七月七日、くもり 梅雨の合間の蒸し暑くどんよりとした雲の下、第二小隊は今日も今日とてお仕事だ。
機材が機材だけあって犯罪より事故や災害への対応に狩りだされることが多い部署ではあるが、梅雨時は足元が危ういために、自分達の動き次第で二次災害が発生しかねないから、一層神経をつかうことになる。したがって、帰還時にはいつもよりも疲れているし、疲れているのだから少し気が緩んでいても仕方がないというものだ。
いうものだが、突然インカムから、
「ローソク出ーせー出ーせーよー 出ーさーないとー かっちゃくぞー おーまーけーにー噛み付くぞー」
なんて鼻歌が入ってきたときは、さすがに遊馬は突っ込まざるを得なかった。
「野明いきなりなんだよ」
「なんだよって、ローソクのうた」
「いや知らんし、なんでいきなりローソクなんだ」
「いやあさ、最近カレンダー見る余裕もなかったけど、もうすぐ七夕なんだなって」
野明の指摘に、そういえばもうすぐ七月七日だったと思い出す。大方、道の途中でどこかの家か商店街の笹飾りが目に入ったのだろう。しかしそれはともかく。
「で、なんで七夕でローソクなんだ」
「あ、そっか。内地の人は知らないんだよね」
「ローソクと七夕の話をか?」
「そ。ローソクもらい、っていうんだ」
インカムの向こうで野明の声が少しだけ跳ねた。
「うちのほうではね、七夕にローソクもって近所を回るんだよ。といっても八月の話だけど」
「あ、うちも旧暦です。といっても行事というより墓掃除の日でしたけどね。東京に来たら、本当に七月にやってるからなんか驚きました」
北海道は苫小牧と沖縄は旧暦で七夕を祝う、という新知識を得たところで、遊馬はさらに問いを重ねた。
「で、ローソクもって回って、……ってハロウィンみたいなやつなんか?」
「あーそうだねハロウィン、確かに似てるかも。みんなで浴衣を着てね、お菓子貰いにいくんだ」
「まんまハロウィンだな」
遊馬は見たこともない苫小牧の七夕を想像してみた。
少し寂れた街並みを、五人六人ほどの小学生たちが手にろうそくを持って、町をにぎやかに練り歩く。風流な光景なのだろうが、暗闇をろうそくの灯りだけで歩く子供の集団、という映像を思い浮かべてみたら、風流ではあるが、一方で本当に勝手な感想では、あるがどこかジャパニーズホラーっぽい。
いずれにしても、関東生まれ関東育ちの遊馬には無縁の光景で、それでなくても家や町の行事とは無縁に育った身からすると、それを素直に懐かしめる野明が、少しだけ羨ましく感じる。
「今日帰ったら飴やろうか?」
かすかな感傷からこぼれ落ちた言葉だったが、
「いいよ、だってこの前一緒に買いに行った飴でしょ」
という一言であっけなくもろもろ切って捨てられた
「ばれたか」
「あ、田舎の母ちゃんが送ってくれた黒糖、持ってきてあるんですよ。帰ったらそれ茶請けにしましょうか」
「わ、ひろみちゃんさすが!」
ひろみちゃんちの黒糖美味しいよねえ、とうっとりしたようにつぶやく野明に、遊馬はそれにしてもと呼びかけた。
「そんなに七夕が好きなら、いっそ二課に笹でも飾ればいいんじゃないか? 整備員のみんなとかも弦を担げるって喜びそうだけどな」
「笹ねえ……、実は、買っていこうかと思ったこともあったんだけどさ」
「でも?」
野明の声がちょっとだけ、小さくなった。
「南雲さんがさ、ちょっと、怒りそうで」
「あー、確かに。あの人真面目だもんな」
「怒らないと思うよ」
急に入ってきた四番目の男の声に、遊馬は見えてないとわかりながらもうっかり背筋を伸ばしてしまった。思えばインカムで話していたのだから、すべての会話は後藤にもすべて筒抜けなわけだ。
「なに泉、そんなに七夕、好きなの?」
「好きってわけじゃないんですが、いや、懐かしいっていうか、あはははは」
野明がマイクの向こうで笑ってごまかそうとしてる顔がありありと浮かんできて、遊馬はお疲れさん、と少しだけ同情した。
ちょうど車は環七に入り、あとは渋滞のなか歩くほうが早い速度でのろのろと動きながら、二課棟までひたすらに一直線だ。そんななか、後藤の、リラックスという意味を極めるだけ極めたようなのんびりとした声が一号機のクルー全員に届いた。
「この渋滞だし、せっかくだから買ってこうか。
泉、悪いけど適当なのみつくろってきて。丁度あそこの角に花屋さんがあるからさ。でもさすがに経費で落とせないからあとでレシート持ってきてな。俺の財布から精算するから。領収書はいらないぞ」
ああこの人本気だ。
遊馬はインカムに入らないように器用にため息をついた。後藤のこの柔軟を通り越した突飛で型破りな思い付きには、二年近く部下をやっているにも関わらず、賞賛したい一方でやっぱりなかなかついていけない。
バックミラー越しに野明がすばやく降りて、走って花屋に向かうのを見ながら、遊馬は本当に小さな声でつぶやいた。
「ま、いいか」
そんなこんなで、今日もよはなべてこともなし。
野明が買ってきた一メートル三十ほどの笹は、整備員たちによってあっという間に五色の短冊に彩られていく。それぞれが安全祈願やら家内安全を願うのを見ながら、「それにしてもおたくの隊長は相変わらず面白えな」と榊。
「まあ、面白いのは面白いですが」
「お嬢ちゃん、こんな梅雨時のじめじめして、絶え間なく仕事が入るときってぇのは、ちょっとした気晴らしだけでもリフレッシュが出来るってもんよ。非日常っていうのはそういうためにあるんだからな」
「はあ」
野明は遠慮がちに同意した。後藤が整備員はじめ二課の士気やリラックスのために笹を所望したとはあまり思えないからだ。
いや、野明は後藤の柔軟さや部下思いなところを良く知っていてかつ尊敬している、しているが、そこまで後藤のことを買いかぶっているわけではない。正確に言えば、底が知れないからどう反応するべきかわからない。
「で、嬢ちゃんはどんな願い事を書いたんだ?」
「あ、私はですね」
榊に短冊を見せると、彼はサングラスの下で柔らかく笑った、ような気配を醸し出した。
”次に来る新型機に負けないぐらい、アルフォンスと頑張れますように”
***********
七月の夕暮れは長く、書類を片付け、最後の点検をして、着替えて、「お先失礼します、お疲れ様でしたー」と同僚たちに手を振ったあともまだ外は明るい。
ただ、雨を含んだ重く黒い雲が空をみっしりと覆っていて、湿った空気と熱気がぎゅうぎゅうに詰まっているから、暮れなずむ街の切なさや気持ちよさといったものは全くないのだが。
東京での生活に不安や焦りはあっても不満はない野明ではあるが、夏だけはどうしても北海道が恋しい。さらっとした空気と晴れた空、上がりすぎない気温、とうもろこしにスイカにトマト、じゃがいもにかねひろのジンギスカン。あと、あのてかてかと光るゴキブリ。内地にいると聞かされていた、北海道では幻の虫は、去年の初対面のときに、例外なく野明の心にも謎の嫌悪感を植え付けていったものだ。
先を、さらにその向こう側を見ていたいと、常に前を見ている野明であっても、たまに郷愁が胸に満ちるときがある。七夕である今日はことさら。
とはいえ七月に七夕なんてやっぱいまいちぴんと来ないな。そんなことをつらつらと考えながら思いながらスクーターに乗ろうとしたところで、後ろから「帰りか?」と馴染みの声が聞こえた。
「遊馬も書類終わったんだ」
「俺は仕事が早いの」
「の割にはため込んでたけどねー。隊長から催促が来るなんてよっぽどじゃない」
「うるせー。思うに隊長、自分もため込んでるんじゃないか?」
「あ、それありそう」
二人は上司をネタに小さく笑い合った。
「遊馬は今日バス?」
「ああ、品川の焼き鳥やが出血大サービスで、今日から三日間ビール半額だっていうから」
「えー、私もバスで来ればよかった」
「ま、次の機会のお楽しみってやつだな」
「ちぇっ」
野明は自然とスクーターを押して、二人でバス停へと向かう。この東京の辺境まで来るバスは一時間に二本ほど。時計を見るに、あと十五分は遊馬は待ちぼうけということになる。野明は門番に敬礼を返しながら、なんとなく一緒にバス停のほうに向かった。
「どうした?」
「いや、なんとなく」
遊馬はさらに問い詰めることもなくふーんとだけ言って、「そういえば」と言葉を続けた。
「なに?」
「いやあさ、七夕のローソクもらいだっけ、どんな感じなのかって」
「気になったんだ?」
野明が思わず身を乗り出すと、遊馬はそこまで興味はないよという風に眉を片方上げて、
「気になったっていうか、ホラーっぽいっていうか」
「ホラーって、苫小牧をどれだけ田舎だと思ってるんだよ」
「高崎あたりなら立派にホラーになるぞ」
「やだなあ、これよりもずっと明るいところでやるんだもん。かわいいよ」
「明るい?」
きょとんとする遊馬にははぁー、となった野明は、シンプルに指をぴんと上げて、空を仰ぎ見た。
「遊馬はさ、最近天の川見た?」
「天の川ね……、そういや林間学校で見たぐらいかもしれないな」
「苫小牧は港湾があるしそこまで見事じゃないんだけど、でも天の川が見えるんだよね。星もぱぁーって広がっててさ、街灯もあるけどそもそも月が明るし。七夕って言ったら晴れてるイメージしかないんだ」
「ああ」
遊馬は納得したとばかりに、野明に釣られるように顔を上げ、空を見た。
関東生まれの関東育ちの遊馬にとっては梅雨の雨と七夕はセットだろうが、野明には違う。
夏の盛り、お盆で親戚が集まる前、さわやかな夜風に乗ってささやかな灯りをもって、月明りの下で子供だけのお祭りを楽しむものだった。あるいは高校生になったころには、店のお菓子の在庫から子供が喜びそうなものをより分けて、わくわくとした顔の子らに優しく手渡しするときの、あったかい気持ちであるとか。
東京は毎日どこかしらでお祭りがあるような街だから、七夕が曇っていても、次の楽しみがその雲を払ってくれるのだろうが。
――遊馬にも、見せてあげたい、かもしれない。
「七夕の日の天の川か……。そういや、見たことないな」
遊馬が空を見上げたまま、しみじみとつぶやいた。
「じゃあさ、見に来る?」
「は?」
遊馬は目を丸くして野明に顔を向けた。
「遊馬だってローソクもらい興味があるんでしょ?」
「興味があるっていうより、想像がつかないだけだ」
「興味はないんだ」
「ないとは言ってないだろ」
「ほら」
野明がにやにやと笑うと、遊馬は図星とばかり顔を赤らめて、「好奇心が強くてなにがわるい」としなくてもいい言い訳をする。そして、少しだけ真面目な顔をした。
「興味というか、お前が育った街、見てみたいかもな」
「苫小牧を?」
「ああ」
「火山しかないよ?」
「火山があるのか?」
「あるよ、温泉はないけど。あと湖があるけど、遊馬野鳥好きだっけ?」
「いや、特には」
「だよね。……でも、いい街だよ」
「……だろうな」
二人はしばらくバス停に佇んで、曇天を眺めていたが、やがて野明が空を見たまま口を開いた。
「遊馬ほんとにおいでよ、星空きれいだからさ。ローソクもらいのとき、案内したげるから」
「そうだな……前向きに検討しておく」
「ちょっとなんだよそれ」
「お盆のとき休みが取れるかっつうの」
道の向こう側に、バスの電光掲示板が見え始める。今年の七夕も、何も変わらず、幸いにも無事に暮れていく気配だった。
***********
なにやら第二小隊側のバンカーがにぎやかだ、と思ったら今日はずいぶんと趣のあることを。
五色の短冊がはためく様子を横目で見ながら、しのぶは階段を上った。第二小隊がなにかしらの行事でにぎやかになるのは、泉が配属された去年の秋から珍しいことではない。
第二小隊の窓辺に飾られた折り紙の小さなクリスマスツリーから始まり、ささやかな鏡餅、チロルチョコの大盤振る舞い(豆の片づけが面倒に違いない、という暗黙の了解のもと、節分はさりげなく無視されたようだった)、南雲さんがよければ、の一言で隊長室に飾られた桃の切り花、そしておやつのちまき。と、就職してからほぼ無縁だった四季折々の行事を、今年はさりげなく経験している。
仕事にしても折々の暮らしにしても、泉の何事も自然に受け入れ、そして人にふるまうさまはとてもしなやかで、しのぶの目には時に危なっかしいとも、時にまぶしいとも映るのであった。
それにしてもこれまでの規模から考えても今回の笹の立派さときたら。
恐らくは同僚が噛んでいるのだろうと踏みながら隊長室を開けると、果たしてそこには短冊を書いてご満悦な男の姿があった。
「あの笹、あなたの発案?」
「あ、しのぶさんも見た? 売れ残りにしては立派なの残ってたよね」
特に悪びれることもなく後藤はしのぶの問いを肯定する。
帰還したあとに後藤がいれたのか、サーバーのコーヒーは幸いにもまだ煮詰まっていないようだ。自分の分を入れながら、一応釘だけは差すことにした。
「立派って、外から見られたらどうするの」
「新型機とか入れるときのお祓いと違って宗教色薄いから、平気だって」
「うるさい人はうるさいわよ」
「ここまでわざわざ何かをチェックしにきてご丁寧に警察に苦情入れるような暇な人のために、俺の私費で買ったから大丈夫」
「それはずいぶんと大盤振る舞いなさったこと」
席に座りながら感心すると、「まあね」と返ってくる。そのトーンにしのぶは思わず後藤の方を見た。
後藤はしのぶの無言の問いをくみ取ったのか、しのぶの顔をちらりと見てから、曇天を眺めるようにして一言、
「厄払い、しておきたくて」
しのぶは言われて合点がいった。
「…そうね、大事なことだわ」
第二小隊を襲った黒い悪夢。いまだ野放しということは、あの黒いレイバーはいつかまた、現れるかもしれないのだ。
軍事用にしては華奢なフォルム、恐ろしく俊敏で、そして行動に一切の躊躇がない。まさに伝承にある悪魔のようなあの化け物は、第二小隊のみならず二課を、そして警視庁そのものを揺さぶり、大きな爪痕を残していった。次に相手をするのは自分たち第一小隊かもしれない。
たとえ部下たちが精鋭ぞろいで、待ち望んだ最新機種が配備される予定が立ったとはいえ、果たしていざ対峙したときには相手を制圧し、そして逮捕出来るのか。部下たちへの信頼と自分の隊への自信はあっても、心の奥に秘めた本音のところでは確信は持てない。決して表には出せないが。
そして、普段は煙に巻くような態度で本心を隠しているが、実は相当な自信家であるこの同僚も、あの事件については内心で挫かれ、頭を抱えているのだろう。
部下たちの命あっての物種、というのも本音なら、次こそどうやってあれを罠にかけ、追い詰め、そして逮捕出来るかを虎視眈々と狙う、かつてカミソリとあだ名された男の昏い炎もまた、彼の中に強く、そして静かに燻っていることも確かなように、しのぶには感じられた。
だから、しのぶは黙って後藤の机から短冊を一枚頂戴して、ついでにそこにあったマジックで一言、「地平天成」とだけ記した。
「書経か、いいね」。後藤はしのぶの書いた短冊を手に取り、まんざらでもないという風に笑う。そういう後藤は「光風霽月」と書いていて、それは警官としての意気込みを超えて、自身への叱咤のようにも受け取れる文言だった。
しかししのぶはそこには触れず、「で、ご自身の願いは書かないの? 競馬でどんどん勝てますように、とか」と、あえて話を明後日の方へと向けた。後藤もしのぶの言葉に乗るように、いつもの顔でにやりと広角をあげて、
「後で書きますよ。とっておきのをね」
「後藤さんのとっておき、ね」
「そう、とっておき」
後藤はコーヒーをお代わりするのか、マグを持って立ち上がった。が、手にそれを持ったまま、窓際で一回立ち止まり、ささやくぐらいの声でそっと吐露する。
「例えば、大事な人と二人で過ごせますように、とか。……それこそ嵐のとばっちりでもいいからさ」
恐らくは聞こえなくてもいい、聞こえない方がいいほどの、きわめて繊細な場所にある、切実なものをそっと開示したような。そんな響きだった。
普段ならしのぶの耳に届いたかどうか。しかし、彼女はそれを耳にし、そして思わず立ち尽くした。あまりにも実直な色がそこにあったからだ。さらには、きっと、恐らく――
その時、後藤がくるりと振り返った。すべての青い錆めいた影はすべて彼の心の中にしまわれ、代わりにあのいつもの人を食った目でしのぶに笑いかける。
「なんて、ね。それくらい恰好つけて書いたら、多少は二課の人も盛り上がってくれるでしょ」
「……まったく、そうやって部下たちをからかってばっかりいると、最後には呆れられるわよ」
あえてしのぶが後藤の言葉に乗ると、彼はどこかでほっと力を抜いたようになり、
「それは困るなあ、これ以上尊敬されなくなったら、士気にもかかわってくるから、じゃあやめとくわ」
「そうなさい」
しのぶは同僚に有益なアドバイスをしている風に続けた。「それに、本当の願いは胸に秘めておくものよ、でしょ」
「――しのぶさん」
「……なあに?」
真面目そうな低い声に思わず眉を寄せながら後藤を見ると、彼はそのトーンと雰囲気を維持したまま、
「世界児童文学全集とか、何度も読破したタイプでしょ」
純粋だよね、と言わんばかりに指摘してきた後藤に、だからどうしたとしのぶは強く睨み返した。確かに児童文学はいまのしのぶの血となり骨となった礎のひとつではあるが、児童文学は大人になってまたしみこんでくる、とても強い物語なのだ。
「あなたは子供のころから背伸びしたものばかり読んでたから、それだけ詭弁が立つとでも言ってほしい?」
「いや普通にサンデーとマガジンとジャンプで育った悪ガキだったよ。じゃ、この短冊、ちょっと飾ってくるから」
ひょいとしのぶの手から短冊をつまみ上げた後藤は、いつもの調子で、短冊を二枚ひらひらとさせて出ていこうとする。その後藤の背中に、しのぶは「あ、そういえば」と声を掛けた。
「なに」
「もうあの書類出した? ほら来月の、研修の間の隊長代理の委任のやつよ」
「あ、軽井沢のあれ。ねえ、行かなきゃいけないのかなあ、やっぱ」
「後藤さん」
厳しい声で叱咤すると、犬が責められたときのような顔になって、
「だって、行ったところで身にもならないし、しのぶさんと違って俺警部補で充分だし、なら首都の治安に少しでも貢献したほうが、ねえ」
後藤の本庁嫌い、そして本庁の人間に会うからというだけで研修を避けようとするところはしのぶもよく知っている。しかし駄々っ子のように自分に訴えられても残念ながら甘やかすわけにはいかないし、甘やかすつもりはない。しのぶは冷ややかな目で後藤を一瞥した。
「人を出世の権化のように言わないでちょうだい。あと別にいいのよ、あなたは好きに欠席すれば? 出席は義務なんだから、後でなにを言われても私は知らぬ存ぜぬで過ごさせて頂きますが」
「いや、行きます、行くけどね。でもさあ、しのぶさんだってうんざりしてるんでしょ、毎回」
「それはそれ、仕事は仕事です」
澄ました態度でいうと、後藤は全く真面目なんだから、とぶつくさつぶやいた後に、はいはいとおざなりな返事をしてきた。これで昔は本庁にこの男ありと言われたというんだから、一体どれだけ優秀で、ゆえにその存在だけであらゆることを許されてきたというのだろうか。それともすべてを卒なくこなすだけの野心があったというのか。いずれにしても、後藤という人間は相変わらずつかめない。
そのわからない後藤はああ、と突然声を上げて、
「そうだ、新幹線の切符も取ってないんだった。しのぶさん、電車?」
「私は車よ。環八から関越に乗ればいいのに、わざわざ東京まで出るのも面倒でしょ」
「だよね。じゃあ、今日中に出しておくから、いや、本当に」
後藤は行く前から疲れたと言わんばかりに手をひらひらと振って、それじゃあ、と今度こそ隊長室から出ていった。
そうしてまた一人になった部屋で、しのぶはしばらく夕日を浴びて立ち尽くしていた。
かつてこの部屋で半年ほど一人で働いていたときには予想も出来なかった大きな変化を、後藤と彼が率いる第二小隊はもたらした。それは二課のみならずしのぶ自身についてもそうだ。
散々耳にした悪評と、畏怖のもとに語られる人間像。
遠い昔、まだ若く、女性だからこそ出世と功績を渇望していた本庁時代に、ほんの何度かだけすれ違ったときに感じた底冷えするような酷薄な空気。そしていま、同僚として接していて感じるのは、腹も立つし海に投げ込みたいと思うのもしょちゅうだが、度量があり辛抱強く、そして人に優しく人が好きで、なによりただ純粋に仕事が好きということがわかる男の姿だ。とはいえかつての男が消え去ったとも思えず、果たしてどれが本当の彼なのか、しのぶには皆目見当もつかない。
ただ、しのぶがこれまで付き合いがあったどの人間よりも優秀なのは間違いなく、本庁で名を知らぬものはいないとまで言われた敏腕である後藤喜一が自分に信頼を寄せ、バックアップを託してくるのを、しのぶはいつしか誇りに感じていた。
そしてしのぶも、うさん臭いだらしないと評しながらも、後藤に対して大きな信頼を寄せている。実際、第一小隊が出ているとき、後藤からもたらされるちょっとした情報により、いっそう仕事がスムーズに進むことも珍しいことではない。そうして、気が付けば、互いに不言不語でも動ける関係を築き、同時に人間として尊敬し合える友人を得ることが出来たのだ。もっとも、後藤を信頼しているという事実を納得することは、どこか悔しく感じるのだが。
ただ。
しのぶはそっと後藤の席へと寄っていき、もう体温も消えた椅子の背もたれにそっと手を寄せた。
その誇りを含んだ自分の感情が、果たしてどこに向こうとしているのか、しのぶにはうっすらと見え始めている。
タバコを吸う男も、人を利用するような男も、どこかに冷淡を抱えているような男も、決して好みではないし、いままでは受け入れることすらなかったのに。
なによりも。しのぶはそっと目を閉じた。
しのぶには、後藤がわからない。
信頼はしている。しかし、その信頼している男は、本当に後藤という男の本当の姿なのだろうか。
例えばたまにああして、人を口説くような、あるいは懇願をするような、そんなそぶりをみせてくるが、それが本心なのか、ただからかってきているだけなのかもわからない。
そもそも友人と名付け、呼んでみたところで、しのぶは後藤のことをなにも知らないのだ。
例えばどんな本を読んできたのか。
どんな風景を見て、どこを旅してきたのか。
――どんな風に人を慈しみ、そしてどのように触れるのか。指は乾いているのか。皮膚は硬いのか。寝息はどのような音なのか。
たまの雑談で、まるで誘導尋問をするかのように、後藤はしのぶ本人のことを聞いていく。そのくせ、後藤は自分のことを一つも寄越さない。ともに働き始めたころこそ本当に興味がなかったからだが、二年以上たった今も、しのぶはあなたの私生活には一切興味がありません、という態度をとり続けている。そうでないと、なにも相手に渡さない、明け渡さない後藤の態度に勝手に疲れてしまうかもしれないから。
今の、互いを人間として尊敬し、同僚として尊重しあうだけの関係があまりにも理想的だから、このままでもいいのではないかとしのぶはよく考える。しかし、そうすると、あの男がその決意を揺さぶってくる。そう、さきほどのように。
「……とっておきなんて、後にもさきにも書くつもりもないくせに」
しのぶはそうひとりごちて、そっと椅子から手を離した。そしてもう一杯のコーヒーを欲する。そろそろ煮詰まり始めた濃いコーヒーは、制服を着てるときには相応しくない気持ちに区切りをつけてくれるに違いない。
そうして机に向かおうとして、しかししのぶはもう一回だけ振り返って、さっき後藤が立っていたあたりに目をやった。先ほどの残像を目に浮かべて、声にはしない言葉をそっと口にする。
例えば、大事な人と二人で過ごせますように、とか。それこそ嵐のとばっちりでもいいからさ
それがあなたの本心の願いだとするなら。
なら、二人で過ごしているそのときに、声にならなくてもいいから、あなたの本心が、私に伝わりますように。
――なによりも、その「大事な人」が……。
「なんてね」
わざと声に出して、しのぶは今度こそぐるぐると回る思考を断ち切って、今日の分の書類を完成させるべく自分の机へと戻っていった。
嵐がすべてをかき混ぜて素顔を晒していくのは、あとほんの少し後のことだ。
そのことを、まだ誰も知らない。