あさがくるまでもうすこしコツコツと革靴が地面を叩く音が聞こえた後、鍵穴に鍵を差し込む音とそうっとドアを開ける音が続けて聞こえてくる。
まだ重い瞼をゆっくりと開けば部屋の中は薄ぼんやりとした明かりに照らされていて、もうすぐそこに朝がやってきていることがわかった。
まだ起きるには些か早い時間ではあるからこのまま二度寝をしてしまっても良いのだけれど、先程聞こえてきた小さな音たちを無視するのもなんだか居心地が悪くてどうしたものか……なんて目を瞑りながら考えていれば、遠くでシャワーの水音が響き始める。
仕方ない、温かい茶くらいは淹れてやるか。
そうと決まればまだ眠りたがっている身体を無理やり起こし、適当に髪を纏めながら部屋を後にする。
少し厚手のものを着ているとはいえ、まだこの時期は肌寒くてふるりと身震いをしながら自分の分も序にと薬缶に多めに水を入れてお湯を沸かす。
簡単に湯を沸かせる調理器具があるのもわかってはいるのだが、どうしても自分にはこちらのほうが馴染み深いので気付けば手に取ってしまっているのだから仕方がない。
リビングの明かりがあれば十分だと、キッチンの電気は点けなかったから薄暗い中でコンロの炎がゆらゆらと揺らめいている様が良くわかる。
沸騰するまでの間、ぼうっとそのゆらめきを眺めていれば一度は遠くへ行っていた睡魔が顔を覗かせる。
ふわりと一つ欠伸を噛みころし、薬缶が甲高い音を鳴らす直前で火を消して湯呑みに入れて温めてからそれを急須に注ぐ。
少し蒸してから温めておいた湯呑みへと注げば、ふわりと甘い良い香りが広がって思わず頬が緩んだ。
自分はともかく、こんな時間なのでちゃんとのんかふぇいんとやらを選んでやったのだ、なんと優しい。
そんな自画自賛を心の中でしていれば、洗面所の方からぺたぺたと此方に向かってくる足音が聞こえたので向き直る。
「遅くまで御苦労であった、薫殿」
「うわ、!びっくりしたぁ……え、起こしちゃった?」
「うわとはなんだ、うわとは」
「ごめんごめん、まさかいるとは思わなくて」
「なんとなく目が覚めてしまった故、序に茶を淹れていたのだ」
「ああ、だから良い匂いするんだ。なんかほっとするよねえお茶の匂いって」
「うむ、冷めてしまわないうちに飲むと良い」
「え、俺のもあるの?」
きょとりとした表情が、濡れてぺたりと大人しくなった髪と相まっていやに幼く見えて思わずくすりと笑みがこぼれてしまう。
普段は勝手になんでも持っていくくせに、こうやって用意してやった時に限って自分のものは無いと思うのは一体なんなのだろうか。
「……要らぬのなら置いておけ」
「や、いるいる!ありがとう、外寒くてさあ、シャワーだけじゃあんまり暖まらなかったから嬉しい」
「髪も濡れたままでは湯冷めすると何度言えばわかるのだ、ほら、」
「ふふ、颯馬くんありがと」
「笑ってないでちゃんとしてほしいのだが」
「今日は頑張ったから許してよ、まさかこんな時間になるとは思わなかったけど!!」
薫殿を椅子に座らせ首からかけられていたタオルを拝借して髪をわしゃわしゃとかき混ぜながら、少しだけ眉を下げて苦笑いした薫殿の目線を追って時計を見れば、やはり先程起きた時に思った通り朝にはまだ少し早いが夜と言うには遅い時刻を示していた。
こんな時間に電車など動いてはいないはずだから、おそらくタクシーでも使って帰ってきたのであろう。
「そんなに撮影が長引いたであるか?」
「それもあるし、ちょっと監督さんたちの飲み会に連れて行かれちゃって……」
「なるほど」
「あ、でも途中で帰ってきたんだよ!今日は休みだけどそれでもあんまり、長居はしたくなかったから最低限のお付き合いだけ!!」
「??そうであるか」
「……うん、」
「茶を飲んだら少し眠ると良い、顔色もあまり良くないし」
血の気があまり無い肌が可哀想で指先で少し擦れば擽ったかったのかくすくすと薫殿が笑う。
それに自分も少し笑いながら、髪の水分があらかた取れたのを確認してタオルを椅子に掛けてしまう。
「お茶おいしい〜、優しい味だ、」
「ちゃんとのんかふぇいん?にしてあるからな」
「そうまくんすき……」
「ふふ、安い愛であるな」
「安くないもん、ちゃんと愛込めてるよ」
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
「相変わらずちょっと偉そうなのなんなの?」
「さあ?」
自分も、少し冷めてしまった茶を飲む。
甘い香りとほっとする味、それから腹の奥がじんわりと温まる感覚が心地良くてゆるりと口元がゆるむ。
我も薫殿も明日……というより、もう今日ではあるが、休みなのだ。
流石に昼過ぎまで眠るなんてことは良くないが、少しくらいゆっくりと睡眠を取ったところで罰が当たるわけでも無い。
きっと今から眠ったら朝餉の時間は過ぎてしまうだろうけれど、自分が先に起きるのだろうから何か栄養の摂れるものを作ってやろうか。
「颯馬くん、湯呑み洗うよ」
「良い、我がやる、薫殿はさっさとべっどに向かわれよ」
「一緒に行きたいから、俺がやります」
「なんだそれは」
「ほら、俺が洗うから颯馬くんが拭いて?」
「……相分かった」
「ふふ、ありがと」
薫殿が丁寧に泡を洗い流した湯呑みを受け取って布巾で拭うのを2回繰り返して、食器棚に戻せば後片付けは終了だ。……絶対に我一人でやった方が早かったのに。
釈然としないが、まあこんなことで愚痴愚痴言っても仕方がないのですべて飲み込んで振り返れば、満足そうに笑った薫殿に手を引かれて寝室へと向かう。
先程まで自分が眠っていた部分は少しへこんでいるがすっかり寝具は冷え切ってしまっていた。
「うー、寒い寒い、やっぱり明け方は室温も下がっちゃうんだねえ」
「そろそろ湯たんぽ等出しても良いかもしれんな」
「たしかに、末端が冷えてると中々眠れないしね」
「うむ、朝になったら出しておこう」
「今日は颯馬くんぎゅっとして寝よ」
「……我は湯たんぽではないのだが?」
「だって温かいんだもん、体温高くて丁度良い」
「むう、」
何時まで経っても子供扱いされている様で気に食わないが、文句を言ってやろうと開いた口から言葉が出ることは無かった。
……だってそんな、そんな、幸せそうな顔をされてしまったら。
「……今日だけであるぞ、」
「そんなこと言って、頼めば許してくれるんだから優しいよね」
「うるさい、はやくねろ」
「んふふ、はぁい」
「全く……お休みなさいである、薫殿」
「おやすみ、そうまくん」
あっという間に眠りに落ちていった薫殿はひどく穏やかな寝息を立てていて、薄っすらと笑みを浮かべていた。
それを見てほっとしてから、自分も近くに来ていた睡魔を手繰り寄せて夢の狭間へと意識を落としていく。
きっと今度は良い夢が見れるだろう。