キメラの恋 口を開けばネガティブなことばかり溢れる。だったら口を縫い付ければいいのだ。
ラウダは口の前でファスナーを閉じる動作をする。子供の頃からのルーティーンだ。こうすればラウダはもう喋らない。下手なことを言って親を怒らせないための自衛手段だった。今はもういない父親のための。
兄はこの動作を嫌っていたと思う。今よりもっと幼いころ、父に会う前に口をぎゅっと閉じると、決まって「そんなことをしなくてもいい」と怒った。言いたいことを言え、なのか、そんなことをせずとも黙れるようになれ、なのか。兄は後者だった。ラウダにはそんな兄が分からなかった。どうして黙って殴られていられるのだろう。僕はすぐに口ごたえしてしまうのに。
だがアスティカシア高等専門学校に入学する頃に、このルーティーンを減らそうと思いたった。どう考えてもマズいことをポンと言ってしまうのをだんだん我慢できるようになってきたためと、そもそも黙り込んでいる意味があるのか? と考え始めたためだ。喋らなければいないものとして扱われる場がある。口ごたえしなければそのまま押し流されてしまうことがある。口を閉じ切ってしまっては何もできない……。不安でも、声を出していかなければならない。怒られても。殴られても。嫌われても。
ラウダはその旨を兄に話した。兄は笑って返した。その顔が少し寂しそうだったのを、ラウダは覚えている。
ラウダの兄は、学園に入り学生共の上に立ってからも、父にはずっと黙ったままだった。そして一度口ごたえして、反抗して、そのまま消えてしまった。ラウダも兄に口を出して、父親側かと手酷く言われて、そのままになってしまった。
ラウダはずっと悩んでいる。本当は、自分が喋らない方がまだよかったのではないかと。だから、兄がいなくなってからまた、口を塞ぐルーティーンを始めた。今度は不平を言わないため、不安を吐露しないため。上に立つものは時に黙らなければいけない。耐え忍ばなければいけないのだと。
だがそのファスナーもバカになってきて、ふいに言葉が出てしまう。それも強く悪い言葉だ。ラウダは弱い自分が情けないと思った。このままではやっていけないと思った。そもそも、こんなことになるなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。
……父が死に、あっという間に時が過ぎ、久々に学園に登校したラウダは、どうしても一人になりたかった。一人でいれば何か言ってしまっても聞かれることはない。ほんの少しだけの空き時間に、あらゆる意味での危険を承知で、取り巻きを離して廊下をふらっと歩いた。
そんな時にどうして、あの女が目の前に現れるのだろう。
スレッタ・マーキュリーはぼうっと一人きりで立っていた。窓から差し込む人工の日差しは赤く染まりつつあり、彼女の髪と肌の境目すら曖昧にしていた。どこを見ているのやら、あたりを彷徨う視線と半開きの口が、なんとも阿呆らしくてたまらない。
ラウダは、思わず立ち止まってしまった自分に舌打ちしようとして、押し留めて、そのまま口をファスナーで固く閉じた。このままだと何を言うか分からなかった。もしかすると殴りかかるかもしれなかった。何がどう転んだとして、悪いこと全てのきっかけは、この女なのだとラウダは思っていたからだ。
その動作を、うろうろとそこらを見ていたスレッタ・マーキュリーが見つけてしまった。彼女は、あっと声を出した。
「口、閉じるの、同じです」
迸る感情をファスナーが押しとどめる。ラウダは喋らない。もう口を閉じ切っている。何も言わないと決めていた。
「私も水星では、大人の前でそうしてました。あんまり喋ると怒られるから。あっもうダメだなと思ったら、黙るんです」
お前が? ラウダはけして喋らない。今のも鼻を通って消えていった言葉だ。
「でも、ダメだなっていうのが、よくわかんなくて、すぐ怒らせちゃうんですよね。怒らせてから黙ってました。でも、そういうの嫌で、せっかく学校に来たんだから沢山喋ろうと思って、」
なのに。
スレッタ・マーキュリーは、ラウダから視線を逸らして、またどこかを見たり見ていなかったり。その目が何を見ようとしているのか、何に縋ろうとしているのか、ラウダには分からなかったが、だがそれでも、理解できることがあった。
こいつは自分とは違う。家柄も、教育も、環境も全く違う。違うのに、とてもよく似ている。
だから、ラウダは。
「どうしたらよかったんだろう。だって、そうしたらいいって言ってもらって、私もそうしたらいいって思ったのに」
怒鳴りつけて、黙らせてやろうかと思ったが、ラウダはひたすら口をつぐんでいた。スレッタ・マーキュリーは話しかけてきているのではなく、何かを呟いているだけだと分かっていたからだ。独り言に返事をするのはよくない。
ラウダはわざと足音を立てて歩き出した。スレッタ・マーキュリーが声を出して怯え、廊下の隅による。そしてすぐ、またうろうろとし始めたのを背で感じたラウダは、少しずつ歩くのを早めた。本当は走り去りたかったが、あまりにもみっともないので出来なかった。
ラウダは、あの女が嫌いだった。あの女がいなければいいと本気で思っていた。目の前から消えて欲しいと心の底から強く叫びたかった。
だが、しなかった。黙っていた。叫んだところで全部遅かったし、音が女に当たって跳ね返って、自分に戻ってくることも分かっていたので。