「夕間」
聞き慣れた声。暖かい声。
「はい?」
「もう遅いから、そろそろあがれ」
え?と顔を上げると、己の上司でありバディのメイさんがこちらを覗き込んでいた。ふわりと感じる煙の匂い。喫煙所に行ってきた帰りだろう。
そのまま声に促されるように外を見れば、とっくに月が出ているような時間だった。日付が変わるまであと少し。
目を丸くしてオフィスを見渡せば、そこには俺とメイさん以外の気配はどこにもなかった。
今日はとある捜査で外に出ており、戻ってきてやっと溜め込んでいた仕事を片付けていたのだが、どうやら他の刑事たちはすでに帰宅していたらしい。
「仕事をするのもいいが、無理して体を壊したら元も子もないからな」
言い聞かせるような声音ではあるが、まさしくその通りなので「そうですね。すみません」と苦笑する。
別に謝ることはない、と犬を撫でるがごとく頭をワシャっとされた。
なかなかに照れくさいが、彼の、大きく力強い手が好きだ。
――その手で、どれだけの無辜の人々を助け、どれだけ苦悩して自身を痛めつけてきたのだろうか。
さて、帰り支度、の前に席を立って、デスク前で思いっ切り背伸びをすれば、体のあちこちが悲鳴をあげる。随分と長い間デスクに向かっていたことだし、仕方ない。
そんな俺と入れ替わるように、メイさんが自席に着いたのが見える。俺含め班員を見渡せる席。分厚い資料を手に、彼は眉間にシワを寄せていた。
「メイさん、まだ帰れなさそうです?」
この人は、部下思いで面倒見がいい一方、さらに上からは無理難題吹っ掛けられがちであるからして、処理を担当している案件も多い。
オフィスの蛍光灯の光を受けて、ぽっかりと浮かび上がった2つの夜明けの空色が、緩やかな動きでこちらに向けられる。それと同時に眉尻を少し下げて「あぁ、あと少しやってからな」と返ってきた。
ただし、その『あと少し』がいったいどれくらいになるかはわからないけれど、という副音声付きで。
いつもだったらここで諦めるのだが、今日は違った。
記憶している限り、彼の次の非番まで幾日だったか。目の下の隈もいくらか深くなっているように見える。
彼の言葉をそのまま借りれば、無理をして体を壊しては元も子もないのだ。
「いつにもまして睡眠時間取れてないですよね?無理は禁物です。今日は早めに帰りましょう?」
「だが……」
なおも粘る姿勢だったが、「残るなら俺もとことん付き合いますよ」とニッと腕まくりをする素振りを見せれば、彼は少し逡巡したのち、わかったわかった、と諦めたように持っていたファイルをパタンと閉じた。
少し押し付けがましかったかと反省しつつも、気を取り直していつも使用しているリュックに荷物一式を放り込む。一通り支度を終えて、彼はどうかと目線をあげれば、同様に片付けをしているところだった。
先程まで彼の手に握られていた、橙色の装飾を基調とした万年筆が、定位置である彼のスーツの胸ポケットへと誇らしそうに収まっている。
その後も彼が軽く伸びをしているのをぼうっと眺めていると、「まだ、帰らないのか?」と声がかかる。
「あ、いえ、その……あ、そう!せっかくですし途中までご一緒しようかな、と」
そうか、と頬を緩めるメイさん。想定通りというか、無事取り繕え無かったと見えるわけだが、あながち嘘でもない。
タイミングが合えばにはなるものの、途中まで共に帰ること自体はそこまで珍しいことではないのだ。
最後の仕上げに、電気をぱちん、ぱちんと消して、暗くなったオフィスを出て、2人で下に降りる。
特に言葉は無かったが、こういう沈黙もたまには悪くない。
別れ際、隣から聞こえてくる小さな欠伸につられて、俺も欠伸を一つ。
どこからか美味しそうな匂いも漂ってきた。夕食代わりにおにぎりを1個食べただけで、空腹感を思い出して軽く腹をさする。もう少し時間が早ければご飯にでも行くところだが、明日もあることだし、やめておこうか。家にはまだカップ麺は残ってたはず。
隣に視線をやるとメイさんと丁度視線が交わる。暗いのもあるのか、瞳孔が猫のようにいつにもまして縮小して見える。
図らずも2人で顔を互いに見合った形になり、クスっと笑ってしまった。
「こんな時間だが、ラーメンでも食いに行くか?」
少しおどけた様子。やはりというかメイさんが考えていたのも似たようなことだった。思考がどこか似通っているのを少し喜びつつ、やんわり断る。
「行きたいところなんですけど、それより今日は少しでもゆっくり休んでください。また明日お昼にでもいきませんか?」
「そうか。まあ、それも一理ある」と頷く。
なに、急ぐことはない。小さな約束を1つ。こういった積み重ねもいいものだ。
恵まれた職場。仕事は忙しいけれど、こうやって穏やかな時間がずっと続けばいいのに。
「おやすみなさい、メイさん」
「おやすみ、夕間」
まだ眠らない街並み。
空に浮かぶ満月が行く末を明るく照らしていた。