦れて、じゃらりと不愉快な音を立てる。
    ボロきれみたいな服を前から切り裂いて開いて身体を観察すると、打撲痕、火傷跡、刺し傷切り傷、ありとあらゆる外傷痕のオンパレード。伸びっぱなしの硬くごわついた髪が邪魔して顔周りの傷は見えない。一刻を争う状況、ずり落ちてきて止血を邪魔する自分の服の裾すら邪魔だ。舌打ちをして汚れた書生服を脱ぎ捨て、治療に集中できるよう体制を整えて臨むのだった。

    大きな出血部位は圧迫止血をした後包帯でぐるぐる巻きにし、全身の正確な傷の位置を判断できるようにするため、傷跡が膿まないようにするために清潔なタオルで身体を拭きあげ、あっという間に赤黒く染まるそれを何度も何度もお湯を入れたバケツで洗い、拭いては洗い拭いては洗い。シャワーをぶっかけることが出来たらどれだけ楽かと思うが、折角止血した傷口が開いてしまっては困るのだ。やっと皮膚の肌色が見えてくるようになったら細かな傷を消毒して、容器の中身を全部使い果たす勢いで薬を塗り込み、また包帯でぐるぐる巻きにする。治療の邪魔過ぎて、彼を拘束する錆びた手錠と口元の猿轡は工具で破壊してしまった。顎からぽたぽたと汗が落ちた。全ての処置が完了した頃には優に数時間が経過していて、最後の包帯を巻き終わったが最後、僕は獣の横にぐったりと崩れ落ちた。
    「ッ…はぁ、あ"〜〜……はぁーーー……とりあえずひと段落、ですかね…………」
    無意識に息を詰めていたようで、呼吸が苦しい。横にいる獣人に比べると可哀想になるぐらい薄い胸を大きく上下させ、僕は自分の額に手首の裏を当てる。はあ、つかれた、もう1歩も動きたくない。あれ、そもそもこの子、まだ生きてるのかどうかもちゃんと確認してないや。脈計って、確認しないと……、
    「はぁ、すぅーー……――オ"ェッ」
    過集中から離脱して初の深呼吸だった。あまりに必死で気が逸れていたが、この生き物、鼻が取れるほど臭いがキツい。強烈な臭いを大量に肺に取り入れてしまい、堪らず嘔吐いてしまう。酸臭と獣臭が混じったような臭いに耐えきれず、生理的な涙が込み上げてきた。ああ、全然一段落じゃないです。激臭を放つこのもじゃもじゃ頭を洗ってやらなければ、永遠に僕の休息など訪れはしないだろう。傷にお湯が当たらないようにでかいビニールでも被せて、頭を洗ってやらなければ。ついでにこの不衛生な髪の毛も切ってやりたい。
    人間、割と限界を超えても動き続けることができるみたいです。僕はほぼ全身を包帯に巻かれた獣を持ち上げて引きずり、浴室へとステージを移動した。

    水を抜いた空っぽの浴槽へ、肩から下を大きな袋で包んだ獣をぶち込む。ぐったりと全身の力が抜けているから、丁度浴槽のヘリに首が引っ掛かって、いい具合に浴槽の外側へ頭が垂れてくる。3角の耳の穴を避けて髪の毛にお湯をかけると、透明だったはずの液体が真っ黒になって排水溝へ流れていった。なんか小さな虫みたいなのも流れていった気がするが、もう僕は何も考えたくないし、ひたすら手を動かすことに決めた。流して、汚れが落ちやすくなるよう櫛で梳かして、何かが粘ついてこびり付き、ダマになった髪はもうハサミで切り落としてしまって、ひたすら流す。髪を乾かしたあと適当に整えてやればいいだろう。
    「はぁ、…うぅ、臭ッ、……、……?」
    牛乳を拭いた後の濡れ雑巾のような激臭に悪態をついたのもつかの間、掻き分けた左側の髪の毛の中に、数珠繋ぎになったアクセサリーが紛れているのを発見する。真っ黒な汚れをお湯で落とすと、金ぴかの数珠が現れて、末端には賽子を模したようなチャームが1つ付いている。なんだろう、これ、まさか奴隷管理用のGPSとかじゃないよな。……まあ、彼にそうだとしても、彼の血やこのお湯でとっくにやられてしまっているだろうけど。
    それともう1つ、汚れが落ちつつある髪の毛の色が、最初は異なっていることに気が付いた。深い深い蒼色。汚れて黒ずんでいたから分からなかったのだ。お湯に濡れて輝く夜色の毛髪が美しかった。
    「……よし」
    僕は俄然この子を綺麗にしてやりたい気持ちが強くなって、シャンプーボトルを連続プッシュする。濡れた獣臭がフローラルな香りと混ざって更に最高だ。僕は涙目になって息を止め、蒼い髪の毛を必死に泡立てた。ついでに頭皮も揉み込むように洗ってやれば、白い泡がみるみるうちに茶色く濁っていく。流しては泡立て、流しては泡立て……、泡の色は白く、お湯の色は透明になった頃には、シャンプーボトルの中身は空っぽになっていた。仕上げにリンスなんかも付けて洗ってやって、弱った老夫婦に施した以来の他人への洗髪は無事終了したのだった。

    ・・・・・

    帰ってきた時には太陽が天高く登っていたはずなのに、彼の長い髪の毛を乾かし終わって寝室へ運び込んだ頃には、時計の短いハリが12を指していた。浅くはあるが、安定した呼吸を繰り返す獣に布団をかけた瞬間、ぷっつりと糸が切れたように動けなくなってしまう。激動の1日だった。獣の傍らに力なくへたりこむ。

    元々くせっ毛だったのかな、さらさらにしたはずの髪の毛は毛先が跳ねて彼の顔を覆い隠してしまっている。伸びっぱなしの髪を切って整えてやる余裕は、今日の僕にはもう残されていない。続きは明日やることに致しましょう。そんなに伸び放題だと煩わしいだろうに、ごめんなさいね。申し訳なさを込めて、長い前髪を指先で横に掻き分ける。
    「……! おや……」
    蒼の毛髪に隠されていた顔が現れる。僕は思わず息を呑んでしまった。
    汚れを落とすのに必死で、まともに顔を見たのはこれが初めてだった。長いまつ毛に縁取られた両の瞳は閉じられていてその色形までは確認できないが、凛々しい眉に高い鼻、形のいい口元、それぞれの美しいパーツが理想的な位置に収まっている。顔中細かい傷だらけではあるが、間違いなくとびきりの伊達男の部類に入るだろう。その寝顔はどこかあどけなく、推定するに年齢は小生より3~5個は下か。耳と尻尾さえ隠してしまえば、僕ら人間と何ら変わりない容貌だ。
    「…………」
    ―うら若く、こんなにも美しい生き物が。獣人という理由だけで、あのような劣悪な環境で拷問を受け、挙句使えないからと血塗れのまま捨てられて、命を終えるところだったのか。
    あまりの理不尽に吐き気を伴う悔しさが込み上げ、穏やかに眠る狼の顔を見詰めながら歯を食いしばる。あの日の痛みが、怒りが猛烈に蘇る。怨念の業火となって身体の内側を燃やし、叫びたくなるような衝動に駆られた。獣人の兄を、優しい老夫婦を奪ったこの国が、許せなかった。
    この美しい獣を、彼らを救えなかった償いの道具にするとは言わない。ただ、あの日救えなかった兄の代わりに、1人の獣人を救うことが出来たという事実さえあれば。僕のすべてを奪った国に1つも報いを与えていないのにも関わらず、自死を選んで地獄へ逃げるのを踏み留まれる気がして、僕は。
    押し寄せる感情に耐えきれず、静かに泣いた。最も、涙はとうの昔に枯れてしまったから、押し殺した嗚咽が響くだけなんだけど。救うだなんだと大義を掲げながら、結局は自分のエゴを満たすためだけにこの獣を生かしたのだ。自己嫌悪に苛まれながら、獣の寝息と共に長い夜を明かした。





    死にかけの獣人を連れ帰ってから、実に3日が経過した。彼は未だに意識がない。ただね、なんだかもう少しで目を覚ましてくれる気がするんです。
    このままでは本当に弱って死んでしまうから、昨日は栄養満点のスープを作って彼に与えました。不用心に彼の上半身を抱き起こして、スプーンでひとさじずつ。喉の奥の方に流し込むと、ごく、って喉仏が上下して、上手に飲み込んでくれました。相当食物に飢えていたのでしょうか、鍋いっぱいに作ったそれは昼の1食で底をつく。彼の身体が生きたいと叫んでいるようで、知らず知らずのうちに頬が緩んだ。目を覚ましたところで仲良くなれる保証なんてないのに、呑気なもんです。
    それと、僕が声を掛けると、ぴく、って耳が動くことが増えてきた。意識はないけど、脳が外部の音声を感知しているらしい。もふもふの耳が僕の声に反応して動く様は可愛らしい。

    この頃にはもう、相手は狂暴で恐ろしい獣だという認識が僕の中から完全に抜けていた。忌々しい猿轡や手錠は保管しておくのも嫌で、さっさと捨ててしまった。馬鹿ですよね。だからこんなことになってしまった。
    「グルルルルッ!!!」
    「ッあ、い"……っ!」
    「フーッ、フーッ…ガルルル…」
    勢いよく床に後頭部を打ちつけ、ぐらりと視界が歪む。ああ、油断した。

    洗面所で、髪を切ってあげていたんです。本当は連れ帰った次の日には切ってあげようと思っていたのだけど、深い夜の色の長髪が美しくて、なんだか切ってしまうのが勿体なくて。だけど、シャンプーやドライにはとびきり時間が掛かってしまうし、何より目を覚ました時に邪魔だろうから、3日目にして漸く重い腰を上げました。顔がきちんと見える程度に前髪を切って、後ろの襟足はちょっと長めに。左側を切り終えて、右側もそれに倣って切り揃えようとした時でした。鏡に映る彼の瞳が勢いよく見開かれて、僕は次の瞬間には天井を見ていた。
    「……ぁ、きみ、目を覚ましたんです、ね」
    「グヴゥ"〜〜ッ……」
    牙を剥いた獣人が、僕の上に馬乗りになっている。獣は低く低く唸り声を上げ、明らかな敵意と殺意で僕を串刺しにしてくる。

    ―まあ、こうなりますよねぇ。
    意識がない君のことをお世話してあげている間に、僕はなんだか少し愛着が湧いてしまっていたんです。当然君はそんな事知る由もないのだから、敵意剥き出しのこの対応も頷ける。君にとって人間は、身勝手に君を捕え、身勝手に酷い拷問をし、身勝手に君を殺そうとした滅ぶべき外敵だ。相当人を恨んでいるし、憎くて憎くて、今すぐにでも殺したくて堪らない様子。獣人の尖爪がメリメリと肩に食い込む。痛みに顔を歪めた。あーこれは僕、確実に殺されますね。
    「グルルッ、フーッ、フーッ……!」
    「…ッ、…おや…」
    ぼたぼたと唾液が垂れてくる。剥いた牙の隙間から、とめどなく溢れてきているようだ。
    そういえばこの子、狼の獣人だって言ってましたっけ。それならこの大量の唾液にも納得がいく。狼なんて肉食も肉食、生肉にかぶりついてる代表みたいなイメージありますもん。ライオンの次ぐらいに。あの劣悪な環境では肉なんて食わせて貰えないだろうし、気休めのスープだけでは狼の食欲が満たされる訳が無い。
    「……ごめん、ね、人間が、ひどいことをしたね」
    「ガルルルッ、ヴゥ"ッ」
    「いいよ、……ぼくを、お食べ」
    「ガァア"ッッ」
    着流しを勢いよく破られる。次に目を開いた時には、僕の喉元は鋭い歯牙で食い破られていることでしょう。

    実は、こうなること、最初からちょっと予測してたかもしれません。だってね、いい最期だと思ったんです。1匹の獣人の命を救ったことで贖罪をした気になって、過去に囚われ続けている身を軽くして。弱さ故、苦痛に耐えかねて何度も失敗した自死も、獣に食い尽くされてしまえば嫌でも遂行できるでしょう。世界に抗った小説を出版し続けて、政府の役人たちから受ける暴行で死ぬのも御免だ。だから、獣人を救って、その獣人に殺されてしまうのが、1番いい最期だって思ったんです。

    「…………?」

    ……等と考えている内に身体から血が噴き出すかと思っていたが、一向にその時は訪れない。肩に抑え込む力は相変わらず人の域を超えているが、殺意に満ちた獣の唸り声はピタリとやんでしまった。不思議に思った僕はゆっくりと目を開く。
    「……食べないんです?」
    「……ッ…」
    狼は、破れた着流しの中から現れた僕の身体を凝視していた。言葉を失っているようだった。飢餓と憎悪で黒く塗りつぶされていた瞳は、今や不審と困惑に揺れている。やはり獣人と言えど人間と血を分け合った存在、感情の機敏は人間のそれに近いのだろうか。
    「……ああ……これですか。驚かせてしまったのならごめんなさいね」
    僕は自分の胴を撫でる。蚯蚓脹れだったり、深い刺傷だったり、煙草を押し付けられた跡だったり、青あざだっだり、手首に残った無数の切り傷だったり、……骨の浮いた貧相な身体に、中々に派手な装飾がびっしりと刻み込まれている。一生身体に残るであろう、政府から受けた報復の数々。この国は人間に優しいけれど、その分秩序を乱すやつには容赦ないのだ。別に後悔したことはない。小生の身体が壊れて心を痛める人なんて、もう何処にもいないんですから。
    「少し気持ち悪いかもしれないけど、人肉は人肉です。これでも3食きちんと食べていますし、可食部は少なくても不味くは無い肉体だと思いますよ」
    獣人は僕の身体を見つめたまま動かなくなってしまった。滴るほどだった唾液の分泌は止まっており、既に僕を腹に入れる食指は失ってしまっていることが伺える。爪が食い込んだままの肩が痛い。殺すなら早く殺してくれないと、ずっと痛いままだ。
    痺れを切らした僕は獣人の腕に手をかけて力を込めるが、拍子抜けしてしまうほど簡単に腕が退ける。どうしたものかと思い腕に目をやると、彼の腕に巻いていた包帯に、真っ赤な血が滲んでいるのが見えた。今度は僕が目を見開く番だった。
    「あなた! 折角閉じてきてたのに傷が開いてるじゃないですか……! 急に動いたりなんかするから……!」
    「……ガルル…」
    「……もう、なんだか僕への食欲が失せてしまったようですし、この身体を食べて頂くのは君の身体の傷が癒えてからにしましょうか」
    獣人はたった今気付いたみたいに自分の全身に巻かれた包帯を観察している。表情は蒼の前髪に隠れて見えなかった。僕の言葉を、この現状を、理解しているのかどうかは分からない。
    ……とにかく、このままでは埒が明かない。僕が身を起こそうとした瞬間、獣人は僕の身体の上から退いて逃げ出してしまった。左足に深く刺さっていた太い杭を3日前に抜いたばかりだから、駆け出した1歩目でずっこけてしまっていたけれど。


    死にかけの獣人が目を覚ましてから、10日が経過した。
    捕食未遂は失敗に終わったまま、一週間が経過している。未だに僕は食い殺されず、のうのうと生き続けている。
    変化……主な変化と言えば、身体に触れるのを許されるようになりました。と言っても、嫌々、仕方なく、本当は今すぐ僕の腕を食いちぎってやりたいけど……という心情が全面に出ておりますが。
    「グアァッ」
    「染みますね、ごめんね、でもこうしないともっと悪くなってしまうから」
    「グルルッ、ウ"ゥ"〜ッ……」
    「はい、塗り終わりましたよ。ガーゼを当てますから、もう少しの辛抱」
    「ヴルルル……」
    「偉い偉い。包帯を巻いたら終わりですよ。何度も言っていますけど、自分で剥がさないでくださいね!」
    僕は今日も命懸けで彼の治療を行っている。牙を剥いた獣に唸られ、視線だけで殺す勢いで睨まれながら、何とか今日の分の包帯を巻き終えた。1つでも不振な挙動をしたら次の瞬間には殺される……!! そんな緊張感が僕を毎日侵食し、今や飯も喉を通らず、満足に眠ることもできず、精神崩壊まっしぐらな有様です。まあ嘘なんだけど。

    別に今まで通りの生活に、こうして獣人に触れる時間が少し加わっただけです。何の苦にもなりません。むしろ今の今まで一人きりで生きてきましたから、この広い平屋に僕以外の生き物の気配があると言うだけで少し心が踊る。その気配には少なからず殺意も伴うが、別に僕はいつ殺されても良いと思っているし、肌を刺すような剣呑な雰囲気に対して特にストレスは感じません。
    しかしどうやら、獣人的には僕をすぐ殺してしまうのは惜しいらしい。飛びかかられたのは彼の散髪をしていたあの日が最後でした。狼は治療の時以外は僕から一定の距離を保ち、値踏みをするが如くこちらの挙動を監視している。敵意は日に日に薄くなっている気がします。他意無しに治療に励み、美味しい食事を提供する僕の献身が認められたのでしょうか。……なーんちゃって。そこまで平和ボケしてないです。
    彼はようやく足を引きずりながら歩けるようになった段階ですし、この家から逃げ出してもまともな生活を送れないことを理解しているから、逃げるに逃げられないのでしょう。
    「ダイス、ご飯を持ってきますから、いい子で待っててくださいね」
    「ガァッ」
    頭を撫でようとしたら激しく威嚇されました。『触んな!』って声が聞こえてくるよう。腕を食いちぎられなかっただけマシか。
    これ以上刺激を与えても、寧ろ関係が悪化してしまいそうだ。最早彼の部屋と化している、元・僕の寝室から大人しく出ていく。

    獣人の真の名は分からないが、ダイスと呼ぶことに決めた。由来は、彼の髪飾りの先っぽについてる賽子のモチーフです。ダイス、ダイス……我ながらいいネーミングセンスをしていると思います。便宜上ね、呼ぶ名前があった方がいいと思ったんです。いつまでも『きみ』とか『あなた』だと味気ないでしょう。
    仮に賽子が奴隷管理のアイテムだとしたら、そこから名前を取るのは可哀想だと思って、それとなく街で使役されている獣人奴隷の様子を探ることもした。同じようなアクセサリーは身体の何処にも付けていなかったから、恐らく彼特有のものだと思う。凶暴過ぎて没収することもできなかったのかもしれませんね。

    食事は生肉でもいいのかもしれないが、どうせならばろくに食事にありつけていなかったであろう彼に美味しいものを食べさせてあげたくて、僕は健気にも毎食調理を行っている。……と言ってしまえば聞こえがいいのだけれど、美味しく作らざるを得ない理由もあります。彼に渡す食事は、僕が先に1口手を付けないと、食べて貰えないんです。要は、毒味させられてるんですよ。頼まれてもないけどね。
    変なものなんて1つも入れていないのに用心深い狼だ。おそらく人間のせいで何度も死にかけてるんだから、警戒するのも無理はないか。
    適当に作った不味い料理を出したところで、最初に僕が食べなければいけない事態が発生してしまう。そんなわけで、僕が食べても不味いと感じないレベルの食事を提供するに至っている。まあお陰様でね、一々作り分ける手間が省けましたし、楽なもんです。
    「ダイスや〜、今日はビーフシチューですよ〜」
    「…………」
    食事を乗せた四角い盆を、敷布団の近くの座卓へ置く。部屋の隅で丸くなっていた狼の耳がこちらを向いた。
    獣人の食性は詳しく知らない。だけど、老夫婦と共に暮らしていたときの兄は、喜んで人間の食事を口にしていた記憶があります。兄は狐の獣人でしたが……確か狐は、狼と同じく肉食動物でしたよね。人の血が混ざっていない正真正銘ただの狼だったら生肉以外は食べないと思うんだけど……ダイスも、取り敢えずは人間の食事に不満はないみたいだから、多分大丈夫。
    「お先に頂きますよ。……う〜〜ん、美味美味。ほれ、何も怪しいものは入っていませんから、冷めてしまわないうちにお食べなさいな」
    「…グルル…」
    見せつけるような毒味を終え、大きなお椀にたっぷりよそったビーフシチューを彼の近くに滑らせる。ついでに炊きたてつやつやの山盛り白米も。
    獣人から唾液を啜る音が聞こえた。こちらの様子を伺いながら、ゆっくりと座卓へ近づいてくる。憎悪に塗れていた瞳は、今や馳走への期待にきらきらと輝いていた。目を覚ましてから毎日美味しいご飯を食べさせているのだ、僕の作る料理への期待値が日に日に高まっていてもおかしくない。フフフ、美味そうだろう、今すぐ食べたいだろう。まずは胃袋から掴んでやりますよ。
    「……ガルルル…」
    「なんです、まだ警戒しているんですか? 僕がこれを食べたところを見ていたでしょう」
    ダイスは食事と僕を交互に観察している。僕の得意げな顔が不信だと判断されたのでしょうか。だとしたらものすごく不本意です。
    「……食べないのならば、僕がダイスの分も食べてしまおうかな?」
    「ッ!!ガルルッ」
    ダイスは弾かれたように腰を上げ、食事の乗った盆を守るように腕で囲い込んだ。フーッ、って息を荒らげて、藤色と新緑の入り交じった美しい瞳を鋭く光らせて、すごい顔して睨んでくる。『んだと!!ぜってぇやんねぇぞ!!』って感じでしょうかね。あまりの必死の形相に笑いが込み上げてきてしまった。そうかそうか、そんなにそのご飯が食べたかったんですね。コック冥利に尽きます。
    「…フフッ、うふふ、あははは……嘘だよ、冗談です。僕はそんな量食べきれませんし、何もあなたから奪ったりなんかしませんよ」
    「……! ヴゥ"ーッ…」
    「ふふ、ごめん、ごめんって、怒らないで」
    ああ、声を上げて笑ったのはいつぶりだろう。笑うことって、こんなに心地の良いものなんだっけ。
    僕が上機嫌に笑みを零すも、地を這うような声で唸られてしまった。ダイスは不満げに目が細めて僕を睨んでいます。でも、なんでしょうかね。目を覚ましたあの時のような、憎しみとか、悲しみとかが入り混じった唸り声とは違う。恨めしげではあるけど、僕への悪意はあまり無いように聞こえました。




    死にかけの獣人を拾ってから、1ヶ月が経過した。
    2人での生活にもだいぶ慣れてきた今日この頃、僕には1つ我慢ならんことがあります。健康で文化的な最低限度の生活を送るにあたって、その問題は何としても解決しなければいけません。今日はね、意地でもやってやりますよ。僕は絶対に負けません。
    「ダイス、いい加減に観念なさい」
    「グルルル…ッ」
    「ぐるる、じゃありません。何度言えば聞いてくれるんです、あなたはお風呂に入るんですよ、お風呂に。今日こそ入って頂きます、よっ!」
    ワーッと飛びかかるも、俊敏な動作で躱されてしまう。僕はどちゃりと無様に畳へ膝を着いた。くそぅ、獣人族め。身体能力のポテンシャルで言うと、僕は彼の100分の1にも満たないかも。

    この1ヶ月間、僕は彼と仲良くなるために頑張りました。毎日の治療兼触れ合いタイム、美味しいご飯の提供をこなすのは勿論、彼が起きているいないに関わらず目の前でぐーすかと眠ってみたり、無防備に背を向けて執筆活動に励んだり、あれこれと取り留めのないことを話しかけ続けたり。無害ですよ〜、あなたに酷いことはしない人間ですよ〜、って、これでもかと言うほど見せつけています。究極まで凝り固まった彼の警戒心を柔らかくするため、できる事はなんでもしてきたつもりです。彼の嫌がることは基本的にしませんでしたし、傷つけるようなことも全くしてません。おかげで彼は僕に殆ど唸り声を上げなくなったし、毒味なしでもご飯を食べてくれるようにもなりました。
    ダイスが人間に受けてきた仕打ちを考えると、慣れるのが順調過ぎるくらいです。やはり胃袋作戦が効いたのか? ダイスの中で僕の立ち位置が『なんかオレに攻撃してこないしケガとか治そうとしてくるし美味いメシをくれる変な人間』ぐらいには昇格してる気がする。

    そこまではいいんです。いいんですけどね。
    気付きましたか? 僕たちの生活の中に、身体の清潔には欠かせないある習慣が抜けている。そう、入浴ですよ。入浴。
    嫌々ながら身体は自分で拭くようになってくれたけど、頭ばかりは清拭じゃどうにもなりません。日に日に強くなっていく獣臭に僕のイライラは爆発寸前で、今日こそは彼を捕らえて風呂にぶち込むことに決めた。獣人には入浴という文化はないのでしょうか。僕と共に暮らすのならば、入って頂かないと困る。
    「こらっ、待てッ」
    「グルルッ」
    「……!!すばしっこいやつめ……!」
    獣人は驚くべき早さの回復を見せ、あれだけぎこちなかった四肢の挙動にも不自由は無さそうだ。無数あった傷はその口を閉じ、瘡蓋が剥がれて黒ずんだ跡になっている。人間だったらとっくに死んでてもおかしくないぐらいの衰弱だったのに、すごいです。本来喜ぶべきことなのでしょうが、僕の猛攻を余裕綽々でひらりひらりと躱す様を見ていると舌打ちの1つでも打ってやりたくなる。追いかけっこに疲れ果てた僕は腰を屈め、膝に両手を当ててぜえぜえと喘いだ。
    「はぁ、はぁ…あー、っクソ、疲れる……」
    「フッ」
    「……!? ダイス、貴様ァ……」
    今あいつ……口角を上げて、僕のことを嗤いやがりました!『こんなんでバテてんの? ニンゲンって体力ねぇなァ』って声が聞こえました! 被害妄想や脚色無しに!
    初めて僕に見せた笑顔がそれですか。笑みを浮かべるタイミングなんて今まで幾らでもあったでしょう。僕の愛情たっぷりのご飯をたらふく食べた時とか、テレビでオオサカのお笑い芸人のド滑りギャグを見た時とか、僕が夜中に抱腹絶倒の作り話を語って聞かせてやってるときとか。悔しい、非常に腹が立ちますね。いいでしょう、受けて立ちますよ。人間には人間のやり方があるということを分からせてやりましょう。
    「……あっ!ステーキ!夕食のステーキの残りが、そこに!」
    「ッ!?」
    馬鹿め、引っかかったな! 夢野幻太郎史上、最も悪い笑顔を浮かべた自信があります。この腹ぺこオオカミ、どんだけ僕のご飯が好きなんだ。こんな古典的な騙しに引っかかるなんて信じられません。
    「ッ捕まえた!!」
    「! ガルルルルッ」
    「フフフ…騙されましたね。僕を嘲笑った罰です」
    ダイスの逞しい片腕にしがみつく。胸の中にしっかりと抱き込みました。24歳男性の本気パワーですから、そう簡単には逃げることができないでしょう。ダイスは牙を剥いて僕に唸り、冷や汗を流している。追い詰めましたよ。
    「さあ、観念なさいっ」
    「グルルッ、…ッグァッ!!」
    「う、わッ」
    がっちりと抱え込んだダイスの太い腕が、大きく僕の身体を振り払う。僕は一瞬宙に浮いた。

    ―ん、あー、そうでした。身長は同じでも、体格も馬力も違いすぎる。
    引っ張って浴室まで連行する気満々で捕らえたつもりでしたけど、よくよく考えたら無理に決まってる。前に僕一人で彼を浴室まで連れていったときは、彼の意識は無かった。だからこそ成せる技でしたよね。不覚。
    投げ捨てられた拍子に、運悪くテーブルの隅に後頭部が当たってしまった。ゴン!ってきつ〜い音がしました。ぐらりと視界が歪んで、僕は畳の上に背を打ちつける。
    「ぁ、ぅう"……っ」
    う〜、痛いです。痛くて呻いちゃいました。でもまあ、痛いけど、もっと痛いことをされるのに慣れすぎてるから、あまり大したことないかもしれません。ちょっとこのまま横になってれば、すぐ動けるようになるレベルです。
    僕がこうして伏せっている間に、ダイスは別室へ逃げていくでしょうね。あーあ、もう少しだったのに、また明日から激臭生活の再開ですか。力じゃ到底かないっこありませんし、言葉で説き伏せる術を考えなければ。
    「……!! グルルッ」
    「……?」
    「ガルルル……ッ」
    大きな人影が駆け寄ってきて、僕の傍らに跪くのが見えた。
    衝撃の割に痛みは少なくて安心したのも束の間、まさか弱って動けなくなったところを今から食われるのだろうか。ああ、まさかこんな滑稽な最期を遂げるなんて……。
    「うう、無念……」
    「ガルル……ワウッ」
    「ん、……?」
    「グウ、グルル……」
    ぐらついていた景色が徐々に鮮明になっていく。ぺったりと耳を垂れたダイスが、眉を下げて僕を覗き込んでいた。

    ―あれ、なんかこの子、僕のことを心配した感じの雰囲気を醸し出していないか? さっさと逃げていくか、腹いせに食われるかと思ったのに。
    鳴き声も心做しか悲痛だし……『わりぃ!そこまでやるつもりは無かった……!』って感じですか? だとしたらちょっと、僕は逆にあなたのことが心配になりますよ。あなたさっき、僕に騙されて捕まえられそうになったのに。
    「だいす……」
    「! グルルッ」
    ぴん、って耳が立って、目が大きく開く。『お!大丈夫かよ!』って感じですかね。
    ……もしかしてこの子、すごく狂暴で手が付けられないって聞いてたけど……すっごく素直でいい子なのでは? 飯も抜かれる、逆らえば暴力、同じ命として扱われないあの劣悪な環境が彼を変えてしまっていただけで……こんな、1ヶ月一緒に過ごしただけの、得体の知れない人間を心配するなんて。
    「……ぐるる、ガウウ」
    「……つかまえ、た」
    「!」
    「もう……ダメじゃないですか、すぐに人間を信用したら……。ぼく、本当は全然、どこも痛くないんですから」
    彼の手首を掴んで呟いた。突然に健気さを見せつけられて、なんだか自分がどうしようもなく汚れている生き物のような気がしてきてしまう。眉を下げるダイスに君のせいじゃないよって伝えたくて、嘘をついた。『また騙しやがったな!』って怒るかな、と思ったけれど、結局ダイスが僕に掴まれた手首を振り払うことはありませんでした。


     


    死にかけの獣人を拾ってから、2ヶ月が経過した。
    風呂如きで頭打って死にかけてたあの頃が懐かしいですねぇ。あの日連行した浴室でお湯を浴びることの心地良さに気付いたらしいダイスは、今やぴかぴかで綺麗でいい匂いのする狼さんに様変わりしています。最近は毎日きちんとお風呂に入ってくれますし、僕にとっては死活問題だった激臭も、もうすっかり思い出せない。ダイスの殺気も日に日に緩んでいる気がするし、匂いもせっけんのいい香りだし、ようやく肩の力を抜いて暮らせそうです。これにて一件落着! めでたしめでたし。
     
    ―ガァシャアアン!!!!
    ―ガルルッ!?
     
    …………というふうに上手くいかないのが、他種族と送るウキウキ共同生活の醍醐味ですかね。
    執筆中の僕の耳に突き刺さったのは、台所で盛大に何かがぶち壊れる音。ちなみに破壊音を聞くのは今月で5度目。僕は大きく溜息をつき、万年筆を机へ寝かせる。重い足を引きずりながら台所へ歩みを進めると、そこには今月既に4回見た素晴らしい光景が広がっているのであった。
    「はぁ、ダイス……。またですか」
    「……がるる、る…?」
    「いやあなた以外いませんから。誤魔化そうったってそうはいきませんよ」
    ダイスは、ぴゅ〜♪と白々しく口笛でも吹いてそうな勢いで僕から目を逸らす。『いや〜、誰がやったんだろーな……?』とでも言いたげな顔をしている彼の足元、さっきまでは食器だったはずのものが無惨な姿になって散らばっている。今回は、……概算5皿ぐらいはいかれましたかね。
    ダイスがお皿を割るのは今日が初めてじゃない。作り置きした食べ物を温めて皿によそう僕の動作を見て、それを覚えて真似てくれるのはいいんだけど……なにせパワーが桁違いすぎる。この前だって、ダイスが『ふつうの力』で開けたドアが外れて勢いよく床に寝っ転がっていたし、『ふつうの力』で持ったドライヤーの持ち手がグシャアアって歪んだし、『ふつうの力』で脱ごうとした衣服がビリビリに裂けていた。今日は『ふつうの力』で食器の両側に手を添えて持とうとしたら割れちゃった……ってとこでしょう。
    「お腹が減ったら僕に教えてって前も言ったじゃないですかっ」
    「……ガルル…」
    「……しかもこれって……」
    砕け散った破片の中に、美しい花柄を見つける。……あー、ついにやられてしまいましたか。これ、今は亡きおばあさんが気に入って使ってたお皿です。僕にとっては形見みたいなもの。
    「……この、花柄の、お皿」
    「…?」
    「……おばあさん、……もう死んじゃった、僕のとっても大事な人から、もらったお皿です」
    「……!!」
    ま、一点物の高級品という訳でもないし、他にもおばあさんから貰ったお皿はたくさんたくさんしまってあるので、1枚割れたところでそこまで落ち込んだりはしないんだけどね。長年使っているから劣化も進んでいたし、ダイスが触らなくとも、そう遠くないうちに壊れる運命にあったでしょう。
    けどまあ、こうも連続して家の皿を割られていては、恨み言の一つや二つ言ってやりたくなります。獣人の国に、故人を偲ぶとか、形見を大切にするとか、そういう文化があるのかは分からないけど……僕の言葉を受けて、ダイスの顔がさぁっと青冷めたのが分かる。効きました! ククク、これで少しは反省なさい!
    「…ぐるる、がるるるッ……!!」
    「…ま、これに懲りたら勝手にお皿を触るのはやめることですね。………ダイス?何やって…」
    「ぐるる、グルルル……っ」
    がばりと床に伏せたダイスが、両手で割れた花柄を鷲掴む。素手ですよ、素手。鋭利な断面に裂かれた皮膚から滴り落ちる鮮血を目にし、血の気が引いていくのが分かる。今度は僕が青冷める番でした。
    「ちょ、ちょっと! こらっ、触っちゃダメですよ!離しなさい!」
    「グルルルッ…!……? …!?」
    両手に掴んだ花柄の割れ目を、ガチャガチャと音を立てて合わせている。まるで元の形に戻そうとするかのようにぴったり合わせて、力を込めて押さえても、掴んだところからさらに細かく割れていく。力の加減が上手くいかないようで、ダイスの顔が歪む。
    「!!……グルル…ッ!」
    「……!…あなた……もしかして」 
    ダイスは再び破片を拾い上げ、繋ぎ合わせるようにくっつける。まるで元の形に戻そうとしているかのように。当然それで皿が元通りになるはずもなく、ダイスが手を離すとばらばらと崩れ落ちていく。絶望の滲んだ唸り声が悲痛だ。
    ……この子多分、お皿を直そうとしてくれていますよね。さっきまでイタズラがバレた犬みたいな態度をしていた癖に、僕が大事にしているものだって悟った瞬間、こんなに必死な顔をして、血が流れるのも躊躇わずに。はっとして動きを止めてしまったが、ぼたぼたと床に血溜まりを作る様子が目に入り、現実に引き戻される。
    「〜っだいす、だいす、いいんです、他にもお皿はたくさんあるから……!」
    「ぐるるる……っ!」
    「直そうとしてくれたんでしょう? ありがとう、気持ちだけで嬉しいです…」
    膝を着いて血に濡れたダイスの手を取ると、ようやく修理という名の自傷行為は止まる。勢いよく僕の顔を見上げたダイスの顔は、親に叱られて許しを乞う小さな子供のようでした。ダイスはこの2ヶ月でいろいろな表情を見せてくれるようになったけど、こんなに悲しい顔は見たことない。……少し意地悪なことを言ってしまったかな、なんて、なぜか僕が反省してしまうくらいには。
    「……1度壊れてしまったものはね、そう簡単には直らないんです。だからね、なんでも、大事に、大切に扱わなければいけないんですよ」
    「…………がるる……」
    「……君が反省してくれたのは分かったから、もうそんな顔をするのはおよしなさいな。さ、手の治療です。こっちにおいで」
    「……」
    すっかりしょぼくれてしまったダイスの両手を包み、洗面所に向かうよう誘導する。ぺたーん…と耳と尻尾が垂れ、筋肉に覆われた大きな身体も今は二周りほど縮こまって見える。なるほど獣人族、心の機敏は人間のそれと大差ないらしい。ま、血を分け合った存在ですから当然か。

    珍しく無抵抗な彼の両手の血を拭い、ガラス片が残らないよう流水で洗い流す。しっかり押さえて止血したあとは、消毒綿で傷を拭き取り、ガーゼを当てて包帯でぐるぐる巻きに。その間、ダイスはずっとぺったり耳を下げたまま、僕の治療を悲しそうに見つめていた。爆イケメンのしょぼくれ顔は破壊力抜群です。くぅ〜ん……なんて、肉食獣あるまじき弱々しい鳴き声が聞こえてきそう。いや、まさかここまでヘコませてしまうとは……なんだか僕が悪者になったみたいじゃないですか。
    「…はい、できました。……せっかくほかの傷が良くなってきたのに、これまたでっかい切り傷ができてしまいましたねぇ……」
    「……」
    「あんさん、この調子ではいつまでも夢野医院から退院させてあげられませんよ?」
    ふざけた口調で語りかけるも、ダイスは項垂れたまま動かない。なんですか、いつもみたいに『ケッ!頼んでもねーのに一々ダリィんだよ』とでも言いたげに僕の手を振り払いなさいよ。ダイスは僕に手を握られたまま、あからさまに落ち込んだ顔をして俯いている。むぐぐ、調子が狂います。
    ……そもそも、ダイスの手が届くようなところに大事なお皿を置いていた僕にも非があったかもしれないし、ダイスだって壊したくて壊したわけじゃないんだし、あまり意地悪するのも可哀想だったかもしれません。このままだとダイスは僕の家の中を動くことすらままならなくなりそうだし、ここは早急に再発防止策を打たねばなりませんね。……ここは僕が責任をもって、ひと肌脱いでやるとしましょうか。
    「……よし、分かった、分かりました。ダイス、ひとつ提案があります」
    「……?」
    「訓練、してみるというのはいかがでしょう? あなたの力をうまく調節できるようにする、訓練です」
    5回の破壊事件を経て分かったこともある。ドア、お皿、服、家電製品……まあ、家にある壊せそうなものは大方壊されたわけだが、それは彼の本意ではないのだ。ダイスはいつも壊しては驚いたような顔をして残骸を見ているし、呆れたり怒ったりする僕を前に尻尾を垂れてしょげてみせるんです。ずーん……って青紫色のオーラをまとって。
    ダイスが今までどこでどう過ごしていたのかは分からないけど、十中八九出身は獣人国だろうし、人間の文化に適応していない様子から判断するに、長らくそこで暮らしていたと考えてまず間違いないでしょう。だから、人間が使う物品の耐久性や、人間に対する力加減が分からない。そういえば先月のお風呂事件のときだって、『俺はほんッッの軽く振り払っただけつもりなのに、人間が吹き飛んで頭を打って倒れちまった!』みたいな顔をされましたね。これからしばらく一緒に暮らしていくなら、"人間レベルの力加減"を覚えて頂かないと、同じことの繰り返しになってしまうでしょう。
    「ね、やってみませんか、僕と一緒に」
    「……ガルル」
    「手を握り合って丁度よい強さを覚えたり、僕と力比べをして人間の強度を知ったりして…色々試してみましょう。物を壊す度に一々お小言を言われるのも嫌でしょう?」
    「……ぎゅう…」
    「…ふふ、そんな顔しないの。賢いあなたならきっと、すぐにできるようになりますよ」
    「っ、……」
    自信なさげに眉を下げ、上目遣いに僕を見つめる瞳が健気で、つい頭を撫でてしまった。ぴくりと揺れた身体からは若干の拒絶が透けて見えたが、それでも普段みたく『触んなッ!』されることはなくて、ダイスは黙って僕に頭を撫でられ続けていた。



     

    死にかけの獣人を拾ってから、3ヶ月が経過した。
    心根は優しいのに、触れるもの全てを破壊してしまう悲しい怪物みたいになっていたダイス。そんな彼の馬鹿力を制御すべく、訓練を開始して1ヶ月が経ちました。本日はその進捗をお見せしましょう。
    「はい、握ってー……」
    「……」
    「……っよし、いい感じです!ストップですストップ!」
    「…バウ」
    向かい合って僕の両手を握り込むダイスは、歯を食いしばり、こみかみに汗を浮かべている。まだ力加減は自由自在とまではいかない様子だけれど、最初に比べると随分上達したように思います。約1か月前、訓練初日の惨劇が懐かしいですねぇ。
     
    『さ、ダイス、握ってみてくださいな。かる〜〜くですよ、かる〜〜く……』
    『…ぐるるっ!』
    『ッいだだだだだ潰れる潰れますって!!!!!離してぇ!!!』
     
    ……うん、やはり物凄い進歩だ。この1ヶ月で僕が痛みに悲鳴をあげることもなくなった。20年程生きてきて身体の芯まで染み付いた力加減なんてそう簡単に変えられるものではないだろうし、約1ヶ月できちんと自制の範囲内に留めることに成功したダイスは天性の器用さをもった子なのかもしれない。親バカですかね?
    「ダイス、今の加減は完璧でした……100点満点あげちゃいます。もしかしてあなたって天才なのでは?」
    「……ぐるる」
    「この調子でもう一度できますか?……そう、手を開いて……もう一度握る。……素晴らしい!さっきよりさらに上達してます!!世界で1番偉い!!」
    「……ぐるるる♪」
    過剰なまでに褒めちぎると、ダイスは機嫌よさそうに喉を鳴らす。この褒めちぎりが結構効いたのか、ダイスはトレーニングにすっかり意欲的になりました。今ではトレーニングの時間外でも僕の手のひらをちょうど良い力加減でにぎにぎしてくることだってある。僕が視線をやると、『どうよ? 力加減、完璧だろ?』と言わんばかりのドヤ顔。なんだかとてもかわいく見えてしまって、撫で待ちでぺたりと寝た耳ごとわしゃわしゃと髪を掻き混ぜてあげるんです。
    「さ、次のメニューにいきますか。こっちはもう、お手本を見せなくてもできますね?」
    「ばう」
    「んっ、……よし、こっちも完璧です!最高!偉い!かっこいい!」
    「……♪」
    ぐい、って手を引き寄せられるがままに、彼の胸元に飛び込む。2つめのメニューは身体全体を使っての抱擁。絞め殺されるかと思ったのは最初の数日だけで、今は人間同士がするハグとなんら変わりない感覚です。絶妙な力加減で僕を抱きしめるダイスの背をぽんぽん叩き、これまた褒めちぎりながら後頭部をわしゃわしゃ撫でてやる。ダイスは満足そうに喉の奥で唸り、抱きしめた僕の体をゆらゆらと揺らした。
    彼が力を制御できるようにすることを目的に始めたトレーニングでしたが、思いもよらぬ付属効果も得られました。効果はご覧の通り、このトレーニングを初めてから、彼と僕の距離が格段に近くなった。精神的にも、身体的にも。
    『こいつ、俺にひでぇことするつもりはねーんだな。飯食わしてくれるし、怪我も治してくれるし、なんか手とか握ってくるし……ちったァ仲良くしてやるか!』なのか、はたまた『こいつこんな弱っちぃのか!ンなら安心だ、俺になんかしてきてもいつでも殺せるぜ!』なのか。どちらにせよ彼の警戒が緩んだのは事実で、攻撃的な態度を取られることもすっかり無くなった。
    「……スンスン」
    「こら、嗅がないの」
    「……♪」
    「あはは、もう……しかたないんだから」
    ダイスは僕の首筋に鼻を擦り寄せ、匂いを嗅いで満足そう。最近ダイスはよくこうして僕の匂いを嗅ぎにきて、その度に嬉しそうに口角をあげて戻っていくのです。獣人は相手の匂いで感情を読み取れる……なんてお話を耳にしたことがあるし、僕がダイスのこと大好きだって、仲良くしたいって気づいてくれてるのかも。
    匂いで相手の気持ちがわかる…なんて、にわかには信じがたいお話だけど、僕が落ち込んでいたり悲しんでいたりすると、いつも隣で兄が寄り添ってくれていた過去がある。『なんで分かるの』って聞いたら、『お兄ちゃんだからげんたろうのことはなんでも分かるんだよ』って言われたけど……あれはきっと、獣人特有の嗅覚によるものだったんでしょうねぇ。
    「ダイスは握手よりハグの方が得意そうですねぇ。こっちの方が簡単?」
    「ばう」
    「それもそうか。指先の力加減のコントロールなんて、より緻密な制御が必要そうですもんね……」
    「ばう」
    「ハグはもう……この通り完璧ですし、明日からは握手中心のトレーニングにしましょうか」
    「……」
    「……ダイス?」
    てっきり『ばう』って返してくれると思ったんだけど……ダイスは黙り込んでしまった。ダイスと違って僕は匂いだけじゃ感情は読み取れないから、顔を覗き込んで表情を伺う。眉間に皺を寄せ、口はきゅっと引き結び……明らかに不満そうな顔をしています。
    「ええと……だいす、どうしたの」
    「……グルル…」
    「……握手、嫌ですか?難しいもんね」
    「ン"ー」
    「あはは、んーってなんですか、んーって……―わっ」
    初めて聞く鳴き声でした。駄々っ子みたいな唸り声がかわいくてついつい笑ってしまったら、ぎゅっ!って身体を抱き締められた。勢いよく抱き寄せられたけど、背骨が軋んだり、肺が潰れてグエッ!ってなったりすることもない。やっぱり上手です。
    「ほら、上手じゃないですか。だからもうハグはトレーニングしなくて大丈夫でしょう、ね?」
    「…!……ウ"〜ッ」
    「っえ"、ぁ、ちょ、ちょっと、ぐえっ、強い強い!急に強いです!緩めてくださいっ」
    不機嫌そうに唸ったダイスが、僕を締め上げる両腕に力を込める。ミシミシミシィ…あっという間に悲鳴を上げ始めた背骨に危機を感じ、ダイスの背中をべしべし叩いてギブアップを伝える。これが無意識だったらやっぱりハグのトレーニングは継続です!放置していては、いつ真っ二つにされるか分かったもんじゃありません。僕は慌ててダイスに指示を飛ばすが……、ダイスは苦痛に喘ぐ僕の顔にちらりと目線を寄越し、腕の力を緩めてくれた。……ほら、コントロール、もう自由自在じゃないですか。
    「……だいす……今の、わざとですか?」
    「……」
    じと…ダイスを睨むが、彼はこちらを見ない。気まずそうに逸らされた視線から判断して、今の鯖折り未遂はわざとであると考えて良いでしょう。ハグはもう完璧だからメニューから外すことを提案したら、わざと下手くそなハグをされた。……ああ、これは、自惚れじゃなければ、もしかして。
    「……あなたまだ、ハグのトレーニング、やめたくない……とか?」
    「!」
    ぴん!耳が立って、ダイスは目を丸くする。『そうそう!俺はそれが言いたかったんだよなぁ〜』みたいな顔をして、額を擦り合わせてきた。後ろではぶんぶんと尻尾が揺れている。
    確定、自惚れじゃありませんでした。ダイス、僕とハグするの、結構気に入ってるらしい。僕とハグしたいから、トレーニング、まだやめたくないんだって。
    ……なんだか謎に甘酸っぱい気分になってしまい、彼の胸の中で項垂れる。あれ程人間に対して敵意を剥き出しにしていた彼に密着することを許されて、嬉しいような、今更ながら恥ずかしくなってきたような。……何も恥じることはないはずです。飼い犬とじゃれ合うことなんて、ごく普通のことじゃないか。ただ、ダイスは飼い犬ではないし、ビジュアル的にはかなり人間寄りだし、と言うかほぼ人間の若い男だし、そんな子に毎日毎日自分を抱き締めさせる24歳男性って…………、………………
    「ぐるる」
    「……ん、……? わっ、なに、なんですか?」
    「ぐるるる……♪」
    「……」
    もしゃもしゃわしゃわしゃ…って、無骨な手に髪の毛をぐちゃぐちゃにかき混ぜられてる。頭はぐらぐら揺れてるし、力加減ミスってるけど……多分僕の真似ですね。ダイスが言うことを聞いてくれたり、僕の言うことを理解してくれたりしたときにやってあげる撫で方とよく似てる。ダイスは僕の頭を揺らしながらとっても嬉しそう。『分かってくれて嬉しいぜ♡』って顔に書いてます。
    「……あなたが喜んでくれてるなら、別になんでもいっか……」
    「ぐるる♪」
    傍から見ればキツすぎるこの状況に、ふと我に返りそうになったけど、ぐわんぐわんと揺れる脳みそではまともに物事を考えられません。ただ、ダイスがこの上なくご機嫌なことは確かなので、僕は深く考えるのをやめることにした。元はと言えば僕が働きかけて開始されたトレーニングですし、彼が満足するまで付き合ってあげることにしましょう。


     

     
    死にかけの獣人を拾ってから、4ヶ月が経過した。
    やけにトレーニングを気に入ったらしいダイスと昼夜問わず特訓を繰り返し、今や彼の力加減は完璧と言っても過言ではない状態にまで進化しました。もちろんお皿も割らないし、お家の中も壊さないし、僕の手や腕を握る強さも人間のそれと変わりありません。ニンゲンが壊れない程度の力加減を完全に掴み取ったようでした。馬鹿力問題はこれにて解決と言ってもいいでしょう。

    しかし子育て()とは中々上手くいかないもので、1つ問題を解決したと思ったらすぐにまた新たな問題が浮上してくる。しかも今度の問題はにおいや力加減と違って、明確な解決策が思いつきません。ほとほと困り果ててしまっています。
    「あ、っこら、ダイス、もう……」
    「ぐるる……」
    あれだけ深かった傷跡もすっかり塞がり、治りかけの赤みがかった皮膚になってる。一通りダイスの身体の視診を終え、薬を塗り終えた後。僕の悩みの種である、恒例のあのお時間がやってくる。
    「あは、っちょっと、はははっ、くすぐったいっ」
    「ガウッ」
    「ん、ん、っあはは、もう、やめなさいってばっ」
    ……今日も、僕はなぜかダイスに押し倒され、抉れて白く残った腹の傷跡をぺろぺろと舐められている。

    最近、毎日、毎日ですよ。なんですかね、『俺の傷、治してくれてサンキュな! お前のも治してやるよ!』って感じですかね。

    4ヶ月経った今。治療、トレーニングと称した触れ合いタイム、美味しいご飯、ふかふかのお布団…などなどのお陰で、ダイスはすっかり僕への警戒を解いたようだ。もし僕が悪人だったら再び売り飛ばされてしまう可能性だってあるのに、懐ききった犬公と何ら変わりないアクションを僕にかましてくる。あれだけ酷い状態で人間に捨てられていたのだから、こんな気安い関係性になるまではもっと何年もかかると思っていたんですけど。それと、狼ってなんかこう……孤高……みたいな印象があったんですけどね。こんなの、わんちゃんじゃないですか。意外とフレンドリーなんですね。
    「だい、す、っんふふ、も、そこは治ってますから、平気ですから」
    「グウ」
    「こら、ぁ、っんん」
    相手が本物の犬公だったら何も問題はなかったのです。ペットと飼い主が仲良く戯れる平和な世界がそこに広がるだけでしょう。

    しかし、ダイスは獣人。耳としっぽが付いている以外、人間の大人の男と相違ない見目をしています。この状況をメタ視線で俯瞰してみると……かなり香ばしい感じになっている。細く嫋やかな儚げ美人が着流しを剥かれ、床に押さえつけられ、厚く大きな身体を持った雄の獣に毎日身体中を舐られている……文字にするとさらにマズい感じです。
    傷の労り方はケモノ寄りらしい。僕の身体に残った火傷跡や傷跡は毎日ダイスによって慰められ、こそばゆさにヒィヒィ言わされる日々が続いている。皮膚が薄くなってしまったそこは一際神経が過敏になっていて、最近はくすぐったいを超えた何かが身体の内側に灯り始めているのを感じています。それが僕の焦りを一層加速させる要因になっているのだ。
    「だい、だいす、だめだってば、…っ」
    「ガルル……」
    「ほら、撫でてあげますから、落ち着いて……」
    「!」
    「はぁ、……っほら、いい子ですね、いいこいいこ……」
    「ぐるるる…」
    よしよしと優しく頭を撫でてやる。あからさまに嬉しそうな顔をしたダイスは僕の身体を舐るのをやめ、のっしりと全身の体重をかけてのしかかってきた。ぐえっ、僕が潰されたカエルみたいな声をあげるもお構い無しで、ぎゅうっと僕の身体を抱きしめ、肩口に頭をぐりぐりと擦りつけている。気のせいでしょうか、ぽこぽことハートが飛び出しているような……。

    ……すごいな。僅か4ヶ月でこんなに仲良くなれるものなのか? 僕はこの子が心配です。この調子なら、もしかしてご飯をくれる人になら誰にでも簡単に懐いてしまうんじゃないか。
    「もう、……トレーニングは、あなたはもう必要ないでしょ? 力加減、ばっちりじゃないですか」
    「ぐるる」
    「ぐるるじゃなくて」
    「……♡」
    「……もう」
    ダイスは、すんすん、って僕の首筋の匂いを嗅いで、嬉しそうに頬を緩めてる。こんな顔をされてしまっては、強く振り払うことができません。家族愛に似た感情が、自分の中で日に日に大きくなっている気がします。彼が笑うと僕も満たされて、甘えられると振り解けなくて、心がふわりとあたたかくなるような。僕よりひとまわりもふたまわりも大きな身体でぎゅうぎゅうしがみついてくるのが可愛くて、僕も彼に抱きつき返して応えた。ぴん!ってダイスのしっぽが立つ。きっと、僕に抱きつかれて嬉しいんですね。かわいいやつめ。
    「!がうっ」
    「…よしよし、僕の傷も治そうとしてくれたんですよね? ありがとうございます、嬉しいです」
    「……ぐるるる…♡」
    「でもね、僕は人間だし、…傷はもう塞がってるから、労わって貰わなくても大丈夫なんですよ?」
    「!」
    額を合わせて目を見つめ、きちんと伝わるようにゆっくり話す。エメラルドに夕焼けを溶かしたみたいな、綺麗な瞳。僕の言葉を受け取ったそれがきゅるりと揺らめいて、…明らかな悲嘆が灯った。ちぎれそうな勢いで左右に揺れていたしっぽがべったりと垂れ下がり、元気な耳がしおしおと萎れる。何やらショックを受けていることは確かです。僕は慌てて彼の髪の毛を撫でる。
    「えっ? あ、えっ、だいす…?」
    「…………ギュウウ…」
    「だいす、あの、どうしたの、ごめんね…?」
    「……」
    しゅん…って眉が下がってる。『なんでそんなこと言うんだよ…』って感じですかね。イケメンのしょぼくれ顔を至近距離で浴びて、変な汗が止まらない。僕、何か嫌なことを言ってしまったんでしょうか。ダイスは不満そうに喉の奥で唸って、もう一度僕の首筋に顔を埋める。
    「だい、…あ、……」
    「……」
    ぺろ…って、機嫌を伺うみたいに首筋を舐められた。上目遣いに僕を見やるのは、まるで飼い主に許しを乞うているような、健気な双眸。

    ……もしかしてダイス、僕に拒絶されてると思ってしまったんでしょうか。ダイスは見た目がほぼ人間と変わらないから忘れそうになるけれど、中身は獣そのものだ。相手の身体を舐めるのは、動物の愛情表現の一種だろうし……一緒に暮らすなら、彼なりの愛情表現に慣れてあげないと可哀想かもしれません。別に僕自身も、彼に甘えられて嫌な気持ちはしていないし。
    「だいす…ごめんね、そんなに落ち込まないで…?」
    「……きゅう…」
    「舐めてもいいですから、……僕、ほんとは嬉しかったから、ね?」
    「!!」
    「うわっ」
    がばっ!って抱きすくめられると同時に、撃沈していたしっぽとお耳が真上を向いた。くーん…って鳴き声が聞こえてきそうなほどしょぼくれてた顔はぱっと華やいで、喜色満面の表情で僕を見つめた。『マジで!?いーの!?俺すげー舐めるよ!?』とでも言いたげです。期待に満ちた表情が可愛くて、思わず手を伸ばして頭を撫でてしまった。彼は弾かれたように僕の首筋に飛びつく。
    「ぐるるっ、ガウッ!」
    「ッあは、あはは…っもう、首はやめて!くすぐったい!」
    「ぐるるる、ぐるるっ…」
    「ん、ふふふっ、あーもうっ、ふふっ」
    待てが解除された犬のように、物凄い勢いで首筋を舐められる。擬音にしたら、ぺろ!ぺろ!ぺろぺろぺろ!って感じです。気高く誇り高いオオカミさんみたいな見た目をしていながら、その内面はチワワに近いような……。
    ……絵面の香ばしさと、体に灯り始めた小さな異変を気にして、グルーミングをやめさせようとしたけれど……感覚的には、小動物にじゃれつかれている感覚に近い。こんな調子でぺろぺろされ続ける日々が続いたところで、別におかしな展開に行く気もしません。彼が飽きるまで、このまま放置しといても問題ないかもしれない。
    「―ほらっ、ダイス。おかえしですっ!!」
    「!?」
    「よーしよしよし、ほらほら、わしゃわしゃわしゃ……」
    「…ぐるる、ぐるるる♪」
    両手で蒼の毛髪をもしゃもしゃ撫で回す。ダイスは僕にもみくちゃにされるがまま、嬉しそうに目を細めて喉を鳴らせている。
    うん、我ながらいい関係を築けていると思います。触っただけで殺されかけていた頃の自分に見せてやりたい。この調子なら、これから先も手を取り合ってうまくやっていけるに違いありません。
    人と獣人、どっちが上でどっちが下とか、本当に馬鹿らしい。時間をかけて向き合えば、こんなにも心が通った素敵なパートナーになってくれるじゃありませんか。僕の腕の中、満面の笑みで喉を鳴らすこの子を見ていると、ずっと忘れていた陽だまりのようなぬくもりが心に灯る。これは家族愛か、親愛か、はたまた母性だったり? ……まあ、なんでもいいんです。『幸せ』という感覚を僕に思い出させてくれた彼と一緒に、誰にも虐げられることなく、これからも穏やかな日々を過ごすことができるなら、それで。




    死にかけの獣人を拾ってから、6ヶ月が経過した。
    なんというか、人と獣人が共同生活を送るにあたって、"正しい距離感"的な、お手本みたいなものってあるんでしょうか。人と獣の混血がこの世に存在している時点で、人間と獣人が仲睦まじく暮らしている例はどこかにあるんだろうけど……調べようにも情報が出てこない。ただね、何となく……しばらく前から思ってたけど……『これ』が、普通じゃないってことは、薄々勘づいてる。
    「ぐるる…」
    「……ん、だいす、…大丈夫だよ、ちゃんと掛かってます」
    「……ぐるるる…♡」
    「ふふ、はいはい……ありがとう、きみはあったかいね…」
    1組の布団の中、1人と1匹。僕の身体にかけ布団を寄せ、逞しい筋肉に覆われた大きな体で包み込むように抱きしめてくるのは、半年前に拾った狼の獣人、ダイス。

    身体へのグルーミングを許したのは、確か今日から2ヶ月ぐらい前のことでしたっけ。
    舐めることを正式に許可したあの日以来、毎日、毎日、毎日、抱きしめられながら丁寧にグルーミングされて。首とか、お腹とか、胸元とか、背中とか太ももとか、皮膚の抉れたありとあらゆる部分を、彼に組み敷かれて毎日舐められる。服を剥かれて、太い腕の中に囚われて、長く分厚い舌を身体中に這わされて、こそばゆさに耐えきれなくなった僕は時折甘ったるい吐息を漏らしてしまったりなんかして……窓ガラスに反射した僕たちの様子がたまたま目に入ったりなんかすると、『これはやっぱりよろしくないのでは?』という気持ちが湧き上がる。だけど、僕の身体を労る彼があまりにも幸せそうで、満たされた顔をしているものだから、止めるに止められなくて。
    僕をグルーミングしている最中に寝落ちてしまったダイスにのしかかられながら1晩明かしてからというもの、ついに寝床まで一緒になってしまった。『幻太郎の布団で寝落ちしちまった!でも幻太郎怒んなかった!俺もここで寝ていいんだ!』……みたいな感じの学びを得てしまったのかもしれない。僕は僕で、毎晩当然のように布団に潜り込んでくる彼を諌めることもできない。獣人特有の高い体温は、いつだって死体みたいに冷えてる僕の身体には麻薬のようだった。オオカミのもふもふしっぽを腰に巻き付けられて、人の骨を簡単にへし折れそうなほど逞しい腕に抱かれ、熱く大きな身体にぴっとりくっついて目を閉じると、あったかくて、気持ちよくて、とっても安心してしまって。
    「ばぅ」
    「ん…どうしたの?」
    「……げ…ぅ"、あお"」
    「…ふふ、上手。なぁに? だいす」
    「♡」
    名前を呼び返すとダイスは嬉しそうに頬を緩めて、すりすり…って顔を擦り寄せてくる。聞きましたか?今の。驚くことにね、最近は僕の名前を呼んでくれるようになったんです。げんたろ、って。僕の言葉だってきちんと通じているようだし、知能に関してはやはり他の動物とは一線を画すようだ。
    「げ、ん"」
    「そう。げんたろーですよ、げんたろー」
    「ぐるる……っげ、…あ、お"」
    「はい、よくできました」
    「ぐるるる♡」
    ほら、また呼んでくれました。唸ったり、吠えたりすることに特化した獣の声帯で、一生懸命僕の名前を呼ぶんですよ。かわいいでしょう? 本当に健気で、いい子で、……心を開いてくれたら、こんなにも色んな表情を見せてくれる。未知の存在を恐れ、数の暴力で弾圧し、『獣人』というだけで下等種族として扱う人間の浅はかさが情けない。本当に『下等』なのはどっちなんだって話です。
    「…さて、明日は午前中から次作の打ち合わせがあるんです。もうそろそろ眠らないとね」
    「ぐるる……」
    「あなたは、……まだ眠くないんでしょう。無理して僕と同じ時間に眠らなくてもいいんですよ?」
    「がう」
    「! んっ、………」
    ぺろ…って唇をひと舐めされて、すぐに離れる。至近距離で僕を見つめるダイスは不満そうに口を尖らせてて、『なんでそんなこと言うんだよ……一緒に寝ようぜ?』って声が聞こえてきそう。夜行性のあなたを気遣っての提案だったのに、なんだか僕が悪いことをしてしまったみたい。
    「あはは、そんな顔しないでよ、ダイス……」
    「ぐう……」
    「ん、ンむ、…っふふ、分かった、分かりましたから……一緒に眠りましょうね
    ダイスは僕の腰と背中に腕を回し、ぎゅう〜って抱きしめてくる。愛情を求めるみたいにうりうりと頬擦りしてくるから、優しく背中を撫でてあやしてやると……ほら、もうごろごろ言い出した。手馴れたものです。
    「ぐるる、ぐるるる…♪」
    「よしよし、……全く、仕方ないんだから……ん、ふふ」 
    柔らかく頬を緩めたダイスは、ぺろ、ぺろ…って舌先で唇を舐めてくる。甘えるみたいな舌使いがかわいくて仕方ないから、もちろん抵抗はしませんよ。
    ……ご覧の通り、夜な夜な布団の中でダイスと身を寄せ合うことは、今や僕の日常の1部になってしまいました。今のやり取りを見る限りでは、僕が『寝床を共にすることを許してあげてる』感じに見えますよね。……実は逆なんです。僕がダイスの隣で一緒に寝たいんです。
    兄が奪われ、血に濡れた老夫婦が倒れ伏す様子を震えながら見ていることしかできなかったあの日以来、僕は連日悪夢に魘されるようになりました。僕の生活の中から、心の落ち着く安らかな夜は消失した。毎晩毎晩目の前で兄が連れていかれて、育ての親には暴行が加えられて、僕はそれを泣きながら見てるだけ。悲鳴をあげて飛び起きて、止まらぬ動悸に胸を押えて、睡眠不足で身体はどんどん弱っていって。もう一生このまま、僕はあの日に囚われたまま衰弱して死んでいくんだと思ってました。
    なのに、眠る時にダイスがそばに居てくれるようになってから、深夜に汗だくで飛び起きる回数は目に見えて減っていった。
    苦痛に喘ぐ最中、何者かに身体を揺すられる感覚で目を覚ますと、そこには必ず切羽詰まった表情の彼が居る。弱々しく掠れた声で『だいす』って名前を呼ぶと、ダイスは僕のことを守るみたいにぎゅうって抱きしめて、ぺろ、ぺろ…って優しく唇を舐めてくれるんです。頼るあても助けを求める相手も無く、ずっとずっと1人で戦ってきた僕にとって、それは泣いて縋りたくなるぐらい愛おしい体温でした。ありがとう、ダイスは優しいね…って呟くと、今度は目元をぺろぺろ舐められる。そこで初めて、自分が涙を零していることに気づく。とっくの昔に枯れたと思っていた涙です。悲しいとか、苦しいとか、幸せとか、色々な感情が麻痺して消えかけていたのに、ダイスが命を吹き込んでくれた。いつの間にか、こうして彼に心を溶かされているときが僕のいちばん安らぐ時間になっていて、……いつの間にか、悪夢に魘される夜も遠ざかっていった。

    それを知ってか知らずか、僕が眠る前は必ず、ダイスが優しく唇を舐めてくれるようになったんです。彼の表情から推測するに、『おまえが魘されないように、俺がまじないかけてやるよ!』……ってところですかね。唇が離れると、口元はにんまりと弧を描いて満足気。多分、僕のアテレコは当たってる。
    「ん、ふふ、…だいす、もういいですよ。ありが、…んむ」
    「ン、……ぐるる…♡」
    「ちゅ、……ん…だいす……」
    ダイスは僕の唇を舐めるのをやめて、優しく唇を重ねてくる。ちゅ、ちゅ…何度か角度を変えて唇を押し当ててくる動作は、獣人的には毛繕いの範疇なのだろうけど、人間のする接吻と変わりない。時折上唇と下唇の間をなぞるようにゆっくり舐められて、『ここあけて』って言われてるような気がしなくもないですが、……流石にそれは気のせいですよね? それだとグルーミングの枠を超えている気がするし。
    「ン、んぅ、……だいす、……ん……」
    「…ちゅ、………げん、ぁ、ろ"……」
    「……ん、……はぁ……ふふ、もう。きみはかわいいね」
    「……がるる」
    「あれ、不満なんですか?」
    「ガルルっ」
    「わっ、あはは、ごめん、ごめんって」
    ぎゅうう…って強く抱きしめられて、身体をゆらゆらと揺らされる。むすっとした表情から推測するに、どうやら『かわいい』はお気に召さなかったらしい。不満を隠さずぶつけてくる無垢さが愛おしいが、これを放置してるとしかめっ面のダイスにがぶがぶ首を噛まれたりするから油断ならない。
    「よしよし、ごめんね、ダイスはかっこいいのがいいんですもんね」
    「グルル……」
    「よしよし……撫でてあげるから、そんなに怒らないで」
    「……ばう」
    「ほーら、いい子いい子、ダイスはかっこよくて優しい素敵なオオカミさんですね…」
    「…………」
    「もう僕、ダイスがいないと寂しくて眠れないんですから」
    「………………♪……ぐるるる……♪」
    筋肉の盛り上がった厚い胸元に顔を押し付けられながらも、腕を伸ばしてダイスの頭をわしゃわしゃと撫で回してやる。ついでに彼が喜びそうな言葉を選んで褒めてやれば、ダイスはすぐに甘えた唸り声をあげ、僕の頭にすりすりと顔を擦りつけてくる。……褒めて、撫でて、たったこれだけで機嫌を直してしまうのだから、やっぱり彼はかわいい男だと思う。
    無事に不機嫌モード突入を避けたダイスは、一頻り僕に愛でられたら満足したらしい。ぐるる……って満足そうに喉を鳴らして、胸元に押し付けてた僕の顔を覗き込んでくる。慈愛と幸福が滲んだ、実に人間らしい顔で微笑んで、もう一度優しく僕の唇にキスを落とす。
    「んっ、……ふふ、許してくれたの?」
    「ぐるる」
    「ありがとう、だいす」
    「……♪」
    ダイスは額を合わせてきて、満ち足りた表情で鼻先を擦り合わせる。ゼロ距離で浴びる端正な顔立ちに慣れる日は果たしてくるのか、僕は若干の居心地の悪さを感じながらも目を瞑る。ダイスの体温に体の芯まで温められ、四肢の先までぽかぽかと暖かい。
    「……ふああ…あなたあったかいから、眠くなってきちゃいました……そろそろ眠りましょうか」
    「ばう」
    「おやすみ、だいす」
    「ばう、うう"。……ン」
    「ん…」
    おやすみ、って僕の発音を真似るみたいに鳴いて、もう一度唇を舐められる。人間で言うとおやすみのキス。獣人で言うと……何なんでしょう、親愛の証みたいなものなのかな。今は当たり前のようにやっているけれど、半年前の僕が見たら腰を抜かしそうな光景ですね。
    ダイスは腕枕の位置と僕を深く抱き込む体勢を調整し直し、しっくりくる角度を見つけたのかそのまま動かなくなった。溶け合ってしまいそうな程身体が密着していて、僕の腰を抱くように尻尾が巻きついている。すんすん…って頭頂部の匂いを嗅がれているのが少し気になるけど……程なくして、獣特有の低い寝息がグルグルと鼓膜を揺らし始めた。

    悲しいとか、苦しいとか、そういう感情も日に日に薄れて、ただただ漫然とした希死念慮を抱えながら、独りきりで国に抗い続ける日々でした。とっくに孤独には慣れたと思っていたけど、その実僕の身体と心はぬくもりや愛を求めてカラカラに干からびていたらしい。ダイスの存在が僕の心の柔らかいところを埋め尽くすようになるまで、そう時間はかかりませんでした。寝床の中、匂いを嗅がれても、身体を深く抱きしめられても、唇をやわやわと食まれても、僕は拒絶しないし、する気も全くない。寧ろそれがないと……って次元にまで、既に到達してしまっている気がする。
    「……ねえ、きみは、どこから来たのかな」
    「……ぐぅ……グゥ……」
    「故郷に帰りたいと思うことはあるんでしょうか?……できれば、できればね、僕は……これからもずっとずっと、あなたに傍にいて欲しいと思ってるよ」
    「……ぐう……ぐぅ…ぐるる…」
    既に夢の国に旅立ったダイスに、僕の願いは届かない。……きっと叶うことは無い願いなんですから、届かなくていいんです。
     
    山を超え川を超え、遠い地の果てに広がる荒野に存在すると言われている獣人の国。未だに人間が到達したことはないとされるその地は、逞しく強靭な肉体で自由に野を駆け、広い荒野を統べる美しい獣が生きるに相応しい場所に違いない。ダイスにとって、この檻はきっと狭すぎる。見るも無惨な状態にあった身体が完治し、元の体力もすっかり取り戻した彼が、街郊外にあるこの小さな小さな平屋から飛び出していくのは時間の問題でしょう。

    大切そうに僕を抱く、温かい身体に頬を擦り寄せる。ドクン、ドクン、大きな心臓が力強く脈打つ音に耳を傾けながら目を瞑っていると、先程から顔を覗かせていた睡魔がみるみるうちに大きく膨れ上がっていく。眠りに落ちる寸前、青髪の美しい獣人と、年老いてシワだらけになったひとりの男が幸せそうに寄り添う、叶うことのない愚かな夢想が見えた。僕、決して長生きはできない気がするけど、だいすがそばにいてくれる限りはなんとか生きることを諦めないでいようと思います。彼が僕の元を離れるまで、もう少しだけ。
     
    6ヶ月前、死にかけの獣人を拾った。だけど、本当に命を救われたのは、きっと僕の方なのだ。
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    Posse_bet

    MOURNINGオオカミの獣人🎲×小説家の📚
    警戒心MAX人間絶対〇すマンのオオカミ🎲を拾った📚が献身的に看病した結果、回復した🎲に『俺のモン』『俺のツガイ』認定されて溺愛されるようになる、書きたいところだけ書いたお話です。
    ゆくゆくは🎲が📚への匂いつけ種付けに執心する発情ケモ交尾な展開も書きたい。
    マロくださった方ありがとうございました♡
    狼獣人🎲×小説家📚小生は自分のことを、この世界に数多いる"不幸な人間"の中でも殊更…頭2つ3つ分抜けたぐらいには悲惨な人生を辿っていると、そう思っていたのですが。

    飢えず、住むところにも困らず、暮らしに困窮もせず、健常なこの身体で前に進むことが出来るだけ幸福だと思った方がいいのかもしれません。"人間として生まれたこと"自体が最大の幸福なのかもしれないとも思う。小説の原稿を担当へ提出してきた帰り道、ネタ集めのついでに立ち寄った商店街で思わぬ気づきを得てしまった。

    さて、なぜ小生が唐突に悟りを披露したのかというと……まずは目の前に広がる光景を説明致しましょう。
    端的に言うと、道の中央で、人型の生き物が倒れています。後ろに手錠をかけられ、血まみれになった身体をべったりと地面につけ、虫の呼吸をしています。客を呼び込む威勢の良い掛け声が飛び交う商店街のど真ん中で、ですよ。頭頂部の左右から生えた3角耳、赤黒く染まった薄汚い下穿きから覗く黒ずんだ大きな尻尾。それが人ならざるものであることは一目瞭然だ。
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