或る男の幸福について(web再録) それは、サリエリが12歳の時だった。
隣の家に人が越してくるという。 住宅街の片隅、少しばかり古風な邸宅がぽつぽつと並ぶ一角。その一つがサリエリの自宅だ。
物心ついた頃から隣の家は無人だった。以前の住人が残したらしい花壇は、当たり前だが手入れがされていない。しかし植物とは逞しいもので、雑草の合間に四季折々の花が凛と咲いていた。二階にあるサリエリの部屋からは花壇がよく見えて、逞しく咲き誇る花々はひそかな楽しみだった。誰かが引っ越してくるならば、花壇を大事にしてくれる人がいい。そんなことを思った。
数日後、隣の家には荷物を積んだトラックがやって来ていた。
どんな人が来るのだろう、と好奇心が疼く。自室で楽譜を広げながら、ついつい意識は窓の外に向かってしまう。
「集中しないと」
ぺちん、と両頬を軽く叩いて姿勢を正す。意識して目の前の楽譜に集中すれば、次第に隣家のことは思考から抜けていった。
それが聞こえたのは、どれほど時間が経ってからだろうか。
――歌が聴こえた。
軽やかで楽しげな声だった。
誰でも知っているような古い童謡だ。耳に馴染んだ聴き慣れた歌のはずだ。声楽を学んでいるサリエリは、もっと卓越した歌唱力の人間だって知っている。
なのに、その歌声はサリエリの心を鷲掴みにした。
まるで夜空にきらめく星のような音楽がそこにはあった。
「どこから――」
たまらず歌声の主を探す。窓を開けば、歌はすぐ下から響いていた。
いつもサリエリが見ていた荒れた花壇の縁に、小さな影が腰掛けていた。
「――ぁ――……」
天使がいる、と思った。
星の光を束ねたような金髪に、新雪を思わせる白い肌。長い睫に縁取られた瞳は芽吹いたばかりの若葉の色をしていた。
「きれいな子……」
思わず見惚れてしまい、慌てて我に返る。頬がひどく熱かった。きっと真っ赤に染まってしまっている
サリエリよりもずっと幼い子供だ。小さな身体を左右に揺らして、花びらのような唇からその歌声はあふれていた。
やがて歌が終わる。サリエリは思わず全力の拍手を贈っていた。
頭上から響いた拍手に、淡い緑が上を向く。大きな瞳がサリエリを捉え、きょとんと丸くなった。
目が合っている。それだけで鼓動が跳ねた。
丸くなった瞳が弧を描いて、子供が無邪気に笑う。屈託のない笑顔に、息をすることすら忘れて見惚れた。
子供が立ち上がり、年齢に不釣り合いなほど堂に入った一礼をしてみせる。
君の名前は?引っ越してきた子なのか?何か音楽を学んでいるんじゃないか?言いたい言葉は山のようにあるのに、何から言えばいいのかわからない。頭の中がぐるぐると渦巻いている。ただひたすらに脈打つ鼓動がうるさい。
「あの、えっと――……」
隣家から誰かを呼ぶ声がして、子供はその場を離れていく。去り際に振られた手のひらに振り返すのが精一杯で、結局に何も話せなかった。
その後はもう、あの子供のことで頭がいっぱいだった。歌声に、笑顔に、心臓を掴まれたような心地だった。
どうすればあの子と関わりを持てるだろう。数日間に渡って悶々と続いた苦悩は、ある日あっさりと終わりを告げる。
「――だから、今日はこの子と一緒にいてあげてね」
サリエリの家のリビングに、あの子供が招かれていた。
いつの間にか親同士が親交を持っていたらしい。今日一日あちらの両親が留守にするため、サリエリ宅で面倒を見ることになったという。ちなみに隣家にはサリエリより1歳下の娘もいるらしいが、彼女は友人の家で世話になるそうだ。
突然の事態にしばし固まっていたが、きょとんとこちらを見る新緑色に我に返る。済んだ緑に高鳴る鼓動をどうにか落ち着ける。屈み込んで、目線を合わせ口を開いた。
「こんにちは。俺はアントニオ」
「アントニオ?」
「うん、アントニオ・サリエリ」
「えっと、僕はヴォルフェル……あ、じゃないや、ヴォルフガング……アマデウス・モーツァルト」
差し出された小さな手を握って握手を交わした。幼い子供の手は柔らかくて、壊れ物に触れているような心地がした。
「ね、アントニオは楽器弾くの?」
紅茶のカップに添えられていた指が、リビングテーブルの端を指す。指し示された教本は、確かにサリエリの持ち物だ。うっかり仕舞い忘れていたようだ。そわそわした様子で見つめてくるヴォルフガングに、素直に頷く。
ヴォルフガングが使い込まれた本を手に取った。ぱらぱらと目を通し、「どの曲が好き?」と問いかけてくる。先程から妙にうきうきとした様子だ。彼も音楽をやっているのだろうか。
「この本だと……これが好きかな」
「弾いてみて!」
「へ?」
ぱあっ、とヴォルフガングが笑った。ぐいぐい手を引かれ、早く早くと急かされる。急なことに戸惑うが、楽しそうに声を弾ませる少年の姿に、まあいいかと絆される。
楽器の置いてある部屋に二人駆け込んで、小さな客人に椅子を勧める。ヴァイオリンを手に一礼して、ささやかな演奏会が始まった。
一曲終えると、拙くも懸命な拍手がサリエリを迎えた。演奏している間はそちらに集中していてヴォルフガングの様子がわからなかったが、満面の笑みで拍手を贈ってくれる様を見ると喜んでもらえたらしい。
「どうかな」
「いいと思う!」
ニコニコと笑うヴォルフガングにサリエリの顔も綻ぶ。
この子は音楽が好きなのだ。サリエリが音楽を愛しているのと同じに。ヴォルフガングと同じ想いを抱いていることが嬉しかった。
「君も何か弾く?」
問うと、弾けるような歓声が返ってきた。
ちょうど、サリエリが幼い頃使っていた小さいサイズのものが仕舞ってあるはずだ。取り出してきて使えるように手を入れて、ヴォルフガングに手渡す。捨てるのが忍びなく思い出の品として取っておいたものだが、もしかしたらこの日のために残していたのかもしれない。そんなことを考えるほど、ヴァイオリンを構える少年の姿は美しかった。
そして、白い指が音を奏でる。
聞いたことのない曲だ。音の一つ一つが華やかで、きらきらと輝いている。装飾過多なのに嫌味にならない。ただただその美しさに圧倒された。
曲が終わり、ヴォルフガングが細く長く息を吐く。伏せられた睫と薄い笑み。その顔がヒトならざる神聖なものに見えてぞっとした。
「えへへ、どうかなアントニオ」
一転、少年の表情は人懐っこい笑みに戻る。それでようやく、サリエリは現実に戻ったような気がした。この世ではないどこかに放り込まれたような錯覚があったのだ。
「その、曲は……」
「これ?僕が作ったんだ。まだ途中だけど――わあっ」
衝動のまま、小さな身体を抱きしめる。そうでもしないとこの激情が心臓を突き破ってしまいそうだった。
「君は、すごいな……」
「パパもそう言うんだ。僕は天才だって」
天才。確かにそうだろう。しかし、天才などという言葉でこの才が収まるのか。この少年は、神が音楽のために地上に遣わした使徒なのではないか。
アマデウス。神に愛されたもの。確かにその言葉は彼にふさわしい。「アマデウス……」
呟いた声はひどく熱っぽい。
先程の音色が頭から離れない。サリエリの演奏に小さな手で懸命に拍手していた姿も、最初に会った時に見せた無邪気な笑顔も。なにもかもがぐしゃぐしゃに混ざり合い、サリエリの奥底に根を張った。
この感情が、その言葉の枠に収まるのかはわからないが。
その日、サリエリはアマデウスに恋をした。
「ママがね、今日はお泊りしていいって!」
あの日以来、サリエリとアマデウスは友人として付き合うようになった。アマデウスにとって、親しいもののいない新しい土地で音楽の話ができる相手は貴重だったのだろう。
彼の両親は息子への音楽教育にかなり力を入れているらしい。出会ったときの見事な一礼は、既に何度も演奏会などに参加して身に付いたのだという。
故にアマデウスは6歳年上のサリエリと対等に音楽について語り合うことができた。どころかサリエリすら追い越してしまうこともあり、負けじとサリエリはより一層勉学に励むようになった。お互いに良い刺激になっている。
「ね、ね、アントニオ」
サリエリのベッドの上で、我が物顔で寝そべる小柄な身体。付き合ううちにわかってきたが、この少年は天使のような外見とは裏腹にかなり奔放だ。そのくせ音楽に触れている時は外見どおりの神聖な空気を纏うのだから、どちらが本当の姿なのか。
「これ、新しく作ったんだよ」
アマデウスがひらひらと楽譜を振る。いそいそと受け取り目を通すサリエリの肩に、背後からちょこんと丸い顎が乗せられた。
「これ一緒に弾こうよ。……アントニオ?」
「あ、ああ……ごめん」
楽譜に見惚れていた。曲としての美しさも勿論だが、端々に残る何度も書き直した跡が愛おしかった。アマデウスは、決して才能だけの人物ではない。
「明日ひま?」
「ううん……午後のレッスンの後なら」
「じゃ、僕のおうちに来てね。この曲弾こうね」
機嫌を良くしたアマデウスがころころと笑う。触れ合う頬と頬に、今更ながらサリエリの鼓動が早くなった。
アマデウスへの恋心を、サリエリは持て余していた。というのも、まだ12歳のサリエリには具体的なものが見えていない。誰かに恋をしたとして、その後はどうすればいいのだろう。今はただ、二人楽しく過ごせている現状で満足なのだ。
翌日、約束どおりサリエリは隣家を訪ねた。もう馴染んだもので、アマデウスの家族も気安くサリエリを迎えてくれる。
ピアノをはじめ楽器類が置かれているのは、例の花壇に面した部屋だ。サリエリの私室の窓とちょうど向かい合う位置に窓があり、時折開いた窓から音色が聞こえてきていた。アマデウスの奏でる音が聴こえてくるたび、サリエリは手を止めて聞き入ってしまう。向こうもサリエリに聴かせるつもりで窓を開けている節があった。
アマデウスの私室は別にあるが、ほとんどこの部屋で過ごしている。覗いてみれば案の定、ピアノの前に腰掛けて楽譜をセットしている最中だった。
「君の足音がしたから」
用意された楽譜は昨日のものだ。アマデウスが座る位置をずらし、サリエリを招く。
隣に座るサリエリに満足げに頷いて、アマデウスの指が鍵盤を叩き始める。合図もなく始めるのもいつものことだ。小さく嘆息して、サリエリも演奏を開始した。
アマデウスの奔放な音色を支えるように音を紡ぐ。奔放に踊りながらも整合性を失わないアマデウスの演奏に、サリエリはついていくだけで精一杯だ。
ほんの少し胸の奥が痛む。追いつけない。どうしようもない断絶が、そこに聳えているような気がした。 追いつけないのなら、なおさら追わなければならない。
止まってしまえば離れていくばかりだ。アマデウスが、見上げることすらできない高みに行ってしまうのは嫌だった。額に浮く汗を振り払いながら、奥歯を噛み締め必死に指を動かす。隣のアマデウスが、何故か笑みを深くした。
「は……っ」
最後の一音まで駆け抜ける。どっと気が抜けて、心地いい疲労感が全身を包んだ。深く息を吐き天を仰ぐ。
「たのしかった?」
首をかしげてアマデウスが問う。そんなもの、サリエリの演奏を聴けばわかるだろうに。
「楽しかった」
「僕も!」
か細い腕でぎゅうっとハグをされた。まろい額に薄く汗が浮き、髪が張り付いている。そっと指で払ってやると、サリエリを真似て稚い仕草でこちらの前髪を払ってきた。
すとんと、ひとつの思いが胸に落ちてくる。
アマデウスとこの先どうなりたいのか。ずっとこうして、傍で過ごしていたい。ずっと隣に立つために必要なものは何だろう。
「ん?」
視界の端に、二つ並んだ熊のぬいぐるみが映った。楽譜や本の納まった棚の一角にちょこんと座っている。片方はタキシード、もう片方はウエディングドレスを着ていた。
これだ、と思った。思ったのである。幼い少年には最もわかりやすい、一人と一人がずっと傍にいられる手段だった。
「アマデウス」
抱きつく身体をそっと離して、しっかりと目を合わせる。
「大人になったら、結婚してほしい」
アマデウスは目を見開く。それから、弾けるように笑い、
「いいよ!」
そう言って、頷いたのだった。
サリエリの背後でメールの着信音が鳴った。サリエリの携帯電話ではない。振り返れば、我が物顔で他人のベッドに寝転がる少年がいた。
「マリアからだ」
少年は綻ぶように笑い、白い指を器用に動かして返信を打ち込み始める。シーツに長い金髪が広がっていた。
13歳になったアマデウスは、あいも変わらず整った容姿をしていた。そのくせ中身も変わらず奔放で無邪気で、たちの悪いことに歳相応の生意気さも備えている。
例えば、もう夜も遅いのに隣人の部屋に入り浸って帰らなかったり。「アマデウス、帰れ」
何度目かわからない台詞を口にする。
「いいじゃん。泊めてくれよサリエリ」
こちらも何度目かわからない台詞。聞こえよがしに溜息を吐くがアマデウスには効かない。
何か家に帰りづらい事情があるならもちろん泊めてやるが、これは単に動くのが面倒になっただけだ。完全にサリエリのベッドでこのまま寝る気である。
いつのまにか、アマデウスはサリエリを「サリエリ」と呼ぶようになった。理由を聞けば、このほうが響きが好きだと言う。それだけの話だった。呼び名が変わったところで関係性が変わることもない。
そう、二人の関係は何一つ変わっていない。変わらず、よき友人である。
あのプロポーズの後、暫くしてサリエリは我に返った。勢いでプロポーズなどしてしまったが、アマデウスはまだ6歳の幼児だ。結婚という言葉の意味も理解せずに頷いたのではないか。そう思ってしまうと、もうこの件を蒸し返す気にはなれなかった。蒸し返して、アマデウスがサリエリの恋心を正しく理解した時――友人としてすら傍にいられなくなるかもしれない。そう思うと、もう何も言えなかった。
サリエリの考えは正しかったのだと思う。アマデウスは自身に向けられた感情を理解していなかったのだと。
そうでなければ、自分に情を向ける男のベッドで安心して眠ることなどしないはずだ。
「……まったく……」
携帯を握り締めたまま大の字で眠りこける少年を見る。穏やかな寝顔は、ここが彼にとって安心できる場所だという証だ。
サリエリの恋心は未だに宙ぶらりんのままだ。到達点を見失い、胸の中でぐるぐると彷徨っている。
けれど、このままでいいのではないか。彼が信頼し、安心できる年上の友人のままで。
アマデウスにそっと毛布をかけて、自身は部屋の隅のソファに横たわる。隣で寝ればいいのに、とアマデウスは言うが、昔はともかく立派な青年となった今は無理な話だ。辛抱できずにアマデウスに手を出してしまう――なんてことはなく、単純に二人寝るにはベッドが狭いのだ。
その日は雪が降っていた。ノートにペンを走らせていた手を止め、時計に目をやる。
「少し休むか」
随分長い間机に向かっていたようだ。ぐっと伸びをして、飲み物と軽食でも摂ろうと部屋を出る。
サリエリは今、音楽教師を目指していた。現在通っている音楽大学で、将来的には教鞭を振るいたいと考えている。そのためにも勉学には真剣に取り組む必要があった。
戸棚から焼き菓子を取り出して、沸かした湯をティーポットに注ぐ。茶葉の抽出を待っている間、手持ち無沙汰に窓の外を眺める。白い雪が音もなく降り続いていた。
雪の積もった街道に、見知った姿を見つける。
「……アマデウス?」
雪の中を歩く姿に、思わず玄関を飛び出していた。アマデウスはつい先日まで風邪をこじらせて寝込んでいたからだ。
「アマデウスっ」
「ん、サリエリ?どうしたんだよ」
「病み上がりなんだぞ。出かけるならもっと暖かくしろ」
コートと手袋は身につけていたが、白い首は剥き出しだ。飛び出す際に反射的に掴んでいたマフラーを巻きつける。
アマデウスはあまり体が丈夫ではない。巷で風邪が流行れば必ず寝込んでしまう子供だった。つい心配してしまうのも仕方がない。
「君こそ上着もなしに外に出るなよ。それこそ風邪引くぜ」
「すぐ家に戻るさ。どこか行くのか?」
「うん、マリアに会いにね。1日泊まってくるよ」
小さな旅行鞄を掲げてアマデウスが笑う。
「そうか。気をつけてな」
「ん、行ってきます」
彼がマリアと呼ぶ少女は、ここに引っ越してくる前からの友人らしい。長期休暇にはこうやって度々会いに行っていた。
彼女がアマデウスにとって特別な少女であることは言動の端々から読み取れた。それとなく好意を抱いているのかと聞いてみたことがあるが、「特別だけど、そういうのじゃない」とあっけらかんと返された。ひそかに胸を撫で下ろしてしまったことは記憶に新しい。
けれど、いつかはアマデウスが誰かと恋に落ちる日が来るだろう。その時何のてらいもなく祝福できる気はしなかった。
「っ……」
さすがに身体が冷えた。腕をさすりながら屋内に戻る。
抽出しっぱなしの紅茶は、苦くなってしまっていた。
雨の音は好きだ。ざあざあと降り続ける雨音は心を落ち着かせてくれる。
とはいえ、わざわざ雨の日に雑誌を買うべきではなかった。はやる気持ちのまま手に取ってしまい、濡らさないように気を使うことになった。
行きつけの喫茶店の扉をくぐり、ケーキセットを注文して雑誌を広げる。
音楽系の情報雑誌だ。著名な音楽家の特集やコンサートの告知に並んで、数ページ紙面を埋めているのは学生向けの演奏コンクールの記事だった。
『16歳の若き才能』――そんな謳い文句とともに、表彰台に立つアマデウスの写真が掲載されている。きちんとした格好をして大人しくしていればこんなに立派なのに、と苦笑せざるを得ない。
アマデウスがこういった場に出ることは、最近では珍しい。今はネットを介してアマチュアでも曲や演奏の発表ができる。むしろ、枠組みに縛られないそういった場のほうが彼には合っているようだった。今回のコンクールは昔世話になった教師に是非にと勧められて参加したそうだ。
テーブルに運ばれてきたケーキセットを口にしながら雑誌を読みふけり、店を出てもまだ雨脚は弱まっていなかった。再び雑誌を守りながら帰路についた。
家に近付くと、雨音に紛れて微かにピアノの音が聞こえてくる。
「……?」
音色に違和感があった。アマデウスの演奏であることは間違いないが、普段のそれとは違う。いつも通りの演奏のようでいて、どこか不安定さがあった。こんなことは初めてだ。不安を感じ、自宅に向かっていた足をモーツァルト邸へ向ける。
静まり返った家にはアマデウス以外の気配はない。迷わず鍵穴に合鍵を差し込む。以前に「いちいち出迎えるのも面倒だから」とアマデウスに渡されたものだ。
雨音の中で演奏は続く。完璧な、美しい演奏だと人は言うだろう。確かに心を鷲掴みにするほど美しい。いつもより凄絶でさえある。けれど、音の合間に何か、心の柔らかい部分を掻き毟るような痛ましさがあるように感じてならないのだ。
「――大丈夫か?」
ピアノの前に彼はいた。滑らかに鍵盤を叩いていた白い指が、サリエリの声にビクンと跳ねて静止する。もしかしたらサリエリが家に入ってきたことに気付かなかったのかもしれない。普段のアマデウスならば物音だけで察知できるのだが、それほどに平静を失っていたのだろうか。
俯いた頬に涙の跡があるのを、サリエリは見逃さなかった。
「どうした、何があった」
足早に近寄って肩に手を置く。顔を覗き込むと、アマデウスは拒むように身を捩った。
「なんでもないよ」
「なんでもないわけがあるか」
震えて、今にも嗚咽に変わりそうな声だ。たまらなくなって思わず抱き締める。何度かか弱い抵抗があり、やがて諦めたように身体を預けてきた。
事情を言いたがらないなら仕方がない。今はアマデウスを慰めることを優先することにした。か細い背をそっと撫でさする。少しでもその悲しみが癒えるようにと願いながら。何度も繰り返すうち、アマデウスが小さな嗚咽を漏らし始めた。幼子をあやすように、頭をぽんぽんと叩く。
「何か、してほしいことはあるか?」
もっと幼い頃の話だ。落ち込んだアマデウスを慰めるためにどこかへ連れ出してやったりすることが何度かあった。気を紛らわせることも必要だ。
「…………僕、を……」
小さく細く、呟く声が聞こえた。しかし言葉は続かず、アマデウスは口を閉ざす。
「今なら、なんだって聞いてやる」
告げて、震える身体を緩やかに宥めながら続きを待った。
一度、二度、ためらうように唇が戦慄いて、そうしてやっと言葉がこぼれ落ちる。
「僕を、嫌いにならないでね……」
「ならない。ずっとおまえの味方だ」
瞬きの間ほども躊躇わなかった。
幼い頃にサリエリに宿った感情は、今も出口を見出せないまま育ち続けている。
サリエリの返答に少し落ち着いたのか、嗚咽が少し弱くなった。静かに泣き続けるアマデウスが落ち着くまで、その身体を抱き締めていた。
「……ありがと、サリエリ」
アマデウスがそっとサリエリから離れる。その目は赤く腫れていたが、涙はもう流れていなかった。
「大丈夫か?」
「うん、泣いたらすっきりしたから」
ごしごしと袖で顔を拭おうとするので、慌ててハンカチを差し出した。
「……事情を聞いてもいいか、アマデウス」
「ああ、うん……ちょっと、友達と喧嘩しちゃってさ」
へらり、と力なく笑う。傷付いた笑顔だった。
「でも、もう大丈夫だから」
「無理はするな」
「うん」
ありがとう、とハンカチを返される。最後にもう一度、励ますつもりで頭を撫でた。
「――腹減っちゃったよ!サリエリ、何か食べに行こうぜ」
「ああ……そうだな、行くか」
明らかに空元気だったが、それに乗ることにした。最初に見つけたときのような痛ましさは薄れていたからだ。早く早くと手を引くアマデウスに大人しくついていく。
「デザートくらいは奢ってあげるよ」
「いらん。子供にたかる気はない」
「あはは、真面目な奴!」
しばらくして、とある少年が音楽の道から離れたという噂を聞いた。
学生向けのコンクールで度々好成績を残していた少年で、それなりに名前が知られていたのだ。
アマデウスが、新しく音楽友達ができたのだと親しげに名前を出していた人物でもあった。
あの雨の日以来、アマデウスが一度も口にしていない名前でもあった。
少年は。
絶望的な「壁」を知ってしまったと、そう言って音楽をやめたという。
音楽が好きだ。
演奏していると、意識から余計なものがそぎ落とされる。魂の洗濯と言っていい。
一曲弾き終わり、ふぅ、と満足を込めて息を吐く。視線を巡らせれば、扉の傍に長身の男が立っていた。
「仕事は終わったのか、アマデウス」
「もう納品済みだぜー」
手元のタブレットを振りながらアマデウスが笑って見せた。
「珍しいな、いつも納期ぎりぎりのおまえが」
「今週末は見たい映画があってさ」
現在、アマデウスはフリーの作曲家兼演奏家として生計を立てている。ネットでの活動を続けていたところ、次第に仕事としての依頼が来るようになり今に至っていた。
サリエリはといえば、努力が実り音楽教師として大学に勤めはじめて数年になる。
二人は実家を離れ、サリエリの職場にほど近い家に同居している。
最初はそれぞれ別々に暮らしていたが、アマデウスには生活力が欠けていた。何事にもルーズで、作業にのめり込めば食事も睡眠も忘れて没頭する。頻繁にサリエリが通って世話を焼いていたが、とうとう不養生が祟ってアマデウスが倒れたことをとどめに、一人で置いておけないと強引に同居に持ち込んだのが半年前の話だ。直接世話を焼くようになって、それなりに彼の生活も改善されてきた。
二人の関係は、良き友人である。
コンソメの香りが鼻を掠めた。
キッチンにはアマデウスが立って、鼻歌交じりに鍋をかき混ぜている。
二人の食事事情は、自炊と外食が半々といったところだ。もともと二人とも料理にはあまり興味がない。サリエリはキッチンに立つことが多いが、料理ではなく菓子作りが主である。
自炊をする日は交代で行うことに決めている。
「今日は何を?」
「ポトフ!全部突っ込んで煮るだけだから楽だよね」
「同感だ」
その雑な形容はいかがなものか、とは思うのだが。しかしサリエリもそういったシンプルな料理ばかり作っている。
食器棚から皿を取り出しながら、一人で暮らしていた頃よりずっと増えたな、と唇を緩ませた。
愛した男の手料理を食べられるというのは、なんとも贅沢な日常だ。
その恋心が、永遠に沈めたままにすると決めたものであっても。
ある日のことだ。
「サリエリ、親御さんから」
郵便受けから戻ってきたアマデウスに、一通の手紙を投げ渡される。そのまま自室へ入っていくアマデウスを横目に封筒を開いた。
こちらの生活を気にかけている旨と、実家の近況が綴られていた。それから、そろそろ身を固めるつもりはないかと書かれている。良ければお見合いも視野に入れてみないか、とも。
確かに、傍から見ればいい頃合なのだろう。仕事も順調で、年齢的にもちょうどいい。アマデウスのへの想いは、誰よりアマデウス自身に気取られないために隠してきたつもりだ。両親はきっと知らない。純粋な善意からの行動だ。
「どうしたものか……」
何と言い訳して断ろうか。リビングのソファに凭れて溜息を吐いた。
「なに、どうかしたの?」
廊下からアマデウスが顔を出した。そのままキッチンへ行き、冷蔵庫から飲み物を取り出す。
「でっかい溜息」
「いや……」
ふと、思った。
サリエリが身を固めると言ったら、アマデウスはどんな反応をするだろうか。ほんの興味本位だ。
「……そろそろ、結婚を考えてみないかと両親がな」
アマデウスが目を丸くした。
「え、マジ?」
驚いた表情が、次第に喜びに満ちたものに変わっていく。我がことのように――否、我がこと以上に嬉しそうに、満面の笑みを見せた。
「いいじゃないか!」
今にも歌い出しそうなほど上機嫌になったアマデウスに戸惑いを抱く。同時に落胆もあった。期待などしていないつもりだったが、心のどこかで期待があったらしい。
「君ならいい旦那になるぜ。前向きに考えてみなよ」
ニコニコとリビングを出て行く姿を見送りながら、曖昧な返答を返した。
とはいえサリエリの心は動かない。アマデウス以外にそういった感情を抱けるとは思えなかった。
「……後で電話でもしておくか」
微かに鼻歌が聞こえてくる。何をそんなに喜んでいるのか、検討もつかなかった。
結局あの後は何かと忙しく、電話をかけるのは夜になってしまった。夕食を終え、無人になったキッチンでスマートフォンを手に取る。数度の呼び出し音の後、母が電話口に出た。お互い元気で暮らしていることは知っていても、こうして直接声を聞くのは嬉しいものだ。暫く取り留めのない雑談を交わし、本題に入った。
仕事が充実していて、そういうことは考えられないと告げた。核心ではないが事実の一端だ。罪悪感を押し殺して話を続ける。
「……それに、アマデウスを放っておけないから」
冗談めかして言う。同居することになった経緯は説明してあった。小さい頃から奔放かつ危なっかしい幼馴染に世話を焼いていたサリエリを知る母は苦笑で受け止めてくれた。
互いに身体に気をつけるように言い合って電話を切る。雑談が長引いて、思っていたより時間が経っていた。そろそろ部屋に戻って寝る準備をしようとキッチンを後にする。
明日から週末だ。リビングにかかったカレンダーには、アマデウスの字で「映画」と書き込まれていた。
休日であっても、サリエリの起床時間は変わらない。対してアマデウスは不規則である。仕事が不定期なのである程度は仕方ないが、本人のマイペースな気質も原因だ。
リビングには誰もいない。まだ寝ているのだろうと結論付けようとして、テーブルの上に書置きがあることに気がついた。
――仕事で暫く留守にします。
アマデウスの字だ。そこは疑いようがない。けれど違和感があった。
カレンダーの今日の日付に書かれた文字を見る。わざわざ今日のために仕事を早く終わらせたのに、新しく仕事を請けるだろうか。よほど興味を引かれた案件なのか。
もともと、仕事でなくとも突然ふらりと一人旅行に行ったりするような男だ。それでも、こんな風に行き先も告げずにいきなりいなくなるようなことはなかった。
どうにも違和感が拭えない。考えすぎだと自分に言い聞かせるが、こういった説明できない不可解さはえてして間違いではないと言うことも知っていた。
「電話してみるか……?」
仕事だとして、今どこにいるかくらいは同居人として知っておきたい。
スマートフォンを手にとってアマデウスの電話番号をタップする。聴こえてきたのは、相手が通話中であることを示す無機質な機械音だった。
「……また後でかけ直すか」
その後、時間を置いて何度かかけ直したがことごとく通話中だった。ここまでくれば何が起こっているかわかる。
着信拒否されているのだ。
「どういうことだ」
がつんと後頭部を殴りつけられたような衝撃だった。
長い付き合いだ。喧嘩をして口もきかなくなった事だってある。しかし今回は何の心当たりもなかった。いつもの日常だったという認識しかサリエリにはない。
今日突然にサリエリと居るのが嫌になった、なんてことはないはずだ。そう思いたい。サリエリと接触したくない理由が何かあるはずだ。
ずかずかと廊下を行き、アマデウスの部屋の前で立ち止まる。他人の部屋に勝手に入るのは褒められた行為ではないが、そもそも同居人に黙って行方をくらます奴が悪いのだ。そう言い聞かせて、部屋の扉を開けた。
アマデウスが心配だった。
同居の発端になった一件を思い出す。
もともとサリエリは頻繁にアマデウスの家を訪れていたが、その時期は他の件で忙しくしばらく彼の様子を見にいけなかった。運の悪いことに、丁度アマデウスもその時期に大量の仕事を抱えていたらしい。
久方ぶりに来訪したサリエリが見たものは、真っ青な顔で意識を失っている幼馴染だった。
まるで死んでいるようなその姿に、一気に血の気が引いた感覚を今もはっきり覚えている。大慌てで救急車を呼んで、病院に運び込まれたアマデウスは入院を余儀なくされた。睡眠不足に栄養失調、過労で弱った身体にさらに当時流行していた風邪までこじらせ、なかなかに危険な状態だったという。
アマデウスが退院するまで、サリエリは毎日病室に通った。高熱で朦朧とするアマデウスの汗を拭い、水を飲ませ、食事の介助をした。あまりの献身ぶりに看護師に実の兄だと勘違いされたのは今では笑い話だ。
高熱で意識の濁ったアマデウスは、いつもよりずっと稚かった。もつれる舌でサリエリを呼んだ。
「……昔も、こんなことあったね」
幼少期の彼は今よりももっと病弱で、高熱を出して倒れたことも一度や二度ではすまなかった。
「きみは、毎日きてくれた」
掠れた声が痛々しく、一口水を含ませた。細い喉が水を嚥下する。
「起きたとき、いつも手を握ってくれて、うれしかったよ」
子供のように無垢な声だ。弱りきった身体は、アマデウスの精神から余計なものを削ぎ落としたようだった。
「……ご両親や、お姉さんもそうだっただろう」
照れ隠しだと自覚しながら言う。実際、彼の家族もサリエリ以上に熱心に看病していた。
「うん。目が覚めたとき、誰かがいてくれるとさみしくなくて、いいなぁって」
さみしいのは嫌いなんだ、とアマデウスは呟いた。嫌いだと言いながら、仕方がないと諦めたように遠くを見ていた。
その時初めて、サリエリはアマデウスの剥き出しの心を見たように思えた。
さみしがりの愛されたがり。
「私が」
その瞬間にサリエリの心は決まった。
「私がいてやる」
身体的な心配も勿論あるが、それ以上に。
この男にさみしい思いをさせたくないと強く思った。
この先ずっと、アマデウスを守っていこうと決意する。アントニオ・サリエリの人生はアマデウスに捧げる。それが、サリエリの見つけた幸福だ。
アマデウスの部屋は、一言で言うと散らかっている。あちこちに書きかけの楽譜が散らばっていた。平素ならばその楽譜を一枚一枚眺めていたいところだが、今はそんな状況ではない。
パソコンの周囲もひどいものだ。書籍に紙にと積み上げられて、こんな机からあの美しい音楽が生まれるとは信じがたい。
机に近付くと、横の壁に貼られたコルクボードが目に入った。何枚もの写真が貼り付けられている。全て、誰かとアマデウスが写ったものだった。全ての写真で、アマデウスは楽しげに笑っていた。
家族と撮ったもの。
サリエリと撮ったもの。
彼がマリアと呼ぶ女性と、その付き人らしい女性――男性?それから銀髪の青年が並んで写っているもの。
全員徹夜明けなのか、目に隈を作った眼鏡の少年と髭を生やした男と乾杯しているもの。脱稿記念!とカラーペンの文字が踊っていた。
褐色肌の少年と和装の男、それに髪を撫で付けた紳士と揃いの仮面をつけてポーズを決めているもの。何の集まりだこれは。
「ん?この女性は……」
比較的新しい写真だ。旅行者らしい装いの東洋人の女性と撮ったものだった。
アマデウスの交友関係は広い。もともと友人関係にはお互い干渉していなかったので、友人から探るのは難しいところがある。
視線を机上に移し、積み上がった山を一つ一つ崩していく。比較的上の部分に、一枚の封筒が挟まっていた。それが目に付いたのは、差出人が見慣れない東洋人の名前だったからだ。
「――葛飾北斎……?」
中身を改めると、手紙と一枚のパンフレットが入っていた。葛飾北斎とは日本人の画家らしい。音楽以外の芸術に興味がないサリエリは知らない名前だった。その個展が、ここから少々離れた都市で行われるという。何とはなしにパンフレットを裏返すと、その葛飾北斎という人物の顔写真が掲載されていた。
「!」
アマデウスと写真に写っていた東洋人だった。個展の日付に目を走らせる。開催は今日からと書いてあった。手紙には招待状を同封するとあったが、封筒の中にそれらしきものはない。
もしかしたら、アマデウスは彼女といるのではないか。そうでなくても、彼女と会って話を聞くくらいはできる。数少ない手がかりだ。最低限の荷物だけ携えて、サリエリは車を走らせた。
車で数時間の都市で個展は行われていた。なかなかに盛況していたが、無礼を承知で作品には目もくれず北斎を探す。そうして、記者らしい人物に取材を受けている彼女を見つけた。黒髪をアップにした華奢な女性だ。取材が終わるのを待って話しかける。
「お、取材かい兄さん」
「いいえ。私はアントニオ・サリエリと言います。アマデウスの友人です」
「ありゃまあ。随分早く割れたもんだ」
その言葉は、彼女がアマデウスの居場所を知っていると物語っていた。
はやる心を抑え付けて、北斎に問う。
「彼はどこに?」
「朝っぱらから押しかけてきて、今は――そのへんの宿にいるんじゃないかね。何日かこの街にいるって言ってたからサ」
聞けば、彼女は以前画家としての見識を広げるためにこの国に旅行に来ていて、その際アマデウスと知り合ったのだという。奔放な気質の芸術家同士意気投合し友人となった。今回この地で個展を開くことになりアマデウスを招待していた。まさか当日の早朝にいきなり来るとは思っていなかったようだが。
「ま、あいつらしいっちゃそうかもしれねぇや」
そう言ってからからと笑う北斎は、なるほどアマデウスと気が合いそうだった。
彼女に礼を言い、会場を後にする。建物を出たら、もう歩いてなどいられなかった。急いで近隣の宿泊施設を調べて走り出す。
北斎の言葉が、頭の中で何度もリフレインしていた。
「おれと父様はしょっちゅう引越しするんだけど――あいつ、それで聞いてきたのさ。引越ししたいから、いい物件の見つけ方とか教えてくれって」
一軒目のホテルで、いきなり壁にぶつかった。こういう客が宿泊していないかと聞いたところで、まともなホテルなら客の情報を易々と開示するわけがないのだ。
落胆に肩を落とす。一度戻って、北斎からアマデウスに連絡を入れてもらったほうがいいだろうか。彼女に手間をかけさせてしまうが――
ふと地面に落とした視線を上げる。ホテルの隣に喫茶店があった。
窓際の席に座る人物に、非常に見覚えがある。
歩調が荒くなるのを止められない。ずかずかと喫茶店の扉をくぐり、その席に近付いた。
「――アマデウス」
自分でも、地の底からのような声だったと思う。言葉と同時に腕を強く掴まれた男は。目を丸くしてサリエリを見上げていた。
「え、なんで――」
その表情には戸惑いの色が濃く浮かんでいた。サリエリに見つかったことよりも――サリエリがここまで追ってきたことが信じられないような顔だった。
「宿を、取っているんだろう。連れて行け」
有無を言わさぬ語調で迫る。まだ状況を飲み込めていない様子のアマデウスが、呆然と頷いた。
シングルの部屋に通される。アマデウスをベッドに座るように促した。大人しく従ったのを見届けて、椅子を動かして出口を塞ぐようにサリエリも座る。
「えーっと、どうしてここが?」
「招待状だ」
「あー……」
やってしまった、と言いたげな顔でアマデウスが頬を掻いた。
「その、ごめんね?」
へらへらと笑って誤魔化そうとするアマデウスに、サリエリの眉間の皺が深くなる。
「まったくだ。同居人に嘘をついて行方をくらませるなど」
そこで深く息を吸って、幾分か気持ちを落ち着かせる。
「以前倒れた件もあるだろう。……心配なんだ」
「……うん。ごめんなさい」
ようやくサリエリの心配が伝わったらしい。身を縮こまらせて、アマデウスが謝罪した。
「君にそんな顔させるつもりじゃなかったんだ」
「……次はないぞ」
椅子から離れ、アマデウスをそっと抱き締めた。腕の中の体温にようやく安心できた気がした。髪を撫でると、アマデウスが苦しげに顔を歪ませる。
「それなんだけど」
搾り出すように言葉を続ける。
「僕、また一人暮らししようかなって。ほら、いつまでも君に頼りっきりなのもさ」
来た、と思った。身体を離し、伏せた顔を覗き込む。アマデウスは笑っていた。長年傍にいたサリエリでなければ気付かないような、作り物の笑顔だ。
「何かあったのか」
「何もないさ」
「嘘をつくな」
見破られていることはわかっているだろうに、笑顔のままで首を振る。
「一人で暮らして倒れただろう。またあのような事態を起こさせるわけにはいかない。認められない」
「あの時はちょっと無理しちゃったけどさ、もうしないよ。大丈夫だって」
「私が心配なんだ!」
思わず声を荒げると、アマデウスが肩を竦めた。
「……だって、君にもいつか大切な人ができるだろ。僕にかかりっきりじゃいられない」
「……私が結婚の話を断ったからか」
無言は肯定と同義だ。
あの夜の電話を、アマデウスは聞いていたのだろうか。
「ほら、君は美男子だし仕事もできるし面倒見もいい!きっといい人が見つかるさ」
アマデウスは、どうしてもサリエリから離れるつもりらしかった。サリエリがこの先誰かと生きるのに、自分は必要ないと。
その「誰か」が、ずっと昔から自分のことだと知らずに。
――言ってしまおう。
アマデウスを引き止めるのには、もうそれ以外ないように思った。
それに、サリエリと離れることが彼の本心からの望みだとは思えない。先程からずっと無理して笑っているのは何故だ。このさみしがりの男の傍を離れないと、とっくにサリエリは決めている。
「アマデウス」
頬に手を当て、半ば強引に目を合わせた。
「私が愛しているのはおまえだ」
どれくらい長く、この言葉を胸に留めていただろうか。感慨はなかった。ただ、届いてくれと願った。
アマデウスは呆然としている。細い身体から、すっと力が抜けていった。
「――本当?」
「本当だ。――本気だ」
青年の唇が震える。再び、取り繕った笑顔を浮かべて見せた。
「僕と君じゃあ釣り合わない」
「本気だ、と言ったんだ」
笑顔は簡単に崩れた。緑色の目がおろおろと彷徨う。
「ごめん……でも、だめだ。君の気持ちには応えられない」
「何故だ」
「言っただろ。僕は君にふさわしくない」
孤独を滲ませた目がそこにある。アマデウスが抱くさみしさの根源が、瞳の底に見えたように思えた。
「僕は音楽に魂を売ったんだ。この先君を失っても、僕はその悲しみを曲にせずにいられない。悲しみを慰めるためではなく、痛みを乗り越えるためでもなく、ただ曲を作らずにはいられない。僕は、そんな人間だ」
痛みを堪えるようにアマデウスが言った。この生き方は変えられないし、変える気もない。そう断言する。苦しみはあるが、この在りかたを肯定していると。
「……それは、嫌だな」
サリエリの声にアマデウスは頷いた。サリエリの言葉に傷付き、しかしそれでいいと言いたげに。
だから言ってやる。
「おまえが私を想って作った曲が聴けないのは、嫌だ」
「…………え。嫌がるとこそこなの?」
虚を突かれたように呆けた顔をする。サリエリはくっと笑った。
「ずっとおまえを見てきた。美しく愛らしいところも、どうしようもなくだらしがないところも。おまえの音楽の素晴らしさも。私が何年おまえを想ってきたか知っているのか。今更、見返りなど要るものか」
後ずさる身体と距離を詰める。アマデウスが手を滑らせ、ベッドに倒れこむ形になった。
「おまえが己の在りかたを理由に私を拒むなら、私は追い続ける。私にとっておまえの在りかたなど問題にならない」
ほとんど押し倒すような体勢で、アマデウスに言葉を伝え続ける。
「音楽に売り飛ばした魂ごと、おまえを愛しているとも」
「――は、ははっ」
乾いた声で、力なくアマデウスが笑った。
「なんだよそれ、君、ろくでもないぜ……」
アマデウスは戸惑っていた。表情も仕草も、どうしたらいいかわからないと全身で訴えている。ここまで狼狽した姿を見たことがなかった。「アマデウス」
色白を通り越して青白くなった頬に触れる。戸惑い怯え、揺れる瞳はそれでも美しかった。
「私にどうしてほしい?」
「僕……僕、は」
そこにもう誤魔化しはない。アマデウスは、懸命に言葉を探していた。
「……君が……幸せになればいいと思ってた。……思ってる、今だって」
静かな声は続く。
「僕は、君のことが大切だ。だから幸せになってほしい」
幸せになってほしい、と言う。アマデウスにとって誰かを愛することは、遠くでその幸福を祈ることなのかもしれなかった。
「私の幸福はおまえだよ」
サリエリが言う。アマデウスは黙って続きを待っていた。
「人間にはきっと、人生を変えるような――生涯忘れられない恋があるのだと思う。私にとって、それはおまえなんだ」
その言葉に、アマデウスははっとしたような顔を見せた。彼の中で何かが噛みあったような様子だった。
「私に、愛されてくれるか?」
アマデウスの目をじっと見つめた。うっすら潤んだ瞳には、いまだ戸惑いと怯えがある。
――けれど、彼は確かに頷いた。
ゆっくりと唇を寄せる。アマデウスは拒まない。触れ合った唇の温度に、サリエリの目から涙がこぼれた。アマデウスの指先がそれを拭う。もう一方の手は、おずおずとサリエリの髪を撫でていた。
このまま深い口づけをしてしまおうかとも思った。けれど、今はこのささやかな体温を味わっていたかった。
結局その日はホテルに一泊した。特に何かあったわけではない。新たに一人部屋を取って、それぞれ別の部屋で眠った。
翌朝朝食を終えて、北斎の個展へ向かう。昨日世話になった礼を言うためだ。
「や、何やらこじらせてたようだが――……一軒落着ってとこかい?」
「迷惑をかけたようで、申し訳ない」
「いいさいいさ、おれァ話し相手になっただけなんだから。それに多少の厄介ごとは絵のネタになるってもんよ」
彼女は昨日と変わらずあっけらかんと笑う。それから、サリエリをじっと眺めてちろりと唇を舐めた。ジャンルは違うがわかる。あれは芸術家の目だ。
「それよりアマデウス、今度あんたを描かせてくれよ。そっちの兄さんも。たいそうな美男二人だ、描きがいがある」
「ああ、また今度ね」
「おれが帰国する前には頼むよ?」
「了解!」
「おい、勝手に」
「いいじゃないか、なぁ北斎」
「なー」
2対1では分が悪い。肩を竦めて、先に車を暖めておく。しばらく雑談を交わした後、ようやくアマデウスが助手席に座った。最後に北斎に軽く手を振って車を発進させる。
特に急ぎの用もない。ゆっくりと車を走らせる。
「サリエリ」
「ん?」
「昔さ、君、僕にプロポーズしただろ」
思わぬ話を引っ張り出されてゴホゴホとむせた。結婚の意味もわからない幼子に勢い余ってプロポーズした思い出は、サリエリにとってちょっとした黒歴史と化していた。
構わずアマデウスは続ける。
「引っ越してくる直前なんだ、マリアと出会ったのは。あんまり眩しくて綺麗だったから――……一目惚れして、その場でプロポーズして、でもって振られた」
緑の瞳が猫のように細まり、サリエリを見た。
「誰かにプロポーズする気持ちも、その意味も、僕は知っていた。知っていて、僕はあのとき頷いたんだよサリエリ」
「……な」
「あの連弾で、君は僕を追いかけてくれただろ。届かなくても追いかけるんだって。嬉しかったから、君とならいいかなって思ったんだ」
「……なんだ、それは……」
がくんと脱力した。黒歴史として抱え込んできた年月は何だったのだ。顔を覆うサリエリを見て、アマデウスはけらけらと笑った。
この調子で車を走らせていけば、昼を過ぎる頃には目的地に着く。メーターに目をやり、補給の必要がないことを確かめた。
「あのさ、これからどうしようか」
「何がだ?」
「いや、恋人っぽいことしていったほうがいいかなって」
「……まあ、追々でいいだろう」
「…………えろいこともする?」
「追々な」
「ムッツリめ」
「とりあえず今は、向こうについたら昼食を摂ろう」
少し小腹が空いてきていた。それはアマデウスも同じらしい。諸手を挙げて賛成してきた。
「いつもの店?」
「そうだな」
「いつも通りだね」
二人の住まいの近くに小さなレストランがある。味も雰囲気もよく、行きつけの店だった。
赤信号の前で停止する。ハンドルから片手を離し、手持ち無沙汰に投げ出されたアマデウスの手を握った。アマデウスの目がわずかに見開かれ、やがてゆっくりと握り返される。指先にはまだ迷いと戸惑いがあった。けれど、そこにはサリエリに応えようとする懸命な誠実さが確かにある。
「青になったよ」
手と手がするりと離れていく。名残惜しくはなかった。時間はたっぷりあるからだ。
アクセルを踏んで進む。空は高く青く、気持ちのいい晴天だった。窓を開けると爽やかな風が肌を撫でた。
風に乗って、助手席から微かな鼻歌が聞こえる。
穏やかな、いつもの日常だ。
二人の日々は、小さく確かな変化とともに続いていく。
end