私が私たちであるように 33.私が私たちであるように
「綾人さん」
蛍の抱えるものを聞いた日から、綾人と蛍の距離は以前より近いものになった。少しずつではあるが、蛍から綾人に近づいていくことが増えていったのだ。
「林檎飴の屋台の人から材料が少し足りなくなりそうって手紙が来てますよ。少し調達しておきますか?」
ただそれは彼女が綾人の公務を手伝うようになり、会話する機会が増えたのも理由ではあるのだが綾人は大きな進展だと思っている。
「おや、予定量で足りなさそうなのですか?」
「……実はこの花火大会、社奉行が主催ってことが各国とカーンルイアやアビス教団にも伝わったみたいで。各国からの観光客が二倍に増えてるんだそうです」
「……なるほど」
この花火大会は毎年行っており、社奉行が主催していることは特別ではない。ただ今年は、社奉行が――神里家当主である神里綾人がアビス教団の最高指導者であり、カーンルイアの姫君でもある蛍と婚姻を結んだことは当然各国に知れ渡っている。蛍を迎え入れてから初めての花火大会ということで注目を浴びているのだろう。かといって特別何か新しいことを催すということはない、花火は昨年よりも多めに打ち上げるよう依頼はしているが。
「もう少し仕入れましょう。離島に連絡して――」
「連絡しておきましょうか?久利須さんにですよね?」
蛍の言葉に綾人は瞳を瞬かせて、そしてクスッと笑う。突然笑われたことに蛍はポカンとして少しむっとした表情で彼を見上げる。
「今笑うところありました?私は真面目なお話をしているんですけど」
「ああ、すみません。ふふ、貴女が自然と色々な仕事を引き受けてくださるものですから奇妙というか、不思議な感覚になりまして」
本来なら、彼女には何もせずゆっくりと過ごしてもらうつもりであったのに。蛍のじっとしていられない性質故か、いつの間にか綾人の公務を本格的に手伝い、綾人も次第に頼るようになっている。
それが不思議で、少しくすぐったい気持ちにもなる。
「……じっとしているのは苦手なんです」
照れるようにそっぽを向いてしまった彼女に綾人は口元に手を当てて笑みを抑えるが、口元が綻んでしまうのは変わらない。少しずつ、心を開いてきてくれていることがただただ嬉しい。
「……わかりました、ではその手配は蛍さんにお任せしていいですか?」
綾人の問いに蛍は小さく頷いた。
『なら、私と方法を探してみませんか?』
そう言われた時の衝撃を、蛍は未だに忘れられない。
心の内を、抱えてきた秘密を吐露したのも初めてだった。あの想いは、空にさえ打ち明けたことがない。
ずっと自分が空に縋って生きてきたことを、蛍は自覚していた。それでも、空のためにできることをすることでしか蛍は自分を保てなかった。敵を倒すのも、身体を使って男を誘惑することも。ただ、どうしても悲しそうな空の顔が過ぎって、口づけや処女だけは守り抜いた。
『蛍、お願いだからもう俺のために自分を犠牲にしないで。蛍には幸せになってほしいんだよ』
婚姻が決まった時、空にそう言われて蛍は何が正しかったのかわからなくなった。空が和平同盟を積極的に推していたから、その想いを叶えたくてアビス教団やカーンルイアと交渉したのだ。
蛍の狙い通り婚姻を結んだことによって和平同盟はなされた。その最高指導者として空の地位は揺るがないものとなる。彼の身の回りの警護も蛍と空が最も信頼するものへ託した。
しかし、いざ稲妻へきて蛍は途方に暮れることになった。これから自分はどうするべきだろうと。
婚姻の破棄は自分からしてはいけない。相手からであれば、それは性格の不一致として仕方ないとされるだろう。
そのことに気がついた蛍は、自暴自棄になった。縋れるものもなく、本当に自分の意思だけ自由に動ける。
どうすれば良いかわからず、空のために被っていた虚勢という偽りの仮面も外せず、蛍は綾人に冷たく接せることしかできなかった。彼は全く気にしていなかったが。
ただ、初夜に別で寝てはどうだろうか、と提案した彼には身勝手な憤りを感じた。
婚姻を求めてきて、その先は求めず、本当にお飾りの妻を演じさせるつもりなのかと。
怒りを感じて、ただただ悲しくなった。誰にも求められないのかと。
アビスの力で人の動きを封じて、人々が蛍に抱いているイメージのまま彼に覆い被さった。そして、彼の様子や反応を見て、察してしまった。彼も、自分の身体を差し出していたことを。その時は、ただ可哀想な人だとしか思わなかった。
蛍の身勝手な婚姻を受け入れ、身勝手な怒りをぶつけられ、そして目的のため自分を差し出して知らなくてもよかった快楽を教え込まれてしまった人。きっと優しい人なのだろうとも。
そんな彼だから、初めてを奪われるのなら彼がいいと思ったし、衝動で二度も口づけた意味を蛍はずっと考えないようにしてきていた。
綾華と接して、彼の事情を知れば知るほど自分と似ていることに気づいてしまって。
――彼が、誰かと交わった事実に嫉妬を覚えた。
処女を失ってはいなかったとしても、自分のことを棚に上げて、なんてことを思っているのだろうと思った。その理由も見ないようにしていたのに、彼の言葉が、優しさが、少しずつ蛍の壁を取り除いていて。
私は、この人が好きなんだ。
彼を初めて見た時のことは覚えている。鎮守の森を歩いていると、空から多数の雫が落ちてきてすぐに身体は水に触れた。ふと視線の先に同じように濡れた小狐を見つけて、蛍は小狐の身体が覆うか覆わないかぐらいの大きさの葉を傘がわりにして雫を避けてあげたのだ。その様子を、たまたま通りかかった綾人に見られていた。
蛍が見たのは傘をさす彼がとても驚いたように瑠璃色の瞳を見開いていたことだけ。
ただ、周囲で青白く光る花々に薄い水色の髪と瑠璃色の瞳、白い衣装がとても似合っていて綺麗な人だなと蛍は眺めて踵を返したのだ。考えてみれば、他人にほとんど興味がない蛍が、初めての人を綺麗だと思ったことも珍しかった。
そう言われれば、蛍はきっと初めから彼に惹かれていたのだろう。一目惚れと言っても過言ではないかも知れない。
ただ、空以外に惹かれる自分が許せなかっただけで、蓋を開けてみればこんなにも簡単なことだった。
「綾華、綾華……」
慌てて彼女の下を訪れると綾華は一瞬驚きつつも蛍のいつもと違う様子を察したようで、すぐに私室へ通してくれた。
「蛍さん?どうかしましたか?」
ゆっくり座らせて、蛍の背を撫でながら顔を覗き込む様子は、彼の兄と似ている。彼女の中にまで綾人の存在を感じてしまうのだから、もう重症だろう。身体が、頬が赤く染まっていくのが自分でもわかる。
「ねぇ、どうしよう。私……綾人さんが、好き」
蛍の言葉に綾華は驚いて瞳を見開くがすぐに柔らかく微笑んでぎゅっと蛍の両手を優しく握った。
「どうか、その言葉をお兄様にお伝えください。」
優しく微笑む彼女を見て、蛍は顔を真っ赤にしたまま少し俯いて小さく頷いた。
花火大会の当日、綾人は朝から会場である甘金島へ出向いていた。蛍も一緒に行くと言ったが念のために屋敷に残って事務処理をしつつ夕方頃来て欲しいと言われれば頷くことしかできなかった。
そして、約束の夕刻に甘金島へ蛍が向かうと入り口で綾人が既に待っていて、蛍を見つけるとすぐに側に歩みよってきた。
「お待ちしてましたよ。さぁ、見回りに行きましょうか」
差し出された手は、顔合わせをした時と同じであるが心持ちが全く違う。あの時はまるで演技をしているような気分で彼の手を取った。だが、今は違う。自分の意思で、好きな人の手を取ることができる。僅かに緊張で早くなる鼓動を落ち着けるように深呼吸をして、蛍は彼の手を取る。二人の様子を見かけた人々がはっと息を呑んでいるのを感じる。
羨望や恍惚とした表情で見られることで更に緊張してしまう。
「ゆっくり深呼吸してください。……はい、大丈夫ですよ。私が側にいます」
手を引かれて引き寄せられると背中を撫でられる。彼の温もりは蛍に取って、安心するほど馴染みの温もりとなっている。誰かの温もりで安堵できる日が来ることを蛍は想像もしていかった。
綾人と共に各屋台を回っていく。困ったことはないか各屋台毎に確認するが、皆それよりも蛍と共に綾人が回っていることに驚いていた。蛍の姿をあまり見たことのない民たちからすれば当たり前かも知れないが。
しかし、二人が仲良く手を繋いで歩いている様子を屋台のものも、観光客も祝福し時折感嘆した表情で見ていて、最後の方には二人とも苦笑せざる得なかった。仕事で回っているというのに、気恥ずかしい気持ちになってきてしまう。
「見回りはこれぐらいですかね。お疲れ様でした。今年の花火大会も滞りなく終わったと思っていいでしょう」
甘金島の奥、赤い鳥居を超えた先の小さな崖からは稲妻城が見える。この稲妻城と甘金島の間で花火をあげる予定だ。
「もう、まだ花火も上がってないのに。まだ終わってないですよ」
苦笑して蛍が言うが綾人はあまり気にした様子はなく、これから花火が上がるであろう場所を眺めている。
「長野屋の花火は信頼できますからね。大きな問題は起こらないと思います。ここしばらく私の仕事を手伝ってくださってありがとうございました。これでひと段落つくので、ゆっくりしてもらって――」
「――私、綾人さんが好きです」
放った言葉は音となって消える。まだ花火を上がっておらず、人々の喧騒も少し遠いため彼の耳にはしっかり届いたようで綾人は驚愕の表情を浮かべている。
「今まで冷たい態度を取ってしまってごめんなさい。それなのに、私の話を聞いてくれて、――私を好きでいてくれてありがとうございます」
蛍の行動はきっと彼を傷つけていただろう。それでも、彼は変わらず優しく接してくれていた。ずっと蛍を気にかけてくれていた。彼が優しく接してくれたから、蛍はゆっくりと前を歩き出すことができた。
「……私は、まだ貴方の隣にいていい?」
「もちろんです。ずっと、一生私の側にいてください」
安心する温もりに包まれる。その背を抱きしめ返すと同時に花火が夜空を彩った。