仕事を終えて、自宅に戻ったふたり。
アオイは静かだった。いつもより少し。けれどその沈黙には、どこか火照ったような気配が混じっている。
帰宅してからずっと、アオイはマスミに口をきかない。
視線も合わせない。ソファに座っても微妙な距離を保ったまま、スマホをいじるふり。
「……怒ってるの?」
マスミの問いに、返事はない。
だが肩がぴくりと揺れたのを見逃すほど、彼は鈍くない。
「アオイちゃん」
何も言わずに、彼女の手首を掴んで、するりと自分の脚の間に収めた。
抵抗しようとしたのは最初の数秒だけで、体勢を作られるまま、アオイは背中を預けさせられる。
マスミの両腕が、彼女のウエストを優しく、でも逃がさないように抱きしめた。
「言ってくれればいいのに。……そんなに、僕のこと他の人に取られそうで不安だった?」
アオイは身じろぎをした。けれど声は出さない。
「……それとも、僕が鈍いから、わざと無視してる?」
くすぐるように耳元に吐息を落とすと、アオイはひくっと肩をすくめた。
「……マスミさんの、ばか」
「うん、ばかだよ。……嫉妬してるの、僕だって」
そのまま耳元に唇を近づけた。息がかかる距離で、言葉を選ばずに囁く。
「僕のアオイちゃんが、他の男の隣で笑ってたの、嫌だった。僕を見てくれないの、もっと嫌だった」
「っ……!」
彼女の太ももに回した腕がきゅっと締まり、背中に彼女のぬくもりが重なっていく。
「ごめんね、嫉妬させて。でも……拗ねたアオイちゃん、可愛くて、離したくなくなるんだ」
耳に落とされた甘い声に、彼女の身体は素直に反応する。
悔しそうに拳を握っても、逃げることはできなかった。
「もうちょっとだけ、このまま……」
マスミは、アオイの耳たぶを軽く唇でなぞった。
彼女の肩が跳ねる。それでも、やめなかった。
「今夜は、僕の嫉妬、ちゃんと伝えておきたいから」
夜が更けるにつれて、部屋の空気がどこかゆるやかに、静かに、とろけていった。
灯りはリビングのスタンド一つだけ。ソファに並んで座るふたりの間には、もう遠慮も気遣いも入り込む隙はなくなっていた。
アオイはマスミのシャツの裾を指先でつまんでいた。じっと見つめて、時折ちら、と彼を伺う。
マスミはというと、彼女のその動きが気になって仕方がないのに、まるでそれに気づいていないふりをしている。
「……なんか、今日のアオイちゃん、やけに甘えたさんだね」
わざと柔らかく、からかうような口調でそう言ったら、彼女はむくれて頬を膨らませた。
それがもう、たまらなく愛しい。
「だって……マスミさんが、あんまり構ってくれないから」
ぽつんとこぼれたその声に、マスミの胸が締めつけられる。
「そんなわけないよ。……ずっと、構いたくてたまらなかったよ」
そう言って、ようやくアオイの指先に触れる。
繋いだ手のひらの温もりが、体の奥まで染み込んでいくようだった。
ソファの上、そっと身を寄せたアオイが肩に頭を預けてくる。髪の香りがかすかに鼻先をくすぐった。
「……ねえ、マスミさん」
「ん?」
「今夜は……一緒にいたいな、って思ってる。もっと……近くで」
小さな声だった。でも、はっきりと心に届いた。
マスミはその言葉に目を細めて、ほんの少しだけ顔を彼女の耳元に寄せた。
「……アオイちゃん」
低く甘い声で名前を呼ぶと、アオイの肩が少しだけ震えるのがわかった。
「寝室、行こう?」
呼吸が止まりそうな一瞬。
アオイは黙って頷いて、そっと立ち上がった。
マスミがその手を取る。指先が絡み合う。
その一言に、彼女の目がゆっくりと見開かれる。
手を繋いだまま、寝室へと歩き出したふたり。
アオイは少しだけ後ろを歩いていて、マスミの背中にぴたりと体を寄せていた。静かに、鼓動が早まっていくのを感じる。手のひらの温もりが、どんどん熱を帯びていく。
ドアノブに手をかける前、マスミはふと立ち止まり、アオイの方へと向き直る。
「アオイちゃん、ほんとに大丈夫? 眠くない?」
冗談めかした口調。でもその声はやさしくて、気遣いと愛しさがにじんでいた。
アオイは首を振って、目を逸らさずに見上げる。
「……眠くても、寝ない。今はマスミさんのそばにいたいの」
その言葉に、マスミはたまらず喉を鳴らしてしまった。
口元にかすかに笑みを浮かべながら、そっと彼女の頬を撫でる。
「……じゃあ、入ろうか」
小さく、でも確かに頷いたアオイを連れて、ふたりは寝室の扉をくぐる。
部屋の空気が変わる。灯りは落とされ、ベッド脇のスタンドだけがほのかに灯る空間。
マスミはアオイをベッドに腰かけさせ、自分はその目線に合わせて膝をついた。
「……今日ずっと我慢してた」
そう言って、彼はアオイの指をそっと唇に寄せた。
彼女の鼓動がその手のひらから伝わってくるのを感じる。触れたくてたまらない。愛しさが、胸を焦がすほどに積もっていた。
「ねえ、アオイちゃん。今夜は……」
「おーーーい、マスミーー!! 開いてるかー?!」
玄関から響いた、やたら元気な大声。
マスミが硬直した。アオイも「……え?」と一瞬呆然とする。
「……あの声、まさか」
「トオルさん……だね……」
マスミが天を仰ぎ、アオイが思わずその手を握りしめる。
続いて、玄関の扉が開く音──どうやら鍵を勝手に預けられていたらしい。
「マスミ、いいウィスキー手に入ったからさ、どうせひとりで飲むのもなんだしって──」
勢いよく顔を出したトオルが、寝室前で密着しているふたりを見てピタリと止まる。
「……あ、タイミング、悪かった?」
悪びれもなく言うトオルを見ながら、マスミは一言、低く呟いた。
「……この空気、返してくれる?」
その横でアオイは顔を真っ赤にしてマスミの後ろに隠れるように立ち尽くしていた。
トオルはというと、頬を掻きながら、
「いやー、でも今の入り、ドラマの1話冒頭としては完璧じゃない? カット割りも浮かぶわー」
などと涼しい顔で言い出す始末。
マスミは、ふぅ……と深く息を吐き出してから、
「……アオイちゃん、飲み物持ってくるね」とだけ言って、台所に向かった。
その背中に、彼女の呟きが届く。
「……うち、もっと鍵、増やすべきかも」
トオルが帰っていったのは、それから約10分後だった。
ウィスキーをマスミに託し、さすがに空気を読んだのか「じゃ、俺は風のように消えるわ」と言って去っていった。最後まで軽口だったけれど、空気の読める男なのは確かだった。
再び静寂が戻った部屋に、ゆるく揺れる灯りだけがある。
マスミは、アオイのために温かいミルクティーを入れて、ふたりでソファに座っていた。
「……ごめんね、アオイちゃん。せっかくの夜だったのに」
「ううん。……ちょっとびっくりしただけ。ああいうのも、まあ、番組のオフって感じで……」
そう言いながらも、彼女の声は少しだけ甘えるように震えている。
マスミはふわりと笑って、彼女の手をそっと握る。
「じゃあ、今からが本当の“ふたりだけの夜”だね」
アオイの頬がすっと赤らんだ。
マグカップをテーブルに戻すと、彼女はそっと立ち上がり、マスミの方に体を向ける。
「……もう、寝る?」
「うん。今日は、ちゃんと……君のこと、大切にしたい」
ゆっくりと差し出されたマスミの手を、アオイはためらいなく取った。
廊下を歩く間、ふたりは一言も言葉を交わさなかった。
けれど、その沈黙がなによりも雄弁だった。
寝室のドアが静かに閉まる。
ベッドの端に並んで腰を下ろすと、マスミがそっとアオイの髪を撫でた。
「……アオイちゃん。さっきは、ちょっとだけ嫉妬してくれた?」
「……ちょっとだけじゃない」
「うん。僕もね。君が他の男に笑うと、頭では理解できても、胸がつかえる」
アオイはぎゅっとシーツを握って、ぽつりと呟く。
「マスミさんが……他の女の人に、やさしくしてるの、見たくない」
マスミは少しの沈黙のあと、彼女の手を取り、その甲に唇を落とす。
「じゃあ、他の人になんか優しくしない。君にだけする」
「ずるい……」
彼女の頬に触れた手が熱を帯びていく。
その夜、ふたりはもう誰にも邪魔されない静かな時間の中で──ただ、お互いの名前をそっと呼び合った。