愛にすべてを にいさんが頬を腫らして寮に帰ってきた。
今日はディランザの改造の件で会社に行っていたはずだ。そこでだろう。僕は呼ばれなかったから着いていけなかった。僕がいたらこうは……、と考えてしまうが、無駄なことだ。
父さんはああ見えて、ある程度理性的に暴力を振るっている。(躾であって暴力ではない、というだろう、父は)だから、その時々で痛みは与えても、見た目に響く程のことは滅多にしない。だからこれは相当……なにかが……あった。でも僕には分からなかった。にいさんは昨日も一昨日もずっと完璧だったのに。
にいさんは出迎えにぶっきらぼうな挨拶を返して、そのままずんずん廊下を歩いていってしまう。こういう時、取り巻きや他寮生とはあまり関らず、すぐに一人になろうとする。にいさんは可能な限り他人に弱みを見せたくないからだ。
でも、僕はそんなにいさんを放っておくなんてできない。強く振る舞えるほど余裕もなくなっているってことなんだ。
不安そうにするフェルシーやペトラに目配せをしながら、兄の後ろを歩く。こちらを見て鬱陶しそうしながらも、離れろとは言われない。そのまま一緒に部屋に入る。
扉を閉めれば二人っきり。にいさんは玄関口で座り込んでしまった。
「にいさん」
「ふぅっ……うっ……!」
にいさんが泣いてる。
僕は丸くなったにいさんの背中を包むように抱いて、にいさんが落ち着くのを待った。
にいさんは滅多に泣かない。泣いても意味がなくて、物事がますます悪くなるというのをよく分かっている。時間の無駄、体力の無駄、だからといって涙が枯れたわけでもない。
にいさんは泣きながら、それを止めようと必死に自分の腕を抓ったり、唇をかんだり、打たれた頬を自分で張ったりする。自傷行為を繰り返してどうするっていうんだろう。僕はそれをやんわりと(やんわり、だ……強く押さえつければそれも暴力になる)手で押さえるしかない。でも噛み締めて血が滲む唇だけ、僕は触ることができない。
「にいさん、僕がいるよ、僕がいる、僕がいるから……」
僕がいるからなんだっていうんだ。そう、なんの役にもたってない、それは一番僕が分かっている。でも僕は、自分が泣いている時に兄のいう「俺がついてる」という言葉で泣き止める。安心する。だからそれを真似するしかない。それ以外僕は知らない、人を慰める言葉を。
にいさんの強張った大きな手に、指を絡ませてその甲を、ひらを撫でる。こめかみを、耳をキスして、ただ僕が心配しているということを伝える。胸と腹で抱えた、震える広い背が妙に熱い。酷く汗をかいているみたいで、それが伝播して僕も体が熱く、苦しくなる。
「にいさん……僕がずっといるよ……」
少しずつ、少しずつにいさんも落ち着いていく。手を引いて立つように促し、ベッドまで連れていく。そのまま布団の中に二人で潜り込んだ。いつもだったら服も着替えないで、と苦言を呈すところだろうけど、そんなのどうだっていいんだ。にいさん以外、全部、どうだって。
「……ラウダ」
「にいさん」
「ラウダ、おれ、おれこんな、こんなんじゃ」
「にいさん、いいんだよ、にいさん」
「ないてちゃ、だめ、だめなのに」
「いいんだ……」
今度は正面から抱きしめる。涙でぐしゃぐしゃの顔に唇をひたすらに押し付ける。頬には念入りに。本当はその唇をふさいでしまいたいけど、そしたら息がつまって大変だから、できない。
背中を撫でて、足を絡めて、双子が分化する前に戻ろうとするように抱きしめる。僕たちは双子でもなんでもないけど、そうであると神に知らしめるように。
にいさんも弱々しく僕の背に手を伸ばし、抱きしめてくる。僕の胸に顔を押し付けて、とうとう声をあげて泣き始めたので、僕はちょっと安心する。大きく泣いた方がストレス発散になってい。
服が、シーツが、涙で濡れていく。あとで熱いシャワーを浴びよう。ベッドも綺麗にしてしまおう。何もかもなかったようにして、ぐったりと一緒に寝てしまえばいい。
そうしたらきっと数時間後に起きて、にいさんはお腹が空いていることに気がつく。僕もそうだと言って、食堂から何か持ってきて食べよう。
にいさんは僕に何か謝ろうとするだろうから、僕はそれに、それに、僕はなんと言って答えればいいんだろう。それだけいつも分からない。
にいさんは悪くないよ、にいさんは強くてすごいよ、もっと泣いていいんだよ、親父なんてクソだよね、父さんも酷いね、あの人は何も分かってない、僕はにいさんをわかってる、僕が、僕だけが、僕だけは……。
『僕はにいさんを愛してるよ』
きっと、それを言えたらいいんだと思う。でも僕は、ずっと言えない。もし兄さんが僕に愛していると伝えてくれたって、僕は応えられない。
それはどうしてだろうと、考えたくもなかった。にいさんが泣き止むのを、そのつむじにキスをしながら待っている。
ああ、この行為を人は兄弟愛というのかもしれない。そうやってレッテルを貼る奴らの首を跳ね飛ばして並べてやりたい。突然、身に湧き上がってきた暴力的な考えを、なんとか押し込めてひたすら啜り泣きを聞いていた。
……本当は、本当は僕は、泣いている兄を一度ぶん殴ってしまいたい。そして、今お前を抱いているのは誰だと、聞いてやりたいんだ。
時が過ぎていく。にいさんが泣き止まない。僕はここ最近、泣いてなかった。