愛するきみへ 7:20
朝身体を起こすと、深酒をしたわけでもないのに随分と頭が痛かった。バスルームで用を足し、鏡に映ったふて腐れた顔を横目に洗面台から鎮痛剤の入れ物を掴む。キッチンに行くと、カウンターに折りたたまれた手紙が置いてあった。
二つ折りになった紙の真ん中に良く知った筆跡で自分の名前が、右下には彼のサインがしてある。
ことりと薬の容器をカウンターに置いて、代わりに重ねて折られた紙を開く。
『ふぅふぅちゃんへ
この手紙を読む頃には、俺はもういません』
息を大きく吸って胸に溜めてから、長く吐く。頭痛が酷くなった気がした。
8:00
薄い塩味のビスケットを二枚食べてからオレンジジュースをグラスに半分だけ飲む。グラスを空にしてから水を一杯までいれて、痛み止めを二錠口の中に放り込む。舌に乗った苦みを水で流し込みながら、手紙の続きを読んだ。
『本当は行きたくないけど、自分で決めたことだから仕方がないね』
最初の数行は字が少し震えていて、筆圧が弱い。きっと暫く書くのを待ってから、もう一度書き始めたんだろう。そこからは筆圧がしっかりとしていた。
「まったく……」
8:10
相棒を口笛で呼んで、玄関に行くと、一昨日までそこに並んで景色と化していた彼の靴が綺麗に無くなっていた。
「……」
湧き上がる感情を押さえ込んで、棚からリードを手にとると、見慣れない服と小さなメモが置いてあった。
『今日は散歩に行くときはこれを着た方がいいよ』
「ー……」
思わず片手で両目を覆う。お節介め。
見えていない中、相棒の存在が近づいてくるのがわかる。俺の気を引くために、片足を踏んで脚にもたれかかるようにして座ってくるが、いまはそれどころではない。
万全とは言えない心身のせいか、単に機嫌が悪いのか。僅かに感じる苛立ちにつられて、一瞬だけ、フード付きのウィンドブレーカーは置いていこうかと過る。
「……」
腰の下辺りでぴすぴすと鳴る鼻音を数秒聞いてから、水をよくはじく素材のそれを掴んで、大人しく待っていた相棒と家をでた。
いつもの道を散歩をして、いつものところで朝食のサラダチキンサンドを買って帰る。
帰り道は雨だった。
15:08
昼寝から起きると、頭痛はマシにはなっていたが、今度は喉が痛い。冷蔵庫を覗くと、彼のお得意のレモンと蜂蜜の瓶があったのでそれをスプーン二杯分拝借する。持っていかなかったんだから、今の彼には必要ないんだろう。マグカップにお湯を入れていると、キッチンの窓際のテーブルに、皿とメモが置いてあるのに気がついた。
『ふぅふぅちゃんはご飯は自分で用意するから、心配はないと思うけど、おやつくらいは用意してもいいよね? これで最後にするから』
最後にするから、という文字を親指でなぞりながら、つい苦笑する。
「お節介め」
今度は声に出してやった。皿には桜の形をしたクッキーと、何故か半分だけの桜色のパウンドケーキが置いてあった。
17:15
二杯目のハチミツレモンを作りながら、彼の手紙をもう一度読む。
『驚いた? 俺だって早起きできるんだよ』
最後まで文字を目で追ってから、手紙をたたみ直して、ポケットに入れていたスマホを手に取る。
今日は何時に起きたんだろうか。いまは、どこに居るんだろうか。
スワイプして電話のマークをタップする。履歴の一番上に出てくる彼の番号をしばらく見つめてから、スマホの画面をカウンターに伏せる。
こっちからかけるのは、なんだかしゃくだった。
19:40
一向に良くならない身体を温めたくて、熱めのシャワーを浴びてからリビングに戻る。置きっぱなしにしていたスマホを手に取ると、不在着信の通知が出ていて、思わず顔をしかめる。彼からだった。
かけ直そうかと思ったが、四十分も前のことなので、シャワーに入っていた、とメッセージを打つだけにしておく。
入力して送信をしてから、少し思い直して、悪かった、と付け足した。
22:00
夕食が入るほどには食欲がわかない。きっと夕方に食べた桜味のお菓子のせいだろう。ハチミツレモンも二杯半飲んだしな。いつもよりも多く糖分をとったせいに違いない。
それならそれで手間が省けていい、と、今日は早々にベッドに入ることにした――が、なかなか眠れない。
別に一人でベッドで寝るのは初めてではないのに、どうにも居心地が悪い。
言葉を交わさないまま、こんなふうに距離が空いてしまったからか?
起きる時間を合わせていれば、何か違っただろうか。何時に起きると言っていたか、きっと彼は話していた筈なのに思い出せない。
暗い中、寝返りを打ちながら、昨日見た彼の横顔を思い出す。ソファーに並んで座って、今日のことを話していた彼は、こっちを見ないようにしていた。頑なな口調に反して、泣きそうな顔だったな、と今になって思う。
どうして今そんな顔を思い出してしまうのか。おかげでますます眠りにくくなった。
恨むぞ、浮奇、と声に出してみるも、虚しく静かな部屋に溶け込んでいくだけだった。
7:50
歯を磨いていると、近くで着信音が聞こえて、洗面所を飛び出す。辛うじて間に合った電話に、ちょっと待ってくれと声をかけてから口をゆすぐ。
鏡の中の顔は、昨日と比べるといくらかすっきりとしていた。
「おはよう、浮奇。早いな」
「おはようふぅふぅちゃん。昨日電話に出てくれなかったから」
早く声が聞きたくて、という彼の声は少し掠れている。起きてすぐかけてきてくれたのかもしれないと思ったら、自然と口許が緩んだ。
「ハイキングは楽しんでるか?」
「聞かないでよ……昨日は死んじゃいそうだったよ。いっぱい寝たのに、まだ身体が痛い。何で止めてくれなかったの」
唸っている彼の声に混じって布の音がする。まだベッドにいるのかもしれない。
「俺が知った頃にはもう予約は済んでたじゃないか」
「もー……マジで過去の自分が信じられない。なんでまた行ってみようって思っちゃったんだろう」
それだけ前に行ったものが楽しかったからだろうと返すと、くぐもったうめき声が聞こえてきて、つい笑い出してしまう。笑った後は、正直に話すことができた。
「一緒に行けなくて残念だ」
「ホントだよ……次は一緒に行こうね」
「あぁ」
浮奇は計画を立てる段階で俺のことも誘ってはくれていたが、あいにくどうしても動かせない仕事が入っていて、今回は一緒に行くことができなかった。
「今日は何をするんだ?」
「今日は皆で車を借りて、街の方にいって買い物をするんだよ」
買い物、という言葉に玄関のことを思い出す。
「そういえば、靴、整理していったんだな」
「そうだよ! 全部しまってもまだスペースあったんだから。あれなら新しい靴を買っても平気でしょ?」
自慢げな声に、また笑い出してしまう。
「あぁ、そうだな。好きなだけ買え」
「前と言ってること違うし」
少しだけ拗ねた声を聞きながらキッチンで湯を沸かす。
「浮奇?」
「んー?」
「ありがとう。楽しかったよ」
少しの間を置いてから、笑いを含んだ声が返ってくる。
「手紙? それともお菓子?」
「全部」
「ひひ……俺も書くの楽しかったよ」
「ちょっと大袈裟だったけどな」
「映画とかドラマみたいだったよね。最初、笑いが止まらなくてちゃんと書けなかったんだよね」
「ホラーゲームみたいだった」
「ちょっと!」
「帰る時間、送っておいてくれるか」
「え、いいの?」
「あぁ、多分大丈夫だから、迎えに行くよ」
一際嬉しそうな声が耳元であがる。話し声につられたのか、匂いに起きてきたのか、足下ではうきにゃと相棒がまとわりついてきていた。