花を贈る 2月14日。毎年あまり意識していなかったその日は、今年から特別な意味を持つ日になった。
ラファエロの腕の中には大きな花束がある。わざわざ衣服で肌と甲羅を隠して街まで買いに行ったものだ。下水道には似つかわしくない華やかな香りが鼻腔をくすぐった。
2月14日。特別な相手に贈り物をする日。ラファエロにとって、ドナテロは特別な相手になった。何を贈ればいいのかあれこれと頭を悩ませて、結局花束に行きついた。これで正解なのかはわからない。バクバクと鳴る心臓とともにドナテロの部屋に辿り着く。ノックをすれば返事があり、一つ大きく深呼吸をしてドアをくぐった。
「やあラ、ファ……」
ラファエロを迎えたドナテロの瞳が丸くなる。両手で抱える大きさの花束は、どうしたって真っ先に目に入る。
「……これ」
ずい、と花束を突き出す。何か言おうとしていたのに緊張で吹き飛んでしまった。事態を把握したドナテロは、何故か小さく肩を震わせていた。
「あの、これ……バレンタインのプレゼント?」
こくこくと頷くと、ドナテロは耐えきれないとばかりに噴き出した。
「あはっ、あはははは!大きすぎだろ!新装開店のお祝いだよこれ!」
「な、このやろ……!」
カチンときた。確かに勢い余ってかなり大きい花束を買ってしまった自覚はあるが、こうも大笑いされると腹が立つ。
思わず花束を放り出して、拳骨をプレゼントしてしまった。
そんな出来事も懐かしい思い出に変わりつつあった。恋人という関係になってはや数年、最初のぎこちなさも薄れ、手を繋ぐことも唇を交わすことにも、いちいちお互い真っ赤になることはもはや無い。
2月14日は、お互いにちょっとした菓子を贈り合う日になった。それぞれ用意した菓子をつまみながら、静かな時間を過ごす日。今年もまた、綺麗にラッピングされた焼き菓子を持ってドナテロの部屋を訪れる。
「……いねえし」
呼んでおいて不在とは。どうせ新しい発明か研究に夢中になって時間を忘れているのだろう。いつものことだと溜息を吐いて、一足先に椅子に腰かける。詫びに飲み物はドナテロに用意させることにしよう。
さっぱり内容のわからないサイエンス誌を眺めるのにも早々に飽きて、部屋をぐるりと見渡す。相変わらず本や機械や薬品が所狭しと部屋を埋め尽くしている。時々とんでもない発明品が無造作に転がされているので、うっかり触ってはいけないと経験から学んでいるラファエロだった。
「……ん?」
ふと目をやった床に、目を引く色彩があった。ベッドの下に潜んだ箱の中から、淡い紫色のリボンがはみ出している。蓋を閉めるときにうっかり蓋と箱の間にリボンを挟んで気付かなかった、そんな光景が浮かぶ。
「んんー?」
うっすらと見覚えがあった。箱をベッドの下にひっそりと置いてあるのは、おそらくあまり人目に付かせたくないからだ。
数年前はもっと容赦も遠慮もない兄弟だったが、さすがに年齢を重ねて気遣いというものも身に付いてきた。隠しているであろう箱を無遠慮に暴いてしまうのはどうなのか。
けれど、柔らかな藤色のリボンはやけに興味を引いた。記憶の端に引っかかっている既視感をすっきりさせたかった。
「…………」
好奇心と良心がせめぎ合い、好奇心が勝った。バレなければ良し、の精神で箱に手をかける。
蓋を開いて目に入ったのは、鮮やかな色彩だった。
「──え?」
あの日ラファエロが抱えていた花が、そこにあった。
箱の中で、さらに花々は透明なケースに守られていた。量こそ片手で治まる程度の本数に減っているが、間違いなくあの時ラファエロが買ってきた花束だ。包装紙とリボンは傍らに添えられている。
何かしらの保存加工をされているのだろう。さすがに生花よりも色は褪せているものの、充分に在りし日の鮮やかさを思い出せる姿だった。
花は枯れるものだ。わざわざ保存のために手を加えなければこの花束はここにはない。そして、誰がそうしたかなど考えるまでもないことだった。
「……んだよ、あんだけ笑ってたくせに……」
口の端が緩むのを止められない。胸の奥からこみ上げてくる何かが、体の中で跳ね回っている。今すぐこの感情に任せてドナテロを抱きしめたかった。
改めて思い返しても大きな花束だった。今より幾分小さかった身体であれを抱えて部屋に入ってきたのだから、さぞ面白い絵面であったろう。当時の自分がどれほど浮かれていたかを思い出していたたまれない気持ちになる。そして、この花を加工までして保存したかつてのドナテロの姿を思うとたまらなくなった。
包装紙やリボンとともに、一枚のカードが置かれていた。これにも見覚えがある。花束に添えたメッセージカードだ。
想いが実り、ドナテロと心が通じて初めてのバレンタイン。何か気の利いたことを書きたくて、こんな時くらい素直に言葉を伝えるべきかと悩み、結局うまく言葉が纏まらず、ただ「これからもよろしく」とだけ書くのが精一杯だった小さな紙切れ。
少しばかり色褪せたそれは、花束と同じく大切に仕舞われていた。
「あー……くそ」
目の奥が潤んで熱を持つ。ぎゅっと瞼を閉じて、溢れそうになる雫を押しとどめた。
箱の中身に心を奪われて時間を忘れていた。すぐに蓋を閉じて何食わぬ顔でドナテロを待つつもりでいたのに、花束の前で感極まってしまっていた。──なので。
「ごめんラファ、待たせちゃったね……あれ?」
帰ってきた部屋の主に、何もかもバレてしまったのである。
ドナテロの視界に入るのは、暴かれた箱とその中の秘密。優秀な頭脳は一瞬のフリーズの後、即座に事態を把握したらしい。さっと身体を翻し部屋から逃げ出そうとする背中に、忍者として鍛え上げた疾風のごとき身のこなしでラファエロが飛び掛かる。その勢いのまま部屋の真ん中にドナテロを引き倒した。
「う、ううう、放せぇ……!」
ラファエロに抑え込まれたドナテロはしばらくじたばたと暴れていたが、やがて諦めたように手足を投げ出した。
往生際悪くそっぽを向く赤い顔を覗き込んで、その唇を奪う。唇だけでは足りなくて、頬や額にも次々とキスを落とした。それでも治まらずに手を取って指先に口付けたところで、とうとうドナテロから制止がかかる。
「ま、待って、もういいって……」
「足の先までしても気が済まねえよ」
誇張でもなく、心からそう思う。感情が溢れ出してドナテロに触れずにはいられない。見下ろした顔は真っ赤に染まって、すっかりたじろいでいた。最近では珍しいほどに狼狽えた表情に、思わずにやついてしまう。
「わ、笑うなよ!ああもう、最悪だぁ……」
「俺様は最高の気分だけどな」
再び唇に口付けを落とす。頑なにきゅっと引き結ばれた一文字は、ドナテロが張れる最後の意地だった。