私が私たちであるように 22.折れた傘をさす
婚姻が成され、蛍は正式に稲妻で暮らし始め、早くも一月が経過した。初夜を終えた朝、綾人が目覚めた時には、すでに蛍の姿はなかった。ただ、手ぬぐいで軽く清拭された身体に気づいて、彼女の手を煩わせてしまった自負と彼女の変な律儀さに心は掻き乱された。綾人を襲ったことに彼女はある程度の後ろめたさがあるようだった。
「蛍さん」
廊下を歩く白い背中に綾人はそっと声を掛けた。きっと、綾人が背後にいたことを彼女は気づいていただろうが。
毎朝顔を合わせるようになったとしても綾人と蛍の距離はなかなか縮まらなかった。綾人は毎日彼女に声をかけるが彼女の反応はそっけないものだった。ただ、それも少し変化があったように綾人は感じている。婚姻前にあったような、蛍の刺々しさが少しだけなくなった気がしているのだ。それか、単に綾人が彼女の態度に慣れただけかもしれないが。
名を呼んでも蛍は何も言わなかった。返事もしないが、姫と呼んだ時のように睨んだりもしない。それは、少なくとも名前を呼ばれるを嫌がっていない証拠なのだろうと綾人は思っている。
現に綾人が呼ぶと蛍は足を止めて綾人の方を見る。少し不思議そうな表情と、呆れた表情を交えながら。
「どうしたんですか、綾人さん」
「実は公務で数日出かけることになりそうなのです。なので、何かお土産に欲しいものはありますか?」
にこにこと晴れやかな笑顔で尋ねる綾人に蛍は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべて、そしてため息を吐いた。
「お仕事でしょう?私のことは気にせずに早く終わらせてください。手間をかける必要はありません」
「ただ私が贈りたかっただけなのですが……なら私好みの物にしましょうか」
蛍の返答に綾人は選ぶものを思案する。おそらく彼女の意図は何も必要ない、というものだろうが綾人はそれでは納得できない。物で気を惹きたい、というわけではないが少しでも彼女との会話のきっかけになればいいとは思っている。
「お飾りの妻にそこまでしなくていいんですよ。いつ離婚してくれるんですか」
「私はお飾りなんて思っていませんよ。私から離別を言うことは絶対にありません」
毎回の言われる言葉に、綾人は毎回同じ答えを返す。綾人は一度も彼女を自分の偽りの妻だとは思ったことはない。綾人とは違い、妹の綾華とは程々に仲良くしているようで綾華から神里家としての役割や担う責務、仕事、対処しなければならないことを少しずつ教えられていることを綾人は知っている。
意外と彼女はじっとしてはいられない性質のようだ。本当に関わる必要がないと思っているなら無視を決め込んで閉じ籠っていればいいのだ。しかし、彼女は神里家の役割を、妻が担う責務を結果的に綾華から学んでいる形になっている。
本意でなかったとしても、責務を全うするものにはそれ相当の報酬を与えなければ。綾人が彼女に贈りたいだけ、という理由もあるが。
そして、綾人は蛍と接していてもう一つわかったことがある。彼女は離別しないのかと何度も尋ねるが、自分から離れていくこともしないのだ。だから、この婚姻を継続するも破綻するも綾人次第。なら、一生綾人は蛍を離す気はない。
「しっかり考えて選んできますから、お土産楽しみにしててくださいね」
にっこりと笑顔を浮かべながら綾人は蛍の前から立ち去る。
彼女に背を向けていたため、蛍がどんな表情を浮かべていたか、無意識に少し寂しげな表情をしていたことを綾人は知らない。
「まぁ、お兄様がそんなことを?」
綾華が担う仕事を共に終えた蛍は今朝あった綾人との会話を彼女に教えた。すると彼女は嬉しそうに表情を綻ばせて笑う。稲妻では白鷺の姫君と呼ばれる綾華は有名であり、人々はむしろ社奉行当主である綾人より綾華の存在の方が印象に残っているようだった。それは、彼女が表舞台に出る仕事を引き受け、社奉行で行わなければならない事務処理や管理を綾人が行なっているからだろう。
兄妹で役割を分担して神里家を、社奉行を担っている。そのことを綾華に教えてもらってから、蛍は綾華とは少しずつ話をするようになった。綾華も蛍のことを兄の妻だけでなく、同年代の同性としても気にかけてくれていた。
『実は私は同世代のお友達がいなくて。仲良くしていただけると嬉しいです』
神里屋敷で過ごし始めてから数日経った頃、綾華にそう声を掛けられてから蛍は綾華に対して無碍にできなくなっていた。同じ兄を持つ妹として、人から見られる立場にあるものとして。彼女はあまりにも蛍と似た状況だった。
そして、それは綾人にも言えることであり、綾華から教えられて知れば知るほど、彼のことも無碍にできなくなる。
心を許す気はないのに。
「ふふっ、お兄様は余程蛍さんの気を惹きたいのですね」
「……そんなこと……ってことは普段と違うの?」
「そうですね、私やトーマにお土産を持ってきてくれることもありまるが事前に聞くことはほとんどありません。私やトーマの好みを把握しているからというのも理由かもしれませんが、きっと蛍さんが喜ぶものを見つけたいんだと思います」
目の前にある書類をまとめて、とんと端を揃えて整える。社奉行運営に関する書類と稲妻内で行われる祭り事に関する書類等いくつかの部類に分けて書類を仕分けしていく。
アビス教団にいた頃、蛍は事務処理をほとんど行っていなかった。蛍が行わなければならなかったのはアビスの象徴として空と共に全線に立つことだった。いや、もしかしたら蛍が知らないだけで空が全て処理していたのかもしれない。彼が時折書類を持っていたことを見たことがある。だから、綾人や綾華が自分の責務のために動いているのを見て、じっとしていることはできなかった。
「そこまでしなくてもいいのに」
お飾りの妻に、とは綾華の前では言えなかった。しかし、彼女は察しているようで蛍と同じように書類を整理しながら嬉しそうに笑っている。
「お兄様には今まで婚姻の話を全て断っていまして、どうしてか聞いてもいずれ考えるとしか言ってくださらなくて。だから、自分から将軍様へ婚姻を受ける話をされたことに、私たちはとても驚いたんですよ。将軍様にお会いされる前に伝えられはしましたが」
手元の書類から視線を外して、綾華の方を見る。蛍からの視線を感じたのか綾華も一旦手を止めて顔を上げる。
「綾華はなんて言われたの?」
蛍の問いに綾華はそっと目を伏せる。その時のことを思い出しているようで、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。
「……他国の、アビスの姫君をどうしても妻に迎えたい。受け入れてくれるだろうか、と言われました。お相手にも驚きましたが、お兄様の決意が固いことはすぐにわかったので私は全力で応援します、と伝えたんですよ」
今まで婚姻を断ってきた彼が、突然アビス教団からの婚姻を受けたいと言ったこと。端的に見れば政略的な要素を含んだ政略結婚のように見えるだろう。実際、和平同盟という建前があるためそれは否定できない。しかし、彼が自分から望んだ理由は本当に、それだけでなく蛍を見初めたからかもしれない、と蛍も少しずつ思うようになった。
「……ん?花火大会?」
手元の書類に視線を落とすとそこに記された内容を思わず口にする。
「毎年、社奉行主催の花火大会を行うんです。ちょうど一月後ですね。今お兄様が動いているのはこの件なんですよ」
「何かやらないといけないの?」
「花火の調達や人員の確保、あとは屋台の配置場所や材料費の確認、まだ他にもありますが主にはこんなところです。今お兄様がなされているのは屋台を経営する人たちの挨拶回りと材料費の確認ですね」
その内容は書類に記載されている。予め予算や何を売り出す屋台なのかも決まっているため、彼は今この内容で正しいのかを聞いて回っているのだろう。
「……何か、私にやれることはある?」
蛍の言葉に綾華は一瞬目を見張って、そして嬉しそうに目を細めて蛍の手から書類を受け取った。
「私の方の事務仕事は大体終わりましたし、私が行っていることも蛍さんは覚えてくださいました。そろそろお兄様のお手伝いをしてもらった方がいいでしょう。その方がお兄様の仕事も早く終わります」
そう言って綾華は書類の仕分けを終わらせると蛍の手を取り、歩き出した。
公務を終え、数日振りに神里屋敷に綾人が戻ってきた時には既に陽は暮れ、普通の人々は寝静まった時間だった。
「若、お帰りなさい」
ただ、家司であるトーマは綾人が帰ってくるのを聞いていたため起きており、綾人を出迎えた。
「ただいま。律儀だね、待たなくていいと言ったのに」
「誰も出迎えてくれないのも寂しいものでしょう?それに、彼女の様子が気になるんじゃないですか?」
図星で綾人は押し黙る。公務として動き回っている間、ふと思い出してしまう。彼女は今何をしているのだろうと。公務で家を空けることが多々あるが、今回は婚姻を結んでから初めてのことであった。一月後に花火大会を控えているため、行かないという選択肢はないため仕方ないができれば家を離れたくないと思ったほど。
ずっと蛍を神里屋敷に閉じ込めているような状態になっているため、一緒に行くことも考えたがどう考えても彼女は綾人と一緒に行くことに難色を示すだろう。綾華と二人で行ってもらうという手もあったが、花火大会の間綾華にはそれ以外の公務を担ってもらっているため難しい。ましてや、彼女は綾人ほど交渉や駆け引きが得意ではない。
「……やはり、トーマには隠せないね」
ふぅ、と息を吐き出すとトーマは苦笑する。そんなに、自分がわかりやすかっただろうか。
「お嬢と一緒に公務してくれてましたよ。お嬢がいうには、もう教えられることがないぐらいだとか」
「へぇ?綾華がそこまで言うなんて。思った以上に手伝ってくれているんだね」
「お嬢とは大分打ち解けたようで、時々笑っているのも見ますよ」
自分の前でも笑ってくれればいいのに。そう思ってしまうのは仕方ない。綾人は彼女に心を奪われているのだから。
「若。そんなしょげた犬みたいな顔しないでください」
「私はそんなにわかりやすくないと思うのだけど」
「今の若はわかりやすすぎますよ。いいから早くお風呂に入って休んでください。明日からまた彼女との距離を詰めればいいでしょう?」
背を押されて、風呂場へ連れて行かれると流れるように入浴して、気づけばゆっくりと私室へ向かっていた。その間も考えていたのは彼女のことで、恋は病気だとよく言ったものだと思う。今まで誰か一人にここまで意識を囚われることはなかったのに。自分の変わりようには苦笑せざる得ない。
綾人が彼女を見初めた日のことを、綾人は鮮明に思い出せる。
煌めく星月夜。
青白く輝く花々。
川のせせらぎ。
空から降る雫が川や地面を叩く音。
ふさふさとした毛に覆われた耳と尻尾が水に濡れたまま揺れる。
その姿をじっと見つめる黄金色の瞳。
差し出された葉の傘。
彼女には不釣り合いな光景で、それでいて美しくて綾人は目を逸らすことができなかった。
一瞬綾人へ向けられた視線は小さなものに向けられていた視線を変わりはなかったが、綾人を見て彼女は微かに笑ってその場を立ち去った。そんな一瞬の出来事で、綾人は心を奪われたのだ。
思い出しながら歩いていると、ふと目の前の光景に綾人は驚き思わず足を止めた。
綾人の私室の前の通路、縁側に真白い存在が腰掛けて空を仰いでいる。白い花のようなスカートは座ると尚、花びらのように散って見える。ぼんやりとした様子は今までの彼女の様子ではあまり見たことがなく珍しい。どちらかと初めて彼女を見たあの夜に近い。
「蛍さん?」
そっと声を掛ければ、ゆっくりと空を仰いでいた視線が綾人に向けられる。その雰囲気はこれまでの彼女が綾人に接してきた棘のようなものは感じられない。
まるで突然知らないところへ迷い込んだ子どものように危うげで不安定にも見える。
「どうかされたのですか?」
側まで歩み寄っても彼女は綾人を見上げるだけで逃げることもしない。あまりに反応が乏しい彼女に不安を覚えてその場で屈み、肩に触れると身体が冷え切っていることがわかって綾人ははっとする。
「いつからここにいたのですか?身体が冷え切ってしまっているではないですか。ひとまずこちらへ」
自分の私室へ入れることに抵抗がないわけではないが、上着と掛け物を貸して、温かい飲み物を出すぐらいはできるだろう。決して、やましい気持ちはない。
手を取って誘導すれば彼女は抵抗することなく綾人の私室へ入る。促されるままに座布団に座り、綾人は自分の机下に置かれていた藤色の上着を彼女の肩にかける。綾人が帰ってくる頃を見越してトーマが準備したであろう湯呑みは保温になっているため温度は温かいまま保たれている。トーマは綾人が帰ってくる少し前に準備していたであろうから、その際には彼女は廊下にはいなかったのだろう。いたなら、たとえ話しづらかったとしても声をかけるはずだ。
湯呑みを蛍の手に持たせると冷えた手がじんわりと温まっているような気がする。
「飲んで身体を温めてください。トーマが入れてくれた茶なので美味しいですよ。あぁ、今のうちにこれもお渡ししますね」
そう言って湯呑みをもつ手とは反対側の手に小さな箱を握らせる。綾人が今回悩みに悩んだ、彼女へのお土産だ。
「散々迷ったのですが、これを見ていたら貴女を思い出したので――金平糖にしました。ほら、星や花みたいで蛍さんみたいでしょう?」
綾人から見れば彼女はキラキラとした花や星のよう。綺麗で美しいのに、儚くて消えてしまいそう。
「…………て……」
「え……」
か細い声が聞こえた。聞き取ろうとしなければ本当に聞き漏らしてしまうほど今にも消えてしまいそうな声を。
「どうして……貴方はこんなに優しいの……?」
途方にくれた幼い子どものように、蛍はぽろぽろと言葉を零す。
「誰も、私を見てはくれない。見てくれるのは空だけだから、私を守ってくれる、空だけは私が守らなきゃって……だから、嫌な、ことも、気持ち悪い、こともやってきたのに……」
溢れる言葉は涙のよう。それでも、彼女は泣いてはいない。泣くことを己に禁じているようにも見えて。
「だけど……空が、ちゃんと、幸せになってって……。空の、ために婚姻も決めたのに、私、もう空には何もできないの……?」
蛍の言葉で綾人はおよその彼女の立場を理解した。テイワット七国との和平に積極的だったのは彼女の兄だ。双子は互いを守りながら自分たちの最高指導者という地位を守り、和平のために尽力してきたのだろう。蛍にある黒い噂も、発端は空を守るため、もしくは空に有益な情報を得るための手段だったのかもしれない。
そして、彼女は己の全てを空を守ることに集中させていたのだろう。だからこそ、兄からもう守らなくていいから幸せになってほしいと言われたことに混乱している。これが、彼女がこの婚姻を受け入れても、納得していなかった理由だろう。結婚式の双子の様子が対照的だったのはこのためかもしれない。
そして、彼女は驚くほど――綾人と似ていた。
神里家のため、妹のために何もかも、手を汚すことも、身を売ることもしてきた。
だからこそ、見た目の美しさと傷だらけの内面が表す彼女の雰囲気に強く惹かれた。
「ああ、だから貴女はこんなに綺麗で、美しくて、優しいのですね」
気高く、綺麗で、美しくて、可憐で、そして傷つきやすくて、優しい少女。
彼女の態度が虚勢からくるものだなんて綾人はとうにわかっている。本当に残酷で冷たい人間なら、あんな暗く冷たい日に小さなもののために葉で傘を作ろうなんて思わないのだろうから。
「大丈夫ですよ。お兄さんのために蛍さんにできることはまだまだいっぱいあります。貴女が幸せになることが大前提ですが」
「そんなの、どうやって……」
「なら、私と方法を探してみませんか?」
驚いたように瞳を見開いて綾人を見る彼女に笑いかけながら、その手に持たせた湯呑みの金平糖を預かって机の上に置く。そうして空いた彼女の手を引けば簡単に腕の中に収まり、その背をあやすようにとんとんっと撫でる。
「なんでもいいんです。好きなことをやるでも、どこかへ言ってみるでも。そこでやりたいことや気になるものが、夢中になれるものがあれば精一杯取り組んで見ればいいのです。そしたらきっと、満たされる何かがあるはずです」
「……何も、なかったらどうするんですか」
「なら、また新しく探せばいいのです」
幸せの形は人それぞれであり、どれが幸せだと定義することは難しい。
ただ、次に双子が顔を合わせる時にお互いが笑顔で出会えればいいと綾人は思う。その手助けなら、綾人はいくらでもする。彼女の笑った顔が見たいのは綾人も同じなのだから。
「……綾人さんは、優しすぎますよ」
「貴女が好きなのだから、仕方ありませんね」
いつもの軽口のように、本音を告げる。いつものように呆れられるか、冷たくあしらわれるかだと思っていたのに。
「え……」
顔を真っ赤にして動きを止める彼女の様子は、綾人にとっても予想外のもので。
「あ、えっと、その……」
視線をうろうろと彷徨わせて、どこか落ち着かない様子の彼女が新鮮で。
「……ん」
気づけば惹き寄せられるまま、彼女に口づけていた。何度も触れて、啄むように柔らかい唇を喰む。彼女に触れるのは心地がいい。しかし、衝動で口づけてしまったことにはっとして慌てて唇を離す。
「あっ……」
彼女の表情には嫌悪感は全く感じられなかった。あるのは、戸惑いとどろっとした蕩けた瞳と表情で、綾人の理性もどろどろに溶けてしまいそうだった。
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