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    まほやく用。大体ムルシャイ

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    【ムルシャイ】旧ムルとシャイの事後のうだうだ。またの名を西の魔王様の楽しい休日。

    オーバードにはなりようもない窓の向こうはすっかり暗闇が落ちている。
    あの憎らしい厄災は、今晩は朝のほうが近くなってから昇り始める三日月のはずだから、今はまだ空に姿を現していない。夜を煌々と照らす天体がいない夜は、星が生き生きと輝いているはずだった。残念なことに、シャイロックの寝室の窓からは久しくそのような光景は見られていない。普段のこれくらいの時間ならば、まだ酒場で客の相手をしているせいでもあるが、それ以上に星の輝きを阻む原因はこの国自身の汚染のせいだ。
    それがわかっているからこそ、シャイロックもわざわざ窓の外を覗かない。


    慣れた自分のベッドに横たわり、ゆっくりと目を閉じた。今日は、とても眠い。心地よいベッドの感触に引きずり込まれるように、身体が重くなっていく。気に入りの毛布を引き寄せ、素肌をくるませると一息に夢の中へと飛び込めそうだった。
    「あれ、もしかして寝るつもり?」
    すぐそばから降ってきた声に、ええ、とだけ返事をする。薄らと目を開けて視線を上にやれば、声の主がこちらを覗き込んでいるのが見えた。
    「君ともあろう人が、こんな時間に眠くなるの?いつもの夜なら、まだ店主の顔をして客の相手をしている頃だろうに。今晩の情事はいつもより激しかった?いや俺はそうは思わなかったんだけど」
    煽るように、饒舌な男からはぽんぽんと言葉が飛び出してくる。同じく素肌のまま、横向きに寝そべって肘をつき、その大層な頭だけを持ち上げている男はまだ眠くはないようだ。知的で、好奇心の強い瞳がこちらを見つめている。
    「構って欲しいならそうおっしゃってください」
    この男とのお喋りは嫌いではないが、今日はもうこのまま眠ってしまいたい。次第に焦点が合いづらくなる視界を自覚しながら、シャイロックはもう一度目を閉じた。

    「構って欲しいと要求すれば、君は俺を構うために目を開ける?」
    「内容によります」
    「なんだって今日はそんなに眠りたがるのか……」
    そこに興味がある、と言った声と同時に、ベッドがギシリと音を立てた。こちらをのぞき込んでいた姿勢を崩したのだろう、気配はすぐそばにあるから、ベッドから降りたわけではなさそうだ。
    どんなに言っても黙る様子がない彼に、思わず眉間に皺が寄った。

    「今日は、とても楽しい一日だったんです」
    観念したように、シャイロックは目を開いた。少しだけ離れた場所に、仰向けに寝転んだムルがいる。好奇心に満ちた瞳が、こちらを見据える。どんなにこの国の空が汚されようとも、彼の瞳が輝きを失うことはない。
    「隣町で、珍しいものを集めたバザールがあったんです。私にしては朝早く起きて買い物して回って……それはそれは興味深いものばかりで、随分買い込みました」
    「ああ、あの荷物の山は戦利品というわけだ」
    部屋の隅にまとめて置かれている紙袋や箱の塊を、ムルは振り返る。一人で持てるはずのない量のそれは、魔法で小さくして運ばれてきた。そして今は、買い主に封を開かれるのを、静かに待っている。
    「その後、夕方からは心待ちにしていた観劇に出かけました」
    「俺と行ったね」
    「発売初日に完売になったはずのチケットを、あなたが一昨日突然持ってきたおかげですね」
    どういたしまして、と言いながら、ムルはシーツの上に散らばったシャイロックの髪を一束手に取る。それを遊ぶようにくるりと指に巻き付け、薄く笑みを浮かべた。皮肉が通じないのはいつものことだ。
    「言っておくけれど、合法的な手段で手に入れたよ。魔法は使ってない」
    「どうせ、そこらの貴族と賭けでもして取り上げたんでしょう」
    「まあそんなところだが、それに同行した君も同罪だろう」
    艶やかな黒髪が、ムルの人差し指に巻き付いては、はらりと落ちていく。なにが楽しいのか、何度も繰り返される様子をシャイロックも眠たい目で眺めていた。

    話題の歌劇は、評判に違わず素晴らしいものだった。あまりの人気ぶりに当日券ですら難しいだろうと諦めていたシャイロックだったが、一昨日自慢げにチケットを持って酒場に現れたムルに誘われ、観劇することができた。この男が発売日にきちんと列に並んで購入するなんてことはありえないので、なにかよからぬ方法で入手したことはわかりきっていた。それでも誘われれば、その興味と好奇心に抗えないのは西の魔法使いの性である。

    「そして劇場を出たら、路上でダンスパーティーが始まっていて……」
    「あれは傑作だったな、確かに楽しかった」
    劇場を出て、さて帰ろうかと話していると、広場が急に騒がしくなった。見れば、同じく観劇をしていた魔法使いの集団が、興奮冷めやらぬ様子で陽気に踊り始めていた。誰も指示していないのにどこからか弦楽器が現れ、管楽器が現れ、ダンスの輪がどんどんと広がっていく。陽気な気配を聞きつけて、どこからともなく魔法使いが一人、また一人とやってきて、次第に野外ダンス場の様になっていった。
    ケラケラと笑いながら踊る魔法使いの一人に、あらムルとシャイロックじゃない、などと声を掛けられ、半ば強引に輪の中に入れられた。そこまでされて乗らないのは、名折れになるというもの。結局、人間の軍隊に遠巻きに威嚇されるまで、享楽の中で踊り続けてしまった。

    「しかし、人間たちも大きな魔法科学兵器を持った途端に強気だな。あれだけいる魔法使いを相手に静止を呼びかけるなんて」
    「……誰のせいだと?」
    「俺のせいだと、俺の口から言わせたい?」
    事実の為ではなく、シャイロックの願望を探るための問いかけだ。だからこの男は、性格が悪い。普段ならばそれに乗って二言三言返してやってもいいのだが、今日はもう、どうしようもなく眠い。

    口を噤んだシャイロックをおもしろく思わなかったのか、ムルは身体を起こしてシャイロックの上に覆いかぶさってきた。くるまっていた毛布をはぎ取り、肌と肌を合わせらる。不快感を隠さずに顔をしかめれば、目尻にムルの唇が落とされた。抗議の言葉が口から出る前に、頬に、鎖骨にと舌が這う。流石にやめてほしいと口を開こうとしたところで、こちらを見据える目と視線がぶつかった。

    「それで、その後は?」
    魔法科学兵器をこちらへ向ける人間たちに幾らかの悪戯を好き好きに仕掛けて、おかしなダンスパーティーから魔法使いたちは解散していった。
    シャイロックたちも同様に箒にまたがって夜の街を抜け、今いる自宅へと戻ってきた。ああ面白かったと笑いながら二人で部屋に入り、示し合わせたように唇を合わせた。その後はもう、なすがままだ。
    「その後のことはあなたもご存知でしょう?」
    人間の寿命を遥かに超えて付き合いのある間柄だ。こんなふうに二人で過ごす夜も、数えることすら難しいほどに回数を重ねている。それをわざわざ問うてくるこの男は、やはり憎らしい。
    「何が起こったかという事実はもちろん知っているけれど、今話しているのは君の楽しかった1日の話だろう。君の目から見たものじゃないとこの問いへの答えとしては不十分だ」
    もっともらしく、ムルは話を進める。学者という職業はこれだから面倒だ。
    「……私の家に戻って、あなたと寝ました。これでよろしいですか」
    「随分投げやりな答え方だ。それも楽しかった?」
    「さっきあのまま眠らせてもらえていれば、楽しかったまま一日を終えられたでしょうね」
    言われた意味を理解していないはずがないのに、なるほど、とムルは頷く。相変わらずムルはシャイロックの上にいて、眠るには邪魔なことこの上ない。いい加減に離れてほしいと言おうとしたところで、ムルの唇がゆっくりと弧を描いた。同時に細められた目が、爛々としている。

    「つまり君は、疲れた体に今日1日の楽しかった思い出を纏って、そのまま眠りに付きたかったわけだ。眠い眠いと言ってるけれど、それが本当の目的だからそこまで眠くはないんじゃない?実際、今はちゃんと目も開いている」
    なんだって今日はそんなに眠りたがるのか、と初めに問われた言葉をシャイロックは思い出す。今日は一日楽しく動き回ったので疲れて眠いのだ、と伝えたつもりだった。だがどうやら、この男の受け取り方は違ったようだ。自分ですら無意識の、心の内を言葉にされるのは、悔しさと、快感が入り混じる。眠りにつく前に受ける仕打ちとしては、酷いと言って差し支えないだろう。

    「千年以上を生きて、君のその少女のようないじらしさはどこから生まれるんだろうね」
    「目が冴えたのは、あなたがおしゃべりをやめないからでしょう」
    いよいよ腹が立ってきて、魔法で追い出してやろうかと思った。魔道具を手に取ろうとして、シャイロックはふと動きを止める。同じように、すぐ真上にあるムルの表情も、瞬間、真顔になる。だがそれも一瞬のことで、ムルの瞳がゆらりと横を向いた。視線の先には、真っ暗な夜を映しただけの窓がある。

    「残念だねシャイロック。まだ眠りにはつけなさそうだ」
    楽しそうに笑って、ムルがゆっくりと身を起こす。いつもはわざわざ覗かない窓の外。普段とは違う異変を二人とも感じ取っていた。
    「魔獣…と呼ぶには少しお粗末かな。魔力で使役している動物程度のものだ」
    予想を並べながら、ムルはゆっくりと窓へ近づく。ゆらりとガラスの向こうの景色が揺れ、唸り声のような音が響く。やがて黒い靄と共に現れたのは、歯を剥き出しにして唸る狼のような出立の獣だった。

    ぐわっと口を開いて獣は吠えるが、窓を突き破っては来れないらしい。それもそのはず、この家の周りにはシャイロックの結界が常時張られていて、主人の許しなしには誰も入ることができない。もちろん、圧倒的に魔力の強い魔法使いだとか、伝説級の魔獣なら破ることはできるが、今ここに来ているものはそれに及ばないらしい。

    「……早く追い返すなり始末するなりして頂けますか?」
    「俺が?君の家に来たものなのに?」
    「だってそれ、どう考えてもあなた宛てでしょう」
    家の周りに知らぬ魔力を感じて始めこそ警戒したものの、大したことはないとわかってシャイロックは再びベッドへと身を横たえていた。重しになっていた男も離れたことだしと、もう一度毛布を手繰り寄せる。相変わらず一糸纏わぬ姿で獣と相対しているムルは、口元に手を当てて、ふむとわざとらしく頷いた。

    「その根拠を聞いても?」
    シャイロックが予想している程度のことは、ムルもわかっているだろう。敢えて尋ねるのが、彼のやり口だ。
    「私を狙って使い魔のような獣を寄越すなんて、普通の魔法使いならやらないことです。西の流儀ではありませんし、北の魔法使いならこんなまどろっこしいことはせず家ごと破壊するはず。他の地域でどの程度私の名前が通っているかは知りませんが、他国の長寿の魔法使いにこんなやり方で挑んでくる人はいないでしょう」
    「でも、この獣は明らかにどこかの魔法使いに使役されている。そういう魔力を隠すことなく纏っているね」
    「隠せていないのはその魔法使いが未熟だからでしょうね。にも関わらず、こんなことをするのは……人間に金で雇われた魔法使いとしか思えません。私はここ数百年人間とはほとんど交流がありませんから、そうなるとあなたが狙われてるとしか考えられない」
    「俺を恨んだどこかの人間が、仕掛けたことだと」
    「心当たりがないとは言わせませんよ」
    「残念ながら、興味のないことを覚えているのはもったいなくてね。だが俺も、全く同じ考えだよ」
    パチン、とムルが指を鳴らすと、どこからともなく現れた彼の服が身体を覆っていった。最後にマントと、帽子が乗せられ、いつもの見慣れた衣装に早変わりする。つい数秒前まで纏っていた情事の残り香など一切見せず、嫌味なほどにきっちりと着込んだ姿にシャイロックは思わず眉を顰めた。

    ああ、さっき彼の言っていた、「楽しい思い出を纏ったまま」とはまさにこのこと。抱いたまま眠りたかった痕跡の一つが、呆気なく消え去ってしまった。

    獣をどうにかするためにこの家を出た彼は、後一時間もすれば昇ってくる厄災を待って、ここには戻ってこないだろう。やはりあの時、あのまま眠っておけばよかった。どんなに楽しい一日も、最後に考えたくないことを頭に残してしまっては台無しだ。
    せめて、事の顛末は見届けないまま眠ろうと、シャイロックはまた目を閉じる。今度こそ、と思った決意を、憎らしい男はあっさりと打ち破った。
    「シャイロック、寝てる場合じゃない」
    「……あなた、私を寝かせない約束でも誰かとしてるんですか」
    「そんな馬鹿げた約束するわけないだろう。……いや、そうじゃなくて、この獣、君宛てみたいだよ」
    思わず出た恨み言にも大した関心を示さず、ムルはこちらを振り返った。君宛てみたいだ、という言葉の意味をすぐには理解しなかったシャイロックだが、覗きたくもない窓の方に目を向け、ようやく事態を悟る。

    結界の効力はそのままに窓を開け放ち、ムルは獣に向かって手を伸ばしているが、そこに攻撃が加えられる気配は一切ない。それどころか獣はムルに目もくれず、開け放たれた窓からシャイロックの方だけを見つめている。耳障りな唸り声は、明らかにムルに向けてではなかった。
    「君の予想は大外れだったようだね。どうする、俺が始末してもいいけれど、君は俺に貸しを作ってもいい?」
    「全く同じ考えだと言ったあなたも大外れだと思いますが」
    「まあ、そうなんだけどね。でもちょっと、俺たち二人ともの予想を裏切った魔法使いの正体に興味はない?」
    予想外で、おかしなものが西の魔法使いたちは大好きだ。普段は澄ました顔をしているこの男だって、その性分は同じ。いや同じどころか誰よりも強い好奇心は、どんな時もその身の内を焦がしている。今だって、自分の考えが外れていたとか、二人のどちらが始末するとか、そんな些細なことはムルにとってどうだっていいのだ。

    「この獣に軽く混乱させる魔法をかけたら、きっと主人の元に戻るだろうね。君も見に行くだろう?早く服を着て。それともそのまま外に出る?」
    「……ご冗談を。その獣を追い返して私は寝ますよ」
    「本当に?西の魔王ともあろう君が、自分に敵対してきた魔法使いを野放しにしておくと?」
    当然、一緒に行くだろう、と言いたげなムルの瞳がこちらを見つめている。こちらを魔王だと揶揄って、煽って、言いたい放題のこの男を突き動かすものは、ただ知りたいという欲望だと知っているはずだったのに。


    ≪ ……インヴィーベル≫
    静かに唱えた呪文を受けて、獣はギャッと声を上げた。張り付いていた窓から離れて身を翻し、夜の街へと駆け出す。その後を追って、素早く箒を取り出したムルが窓から飛び出していく。部屋を出る直前に見えた横顔はまるで子供のように笑っていた。

    シャイロックは一人になった部屋で、大きなため息をついた。開け放たれたままの窓からは夜の冷たい風が優しく吹き込んでくる。楽しかったはずの一日はずいぶん様変わりしてしまった。だが困ったことに、こういう予測不能なことも、シャイロックは嫌いではない。
    手の中でキセルをくるりと回すと、ラフな外出着がシャイロックの身体を覆う。夜の散歩ならあまり決めすぎないほうがいいだろう。髪はサイドに流して軽く結え、靴もあまり装飾のないシンプルなものを選んだ。
    つい数十分前まで乱れていたベッドを後にし、窓辺に立つ。さっきまでは消えてしまったことを惜しんでいた情事の気配は、自分からもすっかり無くなってしまった。淡い喪失の痛みと、あの男の好奇心の先を天秤にかけながら、シャイロックは箒に乗った。



    空高くに浮かび上がると、空中に何やらキラキラとした道筋ができている。一本道で神酒の街のはずれに向かっているそれは、ムルが道案内に残していったものだろう。こんなもの無くとも魔力を辿っていっても追いつけるのだが、今日は彼の遊びに乗ることにした。
    宝石の間を縫うように箒で飛んでいると、途中顔見知りの魔法使いに出会った。夜の散歩かい、と尋ねられたので、そんなところですと返答する。
    「ところでこのキラキラしたものは何?」
    「ムルの足跡ですよ」
    そいつは面白い、と言って、夜中でも陽気な魔法使いは手を叩いて笑う。この国の魔法使いは、よくわからないものは大抵歓迎してくれる。常人では理解の及ばない程の大天才であるはずの男が残した、煌めいてよくわからないおふざけは、我々の大好物だ。
    また酒場に行くね、という挨拶とともにその魔法使いとは別れて、シャイロックは再び派手な足跡を追って空を駆ける。ようやく行き着いたのは、隣町との境のあたり。歓楽街の様相が一番薄く、暗い路地裏の一角だった。

    「ずいぶんゆっくりだったね」
    夜空の散歩は楽しめた?、とムルがこちらを振り返って尋ねる。箒から地上に降りて彼に近づき、おかげさまで、と答えた。
    ムルから数歩奥、路地の行き止まりには、先ほど追い返した獣と、怯えた様子でうずくまる魔法使いがいる。この男の仕業に、間違いないだろう。
    「ひどく怯えていらっしゃるようですが、何をしたんです?」
    尋ねながらパイプに火をつけ、最近気に入りの香りを燻らせた。寂れた路地裏に似つかわしくない甘い香りが、あたりを満たしていく。
    「いやまだ何もしていないよ、いくつか質問を重ねていただけなんだが、お気に召さなかったようだ」
    「あなたのそれは、毒よりも強い魔法よりも、余程効きますからね」
    なにをどう質問したのかは推測の域を出ないが、その様子はありありと浮かぶ。口先だけでも相手を破滅させられる男。そんな彼の興味をうっかり惹いてしまって、さぞや災難なことだろう。
    シャイロックとて眠りを妨げられたところは多少不快に思っているが、期待したほどの意外性も、面白さも持ち合わせていなさそうなこの魔法使いに、今は同情の念すらある。
    すっかり纏う魔力を失って、ただの子犬のように成り果てたかつての獣と、何も言えずに震える年若そうな魔法使い。手練れのようには、全く感じられない。これでは、こちらが弱い者いじめをしているようではないか。
    「その魔力は、東の魔法使いかな?まだ百歳も超えていないように見受けられる。それで何故、こんなことをなさったのかな?」
    ムルが一歩足を進めると、男は鋭く悲鳴を上げる。石にされると思って怯えているのだろうが、ムルの興味はそんなところにありはしないのに。
    「…西の国の、貴族に依頼されて……!」
    「金で雇われた?この国の貴族は自分の欲望の為には金銭を惜しまないからね。それでどこの家?」
    ようやく口を開き始めた可哀想な魔法使いに、ムルは更に詰め寄る。どこの家だと問われて男の口から出た家名は、シャイロックには全く聞き覚えのないものだった。危害を加えるよう他国の魔法使いを雇われるほど、付き合いがあるはずもない。
    だがその名を聞いた瞬間、わずかにムルの眉が動いたのを、シャイロックは見逃さなかった。
    「……ムル」
    「ああ、うん、聞き覚えはあるね。何だったかな」
    大量の知識が詰まった知者の頭は、興味のないことは本当に忘れているので始末に負えない。だがこの場合、単にすっ呆けているのか、覚えていないのか、どちらなのだろう。
    「それで、そちらの家の方が何故私に?」
    普段よりもむしろ笑顔を深めて、シャイロックも男に尋ねた。あまり機嫌がよくなるような答えではないと、予感してのことだ。カタカタと小刻みに震えたまま、男は少しだけ目線を上げて恐々とこちらを見る。
    「そこの、ご令嬢が、自分からムル・ハート氏を寝取った輩を始末してほしいと…!」

    場の空気が一気に冷える。笑みを作っていた唇が、ひくりと引き攣るのをシャイロックは感じた。それを見たムルも、どこか困ったように、それでいておかしそうに、ワオ、と呟く。まるで他人事のそれに、シャイロックは眩暈がしそうになった。
    「君、俺のこと寝取ったの?」
    「記憶にございませんが」
    「だって少なくとも、この男と、あの家のご令嬢はそう思ってるみたい」
    いよいよ笑いが堪えきれなくなった様子で、ムルは肩を揺らして笑い始めた。ムルが笑えば笑うほど、シャイロックの腹の底は冷えていく。だがここで感情を露わにしては、自分の負けだとよくわかっている。努めて冷静に、シャイロックは反論を始める。
    「どうせあなたが、中途半端にお相手して放り出したんでしょうに」
    この男はいつだって自分の為の研究資金を欲している。いくらあっても足りない、というのはその通りだろう。ただその過程で発生する痴情の縺れに巻き込まれるなんて真っ平ごめんだ。

    やはり、あのまま眠りについておくべきだった。シャイロックは今晩で何度目かもわからない、同じ思いを頭に浮かべていた。
    「そもそも、やはりあなたのせいじゃないですか」
    「ねえ知ってるシャイロック、人は自分の恋人が心変わりをしたとき、男性は相手のことを恨むが、女性は相手が次に好きになった人を恨むそうだよ」
    「私が怒るとわかっていて、今回の件に当てはまらない一般論を提示するのはやめて頂けます?」
    その件のご令嬢とどこまでの関係だったのかなんて、尋ねるの馬鹿馬鹿しい。寝取った、などと、この男はシャイロックのものになったことなど一度もないし、ましてやそのご令嬢が生まれるずっと前からこんな関係なのだ。言いがかりでしかない。

    「それで、この魔法使いはどうする?」
    思い出したように、ムルは足元にいる男を手で示す。突然二人だけで口論を始めた様子に男はあっけにとられていたようだが、再び矛先を向けられて身を強張らせていた。
    「あなたの好きなように。私は関係ありませんから」
    「おやそうなのかい?西の魔王様は寛大だな」
    「呆れているんですよ」
    ムルがパチンと指を鳴らし、呪文を唱える。月の意味を冠したその言葉とともに、哀れな魔法使いと獣はふわりと宙に浮かび、そのままどこかへと飛ばされていった。
    「……どちらに送ったんです?」
    「例の貴族の邸宅に。実はこの近くなんだ」
    聞き覚えはある、なんて曖昧な言い方をしていたくせに、やはりきちんと覚えているのではないか。下らなさにあきれる自分を慰めるように、シャイロックはパイプを咥えた。
    「そんなことをしたら、もう金銭を無心に行けないのでは?」
    「いや、もう縁は切れているよ。あそこは現当主がずいぶんと商売下手でね。放っておいてもそのうち潰れるだろう」
    くつくつと悪い笑みを零しながら、ムルは箒を取り出す。この場を去ろうという意図を察し、シャイロックも箒に座る。二人並んで空へと浮かぶと、地平線の近くに大いなる厄災が昇っていた。
    猫の目のように細められた三日月。まるで今の自分を笑われているようで、シャイロックの胸がざわつく。

    「ああ……もう君が現れる時間だったんだね。この時期は君の光を浴びる時間が少なくて寂しいよ」
    ムルは自分の唇につけた指先を、月に向かって掲げる。恋焦がれていると自身が明言する通りの表情を浮かべ、あの月の光を受けている。
    その身のほとんどを陰らせた厄災は、あと数日で新月の日を迎えるだろう。そんな夜のほうが、シャイロックにとっては余程心が落ち着く。
    「さて帰ろうか、シャイロック。さすがに俺も眠くなってきた」
    もうどれだけもしないうちに、夜明けが訪れる。寝ぼけた猫のように大きな欠伸をしながら、ムルの箒が濃紺の空を駆ける。
    「どちらにお帰りの予定で?」
    ついさっきまで二人がいたシャイロックの家を目の前に、念の為確認の問いを投げる。そう尋ねられることは想定していなかったのか、ムルはきょとんとした表情をこちらに向けた。なぜ、と言いたげな幼い表情に思わず頬が緩んでしまいそうになる。
    「今寝起きしてるところ、ここから結構遠いんだ。帰る気力がない」
    泊まる、と表現するにはもう朝が近くなりすぎているが、この男はシャイロックの家で眠っていくつもりらしい。だったら最初から、あの時一緒に眠ってくれればよかったものを。

    恨みがましいシャイロックの表情に気づき、ムルは楽しそうに笑う。開け放したままの窓から二人で部屋に戻り、今度はきちんと窓を閉じだ。
    「今日は……いや、もう昨日かな、俺も楽しい一日だったんでね」
    言いながら指先を翻したムルの衣装は、もう既に寝間着に変わっている。ベッドへ身を横たえながら、おしゃべりな口は言葉を放つことをまだやめない。
    「楽しかったからこそ、まだ眠りたくなかった。俺はそういう性分なんだ」
    嬉しそうに、自分勝手な物言いを並べる男に、今度こそ大きいため息が出た。私を楽しみの出しにしないでください、といったところでこの男は聞き分けてくれないのだろう。

    魔法で寝間着に着替えて、シャイロックもベッドへと入り込んだ。今度こそ、ムルも眠るつもりで目を閉じようとしている。
    窓の外は、少しずつ朝を迎え始めていた。

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