初夏らしい、爽やかな夜だった。ほんのり湿り気を帯びた風が薄いレースカーテンを柔らかく揺らし、決して広くはない部屋に涼を運んでいる。その部屋の中央に据えられたテーブルを、楓は日和と郁弥と囲んでいた。こうして三人で顔を突き合わせることは、もうすっかり楓の日常に溶け込んでいる。
三人が囲んでいるさして大きくもない箱は、男子大学生の食欲を煽る、香ばしい匂いを放っていた。夕飯なに食べようか、と郁弥と楓の二人がどちらともなく言い出して、街角のとある看板にふと目を引かれた日和が「僕、たまにはフライドチキンが食べたいな」と漏らした一言で全てが決まった。どうせなら他にも色々買って家で食べようとテイクアウトにした。ずっしりと三人分のチキンが詰まった、温かな箱を抱えるという重要な任務を与えられたのは楓だった。誰がこの重たいものを持つのか三人でじゃんけんをして、負けたのだった。
「じゃあ、食うか」
食事の準備を整えた日和が食卓に腰を落ち着けたのを見て、楓は箱へ手を伸ばしかけた。だが、郁弥は首を横に振った。
「金城、待って」
「あ?」
「チキンをとる順番を決めてない」
眼前に香ばしい箱がなければ、それは人生の重大事を決めようとしている厳粛な声として響いただろう。だが、目の前にあるのはあくまで赤と白のデザインが特徴的な、肉から放出される水分でいくらかへたった箱だった。郁弥はストイックそうに見えて、意外と食い意地が張っていることは、楓が郁弥と知り合ってから割合すぐに知ったことだった。
「んなことどうでも良いだろ。せーので好きなの取ればいいじゃねえか」
「この小さな箱の中に三人で手を突っ込むの? 自分の手の大きさを考えなよ」
「それはおめーもだろうがよ」
郁弥の形の良い眉がぴくりと動く。彼が口を開くよりも先に言葉を発したのは日和だった。
「まあまあ、二人ともやめなって。でも、僕もいっぺんに手を突っ込むのは嫌かな」
「……そしたら、さっきみたいにじゃんけんで順番決めるか」
「賛成」と郁弥が静かに頷く。最初はグー、とまるで小学生のようにそれぞれの手を出し合った。結果、郁弥、楓、日和の順に決まった。日和は、ついてないなあ、と笑いながらパーの手をひらひらと振った。
「ほら、お望み通り好きなの取れよ、郁弥くん」
「金城に言われなくても好きに取るよ」
「郁弥、遠慮しないで大きいのとっていいからね」
郁弥の視線が、ひとしきり箱の中を彷徨う。ゆったりと品定めした後、選んだのはやや小ぶりのチキンだった。その指先が、実際に選び取られたものと、日和が郁弥に勧めた大ぶりのものとの間で一瞬だけ見せた迷いを、楓は視界の端に捉えてしまった。昔なら真っ先に一番大きいのを取っていたのによ、という思い出を、楓は飲み込んでやった。
携帯の通知に気を取られていた日和は、郁弥の皿に乗せられたものを見て、目を丸くしている。
「あれ、郁弥、そんな小さいのでいいの?」
「……いいの、僕そんなにお腹空いてないし」
「そう?」
「そうだよ。……ほら、金城の番」
郁弥に促されて、楓は箱を軽く覗き込む。普段は厳しく栄養管理をしているため、こんなに不健康なものを食べることは珍しい。それは同じアスリートである郁弥や日和とて同じであろうが、その分、たまにこうした物を食べるのは、厳しく己を律している楓にとっても魅力を持たないわけではなかった。同じアスリートの中には重要な大会へ向けての厳しい調整を行い、無事それを終えた後にはご褒美としてファストフード店に駆け込むのを好むタイプも少なくはなかった。
「金城? 何をそんなに悩んでるの? 郁弥がとらなかった一番大きいのを取れば」
「……別にそんなんじゃねえよ」
結局、楓の武骨な指が摘み上げたのは、郁弥が取ったのと同じぐらいのチキンだった。日和は、きょとんとしている。
「二人ともどうしたの? 折角勝ったんだから好きなの取ればいいのに」
「いいんだよ。……ほら、日和はこれ食え」
日和が郁弥に、次いで楓に勧めたチキンを楓は箱の中からなるたけ触らないようにして、日和の皿に移してやった。僕が一番に負けたのにいいのかなあ、とぼやいているが、満更でもないことぐらい、日和の顔を見れば楓には分かった。体は空腹を訴えているが、チキンに求めていた幸福は、もう達せられたような気分になる。
「……金城さ、結構変わったよね」
チキンを食べやすい大きさにちぎりながら、郁弥が言った。
「それはおめーの方だろうがよ」
「まあ、そうかもね」
日和は自分たちの会話を笑って聞いてる。三人揃って食べ終える頃に、日和はじゃあ今度は負けた人からね、と有無言わさず宣言し、郁弥と楓の皿に大きなチキンを置き、自分は小ぶりなものを取った。
郁弥がこういうのを友情って言うんだろうね、とぽつりと言った。照れて無言のままの日和に代わって、楓は丁寧に頷いてやった。