いざ、枯れ逝くその時まで「茨木、おい茨木」
隠世のとある昼下り、屋敷の縁側に座り、外を眺めている茨木に伊吹は後ろから声を掛けた。
「…」
「おい、茨木。聞いてんのか」
伊吹は後ろから肩を掴み、自分の方へと向かせた。
「……あ……伊吹様……どうされましたか?」
「どうしたじゃねぇよ。お前がぼーっとしてるから声掛けてやったんだ。」
「あぁ……すみません…」
ここ最近、茨木はぼーっとしている事が増えた。
「お前……最近ぼーっとする事が多いな。大丈夫か?」
「……そうですか?私は大丈夫ですよ。」
茨木は微笑みながら、伊吹に返した。しかし、その笑顔はどこか哀しげだった。
「……そうかよ、なら良いけどよ……」
伊吹は茨木がいつもと何かが違う、その違和感を気に留めながらもそれ以上言及はしなかった。
「すみません、こんな所でいつまでも呆けている訳にはいきませんよね……失礼します。」
茨木は立ち上がり、伊吹の横を通り過ぎようとした。その時、
「おわっ!?」
茨木が足を滑らせバランスを崩した。咄嗟に伊吹が茨木の腹に手を回し身体を支えた為、転ぶ事は無かったものの、茨木は身体をビクリと震わせた。
「っ……!」
「おい大丈夫か?お前……最近本当におかしいぞ?体調悪いなら休めよ」
「……すみません……ありがとうございます……大丈夫ですから……」
茨木は伊吹の手を振りほどき、ふらふらと覚束無い足取りでその場から立ち去って行った。
「おい、本当に大丈夫かよ……」
茨木が心配でならない伊吹だが、本人が大丈夫と言うならとそれ以上言及する事はしなかった。
しかし、やはり茨木の体調を心配していた。
それから暫く経ったとある深夜。どうしても気持ちが晴れないままの伊吹は、散歩でもするかと外へ出た。外は静けさに包まれており、月の光が辺りを照らしていた。月の光と星の煌めきがとても美しかった。
伊吹は歩きながら茨木の事を考えた。
「あいつ……本当に最近どうしたってんだよ……」
思い返せばここ数日程、茨木の様子がおかしいと思う事が多々あった。ぼーっとする事が多くなった他、声をかけても中々反応を示さなかったり、あまり動こうとしなかったり、物忘れをする事が前よりも増えたりしていた。
「何か隠してるよな……あいつ」
伊吹は茨木の隠し事に気付いていた。しかし、聞いても笑顔ではぐらかすばかりなので、どうする事も出来なかった。
嫌な予感しかしなかった。
「なんか、嫌な事になってなきゃ良いけど……」
伊吹はそう思いながら散歩を続けた。
その嫌な予感が的中していた事を伊吹が知るのはそれから数日後の事であった。
その日は雲ひとつ無い晴天だった。
茨木はいつものように縁側でぼーっとしている。
伊吹は今日もどこか上の空な茨木に声を掛ける。
「なぁ茨木、お前本当に大丈夫か?」
「っえ?あ、あぁ……大丈夫ですよ」
茨木は笑顔で伊吹に返した。しかし、やはりどこか哀しげで、無理をしている様にしか見えなかった。伊吹はそんな茨木を心配していた。
「最近お前、ぼーっとする事が増えたな。それに物忘れする事もあるだろ?本当に大丈夫なのか?」
「あー……少し疲れているのかもしれません……大丈夫ですよ、本当に…」
茨木は力なく応えた。
「あの…伊吹様……少しお暇を頂いても宜しいでしょうか……?」
「……あぁ、良いけど……大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
茨木は笑顔で返した。しかし、やはり哀しげで無理をしている様にしか見えなかった。
「では……失礼しますね……」
茨木が立ち上がり、その場から去ろうとした時だった。
ふつりと糸が切れた様に、茨木はその場に倒れてしまった。
「!?おい!茨木!?」
伊吹は慌てて茨木を抱き抱えた。
茨木の呼吸は浅く、体温も低かった。
「おい!しっかりしろ!」
伊吹は茨木を抱き抱え、すぐさま自室へと連れ込んだ。そして布団に寝かせた。
暫くして茨木は薄く目を開け、ぼんやりと天井を見ていた。
「おい!茨木!」
「……い……ぶき……様……?」
「おい!大丈夫か!?」
「……ごめんなさい……私……」
「謝らなくて良いから!今誰か呼んでくるからな!」
そう言って伊吹が立ち上がろうとした時だった。
「待って…行かないでください……」
茨木は弱々しい力で伊吹の服の裾を引っ張った。その目には涙が溜まっていた。
「ひとりにしないでください……お願いします……伊吹様……」
「……解った……何処にも行かねぇよ」
伊吹は茨木の側に座り、茨木の手を握った。
その手は氷の様に冷たかった。
「お前……凄く冷たいな」
「……すみません……」
茨木は申し訳なさそうに言った。伊吹は気にすんなと返した。そして暫く沈黙が続いたが、それを破る様に伊吹は口を開いた。
「あのよ……お前さ……我輩に何か隠してるよな?」
「……っ!?」
伊吹の言葉に茨木は目を見開いた。
そして、視線を逸らした。
「やっぱり……隠し事してやがんな……」
「……申し訳ございません……」
茨木は申し訳なさそうな声で伊吹に謝った。そして暫くの間黙り込んでしまった。
それからまた沈黙が続いた。伊吹も特に何も喋らず、ただ茨木の手を握っているだけだった。すると、茨木が口を開いた。
「……私……もう長くないんです」
「え……?」
「伊吹様なら知っているでしょう…、私は半妖の鬼です。…人間にも妖にもなれない中途半端な存在です。……だから…皆の様な純粋な鬼族よりも寿命が短いのです」
茨木は消え入りそうな声で呟いた。伊吹はただ黙って聞いていた。
「この世界は不思議ですね……年老いても姿形が変わらない……だから隠し通せると……思っていたのですが……無理でしたね……」
茨木は苦笑いを零した。
「伊吹様……私は貴方と出会えて、側に居られる事だけで幸せでした。ですから……貴方の手を煩わせてしまう様な事はしたくなかったのです……」
茨木はそう言いながら涙を流した。
「……最期まで貴方の側に居たい……だから、言わないでおこうと思ったんです。」
「お前……」
茨木は儚い笑みを浮かべながら伊吹に言った。その言葉に伊吹は何も言えなかった。しかし、何かを決心した様な表情で、茨木にこう言った。
「……こんな時に何言ってんだって思うかもしれねぇけどよ……我輩、お前の事が好きだ」
「……え……?」
「お前と居るのが楽しいし、何より落ち着くんだよ。お前が居ないと寂しいって思っちまう。お前がこんなになってようやく気付いたよ……」
伊吹の突然の告白に茨木は驚きを隠せなかった。
「それによ……お前からの好意、実は全部気付いてた。お前の反応が面白えからずっと弄んでけどよ……こんな事になっちまうなら……もっと早く自分の気持ちに気付いてれば良かったな……」
伊吹は目を伏せながら茨木に話した。すると、茨木が伊吹の手を強く握った。そして、再び口を開いた。
「馬鹿……遅いですよ……」
茨木は涙を流しながら、少し怒り気味に伊吹に言った。
「悪ぃな……」
伊吹はバツが悪そうに頭を掻いた。すると、茨木が言葉を続けた。
「……でも……嬉しいです」
茨木は幸せそうな笑みを浮かべながら伊吹に言った。そして、そのまま続けた。
「私は……今までもこれからもずっと……伊吹様の事をお慕いしております」
そう言って微笑んだ。その笑顔はとても美しく、儚かった。
「あぁ、知ってるよ」
伊吹は茨木の言葉に、少し寂しげな表情で応えた。
「ふふっ……そうですか」
茨木は満足そうな微笑みを返した。
その日から伊吹は茨木の傍に居る様になった。
茨木は相変わらず寝たきりのままだ。
日に日に茨木は衰弱していく。目に見えて解る程に。
伊吹は茨木の手を握りしめ、話しかけた。
「なぁ……お前、死ぬのが怖くないのか?」
「……怖いですよ」
「じゃあ何でそんな平然としてるんだよ……」
「……伊吹様が居れば何も怖くないですから」
茨木はそう言って微笑んだ。その顔はとても穏やかだった。もう長くない事を悟ったかの様な表情であった。
「……馬鹿、強がんなっての」
伊吹は茨木に聞こえない程の小さな声で呟いた。そして、再び話しかけた。
「お前……本当に無理してないか?」
「ふふっ、大丈夫ですよ」
そう言って微笑むが、やはりどこか哀しげだった。伊吹は何も言えなかった。すると、茨木が口を開いた。
「ねぇ伊吹様……私の最後の我儘聞いてくださいますか?」
「……何だ?言ってみろよ」
茨木は少し躊躇う様な素振りを見せたが、意を決した様に言った。
「……その……抱きしめて頂けますか?」
「…そんな事か、良いぜ。ほら」
そう言って伊吹は茨木を優しく抱き締めた。
「……ありがとうございます……」
茨木は少し照れた様な声色でお礼を言った。しかし、その表情はとても幸せそうだった。伊吹はそんな茨木の頭を撫でながら微笑んだ。
「伊吹様…私は……茨木は幸せ者です……」
伊吹の腕の中で、茨木はゆっくりと目を閉じた。そして、そのまま動かなくなった。
「…おい、茨木……?」
伊吹は優しく声を掛けるが返事は返って来ない。ただ安らかに眠っているだけだった。
「お前……寝ちまったのか?なぁ……」
伊吹は茨木の身体を揺さぶりながら呼び掛けた。しかし、やはり返事が返って来る事はなかった。
「何だよ……折角お前の願い聞いてやったのによ……」
伊吹は泣きそうな声で呟いた。
「おい……起きろよ……なぁ……」
伊吹の声は震えていた。しかし、茨木が目覚める事は無かった。
「いつも我輩には……1人にするなとか……置いて行くなとか……泣きついてたくせによ……人の事言えねえじゃねぇかよ……ふざけんなよ……」
伊吹の声は震えていた。そして、今にも泣き出しそうな表情だった。
「起きろって……頼むから……置いて行くなよ……」
そう言っても、やはり返事は返ってこない。
伊吹は茨木を抱き締めたまま、涙を流した。そして、ただ嗚咽を漏らすばかりであった。
「おい……返事してくれよ……なぁ」
それでも返事は返って来ない。ただ静寂だけが広がっている。
伊吹は茨木を抱き締めながら泣き続けた。
暫くして、伊吹は落ち着きを取り戻した。涙はもう乾いていた。しかし、目だけは真っ赤に腫れていた。
茨木は伊吹の腕の中で眠り続けている。とても穏やかな表情で。もう目覚める事は無いのに。
「……なぁ……茨木……」
伊吹は優しく茨木に話しかけた。返事は返ってこないと解っていても、話しかけずにはいられなかった。
「…次、生まれて来る時は……こんな逸れ者なんかの所に来ねえで…真っ当に、純粋な人間として生きろ……」
伊吹は茨木の髪をそっと撫でた。
「……そんなこと言ってもお前の事だから、どうせ我輩の事を探しに来るんだろうな……」
伊吹は茨木の髪を優しく撫でながら、少し寂しげに微笑んだ。
「……また会えたら……今度こそちゃんとお前に伝えるよ」
そう言って、伊吹は茨木の額に口付けをした。
「愛してる」
届く事のない言葉が、虚空に消えて行った。