きみと私に降る砂はきみと私に降る砂は
「ねぇ、若造。次の休業日は面を貸せ。これは絶対だ」
「…………は?」
何を考えているか分からない目の前の享楽主義者の言葉に、盛大な?マークと共に、ロナルドは思わずこてんと首を傾げた。
それを真似っこする様に、二人との間に座っていた愛しき丸もまた、こてん、と可愛らしく小首を傾げている。
可愛いは正義。丸は正義。
目の前で首を傾げている二人の様子に、思わず顔がにやけかけて、ドラルクはそれを誤魔化す様に、ごほんと軽く咳払いをした。
「少々買いたい物があるのでね。荷物持ち代りに付き合え。因みに、拒否権は有りませんので」
真面目な顔できっぱりと言い放つドラルク。普段と違い、有無を言わせない様なその雰囲気に、一体どうしたのかと思わず隣に座る丸と顔を見合わせた。
そんな何の前触れもなく、唐突に言われたのは数日前の事で。
当日いきなりタクシーに詰め込まれて連れて来られたのは、自分には全くの不相応の店。
重厚な扉に細やかな装飾の施されたその扉を見ただけで、明らかに分かる場違い感。両脇からスーツ姿の従業員が笑顔で扉を開けて招くのを、遠慮もなく潜るドラルクの後をおっかなびっくり潜ったのがつい先程の事で。
「嘘だろおい、ドラ公こんなの聞いてねぇぞ!!やだやだ!!ドラ公!!一人にすんなよ馬鹿ぁぁっ!!!」
「ほらご覧、ジョン。まるで、お使いに行くよと騙されて、何も知らずに注射に連れて来られた5歳児の様だね」
「ヌヌヌヌヌン、ヌヌヌヌヌー」
唐突に我が身に降り掛かった出来事にキャパオーバーを起こした5歳児が、ギャンギャン泣き喚いているその姿に、思わず真顔になるドラルク。
そんなドラルクの腕の中で、ロナルド君、子供だねーと口元を押さえて笑うジョンの様子に、ロナルドは更に泣いた。
「ウェーン、何でそういう事言うのー!!っていうか、ほんと、聞いてない!!聞いてねぇからこんなの!!待って、ほんと、分かんないからこういうの!!」
助けてくれ!!と必死の形相で喚くロナルドの様子に、半ば呆れながら肩を竦めると、ひらりと手を振って。
「はいはい。竜の一族お抱えのテーラーに任せれば、大丈夫だから。それに採寸するだけだよ。誰も取って食ったりなんかしないから、さっさと行ってきなさいギャン泣きルド君ww」
「ヌッヌヌッヌーイ」
行ってらっしゃーいと、ジョンもジェントルらしくハンカチを持って優雅に振って。
「それでは、ドラルク様。しばしの間彼をお借り致します。少々お時間を頂きますので、此方の部屋でごゆるりとお待ち下さいませ」
初老の出立の吸血鬼は、礼儀正しくドラルクに一礼した。
ぎゃあぎゃあ喚く5歳児は、優雅に振る舞うテーラーに連れられて、隣の部屋へと消えていく。
その様子を眺めながら、ドラルクは座り心地の良い椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んだのだった。
きみと私に降る砂は
事務所側から響くチャイムの音と、インターフォンから聞こえる宅配便でーすという声に。ぱたぱたとエプロンで手を拭きながら、ドラルクは居住スペースから事務所側へと移動して、ガチャリと事務所の扉を開けた。
「はいはい。お待たせして申し訳ないね。ご苦労様」
扉を開ければそこにいたのは、年若い配達員の青年で。好青年らしく、ドラルクの労いの言葉ににっこりと笑って、その手に持っていた小包みをドラルクへと差し出した。
「木下日出男さん宛の荷物になります。サイン頂けますか?」
珍しく同居人のフルネームでの届け物に、おや、と一瞬だけ目を丸くしたが、ドラルクは手早くサインを済ませると、小包みを受け取った。
ハンターネームは実名と同じだけの効力を持つ正式なものだ。本名を明かしていないハンターにとって、こういった郵便物によって個人が特定される事は身の危険を伴う場合がある。
勿論、役所などの正式な書類などには実名での記述が必要とはなるが、それ以外の場合はその括りではない。
元々、彼のハンターネームは高校の時のあだ名が元であるし、本人は別段、本名を隠している訳では無いらしい。
だが、事務所兼自宅という立場上、どうしても不埒な輩が出ないとも限らない。彼は人気の退治人であり、作家でもあり、生来あの容姿だ。
過激なファンが郵便物から、彼の本名を暴こうとした、なんて事も過去に数度あった事らしい。
それからは、自衛の為もあり、余り本名を使わない様にしているらしい。
そんな彼に珍しく本名での届け物とは……一体何だろうと、思わず好奇心がむくりと起き上がる。
サインを受け取った配達員は爽やかな笑みを浮かべると、被っていた帽子の鍔を摘み、軽く頭を下げると颯爽と踵を返して去っていった。
それをひらりと手を振って見送ってから、ドラルクはぱたりと事務所の扉を閉めた。
本日の退治人業は既に営業を終了している。
小包を片手に、再度夕飯の支度へと戻ろうと、ドラルクは居住スペースへと移動する。
慌てて履いたつっかけを、カランと音を立てて脱げば、濡れた髪をタオルで拭きながら今しがた風呂から戻ってきた同居人と目が合った。
「ん?宅配便?」
ドラルクの片手に収まる小包を一瞥して、ほかほか湯上がりの同居人は僅かに小首を傾げてみせた。
「……ああ。君への小包だよ。はい、木下日出男君」
スリッパに履き替えて、わざとらしく普段呼ばない彼の本名を呼んでやれば、目の前の同居人は僅かに目を丸くした。そして、ゆっくりと眉根を寄せていくと、普段呼ばれ慣れないその感覚に複雑な顔をしながら、ドラルクの差し出した小包を受け取った。
宛先へと視線を落とし、あぁ、と小さく声を上げるロナルドの様子に、ドラルクは僅かに小首を傾げて、彼を見守った。
「何が届いたんだい?」
「……あぁ、写真だよ。写真屋で頼んでたのが出来たらしい。後でヒマリに届けてやらねぇとな」
「ヒマリ嬢に?」
徐に小包を開けて、中身を改めるロナルドの様子に、よじよじとテーブルに登った愛しの丸が、愛らしく小首を傾げて、彼が持つ物に興味を示す。
それににへらと緩み切った顔でジョンに笑いかけてから、そっと小包の中身を大事そうに取り出した。
上等な箱から大事そうに取り出されたのは、一冊のアルバムで。
上質な布で作られたその表紙はさらりとした肌触りを返してきた。
「……ヒマリの成人式の写真。ほら、ヒマリ、めっちゃ綺麗だろ?」
普段は無骨な指が、大事に大事に、そっと本を開くその様に、それが如何に特別なものであるかを物語る。
それを示す様に、中から現れた一枚の写真は、艶やかに着飾った美しい娘の姿を写していた。
銀色の髪に映える赤い華の簪に。白い肌を彩る主張しすぎない紅が、可愛らしい唇を更に愛らしくしていた。
僅かに紅潮している頬と、柔らかくも控えめな微笑みが、これから迎える新たな門出に膨らむ期待と希望を表しているようだった。
幼く愛らしかった妹が、いつの間にかこんな立派で美しい娘へと成長した。
それを祝う為の写真が、特別なものでなくて何とするのか。
写真の中の娘と同じ、蒼天を宿す彼の瞳は写真を見つめ、優しく微笑んでいる。
「……ほう、素晴らしい写真じゃないか。ヒマリ嬢の魅力がとてもよく出ているね。着物も良く似合っているよ」
「当たり前だろ。俺と兄貴とお店の人で、めっちゃくちゃ悩んで、着物選んだんだから。勿論、ヒマリが好きなの選んだけどさ!……ほら、ヒマリの奴、口下手だから、中々決まらなくて……」
……でも、と。
僅かに口籠るロナルドの様子に、どうしたのかと彼へと視線を向ければ、本当に嬉しそうに瞳を細めて、彼は言葉を継いだ。
「……どうしても、赤い着物が良い、って……そこだけは譲らなかったんだよな、ヒマリの奴」
兄妹で、揃いの赤を、と。
そう言った時のヒマリの様子を思い出して、嬉しそうにロナルドは笑う。
こんな一生の中でたった一度しか無いその大事な瞬間を、兄弟達と同じ赤い着物で過ごしたい、と。
真っ直ぐな瞳で告げたヒマリの言葉が、ただ嬉しかった。
銀糸の髪に赤い着物がよく映える。それを彩る蒼天の瞳は、本当に、美しく思う。
「……君達兄妹は……本当に赤が良く似合うね」
写真の中の美しい娘を見下ろしながら、愛しい者の影を重ねる様に、ドラルクはそっと笑う。
それに、心底嬉しそうにロナルドは頷いて。
「当たり前だろ。俺達は、“レッドバレット”の弟妹なんだからな!」
――と。
何処か誇らしげに、その愛しい人はただ笑った。
その言葉に、ドラルクは一瞬だけ目を丸くしたが、小さく溜息を吐いて、僅かに苦笑した。
確かにその色は、彼の尊敬する兄、レッドバレットのものかもしれない。
けれど、既にその色は、君自身の色にもなっているのだと、どうして気付かないのだろうか、と。
兄二人と同じ、赤を纏いたい、と。
末の妹が願うその想いは、一体どこまでこの若造に伝わっているのだろうか。
彼自身、最初は兄の模倣だったのかもしれない。けれど、退治人として時を重ねる毎に、彼自身が積み上げた功績は、彼だけのものだ。
どれだけの人を助け、どれだけの事を成してきたのか……それはきっと、彼の兄に引け劣るものでは絶対に無い筈だ。
けれども、自己肯定の低い彼は、『兄貴なら上手くやれた』『兄貴ならこうした筈だ』……と、どうしても自分と兄を比較して、自分を下に見る癖がある。
そんな事、助けられた側からしたら関係の無い事だろうに。
どうしても、そのジレンマから抜け出せない哀れで、けれど愛しい子だ。
いつか、そんな呪いのような言葉も吐けないくらい、グズグズに甘やかして自己肯定を育んでやりたい……なんて告げたら、この目の前の若造は一体どんな顔をするかな、などと。
思わずそんな事を考えて、ニヤけそうになる口元を誤魔化す様に、そっと顎に手を当てる振りをした。
ロナルドがぱらりと、三つ折りにされているアルバムを開けば、ヒマリ嬢の全身を写した写真と後一枚。兄妹三人で並んで撮った写真が綴られていた。
「……ああ、何時だったか、畏まった格好で出掛けた事があったね。あの日がそうだったんだ」
確か前日になって、どんな格好していけばいいかわかんねぇと、泣きついてきた事があったな、と。
ドラルクにコーデを任せてきた日の事を思い出して、あぁ、と納得した。
派手になりすぎない様、フォーマルに近いカジュアルなジャケットで写るロナルドは、緊張していたのだろう。僅かに顔が硬っている。
それに思わず、苦笑が零れた。
「……だって、しょうがねぇじゃん。俺、スーツとか一着も持ってなかったし……あーいうのってどうしたら良いか分かんなかったんだから」
その時の事を、ロナルドも思い出しているのか、僅かに恥じらう様に唇を窄ませて、もごもごと言い訳を口にする。
「……だからって、この間の騒動のアレは無かったよ。あんなド派手なスーツなんて、何で選んだの。手品師でも目指してたの?」
不意に先日の騒動を思い出して、思わずドラルクは肩を竦めた。
とあるマナー講師の吸血鬼が引き起こした事件だ。独自のルールを他人に強要する能力を持つ吸血鬼で、その中で『退治人はスーツを着なくてはいけない』などと催眠を掛けられて、ロナルドは咄嗟にスーツを買いに走った。
その時選んできたのが、これがまた酷いセンスのド派手なスーツで。
あまりのド派手さに何度笑い死んだ事か。
あー……駄目だ。思い出すとまた笑い死にそう、と。
思わず耳の辺りが砂になりかけて、ぷるぷる震えながら何とか思い出し笑いを飲み込んだ、のだか。
「思い出し笑いしてんじゃねぇよ!!」
「ぷぇー!何でバレた!?」
それを目敏く気が付いたゴリラが、容赦なく拳を振り抜いてきて。それにぶち当たって、努力も虚しく結局砂にされた。
気の短いゴリラだ、全く、と。
ナスナスと文句を言いながら、元に戻りながら、ふと疑問が浮かんだ。
「……そういえば、ゴリルド君。君の成人式の時の写真は?」
何気ない疑問を口にしたドラルクに、ロナルドは同じくきょとんとした顔をドラルクに向けて。
「は?ある訳無いだろ。俺、やってないもん」
――と。
さも、当たり前の様な顔で平然と言ってのけた。
それに思わず、ざらりと体が砂に逆戻りした。
「な、何でやってないの!?成人式って人生のうちでたった一回しか無いのに!?なんで!!」
そういうおめでたい事は、絶対にやるものだと思い込んでいたドラルクは、慌てて体を元に戻しながら。何をそんなに仰天しているのか、訳がわからないという顔をしているロナルドに詰め寄った。
それにロナルドは、ただ驚いた瞳をくりくりと丸くして、詰め寄ってくるドラルクを見返していた。
「え……何でって……まだその頃駆け出しの退治人だったから時間も金もそんな無かったし……兄貴ともほら、色々あったし、別に良いかな、って……」
じりっと詰め寄ってくるドラルクの様子に、僅かに居心地悪く思ったのか、青い瞳をちらりと泳がすと、ロナルドは観念した様に話し始めた。
「……勿論、マスターやヴァモネさんはやれって言ってくれたんだけど……成人式の日、運悪く下等吸血鬼の大量発生があって、朝までドロドロになりながら退治してたんだよ。で、結局へとへとになって、成人式も行けなかった。まぁ、スーツも持ってなかったから、行かなかったと思うけどさ」
ぽつり、ぽつりと語るロナルドの言葉が本当に余りにも彼らしい理由で、思わずドラルクは、深い深い溜息を吐いた。
「……そ、それにさ……兄貴だってやってないし。兄貴も俺達の世話が忙しくてそれ所じゃなかったろうし、俺だけやるのも、さ。……でも、ヒマリは女の子だから。振袖着させてやりたかったから、兄貴とも相談して、日取り決めて、やったんだよ。……そ、その……」
兄がやってない事と、自分がやらなかった事はまた別の話だろうに、と。
兄を気にしてやるのを躊躇ったというのなら、何と下らない理由で大事な一時を逃したものか、と思わず小言を口にしようとしたのだが。
何やら言い淀む様子に、どうしたのかと怪訝な瞳でロナルドを見た。
「……お、お前が家に転がり込んできたお陰で、兄貴との溝が埋まってさ……そういう事も、ちゃんと、相談、出来た、から……そ、の……」
……感謝、してるんだぜ……と。
耳まで真っ赤になった顔を逸らし、消え入りそうな声で告げるロナルドの様子に。思わずその熱が移って、ざらりと砂になった。
……無自覚怖い。ほんと、心臓に悪い。
もういい加減、理解らしちゃっても良いかな?まだ駄目かな?何だかんだで脈はあるとは思ってるんだけどねぇ。……でも、まだ早いかなぁ。うーん。
などと、自分の理性と思わず相談しながら、何とか体を元に戻しつつ、ナスナスと文句を言った。
「……何で死んだんだよ……」
死に戻ったというのに、耳が熱い。じと目で少しいじけた様に見てくるロナルドの視線がむず痒くて堪らない。吸血鬼らしからぬ色になっているのが気恥ずかしくて、思わず顔を逸らす。
「……そりゃ、君が珍しく素直にそんな事言うからだよ」
「殺したわ」
「事後報告やめて貰えますぅ?」
流れる様ないつもの動作で殺されながら、ざらりと砂に返った。
顔を見られたくなかったから、これはこれでお互いに好都合なのだろう。
何となく気恥ずかしい空気になっても、こうしてリセットが可能とは……良いんだか悪いんだか。まぁ、それは時と場合による。
何度も死ぬ度に、ヌーと悲しげな声を上げる愛しの丸には申し訳ないけれど。
「ねぇ、若造。次の休業日は面を貸せ。これは絶対だ」
「…………は?」
そうして話は冒頭へと戻る。
ウェーンと声を上げて、ギャン泣きしながらロナルドが隣の部屋へと連れて行かれてからしばし経った頃。
幾つもの生地を並べるスーツ姿の女性は、ここの支配人の孫娘にあたる。
きっちりとした身嗜みのその女性は、祖父と同じく繊細な指運びで生地を一つ一つ丁寧に扱う。現在は祖父の元で修行中との事で、何れは彼女がその技術の全てを引き継いでゆくのだろう。
服をこよなく愛する祖父と、同じ瞳をしたその女性の所作を眺めながら、贔屓の店の安泰を確信した。
「生地はなるべく上品なものが良いね。けれど彼の事だから、よく動くだろうし、動きをなるべく制限しないようなものが良いな」
「……それでは、こちらの生地など如何でしょうか。光沢もあり、上品な黒。光の加減によっては夜の波間の様な紺碧にも見えるでしょう。柔軟性も兼ね揃えておりますので、どんな動きにも応えます」
ドラルクが提示した条件に、数ある生地の中から迷う事なく一枚の生地を選び出す。
ふわりと持ち上げられたその生地に触れ、その手触りや色味に、ふむ、とドラルクは顎に手を当てる。
「手触りも柔らかさも申し分無いね。色味も上品だし、彼に良く似合うだろう。メインはこれにしよう。ラペルはそうだな。彼の場合、ビジネスよりも、華やかな場に呼ばれる事の方が多いだろうから、太めにしてクラシックなスタイルが良い。これに合うベストも作りたいね。出来れば色は彼のイメージの赤が良い」
「ならば、クリムゾンレッドのこちらの生地は如何でしょうか。色味も派手過ぎず、ジャケットのお色にも合うでしょう。“竜の愛し子”のお噂は予々。何時此方へお連れになるのか、祖父共々楽しみにしておりました。お噂通り、美しいお方ですね。祖父も作り甲斐があると大層喜んでおりましたよ。このお色でしたら、彼の人のイメージにも違わぬと思いますが、如何でしょうか?」
落ち着いた深紅の生地を選び出す女性は、その切長の瞳を細めて、優雅に笑う。流石は竜の一族お抱えのテーラーの優秀な跡取りだ。
顧客の好みや趣向の収集に余念は無い様だ。
此方の情報など筒抜けなのだろう。
「……えー。そんなに噂になってる?やだなぁ。まだ始まってすらいないのに、みんな勝手な話広めないで欲しいんだけどねぇ」
「ふふふ。皆、興味津々なのですよ。吸血鬼は皆、享楽主義ですから。私も何時、彼の人を竜の一族にお迎えするのか、楽しみで仕方がありません。その時は、是非私に一着仕立てさせて下さい。最高の一着をお約束しますよ?」
ふふふ、と瞳を細めて淑やかに笑う女性の様子に、ドラルクはふむ、と顎に手を当てる。
生地選びの際の豊富な知識と、丁寧な指運び。女性ながらも、祖父をも超える才の持ち主と名高い彼女には既に一定層のファンが付いているという。
独自にブランドを立ち上げる事も出来るだろうに。それでも祖父の営む高級紳士服を継ぐ事を決意したという。
「そうだね。いつかその時が来たなら、君にお願いしようかな」
「……ふふふ、それは光栄ですわ。それまでに精一杯精進しておきますね」
彼女とはこれからも長い付き合いになりそうだ、と。
僅かに口元に笑みを浮かべて、ドラルクはそっと頷いた。それに女性は瞳を細め、優雅に笑った。
「まぁ、まずはこの一着を決めてしまわなくてはね。じゃないと、煩いゴリラが帰ってきちゃうし。そうだなぁ。あとは何か、彼を着飾るのにアクセントが欲しいんだけれど、何か良いものとかあるかねぇ?」
「……アクセント……ですか。そうですね……」
ドラルクの言葉に、女性はふと考える様に、一度だけ瞬いて。選ばれた生地を丁寧に机に置くと、迷う事なくとある棚を開いた。
そこから二つの小さな箱を手に、ドラルクの前まで戻り、その蓋をそっと開けた。
「……それでしたら、この様な物は如何でしょうか。美しい花には虫も多い事でしょう。要らぬ虫は、避けられるのが宜しいかと」
小さな二つの箱を差し出され、それを見たドラルクは僅かにその瞳を瞬いた。
そんなドラルクの様子に、女性は満足したのか。まるで悪戯が成功した子供の様に、くすりと口元に笑みを浮かべて。その切長の赤い瞳を細めて、ふわりと優雅に微笑んだのだった。
「……――ー……疲れたぁ……」
帰ってくるなり、ソファに沈み込んで。ぐったりとした顔で唸るロナルドに苦笑しながら、ドラルクはマントを外し、エプロンに手をかけた。
「ヌヌヌヌヌン、ヌヌヌヌヌヌ」
ロナルド君、お疲れ様と。ソファで潰れるロナルドの頭をなでなでと優しく撫でるジョンに、ロナルドは死んでいた顔を上げ、ジョンーと。へにゃりと笑ってジョンを捕まえると、その柔らかな腹毛を堪能する様に、そのお腹に顔を沈ませた。
それに、ヌーと声を上げる愛しの丸は、困った様子で主人に助けを求めた。
「こらこら、ロナルド君。ジョンが困ってるでしょうが」
いつものエプロンスタイルとなったドラルクは、助けを求めるジョンの様子にロナルドへと声を掛けるが、ロナルドはジョンの腹毛に顔を埋めたまま顔を上げない。
「お前があんなとこに俺を連れてったから、精神が擦り減ってんだよ。ジョンに癒やして貰わなきゃ割に合わねぇ……」
心底疲れ切った声で、ジョンのお腹の中から放たれるその言葉。まるで拗ねた子供の様に言うロナルドの声に思わず苦笑して、そのさらりと揺れる銀糸の髪を宥める様に撫でた。
するりと指先を擦り抜ける柔らかな銀色が、心地よく指の間を滑る。
同居を始めた頃は、自分を労わるという発想すらなく、安物のシャンプーで適当に洗われていたその髪。今ではドラルクの使うシャンプーと同じ物を使う様になった為か、滑らかでふわふわの髪質へと変わっていた。
時折、彼がソファでうたた寝している時などに、これはチャンス、と。喜んで徹底的にヘアケアしたりしてきた成果が出たのだと、満足感に思わず口元が緩んだ。
ジョンの腹毛の様にふわふわになったその髪を堪能しながら、ロナルドの頭を撫でていると、ロナルドが段々むず痒くなってきたのか。
僅かに耳を赤くしながら、少しだけジョンの腹から顔を上げて、上目遣いで撫でてくるドラルクを見上げた。
甘やかされる事に、いつまでも慣れない男だ。
揶揄うでもなく、僅かにこてん、と。小首を傾げて笑って見せれば、そのきらきら輝く蒼天の瞳は、再びジョンの腹の中に消えてしまった。
……子供扱いすんなよ、と。
ジョンのお腹の中から微かな声がする。それがくすぐったかったのか、ジョンがこそばゆそうにヌヒヒと笑う。
口ではそんな事を言う癖に、決して頭を撫でる手を振り払ったりはしない事を、ドラルクは知っている。
真っ赤になった耳だけが、彼の感情を雄弁に物語っていた。
「……つーか、なんでそもそも、あんなとこ連れてったんだよ。お前、買いたい物あるって言ったじゃねぇか!!」
「だから、買いに行ったんじゃないか。君のスーツを。……良いかね、ロナルド君。ドラドラキャッスルマークⅡの住人である君が、あんなくそダサ手品師みたいなスーツなんて許されないんだからな!!あんな格好でうちの新年会とか行った日には、一族連中にめちゃくちゃ面白がられるだけなんだから、ちゃんとしたのは一着はしっかり持っておくべきだよ」
君は私のなんだから、私好みに着飾って周りに自慢したいのだ。……私だけの青空の、その美しさを、と。
そんな本音が、思わずぽろりと口から零れ落ちそうになるのを密かに堪えつつ。
ようやく顔を上げたロナルドに、ちくちくと文句を言えば、ロナルドはあのスーツの何処が悪いんだよ、ともごもごと口の中で呟きながらぶー垂れる。
あれで良いと思ってるのは、多分君だけだからな。うん。
「つーか……百歩譲って、ちゃんとしたスーツがあるには確かに越した事はねぇけどさ、何であそこに連れてったんだよ!!あんな高そうな店じゃなくても良くねぇ!!……別に、金が無い訳じゃないけどさ、俺には不相応っていうか、フルオーダーなんて……そんなの、着る機会だってそんな多くねぇのに、作って貰うのも申し訳ねぇ……つーか……」
スーツに着られてる感がヤバいのに、なんで……と、自己肯定感の低さを露見しながら、ごにょごにょと言うロナルドに、ドラルクは思わず真顔になって、彼を見下ろした。
「……ああ、そういえば言ってなかったけど。あのスーツは私が買ったからな。君にはびた一文払わせんから、宜しく」
「――――はぁっ!?」
ドラルクのいきなりの発言に、ビクッと肩を震わせて、思わずソファに沈んでた身体を起き上がらせた。
何を言ってるんだ、と。蒼いその瞳を大きく見開いて、ロナルドがドラルクを見上げていた。
「だって、最初に言っただろ?買いたい物があるから付き合え、と。君のスーツが買いたかったからあの店に行ったんだよ」
「は?何言ってんのお前!!何で、お前が俺のスーツをわざわざ買うんだよ!!買って貰う理由がねえだろ!!」
誕生日とかでもねぇのに、と。
ドラルクの行動原理が分からず、目を白黒させながら、ロナルドは困惑した顔でドラルクを見る。
それにドラルクは、ふむ、と僅かに思案する様に顎に手をあてて、一度だけ瞳を瞬いた。
「……そんなに理由が必要か?ならば、二つ理由をくれてやろうか。一つは、君はドラドラキャッスルマークⅡの住人だ。そんな君があんなくそダサ手品師の様なスーツなのは私が許容出来ない」
「誰がドラドラキャッスルマークⅡの住人だ!!ロナルド吸血鬼退治事務所じゃボケ!!」
ウェーンと半泣きになりながら、くそダサスーツじゃねえやい、と。勢いよく拳を突き出すロナルドに、ざらりと砂にされた。
それに、ナスナスと文句を言いながら、手だけ先に元に戻して、その2と、長く細い指をロナルドに見せつけた。
「もう一つは……君の成人のお祝いだよ、ロナルド君」
「……は?」
砂の中で手だけを復活させただけのドラルクの言葉に、今日一訳がわからないと顔に描かれたロナルドの反応に、ドラルクはサプライズが成功した様な達成感に、思わず満足した。
うーん、見事な宇宙猫顔だこと。
「……は?俺の成人のお祝い?何言ってんの?この間成人したのはヒマリだよ。俺はとっくに成人してんだよ。今更何を祝うって……」
完全に戸惑った顔をするロナルドの様子に、ドラルクはナスナスと少しずつ元の姿へと戻る。
ドラルクの真意を計り兼ねているロナルドは、流石にすぐに拳を振るってきはしなかった。
ただ、戸惑った蒼天の瞳だけが、揺れている。
「別に後から祝っちゃいけないなんて法律も無いだろう。君くらいの年頃であれば、本来スーツの一着くらい大体は持っているものだと思うが?就活にしろ、成人式にしろ、最初のスーツなんて大抵の場合は親が買い与えるものだろう。私は別に君の保護者でも何でも無いが、祝うならばスーツを贈ってやるのも良いかな、と思っただけだ」
「……でも、だからって、あんな高い奴にしなくても……」
つらつらと喋るドラルクの言葉に、ロナルドは戸惑った瞳を揺らして、視線を逸らす。
この自己肯定の低い男は、きっと貰った物に何も返せないと、くだらない事を気にしているのだろう。
善意をそのまま受け取るのが、本当に出来ない可愛そうで、愛しい子だ。
だから、兄に毎年貰っていたお年玉を貯金して、それをそのまま兄にあげるなんて、とんちきな事を平気でしてしまうのだ。
返して欲しいから贈っている訳では無いのだと。
君からは既に、たくさんのものを貰っているのだと。
喜んで欲しいから、贈っているのだと。
どれ程、時を、言葉を、想いを重ねたのなら、それが彼に届くようになるのだろうか。
今はまだ、先の事は分からない。
けれどいつか……彼にこの想いが届きますように、と。
まるで敬虔な神僕にでもなった気分だ……なんて。
全くもって神からは遠い存在であるというのに、こんな祈りにも似た気持ちを抱く自分に、ドラルクは思わず心の中で自嘲した。
戸惑った様に視線を逸らすロナルドの顎を反作用で死なない程度の力で掴んで、ずいっと無理矢理にこちらを向かせる。
普段と違い、僅かに強引なドラルクの態度に、ロナルドは驚いた瞳を見開いて、思わずドラルクを見上げた。
「……それに君の場合、これからも退治人や作家を続けていくのなら、公的な場に呼ばれる機会もあるだろう。その時に、あんなスーツで行かれるのは私としても願い下げしたいからね。これは私の名誉の為でもあるんだ。だから、つべこべ言わずに受け取れ、若造。返却は受け付けないからな!!」
……だから今は、逃げ道をくれてやろう。
私の為に受け取れ、と。
顎を掴んだまま、無理矢理こちらを向かせたロナルドは、ただ戸惑った瞳でドラルクを見上げて。
「……わ、かった……」
ただ、従順に。そう応えるだけで精一杯だった。
それから、時はあっという間に二ヶ月が過ぎた頃。
出来上がった真新しいそのスーツに、不慣れに袖を通すロナルドを手伝いながら、ドラルクはスーツの出来映えに、うん、と満足げに頷いた。
夜の波間を思わせる紺碧のジャケットに、銀の刺繍が良く映える。
上品なクリムゾンレッドのベストも、主張し過ぎず、だからといって霞もせずに、良いアクセントとなっている。
それに元々の器量の良さも相まって、本当に絵になる男だ。
……中身が五歳児だという点を除けば、だが。
「……しかし、まさか……早速着る羽目になるとは思わなかったな……」
「そうだねぇ。出来上がると同時に、こんな大きなパーティーに出席する事になるなんて……あー。今からでも帰りたい。帰ってどらどらちゃんねる配信してたい……」
「うるせぇな。仕事だ仕事。それにてめぇが居ないと始まんねぇんだよ、馬鹿!!」
嫌だ嫌だと泣き言を言うドラルクに容赦なく拳を振るい、ざらりと砂にしながらロナルドは依頼内容を思い出す。
それは一人の吸血鬼の女性からの依頼だった。
まもなく成人の儀を迎える女性で。竜の一族程ではないが、そこそこに古い一族出身だという。
そんな自分の成人の儀を祝う為、開かれるパーティーに出席してほしいという、そんな依頼。
竜の一族であるドラルクが呼ばれるのは当然の事だが、何故退治人であるロナルドにも出席を願うのか。
しかも、依頼という形を取るその真意とは……と問えば、依頼人の女性はその重たい唇をようやく開いた。
彼女が言うには、こういう事らしい。彼女の一族の中で不穏な動きがあり、自分の成人の儀の為のパーティーの中で、不当な吸血行為をさせようという企てが進んでいるらしい、と。
古き一族といえど、どこも一枚岩では無い。
人間に友好的な竜の一族の様な親人派もいれば、人間を家畜としか見ていない一族もいる。
彼女の一族も、決して親人派とは言えないが、無理矢理人間を捕まえて吸血行為を行う様な非人道的な一族では無い。
現に、彼女は人間達の大学に籍を置き、人間との交友を深めていたという。
けれど、そんな彼女の大切な親友が、突然行方不明になったのだという。
恐らく、一族の誰かが親友を攫い、隠したのだろう、と。
吸血鬼は執着する生き物だ。
人間と深く関わる者は、その歩む時の流れの違いにどうしても葛藤を抱える事となる。
それは時に甘く、苦く、狂おしいまでに、残酷な夢を吸血鬼達に抱かせる。
共に歩む事を望むなら、血族へ。
共に果てる事を望むなら、陽射しの中へ。
そして、見送る事を望むなら、痛みと共に永劫の時の中へ。
その苦しみは、痛みは、埋められぬ空虚は、吸血鬼であれば、是が非でも忌避したいものである。
それを危惧する血族の誰かが、彼女の親友を隠したのだろう、と。
そうして、成人の儀を迎える彼女に突き付けるのだ。
執着する前に、彼の者の血を飲み干してしまえ、と。
それが、吸血鬼として一人前となる事だ、と。
そんな成人の儀など、糞食らえだと彼女は苦虫を噛み潰した様な顔で、拳を握り締めた。
吸血鬼にとって血族は、何よりも代え難い大切な繋がりだ。
けれども、それに歯向かってでも、人と共にある事を望む自分は、確かに毛色が違う存在なのだろう。
だが、それでも失いたくないと想う存在なのだと、彼女は肩を震わせる。
自分達の意思も聞かずに、勝手な事をする血族達が許せない、と。
怒りに震えるその華奢な拳は、理不尽な思惑への憤りを訴えていた。
そんな彼女の震える拳を、ロナルドは何も言わずにそっと握って、優しく解かせた。
今まで暴力などとは無縁に過ごして来たであろうそんな華奢で優しそうな指を、どうか、怒りで傷めないで欲しい、と。
その行き場の無い想いは、自分が晴らすから、と。
そうして、彼女の親友を助けると、その依頼を受理したのだ。
「……それで、彼女の身辺を漁っていたら、下手人は彼女の伯父にあたる人物だった、とね」
暴れた事で乱れたロナルドのスーツを直してやりながら、ドラルクは僅かに肩を竦めてみせた。
それにロナルドは、少しの間もじっとしているのが嫌なのか、僅かにむずがる様に、身じろぎをした。
「ああ。どうにも彼女の一族の中でも、かなり地位のある人みたいでな。次期党首になるなら、その伯父だろうと言われてるらしい。実業家で業界ではそれなりに顔も売れてるって話だ」
「表向きは誠実で勤勉な実業家。……でも、そういう人物に限って、裏では案外色々やってるものだよね。まるで三文小説のドラマみたいだねぇ」
そっと開いた小さな箱から、きらりと光るそのピンをロナルドの襟元に飾りながら、ドラルクは皮肉げな表情で笑う。
彼女の伯父の身辺を探った所、表向きは何の疑いもない清廉潔白な物流関係の実業家。それは国内から海外まで、手広く事業を広げている。
けれど、裏では違法な血液の売買や、望まぬ吸血行為を行わせる違法な店の経営。更には身寄りの無い孤児を引き取り、吸血鬼達が秘密裏に行う闇オークションを開催したりと、叩けば埃が出そうな経歴の持ち主だった。
彼等の一族は非親人派とまではいかないが、親人派ともいえず、数多くの吸血鬼と同じく、どちら付かずの立ち位置を貫いている。
その中でも彼女の伯父は、人間は自分達の糧……その流れる血潮も、金銭も、利用価値があるものは搾取するが、それ以上の価値は無いという吸血鬼主義の思想を、清廉潔白な実業家の顔の下に隠している。面の皮が厚いとは、まさにこの事か。
少しアングラな情報を辿れば、直ぐに噂は手に入った。けれども、噂は数あれども、しかし、決定的な証拠を掴ませない。闇の世界に身を置く住人らしく、そこは徹底していた。
彼女の親友を攫ったという確固たる証拠が掴めないまま、彼女の成人を祝うパーティーの日を迎えてしまったのだ。
上品な紺碧のジャケットに、きらりと光る蒼天の輝きに、ドラルクは自分の見立てが間違っていなかったと、一人満足げに頷いた。
深く透き通る様なブルーサファイアのラペルピン。銀の刺繍があしらわれた紺碧のジャケットに、その蒼は良く映えた。
彼の瞳と同じ色のその宝石は、まさに彼の為だけにあつらえたかの様な完璧さだ。
迷う事なくこれを勧めてきたあの女性テーラーの審美眼は確かなものだった。
「……何だよ、これ。こんな高そうなもん、付けんなよ……壊しても、弁償出来ねぇぞ」
一人満足げに飾り立てるドラルクの様子に、ロナルドはうげっと声を上げて、嫌そうな顔をする。
「んー?別に良いよ。壊れたら壊れたで。また違うの用意するだけだし。五歳児には期待してませんからねー」
「殺した」
「事後報告やめて貰えますぅー?」
ここぞとばかりに煽ってくるドラルクをざらりと砂にしたが、何事もなかったかの様に平然と元に戻られる。
理不尽に殺されたというのに、ドラルクは何処か上機嫌に見える。それに訳がわからないと、ロナルドは僅かに顔を顰めた。
「全く、何度も殺すんじゃない暴力ゴリラが。それにそのラペルピンは吸対が細工して、集音マイクになってるんだよ。作戦の趣旨分かってますぅ?君は潜入した中から、吸対や退治人達に状況を伝える役目なんだから、下手な事言わない様、お口にチャックしてなさいって言われてるでしょうが」
「子供扱いすんじゃねぇって言ってんだろうが!!」
「かぁ――っ!!また殺した!!このやり取りだって、吸対に聞かれてるんだからなバカ造!!」
「あ、まじか」
再びざらりとドラルクを砂にした後、これもう電源入ってんのかよ、と。つんっと胸元の蒼い宝石を軽く小突いた。
相手が相手である以上、流石に個人事務所でだけの対応は難しいとの判断になり、既に吸対とギルドへの協力要請は済ませてある。
伯父の尻尾を掴むには、やはり直接パーティーに潜入するしかないと。竜の一族であるドラルクの随伴という形を取り、ロナルドもまたそのパーティーに潜り込む事となったのだ。
気が付けばドラルクの胸元にも、似た装飾の深い紫暗が煌めくアメジストのラペルピンが飾られていた。
まるで対にでもなっているかの様に似た装飾ではあるが、元々紫の宝石を好むドラルクの事だから、ただの偶然だろうと。
深く考えもせずにロナルドは、取り敢えず勝手に付けられたお高そうなピンを壊さない様に、おっかなびっくり過ごさなければいけないのかと、これからの事を考えて、深く溜息を吐いた。
実は密かにシャツの袖口にも、宝石があしらわれたカフスボタンが付けられているのだが、こういう社交の為のお洒落に疎いロナルドは全く気付いていない。
彼の袖口にきらりと光る、ドラルクのラペルピンと同じアメジストの輝きを。
全くの無自覚で無防備な愛し子を、むざむざ虫に食わせてなるものか、と。
要らぬ虫は避けるべきと、優雅に笑ったあの女性テーラーの食えなさを思い出しながら、ドラルクはそっと顎に手を当てる。
そんなドラルクの袖口に飾られたブルーサファイアのカフスボタンが、主の企てを笑う様に、きらりと光を反射した。
ドラルク本人としては、純粋にロナルドを飾る為に用意した物だっただけに、小細工がされたのは不服ではあるのだが。作戦を安全に遂行する為に、ロナルドの身が危険に晒されない様に、と。
吸対に協力を要請した段階で、自ら申し出たのだ。
まぁ、流石に吸対も、宝石が付いた高級なラペルピンに小細工を施すには少し抵抗があったらしく、作戦が終了した暁には、その小細工は取り外しが出来る様に着脱式にしていた。
二対のラペルピンとカフスボタンを見た時の、ヒヨシの顔といったら。
思い出しただけで、くすりと口角が上がってしまう。
…………精々、虫がつかん様にしてやってくれ、と。
苦虫を噛み潰した様に、すれ違い様にぼそりと言ったヒヨシに、勿論ですよ、と。
そう笑って応えたのは、つい先程の事だった。
「……何、にやにやしてんだよ。くそ雑魚砂おじさん。そろそろ作戦、始まんぞ」
「別ににやついてなどおらんわ。全く、作戦のさの字も分かっとらんバカ造の癖に。くれぐれも一人で突っ走るんじゃ無いぞ、脳筋ゴリラ」
「殺した」
「だから、事後報告やめて貰えますぅ?」
隣を歩くドラルクを容赦なく砂にして、作戦直前だというのにいつも通り過ぎるそんな二人のやり取りに、マイクの先にいる吸対や退治人達は、密かに苦笑していたとかいなかったとか。
作戦後にそんな事をショットやマリア達から揶揄われるのだが、それはまた別のお話。
「これはこれは、ようこそお出で下さいました。竜の一族である貴殿が、このような場にお越し下さるとは、我が娘の晴れの日にこの上ない光栄でございます」
「本日はお招き有難うございます。新たな門出となる記念すべき日に立ち会える事、嬉しく思います。心よりお慶び申し上げます」
招待状を片手に、招かれた広間にドラルクと共に通され、ざっと中を見回す。
かつてのドラルク城と少し似た雰囲気の、まるでダンスホールの様な広間。そこに集まるのは吸血鬼ばかりで。ざっと目を通した限りでも、2、30人はいるだろう。
ちらほらと、実業家である伯父の上客であろうかという人間達の姿がある。けれど、それもほんの数人程度。大半が吸血鬼である。
この吸血鬼達の中で、伯父と同じ吸血鬼主義の者が一体どれ程居るのだろうか。
目の前の依頼人の両親は和やかな笑顔を浮かべてドラルクと挨拶を交わしている。
その横顔に、人間に対して害を成そうという悪意は感じ取れなかった。
ただ朗らかに、自分達の娘の成人を喜ぶ優しい両親の姿に、ロナルドの瞳には映った。
「人間の方も、本日はありがとうございます」
「え、あ……こ、此方こそ、お招きありがとうございます」
唐突に此方へと朗らかな笑顔を向けて声を掛けてくる夫妻に、思わずびくりと不自然に身構えた。周りを見る事に意識が行っていたロナルドの様子に、ドラルクが何処か呆れた色を含んだ瞳を向けて、さりげない動作で小突いてきた。
しっかりしなさいよ、と。
よし、後で殺すわ。
そうジロリと目だけで会話しながら、改めて依頼人の両親に向き合った。
「本日はおめでとうございます。娘さんのお話を伺った時に驚いたのですが、偶然にもうちの妹が同じ大学に在籍していまして。娘さんは確か、人間の民俗学について学ばれているとか……うちの妹は吸血鬼の民俗学を専攻しているので学科は違いますが、大学で娘さんともお会いしていたみたいです。人間の文化には少し不慣れだけれど、優秀な方だと話していました」
「なんと。娘と同じ大学に妹さんが……それは何と喜ばしい偶然でしょう。彼の大学は名門校ですから、さぞ優秀な妹さんなのでしょうな。素晴らしい学友を得られた娘は果報者ですね。何分、箱入りで育ててしまった故に、どうにも世俗とは少々ずれが有り、お恥ずかしい事ですが。人間の方々が手助けしてくれるおかげで、大学でも楽しくやれているそうです」
本当に感謝しています、と。そう続ける夫妻の表情に嘘は見られなかった。
依頼人に通っている大学の名を聞いた時、直ぐに気が付いた。
妹のヒマリが通っている大学であると。
正直、仕事の関連でヒマリを巻き込む事は出来れば避けたい所ではあったのだけれども、大学内部の情報になってしまうと、どうしても外部からのアプローチが難しい部分があった。
依頼人を疑う訳では無いが、出来れば依頼人とは違う目線からの情報も欲しい所であった。
そこで、ヒマリに連絡を取れば、彼女は直ぐに了承してくれた。勿論、何か身の危険を感じるようだったら直ぐにやめてくれ、と伝えて。
学科が違う事もあり、接点も薄い相手ではあったのだが、それでもヒマリは学友達を通じて、依頼人とその親友についての情報を手に入れてきてくれた。
長く吸血鬼達の世界で生きてきた依頼人は、人間達の文化に不慣れで、大学では少し不便をしていた事。そんな彼女に最初に声をかけたのが、現在行方不明となっている彼女の親友の女性であった事。
そして、大学で不便の無いよう、色々な事を教えていたという。
よく二人で連れ添って、大学の図書館で過ごしていた姿が、多く目撃されていたそうだ。
とても仲が良く、朗らかな関係であったのだろう、と。
場合によっては狂言か、何らかの策謀の為にこの依頼をしてきたのではないか、と。
疑いたくはなかったけれど、血族に背くにはそれなりの覚悟がいる事だ、と……ドラルクが危惧をしていた。
だから、どうしても他所から見た大学の情報が欲しかった。
ヒマリの情報だけで、全ての可能性を捨てる訳では無いけれど、ロナルドは改めて依頼人を信じたいと思っていた。
本当にただ、親友を救いたいだけなのだろう、と。
その考えを甘いと、ドラルクは笑うかもしれないけれど。それでも、信じる事を諦めたくは無い。
吸血鬼と人間だからといって、手を取り合うなと、引き離そうとするなんて。
そんな横暴は、血族であろうとも許してはいけないんだと。
それは当人達が話し合って、決めるべき事なのだ。
彼女達は成人という門出に立つ若人だ。ならばその行く道は、彼女達自身が選ぶべき事なのだから。
こつり、こつりと乾いた靴音を響かせて、歩いてくる黒髪の紳士の姿に、ロナルドはその蒼天の瞳をゆるりと向けた。
それにその紳士は優雅な仕草でドラルクとロナルドの前まで歩くと、二人へと声を掛けた。
「これはこれは、ご挨拶が遅れて申し訳ない。竜の一族の御令孫である貴殿が、我が姪の成人の儀に立ち会って下さる事、喜ばしく思います。……そして、貴方が噂の……何とも数奇な巡り合わせか。貴方の本が出る度、毎度楽しく拝読させて貰っています。次の本が出るのをいつも心待ちにしております。お会い出来て光栄です。赤の退治人殿?」
依頼人の伯父である男は、赤く光るその瞳をまずドラルクへ。そのまま、流れる様に緩やかにロナルドへと向け、まるで握手を求めるように右手を差し出してきた。
流石に顔が割れている。はっきりと素性を知っているぞ、という伯父の明らかな牽制に、ロナルドは瞳を細め素知らぬ顔で笑い、その右手を取った。
「此方こそ、お会い出来て光栄です。まさか、俺の著書を読んで下さっているとは、大変恐縮です。貴方のお噂も兼々。幅広く事業を行う敏腕実業家だとお伺いしています。本日は誠におめでとうございます」
軽い握手を交わしながら、しれっとこちらも貴方を知っているぞ、と牽制を入れる。
ロナルドのその牽制に、伯父の瞳が僅かに細められた事を、ロナルドは見逃さなかった。
指を離すその一瞬、ちりっとまるで静電気が走るような、微かな痛みが走った。
それに僅かに眉根を顰めながら手を離すロナルドの袖口に、きらりと光るアメジストの輝き。
ロナルドの手を離した伯父の瞳が、目敏くソレを捉え、そして緩やかな視線でドラルクの胸元で揺れる紫暗の輝きを見やった。
その視線に気が付いて、ドラルクは優雅な仕草で顎に手を当て。……何か?とでも問うように、にっこりと笑って、小首を傾げてみせる。
ドラルクの袖口を彩るロナルドの胸元と同じブルーサファイアの煌めきが、さりげなく『コレ』は己のモノだと主張する。
わざとらしく己が執着を魅せつけてくるその様子に、伯父は僅かに瞳を細めた。
一瞬だけ過ぎ去る様に、細められたその瞳に、侮蔑の色が揺れる。
だが、それはすぐに瞼の中に消えて、和かな笑顔の中にするりと溶けた。
「これは、失礼致しました。ドラルク殿。どうにも私はミーハーな質でね。愛読書の登場人物達に出会えて、思わず舞い上がってしまいました。良ければ、あちらに上等なブラッドワインがありますので、ご一緒に歓談でも。勿論、人間の方用のワインもありますので、ロナルドさんもご一緒に。姪の準備にはもう少し掛かるようですので」
伯父はそう言うと、ドラルクを促す様に料理が並べられているテーブルの方へと誘う。
それにドラルクは僅かに瞳を細め、その誘いに乗った。
「ブラッドワインですか、それは楽しみですねぇ。私、ブラッドワインには少し煩いんですよ」
「勿論、世界各地のブラッドワインを取り揃えていますよ。ドラルク殿のお眼鏡に敵うワインがあると良いのですが」
白々しくも歓談する様に、談笑しながら伯父と歩いていくドラルク。その背を見送りながら、ロナルドは僅かに顔を顰めた。
ちりりとした痺れを残す僅かな痛みを指先に感じる。握手した時に何かされた様だと、ロナルドはそっと自分の右手を握り締めた。
それは痛みとは言えない程の、微かな痺れのようなもの。銃を扱うのには何ら問題はなさそうではあるのだが、この違和感が一体何なのか……何らかの催眠の類であろうが、今の所はこれといった変化は見られない。
遅効性のものであった場合、いざという時に不安要素が残る。
伯父が怪しいと、警戒はしていたというのに、それでもあんなに堂々と仕掛けてくるとは思いもよらなかった。
ああも簡単に、接触を許すとは……退治人として、情けない限りだ。
警戒が足りなかった。
それに内心で歯噛みしながら、どう対処するべきかと思案する。
「……あー……すみません。俺はお酒は遠慮します。あまり得意ではないので……」
「おや、そうでしたか。では、ノンアルコールのものを用意させましょう」
伯父がパンっと使用人を呼ぶ様に、軽く手を打つ。それにすぐ様、背の低い使用人が現れた。
靴音も気配すらも無く、その表情すらも何処か虚で。吸血鬼独特の長く尖った耳が少しだけ下がり気味の、中性的な顔立ちの、少年……いや、少女だろうか?
どちらとも、外見だけでは判断の出来ないその使用人は、此方に一度頭を下げると、伯父の指示を受け、慣れた手付きでグラスに飲み物を注ぎ、給仕する。
さらりと短く切り揃えられた色素の薄い灰色の髪の間から、赤い瞳が此方をただ見る。
その瞳には、感情の色が見て取れなかった。
「……すみません。ありがとう」
つい、と。差し出されたグラスを受け取って、ロナルドはぺこりと頭を下げた。
それにその使用人は、軽く頭を下げると、次の給仕へと向かっていった。
視界の端にそれを見送りながら、やはり足音を立てないその様子に、僅かに瞳を細めた。
受け取った飲み物は、目の前で瓶から注がれたもの。何かを仕込んだ様には思えなかった。
警戒する様に、すん、と。一度だけ匂いを確かめるが、薬品の匂いは感じ取れないし、色味も透き通っている。
白葡萄のスパークリング……ノンアルコールのものを、と頼んだので、アルコールは入っていない。
瓶自体に仕込まれていなければ、恐らく問題はないものだろう。
ちろりと、少しだけ舐めて。特に味にも違和感は感じられなかった。
……警戒しすぎか、とも思うが、何分此処は敵の腹の中だ。
何が起きても対処出来なければ、退治人としては失格だ。
安全を確かめた後、こくり、と。一口だけグラスを傾けた。
喉を抜ける爽やかな白葡萄の酸味が、するりと過ぎていった。
「……ん、これは確かに上等なブラッドワインですな。しかも、海外の老舗ブランドのものでは無いですか。流石に顔が広くていらっしゃる。日本では中々お目にかかれない代物ですね」
「そうでしょう?私も昔から贔屓にさせて貰っているブランドのものなのですよ。ここのブランドは特別なルートから卸して貰っているので、日本では滅多に入らないのですよ」
伯父から勧められたブラッドワインに口を付け、ドラルクが上機嫌げに笑う。それに伯父もまた、誇らしげに胸を張り、ブラッドワインを傾けた。
流石に竜の御令孫が相手ともなると、無碍には扱えないのだろう。
普段はただのクソ貧弱ですぐ死ぬクソ砂ゲーム廃人おじさんでも、腐っても竜の一族の直系。あの爺さんが率いる竜の一族の強大さは、やはり並大抵のものでは無いのだろう。
最初は物珍しさからか、此方へと来たが。竜の御令孫を放置してまで、此方を構うのは立場的に難しいだろう。
それを分かった上で、ドラルクも伯父をわざと引き付けている。
此方への関心は少し薄れている様で、一口貰ったグラスを給仕に預け、下げて貰った。
何も仕込まれてはいないと思うけれど、警戒だけは怠るべきでは無いだろう。
ドラルクが伯父の相手をしているのを良い事に、よく見られなかった会場内の様子をきょろりと一瞥する。
そして、何気無い動作で伯父達から少し距離を取った。
壁際に寄り、辺りを観察する。腕を組み、周りを観察しながら、こつり、こつり、と。一定のリズムで胸元で煌めく紫暗の宝石を軽く指で叩く。
こつり、こつり、こんこん、こつり、と。
今現状で見える情報、伯父と接触した事。そして、恐らく何らかの催眠を受けた事。
指で奏でるモールス信号に託して、吸対と退治人達に情報共有する。
微かに奏でられるその音は、パーティの雑踏に紛れ、他の者に気付かれる事は無い。
『状況確認、了解した。引き続き、警戒してくれ。どんな催眠がかけられたのかも分からない。無茶だけはしない様に』
ガガ、と。少しだけノイズを走らせながらも、ヒナイチの声が身体に響く。
耳直接ではない所から音が聞こえるというのも、また不思議な感覚だ。
耳の裏に隠された小型の骨伝導イヤホンから聞こえる声に、了解のモールス信号で応えた。
少し長めの襟足に隠される程の小さなそのイヤホンは、肌色に偽装され、一目では気付かれないだろう。
こういうのも、警察なら直ぐに用意出来る辺り、やはり組織の力は強いな、と思う。
と、パッと会場の電気が落とされた。それに一瞬だけ、息を呑んだ。
不意に暗くなった会場の照明に、ザワザワしていた周りの話し声が、波を引く様に静かになっていった。
いきなりの暗闇に、目が慣れるまで十数秒掛かった。
ドラルクは何処だ、と。一瞬だけ焦る気持ちを感じ、ドラルクと伯父がいた辺りに視線を向ければ、暗闇の中、平然とそこにいた。
吸血鬼にはこの程度の暗闇は、昼と同じ明るさなのだろう。
目の構造が人間とは異なる故に、見える世界もまた違う。
瞬間的に視界を奪われる人間とは、やはり生き物として違うのだ。
ふ、と。視線に気が付いたのか、ドラルクが不意に此方へと視線を向けた。
その小さな眼球で此方を見て、そして、安心しろとでもいうように笑った。
……様に、見えたけれど、暗闇の中では良く分からなかった。
演出の一環として落とされた照明の中、静かな音楽が流れ始める。
どうやら、本日の主役のご登場らしい。
パッと、2階に繋がる階段にスポットライトが当たる。そのキラキラした光の中、父親にエスコートされた一人の女性が、何処か緊張した面持ちでそこに立っていた。
漆黒の長い髪を緩やかに流し、吸血鬼独特の白い肌に映える、深紅のドレス。嫋やかに揺れるその裾には、僅かにラメが入っているのか、キラキラと光を反射していた。
胸元に付けられた赤いスイートピーのコサージュが、彼女の成人を祝う様に、麗しく咲き誇っている。
「皆様、本日は私の成人の儀によくお越し下さいました。心より、感謝申し上げます」
少しだけおず、と。緊張の色を滲ませた声で、依頼人の女性は謝礼を述べる。
スカートの端を摘み、優雅に一礼した後、父親の手にエスコートされながら、音楽と共に依頼人の女性が階段を降りてくる。
こつり、こつりとヒールの音を響かせながら、美しい真紅のドレスが揺れる。
その姿は、成人を迎えるのに相応しい姿であった。
不意に会場から拍手が上がる。パチパチ、パチパチと。
成人する依頼人の女性を祝福する様に、ようこそ夜の世界へ、と誘う様に。
その拍手は波の様に広がって、会場中から祝福の拍手へと変わっていった。
そうして、ようやく一階へと辿り着いた女性の動きに合わせて、落とされていた照明もゆっくりと戻されていく。
暗闇に慣れていた瞳が、再び光に慣らされ、僅かに瞳を瞬いた。
響いていた拍手が鳴り止んで。静まり返っていた会場に、音が戻ってくる。
遠のいていた歓談が戻り、会場内は再び和やかな雰囲気へと戻っていった。
ようやく現れた今日の主役に、集まった人々は周りを伺いながら、祝辞の言葉を告げる為に動き出していた。
それを遠目に眺めながら、さて、どうしたものか、と。壁際に寄って、人々の動きを観察する。
一時的に伯父から解放されたのか。
伯父に張りついていたドラルクが、ブラッドワインのグラスを片手にいつの間にか傍に来ていた。
「……飲まんのかね」
「敵地でほいほいと、飲食物口に出来るかよ」
「……まぁ、疑われん程度にしておくんだね。こんな大所帯のパーティーで。ましてや私の様な高貴な存在がいる所では、下手な事はせんだろうよ。あの狸の御仁はね」
くるり、くるり、と。さも退屈そうに。
ワイングラスを回しながら、こくり、と。一口その赤い液体を飲み下し。
視線を姪の晴れ姿を称賛している伯父へと向けて、ドラルクは言う。
それにロナルドは、まぁ、そうだろうよ、と。小さく肩を竦めた。
「……それよりも、ロナルド君。君、また何かされたらしいね」
君、本当に催眠耐性弱いよねぇ、と。
ひそりと声を顰めて、ドラルクが言う。それにロナルドは小さく舌打ちをしながら、未だに微かな痺れを訴える指先を持ち上げた。
「……うるせぇよ。まさか、あんな堂々と仕掛けてくるとは思わなかったし……今の所、何だかわかんねぇ催眠だ。……まぁ、何とかなんだろ。俺は強いからな」
そう言って、ロナルドはぎゅっと右手を握り締める。
指先に走る違和感は、微かなものだ。
その言葉に苦虫を噛み潰したかの様に眉根を寄せたドラルクが、がちんっと悔しそうに一度だけ牙を噛み締めた。
隣から響いたその微かな音に、ロナルドは自らの拳に落としていた視線を上げて、どうしたのかと瞳を瞬いた。
その顔を眺めながら、ドラルクは苦々しげに盛大に溜息を零したのだった。
「……折角虫除けしといたのに。全く君って奴はさぁ。迂闊というか、何というか」
「あ?虫除けだぁ?テメェ、俺を殺虫剤代わりにでもしようとしやがったのか?」
帰ったら殺すからな、と。ドラルクの言葉の真意を理解していないロナルドは、拳を握って殺害予告を口にする。
向けられた拳の袖口で煌めく紫暗の輝きを見下ろしながら、届かぬ真意の行方に、ドラルクは再び、盛大な溜息を零したのだった。
――と。そんな二人に、本日の主賓が靴音を響かせて近付いてくる。
どうやら、来訪した人々に主賓自ら挨拶して周っていたらしい。
優雅に一礼する様に、スカートを僅かに摘んで、麗しい依頼人が淑女の挨拶をした。
「本日は私の成人の儀へお越し下さり、ありがとうございます。竜の御令孫ドラルク様。そして、吸血鬼退治人ロナルド様。心より、御礼申し上げます」
ふわり、と。花が咲くように。
胸元に飾られたスイートピーに負けぬ麗しい微笑みで、依頼人は柔らかな声で謝礼を告げた。
それに思わず緊張した面持ちで、ロナルドが襟を正す。
綺麗な女性を前にすると、どうしたって緊張するのは、彼の未熟故の性だ。
流石に華やかな場であるだけに、いつぞやの蜘蛛女の時とは違い、デレデレと鼻の下を伸ばしたりしないだけ、まだマシだが。
ガチガチに緊張している様子に小さく苦笑すると、コツン、と肘で小突いてやりながら一歩前に出る。
「本日は誠におめでとうございます。これで貴女も立派な“夜”となられた訳だ。ようこそ、淑女。貴女が歩む道が、貴女らしいものであれるよう、この夜に祝福を」
そう言って、依頼人の女性の手を取ると。ドラルクは流れる動作でその手の甲にキスをした。ちゅ、と軽いリップ音を立てて落とされるキスに、女性は一瞬驚いた顔をした様だったが、海外の文化に慣れているらしく、ふわりと笑ってその挨拶を受け入れた。
逆に驚いてしまったのはロナルドの方で、ヒナイチ以外にしている所を見た事も無かったが故に、思わずきょとんとした顔で、ドラルクを見つめてしまった。
こういう事は、海外では普通に挨拶であり、実際に唇を付けている訳ではない、と前に教えられたけれども。
それでもやはり、海外と日本では文化が違う。
どうにも見慣れないそれを目の当たりにしてしまうと、やはり育った環境が違うのだな、と。まざまざと見せつけられている気分になる。
何処か心の中で何かがもやり、とするようなよく分からない感覚に襲われる。
けれど、それの意味が解らない。何に対して?誰に対して?
……いいや、今は考えるべきではない事だ。
現在は依頼の真っ最中だ。仕事に集中しろ、と。
先程見た光景を、ぐしゃりと頭の中で握り潰す。
ふるりと一度だけ軽く頭を振って、気持ちを切り替える。
ガチガチに緊張していた身体を、深呼吸する事で解し。ドラルクの挨拶が終わったのを横目に、ロナルドも一歩前に踏み出した。
「本日は誠におめでとうございます。成人となられたお気持ちは如何でしょうか。まだ実感はきっと湧きませんよね。俺もそうでしたよ。大人になった貴女にはこれから様々な事があるとは思いますが、どうぞ一人で抱え込まないで。何か困り事などがあれば、遠慮なく声を掛けて下さいね」
微力ながら、お手伝いさせて頂きます、と。ロナルドは笑って挨拶した。
その言葉に女性は、ふわりと微笑んでその挨拶を受け入れた、のだが。
「……ロナルド様。ありがとうございます。……けれども、御免なさい」
「――――え……?」
一変してその表情を曇らせた女性の、突然の謝罪の言葉に。思わず驚いて、瞳を瞬いた。
その瞬間、女性の背後にいた伯父が、ぱちんっと指を鳴らした。
「…………あ……?」
ぱちんっと。耳のそばで音が弾けた瞬間、ぐらりと視界が歪む。
ちりちりと痺れていた指先の感覚が、指から腕へ、腕から身体へ、身体から首筋へ、と。痺れに似た何かが駆け抜けていく。
それはまるで、電流に似た感覚だった。
何が起こったのか分からないまま力が抜ける身体が、自分の意思とは関係なく床に膝を付く。
けれども、そのまま倒れるものだと思っていた身体は、伯父の側にいた体格の良い男の従者に支えられていた。
何だ、これ……と頭では思うのに、身体が言う事を聞かない。
「――――ロナルド君!!」
そんなロナルドの様子に、ドラルクが金切り声を上げ叫んでいるのを、何処か他人事の様に聞いていた。
……任意のタイミングでの発動型の催眠術、だったのか、と。
思わずぎりっと悔しさに歯軋りしたいけれども、それすらも思う様に出来ない。
ちりちりと脳すらも痺れさせられているみたいで、思考が上手く働かない。
そんなロナルドの身体を従者の男が無理矢理に引き上げる。けれども、身体に力が入らないので、立つ事もままならない。体重の殆どを従者に預けている状況だが、それでも従者の男の体幹はぶれなかった。
まるで、人質みたいな扱いだな、と、ぼんやりとした思考でそんな事を考えていると、目の前のドラルクがぎりりと、歯噛みしている様が見て取れた。
執着している愛し子が、まざまざと別の男の手に落ちている。
そんな状況でヘラヘラと笑っていられるものか。
意識があるのか、無いのか。何処かふわついた視線を彷徨わせるロナルドの様子に、彼の抵抗は期待出来ない。
普段はあんなにも、意志の強い瞳で何処までも騒がしい男だというのに。今は見る影もない。
何勝手にしおらしくなっているんだよ、と悔しさに思わず牙がぶつかる。
ぎりりと歯噛みして伯父を睨み付ければ、さもどうしましたか、と言いたげな顔で口元を引き上げて笑っている。
人のものに勝手に手を出しておきながら、その態度とは、ただで済むと思うなよ。竜の尾を踏み付けたその代償は、いずれ払わせてやるからな、と。心の中だけで呟いて、ドラルクは目の前の男を睨んだ。
「……ロナルド君をどうするつもりかね。返答次第ではタダでは済まさないぞ」
まるで唸る様に、存外冷たい声が出た。その声に伯父は、はっと鼻で嘲る様に笑った。
「全く、竜の御仁ともあろう方が、随分とこの人間にご執心ですね。嘆かわしい。ドラルク殿、貴方も古き血の次世代を担う者ならば、人間に対してのその態度は改めるべきだ」
突然の物言いに、思わずカチンと来て、ドラルクは盛大に眉根を寄せる。
「――はぁ?うちの一族の在り方を、貴殿にとやかく言われる筋合いは無いと思いますがね?」
「……これだから、人間贔屓の竜の一族は。筆頭からしても、かつて一人の人間に随分執心していたそうじゃないですか。全く、血は争えんものですな」
愚かな一族だ、と。口汚く罵る伯父は更に侮蔑的な瞳で、ドラルクを見る。
自分の事だけでなく、一族の事、更には御真祖様の事までをも侮辱され、黙っていられる程ドラルクは温厚ではない。
背筋を震わせる程の怒りが駆け抜けて、思わず怒りのままに憤死しそうになった。けれど、敵前で砂になっているわけにはいかない。
ざらりと砂になりかけるのを、ぐっと拳を握りしめる事で耐えて、ドラルクはぎりりと歯噛みした。
「人間達との共生関係など、ただの理想にしか過ぎない。彼等は隣人等ではなく、ただの利用価値のある家畜同然の存在ですよ。我等吸血鬼の方が人間達よりも遥かに優れ、優秀なのだと。世間は認めなければいけない。それ相応の立場で接するべきだと、ね」
それが、我等吸血鬼と人間達のあるべき姿なのだと、伯父は高らかに謳う。
その余りにも吸血鬼主義の理論に、思わず怒りを通り越して、吐き気を覚える程の嫌悪感を抱く。
そんな男の手に、自分の愛し子が囚われているなどと、許せる筈もなかった。
――と。そんな伯父達の会話を遮る様に。ひらりと赤いドレスを靡かせて、対峙するドラルクと伯父の間に進み出る影が一つ。
僅かに震えていた赤い瞳を、けれども、真っ直ぐに伯父に向けて。
依頼人の女性が靴音を響かせて、歩み出る。
それに伯父は、高説を垂れる口を閉ざし、姪を見た。
「……伯父様。ロナルド吸血鬼退治事務所で依頼をし、お二人を誘き寄せろという、貴方との約束を果たしました。今度は貴方が私との約束を果たす番です。あの子を、私の“昼の子”を返して下さい」
凛っと澄んだ声で、依頼人の女性は伯父と対峙する。真っ直ぐな赤い瞳に、執着の色を浮かべながら。
そんな姪の姿に、僅かに呆れた様子で伯父の瞳に侮蔑の色が滲む。
肩を竦め、わざとらしく小さな溜息を吐くと、近くの従者に目配せをした。
その瞳を受けたあの小柄な従者が伯父に一礼すると、すっと踵を返し扉へと向かっていった。
それを見送りながら、依頼人の女性は申し訳なさそうに瞳を細め、ドラルクを見た。
「申し訳ありません、ドラルク様。私は、私の昼の子の為に。貴方方を利用しました。あの子を取り戻す為には、選べる手段がありませんでした」
例え、伯父の傀儡とされたとしても、と。
親友の女性を取り返せるのならば、後悔はしていない、と。真っ直ぐ見据えてくる赤い瞳が、そう物語っていた。
その瞳に揺れる強い執着の色には、自分にも覚えがある。
時に熱く、激しく。狂おしいまでに燃え上がるその激情の色を、責める事は出来なかった。
たった独り、強大な伯父と対峙しなければいけなかった彼女の事を想えば、責めようがなかった。
「……淑女、貴女は我等の依頼人です。貴女の昼を取り返す為の依頼は既に承っています。ならば、堂々としていなさい。何、心配せずともうちのゴリラがなんとかしますよ」
うちのゴリラは優秀なんでね、と。流れる様にぱちんっと片目を瞑って笑うドラルクの様子に、依頼人の女性は一度だけ大きく瞳を開いて、そしてくすりと小さく笑う。
退治事務所で何度も会話したあの二人の様子のまま。変わる事のないその態度に、思わず安堵する。
そんなドラルクの様子を不愉快そうに見る伯父が、少し苛立たしげに睨んでいるけれど、ドラルクは敢えてそれを無視をした。
優位な立場は此方の筈であるのに、それでも尚、飄々としたドラルクの態度に腹が立つ。
彼の竜の愛し子は我が手中にあるというのに。その余裕面がいつまで保つ事か、と。
伯父はドラルクを嘲る様に、はっと鼻で笑った。
と、ぎぃっと音を立てて、扉が開く。
こつり、こつり、と。ヒールの音を響かせて、一人の女性が小柄な従者に手を引かれ、ホールへと入ってくる。
白百合をあしらった真っ白なドレスに身を包む、淡い亜麻色の髪の女性。歳若さ故のまだあどけない顔立ちの少女が、何処か虚な足取りで従者に連れられてくる。
その瞳に光は無く、正気の色は見られなかった。
けれど、その身や首筋に外傷は無く、その精神以外、大きな危害は加えられていない様に見えた。
最も、精神を害している段階で、魂への暴虐であるのだけれども。
決して許されざるものではあるものの、この国では催眠による被害を立証する事は非常に難しい。科学的に証明出来ないものは刑事罰として裁く法律が無いのだ。
彼女の精神を取り戻し、無理矢理拉致監禁を強いられた等の証言を得られなければ、伯父を刑事的に裁く事は出来ないという事だ。
「夏帆!!」
依頼人の女性が連れて来られた親友の無事な姿に、思わず声をあげ、駆け寄ろうとする。けれども、それよりも一瞬早く、伯父から目配せされた小柄な従者が、親友の女性の前に立ち塞がる。
まだ返すつもりは無いという事か。
従者に行手を阻まれた依頼人の女性は、ぐわりと赤く光る瞳孔を見開き、伯父を睨み付ける。執着に塗れたその鋭い眼光は、まさに吸血鬼のソレだった。
そんな姪の瞳を受けた伯父は、瞳を細め至極愉快そうに笑った。
これぞまさに、吸血鬼だ、と。
「……まぁ、落ち着きなさい、有栖。事が終わったら、彼女は無事に返す。そういう約束だっただろう?」
私がお前との約束を破った事は無かっただろう?と。
さも優しい伯父の皮を被り、伯父は笑う。そんな伯父を、依頼人の女性はただ鋭い眼光で睨みつけている。
「さて、ドラルク殿。一族のお見苦しい所をお見せして申し訳なかったが、いい加減本題へと入りましょうか」
姪の睨みを無視する様に、伯父はくるりとドラルクへと向き直る。ドラルクは苛立つ心を抑え、余裕のある顔で伯父と向き合う。
勿論、余裕なんてものは無いが、隙を見せれば喉元に食い付かれるのがこういった上流階級の社会だ。普段は面倒でこんなものは御父様達に押し付けてきたが、こういった場での礼儀作法は、何処かのいけ好かない氷笑卿に十二分に叩き込まれている。
ふわりと顎に手を当て、相手を煽る様にくすりと笑い。ドラルクは伯父へと対峙する。
「……おや。“私の”ゴリラを返す気になりましたか?」
「ははは。ご冗談を。これ程の美しい“昼”をゴリラだ等と。世が世なら、信仰の対象として祀り上げられた事でしょう」
「それは願い下げですな。ただでさえ今も強火なファンが多いというのに。そういった羽虫は念入りに虫除けしなければ。すぐ変な虫に引っ付かれるんですからねぇ」
……困ったゴリラなんですよ、と。
ドラルクの袖口で、ブルーサファイアのカフスボタンがキラリと光る。
遠回しに羽虫呼ばわりされた事に、伯父は僅かに苛立ったらしく、ぴくりと眉が揺れる。
そんな伯父の様子を嘲笑う様に、ドラルクはわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「……良い加減、まどろっこしいのも終わりにしましょう。それで?わざわざ姪御殿を利用してまで、何故私達の所に依頼を?事と次第によっては、どうなるか……“解って”おいでですよねぇ?」
ぱさり、と。微かに乱れた前髪を掻き上げる様に。ドラルクはそっとその髪を掻き上げ、笑顔を消して伯父を睨む。その指に嵌められた竜の指輪を見せつける様に。
それは何かあれば、我が一族が黙っていないぞ、という明確な脅し。
竜の直系のみが持つその指輪の前に、口を噤まない者はいない。現に、目の前の伯父もまた、その恐ろしさに思わず閉口する。
彼等の血統も、そこそこに根強く古い血統ではあるのだが、竜の一族の強大さはまた別格である。
夜の世界で竜の一族と好んで敵対しようという物好きは、早々はいない。
巷でまことしやかに流れる“竜の愛し子”の噂は、やはり本当だったのか、と伯父はちらりと虚な瞳を彷徨わせる退治人へと走らせる。
その透き通った蒼天の瞳と吸血鬼が忌避する銀糸の髪。けれども、思わず手を伸ばしそうになる程、美しく整ったその顔立ちに、惹かれない吸血鬼はいない。
けれども、吸血鬼と吸血鬼退治人が恋仲であるだ等と、片腹痛い。
吸血鬼としての威厳は無いのか、と。ロナルドの胸元できらりと光るドラルクと対のラペルピンを睨み付け、はっと侮蔑する様に伯父は笑った。
「……は。何も竜の一族と事を荒立てたい訳ではありませんよ。ですが、ドラルク殿。私は憂いているのです。昨今の吸血鬼と人間達との関係に」
「それはまた随分広い視野をお持ちで。その憂いと、我等とに、一体何の関係があると言うのです?」
相手をするのも面倒臭いと言わんばかりに、ドラルクは冷たく瞳を細める。
自分達に関係の無い所で勝手やってくれ、と。享楽主義者らしく、興味のない事には一切の無関心を貫くドラルクに、伯父は小さく溜息を吐いた。
「貴方方は吸血鬼でありながら、吸血鬼退治人でありながら、相棒などと宣われていらっしゃる。勿論、それがフィクションなら分かりますよ?彼の著書は確かに名作ですし、楽しみにしている者も多いでしょう。エンターテイメントとしては有りですが、現実ではそれはどうでしょう?貴方方の関係を、良く思わぬ者達は、存外に多い、と。思いませんか?」
勿体ぶる様に、わざと言葉を切って。侮蔑の色を含んだ瞳で伯父が笑う。
それに苛立ちを隠さぬドラルクは、冷たく瞳を細めると、溜息を零した。
「……だからなんです?赤の他人が我等の事を何と言おうが、私達は私達という形なんですよ。何も知らない赤の他人に、とやかく言われる筋合いはありませんね。それに、私はこの生活が存外気に入っているんですよ。出て行くつもりも、追い出されるつもりも、金輪際ありませんね」
ゴリラが泣いて懇願した所で、出て行ってやるものか、と。ふんっと鼻を鳴らし、ドラルクははっきりと宣言する。
その言葉を、虚ろな瞳で聞いているロナルドは、一体何処まで話を理解しているのか。
ぱちり、ぱちり、と。虚ろな瞳を瞬くロナルドを見やりながら、この言葉の真意が何時になったら彼に届くのだろうか、と。
思わず自嘲が込み上げそうになるのを堪えながら、ドラルクは伯父を睨んだ。
「……そうですか。ご理解頂けないようで、残念です。竜の一族の次代を担う御令孫がこの体たらくでは、竜の一族の未来、延いては吸血鬼の未来に暗い影を落とす事でしょう。大変嘆かわしい事ですね」
そう言いながら、伯父は残念そうに肩を竦める。そして、そのまま。
すっと、手を挙げると再び、ぱちんっと指を弾いた。
「――――!?」
その音が響いた瞬間、ロナルドの身体がびくりと跳ねた。
虚ろだった瞳がぐらりと揺れて、更に暗く濁っていく。再び何らかの催眠の負荷をかけられたのか、苦しげに顔を歪めている。
「貴様!!ロナルド君にまた何かしたなっ!!」
またしても自分の目の前で、愛し子を害されて。ドラルクは繕っていた口調すらも崩し、牙を剥き出し伯父を睨む。
ドラルクの余裕顔が崩れた事に、伯父は嘲るように笑いながら、ドラルクを見た。
「……何。少々認知を歪めただけですよ。人間は吸血鬼に従うべきもの、と。命令に従う事こそ至高。吸血を受ける事は最大の寵愛だと。彼の優秀な退治人も、こうなってしまえばただの傀儡。今なら、どんな命令にも従う事でしょう」
……まだ、随分抵抗している様ですがね、と。
従者に支えられ、苦悶の表情を浮かべ、瞳を彷徨わせるロナルドを見下ろしながら、伯父は無駄な抵抗だと嘲笑う。
かなり強い暗示をかけている筈なのに、それでもまだ抵抗の意思がある事に、内心では驚いている。
流石は新横の中でも一目を置かれる吸血鬼退治人という事か。
いざという時の意思の強さは、目を見張るものがある。
が、そんな抵抗も此処までだ。
無遠慮にロナルドの顔に触れると、無理矢理顔を上げさせる様にぐいっと顎を掴み上げた。
それに、ぐっ、と。苦しげなロナルドの微かな呻きが漏れた。
が、その瞬間。背筋を抜ける様な圧倒的な寒気にも似た悪寒が、伯父の背を駆け抜けた。
「――ロナルド君に触れるな」
低く、冷たい声が静まり返った会場に、静かに響く。
赤く鋭く光る獰猛な眼光で、伯父を射抜かんとばかりの。激しい激情と執着をその眼に秘めたドラルクの静かな怒りは、空気が震えそうな程の威圧感を伴っていた。
竜の逆鱗、とでも言おうものか。
竜は大切なものを自らの根城に隠し、誰の目にも触れさせぬ様守るもの。
その宝物に無遠慮に触れた咎人に、果たして慈悲は有るのだろうか?
「……貴方一人では何も出来ない癖に、よく吠えますね。私が此処で従者達に命令を下せば、貴方の“昼”も、姪の“昼”も……我等では辿り着けぬ彼の川を渡る事となりますよ?それでも良いのなら……止めませんけれどね?」
ちらりと依頼人の女性を牽制している小柄な従者へと視線を向ける。その主人の命に従い、無感情のままのその従者は赤く鋭い爪をジャキンっと伸ばし。親友の女性の無防備に曝け出された白い首元へと突き付ける。
真っ白なドレスの胸元に飾られた白百合が、かさりと揺れる。
赤く透明に煌めくその爪は、鋭くナイフの様に研ぎ澄まされており、今にも親友の女性の玉の肌を傷つけられる事だろう。それはよく見ればその従者の血で作られた刃であるらしかった。
「――伯父様!!夏帆は無事に返すという約束を違えるつもりですか!!」
「黙っていなさい!!有栖!!」
親友の女性の危機に、思わず声を荒げた依頼人の女性を、伯父が一喝する。
大人の世界に子供が出しゃばるな、と。冷たく言い放つ伯父の言葉に、依頼人の女性は悔しげに唇を噛んだ。
成人の儀を迎えたとはいえ、彼女は伯父にとってはまだまだ子供だという扱いでしかない。
強大な伯父にとって、取るに足らない存在だという事に変わりはなかった。
自分の力では、結局親友を取り返す事が出来ない。その為の力も知恵も、まだまだ不足しているのだと、思い知らされる。
ぎりりと、悔しげに拳を握りしめた所で、思わず、はっと思い出す。
あの事務所で、そっと拳を解いてくれた……あの温かい掌の感触を。
今まで暴力とは無縁に過ごしてきたその優しい指を、
どうか、怒りで傷めないで欲しい、と。
その行き場の無い想いは、自分が晴らすから、と。
自分の無念を引き継いでくれた真っ直ぐで優しい蒼天の青を思い出して。
依頼人の女性はぎゅっと、もう片方の手で握り締めた拳を包み、まるで、祈る様に手を組んだ。
「吸血鬼は吸血鬼たるべき存在で。人間はそれに従う血袋であるべきだ。世界は正されなければいけない。でなければ、変わらないのだから。……さぁ、退治人ロナルド。私の眼を見ろ」
――そして、堕ちてこい、と。
赤く鋭い眼光が、いまだに抵抗を続けるロナルドを屈服させようと、その力を、呪詛の様な猛念を解き放つ。
ただでさえ顎を無理矢理取られ、逃れる術が無いというのに。低く、魂に直接命じるように放たれた伯父の言葉に、最後の抵抗すらも封じられた。
「…………あ……ぁあ……」
ぐらりと、世界が歪む。伯父の赤く光るその眼から、逃れる事が出来ない。
自分の中の世界が歪んでいく音がする。
頭の中のあちこちから、大人しく命令に従えと響く声に、抗おうという意思すらも奪われていく。
これは、魂への侵略。己が己である事すら赦さぬ悍ましき蛮行。
こんな事を許してはいけないと、頭では警鐘を鳴らすのに。それに抗えるだけの力が根こそぎ奪われていく。
何も考えなくて良い。言われた事に従えば良い。それがお前にとっての幸福だ、と。
まるで耳鳴りの様に響く声が、思考力を奪っていく。
この声に身を委ねる事こそ、何よりも甘美な事であると。
ぐにゃりと世界が歪む。
その歪んだ視界の先に、青白い顔をしたドラルクが見えた。
…………ドラ、ルク……と。
音に鳴り損ねた微かな吐息だけが、ドラルクの名を刻んだ。
かくり、と。蒼天の瞳から光が抜け落ちて。意思の欠片すらも手放したロナルドの様子に伯父は満足した様に、顎から手を離した。
そして、何も出来ず立ち尽くしていたドラルクを振り返る。
「……さぁ、今度は貴方の番ですよ。ドラルク殿」
伯父の言葉に、ドラルクは僅かに身構える様に片足を後ろへと下げる。
「私の番、というのは?……何をさせようと言うんです?」
「何。大した事ではありませんよ。貴方に危害を加えるつもりはありません。ただ、貴方には吸血鬼としての在るべき姿を、この場で示して頂きたいだけです。この観衆達の前で、吸血鬼退治人ロナルドを吸血して下さい」
ドラルクの問いに、伯父はにやりと笑い、会場に響く声ではっきりと告げる。
無理矢理に吸血行為を強制するその言葉に、ドラルクは思わずふつりと沸いた怒りに、がちりと牙を噛み締めた。
「……成程。随分、悪趣味な事ですね」
吸血行為は生きる為の行為ではあるけれど、ある種では特別なもの。
特に、想いを寄せる相手への吸血ならば、尚の事。
生きる為だけにただ貪る吸血行為とはまた意味も異なるもの。
自分の命を相手へと信じて預け、そして心の底から相手を受け入れる事。
貰う側も、与える側も。
相手の命の雫を我が身へと取り込み、糧とする。そういう特別な行為だ。
まだ想いも伝えられていない、受け入れて貰えていないというのに、その行為を強制される等と、腑が煮え繰り返る程の怒りを覚える。
……あぁ、この怒りだけで自分は砂になれる程だろう、と。
ざらりと崩れたくなるのを堪えながら。竜の指輪のついた指を、ぎゅっと握り締めた。
竜の尾を無遠慮に踏み躙る不届者には、然るべき制裁を。
ふつりと湧く仄暗い怒りの焔は、静かに燃え上がっていた。
ちらりと視線を伯父の背後へと向ければ、いまだに親友の女性を脅かす従者の姿が見て取れた。
「吸血鬼は絶対の支配者。人間達はそれに従う血袋であるべきなのです。貴方が退治人ロナルドを吸血すれば、真相はどうあれ、瞬く間に噂は広がる事でしょう。吸血鬼は享楽主義者が多いですからね。そして、思い知るのです。人間と吸血鬼が対等な相棒関係だなどと……そんなものは幻想でしかなかったのだと」
――さぁ、世界に亀裂を入れましょう。
まるで悪魔の様にそう促し、笑う伯父の顔に虫唾が走る。
ロナルドだけでなく、親友の女性すらもその命を握られている。赤く煌めく従者の爪を突き付けられながら、ただ虚ろな瞳で立つ女性。巻き込まれただけの彼女には、何の責もない。
けれども、ロナルドと彼女を天秤にかけた時、傾く方向は決まっている。
だが、それでも。
ロナルドはきっと彼女を見捨てない。我が身を差し出す事を迷い無く選択する愚か者だ。
それが彼の為人であり、彼の高潔な魂なのだ。
それを分かっているが故に、傾く天秤を無理矢理別の方に傾けなければいけない。本当に、難儀な事だ。
ドラルクは瞳を伏せると、深く、溜息を零した。
そして、意を決した様に瞳を開くと、ちらりと冷たい眼で伯父を見た。
「……良いでしょう。吸血しましょう。けれどその前にその無粋な従者を下がらせて貰えません?私のロナルド君に、いつまでもベタベタと。ロナルド君は今、貴方の傀儡となっているのでしょう?暴れる事なんか無いでしょうから、離してくれません?」
……それとも、私が吸血する所を間近でご覧になりたいので?
見せてやる気など、毛頭無いけれどね、と。皮肉じみた笑みを浮かべながら、ドラルクが不機嫌そうに従者を見やる。
竜の御令孫の機嫌を損ねた、と。それには流石の従者も戸惑ったらしく、困った顔で伯父を見れば。伯父もそれで事が上手く運ぶなら、と、従者が離れる事を許可する。
それに安堵して、体格の良い従者はロナルドの身体を離し、おずおずとその場から離れた。
僅かにふらりとしたロナルドだったが、先程よりは身体の力が戻ったのか。虚ろな瞳のままそこに立っていた。
従者が十分に離れた事を確認したドラルクは、そんなロナルドの傍へと歩み寄った。
こつり、こつりと。響く靴音が、静まり返る会場にただ響く。
まるで人形の様に立ち尽くすロナルドの虚ろな瞳が、ドラルクを映す。
意思の宿らないその蒼天の瞳は、まるで硝子玉の様だった。
「……ロナルド君」
手を伸ばせば、もう触れ合える所まで。ようやく近付けたドラルクは、そっと手を伸ばす。
恐ろしい程整ったその顔に、いつもの快活さは無い。
まるで美しい蝋人形のよう。もしその肌に触れて、吸血鬼よりも冷たい感触が返ってきたらどうしよう。
彼にもし、何かがあって。自分の目の前から消えてしまう事になったのならば。
こうして蝋人形として傍に置き続けようか、なんて。
そんな事を考えて、思わず自嘲した。
……いや。無理だ。そんなもの、自分の趣味ではないな。
屍体愛好家では無いし、触れ合って冷たい温度が返るだけで、心が張り裂け何度も死ぬだろう。
けれども、彼と同じ場所へいけないのだと、絶望する。
そんな未来を思わず幻視して、なんて事を考えるのだと自分を諌めた。
ふわり、と。その頬に触れれば、柔らかな感触と、温かい温もりが返ってきた。
……ちゃんと、彼は此処にいる。ちゃんと、まだ自分の傍にいる。
その事実を、ただ噛み締めた。
「……ドラ……ルク……」
この距離でさえ、耳を澄まさなければ聴こえない程の、まるで吐息の様に。ロナルドがドラルクの名を呼んだ。
それにドラルクは僅かに眼を瞬いた。
これ程強く、暗示をかけられているというのに。それでも尚、微かに意識があるのか。
どれだけ、意志が強いんだよ、君は、と。
余りの我慢強さに、呆れを通り越して、思わず笑いそうになった。
「……ドラルク…………咬、め……」
同意の無い吸血は、犯罪。
ドラルクを犯罪者としない為か、微かな声でロナルドがドラルクを受け入れる。
吸血を許す、その言葉を。
……出来れば、その言葉は此処では無い場所で、聞きたかった。
ロナルドの言葉に、ドラルクはそっと瞳を細め、少し哀しげに笑う。
そして、ぽんっとロナルドの肩に手を置いて、その首筋を引き寄せた。
その白い肌に、牙を突き立てる為に。
――そして、その白い首筋に唇を寄せた。
「わりぃ。やっぱ、駄目」
静まり返る会場に、たった一言。シリアスな空気をぶち壊す素っ頓狂な声が響いた。
ぱちり、と。一度瞬いた大きな蒼天の瞳が、いつもの光を宿して、ただ笑う。
それを見上げながら、ドラルクは、君はこうでなくては、と。思わずつられて小さく笑った。
瞬間、隠し持っていたリボルバーを取り出すと、天井に吊り下がっていたシャンデリアに向けて迷い無く発砲する。
響く銃声と、真っ直ぐ走る光の軌跡。
会場の真ん中に設置されていたシャンデリアのワイヤーを寸分違わず撃ち抜いて、ロナルドは直様、目の前のドラルクを掴むと床を蹴り付けた。
ガシャンッ!ガシャンッ!!と、凄まじい音を立てて、シャンデリアが落ちてガラスの破片が辺りに飛び散った。
甲高いガラス達の悲鳴が会場に響く。
それ程大きなシャンデリアでは無かったが、丁度誰もいない広場の真ん中にあったのが幸いした。
余りの轟音と衝撃に、会場の人々が一瞬にしてパニックに陥った。
さしもの伯父も、予想だにしなかった事で反応が遅れている。
その一瞬の隙をついて、会場の二階にいつの間にか紛れ込んでいたスーツ姿のサギョウが、親友の女性を脅かす従者に向けて狙撃した。
「――――ッ!?」
小柄な従者も、予想だにしていなかった狙撃に、一瞬反応が遅れた。
瞬間的に女性を離し、ばっと床を蹴り付ける事でギリギリの所でサギョウの狙撃を回避する。
カッと床を弾く弾が相手を捉えず、床を削った。
「――ッ、すみません。外しました!!……この距離で避けるとか、バケモノかよ、あの吸血鬼!」
この距離での狙撃を避けられるとは思っていなかったサギョウは、思わず舌を巻いた。
狙撃は失敗したけれど、従者を引き離す事には成功した。
それに依頼人の女性がばっと親友の女性の側へと駆け寄った。
これで、人質の安全は確保された。
ようやく取り戻した親友の身体を抱き締めて、依頼人の女性は伯父から守る様に、距離を取った。
「――吸対だ!!大人しくしろ!!」
「退治人もいるぜ!逃げようなんて考えるなよ!!」
間髪入れず、バタンっと会場を繋ぐ大広間の扉が開け放たれ、ぞろぞろと白と青の制服を纏った吸血鬼対策課と、退治人の面々が踏み込んでくる。
会場内の人々を牽制する様に、大きな声を張り上げて。会場を制圧しようと、吸対を先導するヒナイチとショットが声を上げる。
突然の吸対と退治人達の介入に、さしもの伯父も言い逃れは出来ない。
その事実に思わず、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
「……っ……何故、吸対と退治人が此処にっ!!……それに、何故私の催眠が解けて……」
色々な事が一遍に起きすぎて、伯父は動揺の色を見せる。
それに、親友の女性を守っていた依頼人の女性が、その疑問に応えた。
「……吸対と退治人の方々は私がお招きしましたわ。皆様が此方でお待ちして頂いていた間に、ね」
まるで、種明かしをする様に、依頼人の女性はそっと瞳を細め、伯父を見やる。その突然の告白に、伯父は驚いた瞳で依頼人の女性を見た。
此処でパーティーの開始を待っている間に、依頼人の女性によって秘密裏に吸対と退治人達は屋敷の中に招かれていた。
その事実に、伯父は思わず歯噛みする。
「――有栖、お前が私を裏切るなんて……」
子供の頃から可愛がってきた姪に、まさか手を噛まれるとは思ってもみなかった。取るに足らない、まだまだ幼いただの子供だと思っていたのに、と。
信じられないものを見るかの様な伯父の瞳に、依頼人の女性はくすり、と笑った。
「……ふふ、伯父様。どうして、私が伯父様を裏切らないと、お思いになられたのです?……私は、私の“昼”を取り戻すのに最善を尽くしただけですわ。その為に、ロナルド様達のお力をお借りしました。……詰めが甘かったですわね、伯父様?」
そうして、腕の中に取り戻した確かな温もりを噛み締める。
見失ってから、ずっと探した。彼女と過ごした様々な場所を。
大学の教室も、何度なく過ごした図書館も、よく行った喫茶店も。
それでも、何の手がかりもなく忽然と姿が消えてしまって、周りの人達は誰一人として気にもしない。
伯父の認知を歪める力で、彼女の存在は大学から、彼女の家族から掻き消されてしまった。
それを知った時の絶望感は、もう二度と味わいたくはない。
もう二度と、伯父の好きにはさせたりしない、と。依頼人の女性の瞳には確かな意志が宿っていた。
後は伯父に催眠を解かせ、必ずや彼女の魂を取り戻す。
その為には、後もう少しだ。
「……貴方の姪御殿が事前に教えてくれましたよ。貴方の催眠の事。認知を歪める力をお持ちだとか。なので、私も少々準備をさせて頂きましたよ。私の御父様も、それなりの能力持ちでね。どうしても相性の悪い黄色の人がいますが、それ以外の解除はほぼ問題ないので」
少々、力を借りてきました、と。依頼人の女性の言葉を継いで、ドラルクが悪戯を仕掛ける時に見せる様な悪い顔で、にやりと笑う。
すっと手を上げて、指に嵌められていた竜の指輪を見せつける様に、伯父を見やる。
その指輪をよく見れば、何かの力が宿っている事が感じられた。
「この指輪に御父様の力を少し借りてきたんですよ。私をロナルド君へ近付けたのが敗因でしたね」
ドラルクに吸血を強要した段階で、チェックメイトであったのだ、と。
残念でした、と。顎に手を当て、くすりと笑うドラルクの袖口で、ブルーサファイアのカフスボタンが、きらりと光る。
狸同士の化かし合いの勝者となったドラルクの、勝ち誇るその顔に、伯父はぎりりと悔しげに歯噛みした。
(この後、本当は戦闘シーン入れたかったのですが、時間切れました。支部に上げる際には加筆します。ごめんなさい)
ようやくの大捕物を終えて、屋敷はやっと静かになった。
空の天井にあった筈の月は既に西側に傾いて。後、数刻もすれば完全に沈みきる事だろう。
思いの外、ハードだった依頼を思いながら、中庭の噴水の縁に座って。ロナルドは一人、小さく溜息を吐いた。
大捕物で疲れ果てた身体に、思わずヤニが欲しいな、と思ったけれど。
買って貰った新品のスーツをヤニ臭くする訳にもいかず、事務所に置いてきたんだと思い出す。
まだ、現場検証だ、なんだ、と。少しだけがやつく屋敷の中を見遣りながら、手持ち無沙汰に、大きく息を吐いて空を見上げた。
ぱちゃぱちゃと、耳に抜ける水の音が心地良い。
「……ほれ、馬鹿造。そんな格好で何時迄もウロウロするな」
身体を冷やすぞ、と。捕物の途中で、ドラルクに投げた上着を片手に、ドラルクが呆れた様に近付いてきた。
そういえば、上着脱ぎ捨ててたんだったよな、と。
ワイシャツ一枚だった事に今更気が付いて、ドラルクから上着を受け取った。
戦闘が始まった際、胸につけていたラペルピンの事が不意に脳裏を過ったのだ。
壊したら壊したで良い、なんて。ドラルクは言っていたけれど、流石にそれは恐ろしかった。
それに、折角作って貰ったばかりのスーツを、いきなり傷つけたくなかった、というのもある。
さらりと指をすり抜ける、思いの外柔らかい生地が、このスーツの価値を物語っていた。
「……ドラ公……このスーツ。すげぇ、動きやすかった」
あの日、ドラルクに連れられて行った、あの紳士服屋で。
採寸が終わった時には既に生地も何もかもが決められていた。
残るは微調整だけ、の所までドラルクが全部決めていたから、どういった物になるかが全く分からなかった。
けれども、袖を通しただけで、身体に吸い付く様な違和感すらもない程の見事なフィット感で。慌てて買ったあの派手なスーツとは、着心地が段違いだった。
戦闘の際も全く裂ける様子も無く、驚きの伸縮性で動きを全く阻害しなかった。
それもこれも、全部ドラルクがあのテーラー達と作ってくれたお陰だ、と。
「……その……ありがとな」
思わず素直にお礼を言う程に、フルオーダーメイドの力を思い知った。
突然に素直にお礼を言われたドラルクは思わずぽかん、と。その瞳を見開いたが、何だか可笑しくなって、ふは、と笑った。
「どうせ、君の事だから。スーツ着てたって大人しくしてないだろうって。動きやすいのにしてくれって頼んどいたんだよ。まさか、こんな大捕物をスーツでやるとは、流石のドラドラちゃんも予想してなかったけどね」
ゴリラが着ても破けない素晴らしいスーツだ、と。
先見の明があった私に多いに感謝しなさい、と。ふふんっと踏ん反り返るドラルクを見上げ、何となくイラッとしたのでそのまま拳を突き出した。
瞬間、すなぁっと砂になって。ドラルクは噴水の側に崩れ落ちた。
「いきなり殺すな!!ゴリ造!!」
「ゴリラゴリラうっせぇわ」
ナスナスと文句を言いながら、元に戻るドラルクを見下ろして、ロナルドはワイシャツにつけられていたアメジストのカフスボタンをぐいっとドラルクに突き出した。
「おい、そういえばてめぇ!!いつの間にこんなのも付けてたんだよ!!戦ってる最中に気が付いて、すげぇギョッとしたんだぞ!!なんか高いもんがくっついてるって!!」
思わず、拳で思いっきり相手を殴るのを躊躇うくらいには、と。
「え、嘘でしょ。その時まで付いてるの気が付かなかったの?最初からずっと付いてたのに!?」
「うるせぇ!!こういう社交場でのお洒落なんかしらねぇよ!!」
こういうのはちゃんと事前に言えよ!!と、頬を膨らませて怒るロナルドの様子に、思わずドラルクは苦笑した。
「……あと、あれじゃん。これ、色逆じゃね?胸の奴と合わせるんだったら、これお前の色だったじゃん」
何?間違えたの?と。素っ頓狂な顔でドラルクを見上げるロナルドの瞳は、ただ真っ直ぐだ。全く深読みをしないロナルドはこちらの真意など気付きもしない。それに思わずドラルクは歯噛みした。
そんな純真な目でこっちを見るな、と。
意図して逆の色を付けたのだ、とは。流石に口が裂けても言えはしない。
「あ、あれぇ?そう、だったかなぁ?」
可笑しいなぁ、と。思わず歯切れ悪く誤魔化してみる。
吸血鬼は代謝が悪いと言うのに、だらりと嫌な汗が流れるのを感じる。
誤魔化しながら、いつもの様に、反対につける事がお洒落なんだ、と。嘘八百で誤魔化せばよかった、と。後から少し後悔した。
と。不意に騒がしかった二人の間に沈黙が落ちる。
ぱちゃぱちゃ、ぱちゃぱちゃ、と。
噴水の音が二人の間を、ただ抜けていく。
何かを気にする様に、ロナルドの眉間が寄っている。
何かがある時、彼はいつも、口を噤む。
彼の、悪い癖だ。何もかもを自分の中に溜め込んで、飲み込んでしまう。
心の奥へ、奥へと。飲み込んで、溜め込んで、吐き出す事を知らぬ、愚かで愛しい仔だ。
また何か、余計な事に気を揉んでいるのか、と。
ドラルクはどうしたのか、とロナルドの前にしゃがみ込んだ。
「……どうしたの?ロナルド君」
そっと、その手を取って。難しい顔をしているロナルドを見上げる。
夜空を背に、何処か不安げに揺れる蒼天の青が、ドラルクを見下ろした。
それに不意に、いつかの廃ビルの夜を思い出した。
「……いや、ちょっと。今日のパーティーってさ、依頼人さんの折角の成人のお祝いだったのに、こんな事になっちまってさ。……一生の記念だった筈なのに、なんか、申し訳ないな……って」
ぽつり、ぽつりと。零されるその言葉に、思わず瞳を瞬いた。
自分達が此処に来なければ、こうはならなかったんでは無いのか、と。
心痛める様に、その蒼天の瞳を揺らして。肩を落とすロナルドは、自分の気持ちを素直に吐露する。
そんな事を気にしていたのか、と。彼のどうしようもない善性に、呆れを通り越して、思わず苦笑した。
「何を言っているんだ、ロナルド君。それは君が気に病む必要は無い筈だ。もし、依頼に来たのが我々の事務所ではなくて、違う場所だったりしても。または依頼をしなかったとしても。きっとこの事件は起きていたんだよ。彼女の成人の儀に泥を塗ったのは彼女の伯父。君じゃないよ」
たらればの話をしても、詮無い事だ。
他人の走り出した悪意は、何処かで誰かをいつだって狙っている。
それにただ、我々は巻き込まれただけなのだ、と。
ドラルクの言葉に、ロナルドは分かっている、と小さく頷いた。
「けどさ。やっぱり、成人式って一生もんじゃん?……ドラ公だって、自分の成人した時のお祝いとか、ちゃんと覚えてんだろ?すっげぇ昔だろうけどさ」
「……そりゃあね。ちゃんと、覚えているよ」
時代としては大変な時代だったけれど。それでも、家族や一族が集まってくれて。お祝いしてくれた。沢山の愛情を注いでくれた。
勿論、面倒な客達の相手もさせられたけれど、そこまで嫌だったという記憶は無い。なんだかんだで、大切な記憶ではあると思う。
「……俺もさ……本当はちょっと、後悔してんだ。成人式、行かなかった事。あの時はそれで良いって思ってたし、別に気にもしてなかったんだけどさ。……もっと、歳くった時にさ。あの時行っておけば良かったな、って思うのかな、って……」
だから、依頼人さんにとって、これが成人のお祝いの想い出になるのは、ちょっと辛いな、って。
少しだけ泣きそうな顔で、くしゃりと苦笑するロナルドの顔に、ドラルクは思わず瞳を瞬いた。
「吸血鬼にとって、血族は絶対だ。けれども、その血族に逆らってまで守りたい者を彼女は既に持っていた。その為に、自らの足で踏み出す事を知っていた。……君も、成人を迎える前から君自身の足でちゃんと歩いていた。彼女も君も、自らの意思を持って、大人になったんだ」
偉かったと思うよ、と。そっと手を伸ばし、くしゃりとその銀糸の髪を撫でる。
するりと抜けていく柔らかな銀色の髪が、夜空に溶けそうだ。
ドラルクと自分の上に降る砂の量は、全くの別もの。
その流れも、その量も。
さらり、さらりと流れ落ちていく其れは、あとどれ位?
降り積もってきた砂の量を見せつける様に、ドラルクは時々、急に子供の様に扱ってくる。
普段から五歳児だ何だと馬鹿にしてはくるけれど。
時々幼子を扱うように、頭を撫でてくる。
兄に頭を撫でて貰ったのなんて、一体幾つの時が最後だっただろうか。
そんな事を思い出しながら、ロナルドはぎゅっと拳を握りしめた。
「……子供扱いしてんじゃねぇよ、クソ雑魚砂おじさん」
ぶんっと拳を振るえば、すなぁっといとも容易くドラルクが砂になる。
ざらりと崩れ去るドラルクを見下ろしながら、子供扱いされた気恥ずかしさに思わず、ちっと小さく舌打ちした。
さらりとすり抜けるドラルクの砂を、そっと掬い上げる。
落ちる速度が違えども。落ちる量が違えども。
共に歩く事は出来る筈だ。
吸血鬼と人間が共に有るこの世界が間違っているなんて、そんなの言わせない。言わせたくない。
指先をすり抜けるドラルクの砂を、さりりと掌から零し、ドラルクに返した。
「サイコパスか!!唐突にお砂遊びするんじゃない!!この五歳児が!!」
「てめぇが子供扱いするからじゃボケッ!!」
それにようやく、ナスナスと文句を言いながら、ドラルクがその姿を取り戻し、文句を口にする。
その言葉にもう一度拳を振るわれ、砂になるのを。
二人を呼びにきたショットに目撃される事となったのは、また別の話。