25歳になりアイドルとして仕事は増える一方だけれど、家のことは幾分落ち着いて、わしもいよいよ学校に通うことになった。
今までは本を開いてようやく分かることも、学校で先生っちいう人が迅速丁寧に教えてくれる。それから今まで孤独に学んできた身としてはクラスメイトっちうんも有難い存在や。
普段は昼間に仕事があるため夜間に授業を受けているが、今日は担当の教員に提出しなければいけない書類があったため午前中に職員室を訪れることになっている。廊下を歩いていると、階段の上から女の子らが話している声が聞こえた。
「昨日の白鳥藍良のドラマ見た!? すっごくかっこよかった!」
「見た〜! でも、複雑なんだぁ…。ついに全世界に藍良くんが見つかっちゃった気がして。わたし小学生の時に翼モラトリアムのリリイベ見かけた時から藍良くんのこと好きだからさぁ」
「わ、私だって! ALKALOIDのデビュー前のKiss of Lifeの音源、お母さんが持ってるし!」
ほお、えらい古参やないの。ふふん、わしはなんとラブはんがアイドルになる前からの友達や。ええやろ。とは声に出さないが、女の子たちが話す藍良の話題に聞き耳を立てることをやめられなかった。
「白鳥藍良といえば、夜間に桜河こはく似のすっごいかっこいい人が入学したらしいよ」
「え、うそ! 見に行く?」
「私たち今から授業だから無理だよ。そもそも夜間の生徒が学校くるのは夕方じゃない?」
「そっか! ところで次の数学の小テストってさ――」
今本人がここにおることも、わしが「白鳥藍良」と一緒に住んでいることもこの子らは知らへんねや。教えてあげたくなったが彼女たちは数学の小テストに、自分は職員室に急がなければいけない。
ところで小テストがあるなら中テストとか、大テスト、特大テストなんかもあるんやろか? 帰ったらラブはんに教えてもらお。
「ただいま〜。」
「おかえり、ラブはん。」
「あれ? 今日学校だったっけ?」
「出さなあかん書類があって、それだけ提出しに行ってきたんよ。なんで分かったん?」
「ふふゥ。きみ、学校行った日はニコニコしてるから」
「コッコッコ♪ ぬしはんには隠せへんなぁ。昼の子らがな、ラブはんのこと話しとったんが嬉しくて。新しいドラマえらいかっこいいらしいやん?」
ラブはんはえへへ、と笑って照れている。25歳になって身長も伸び、毎秒男前に磨きが掛かっているが、笑顔は初めて(現実世界で)出会った15歳のころのままや。
「そういえば来月の最初の土曜にお休みできたんだ。どっか行く?」
「あぁ、あかん。その日は運動会や」
「運動会?」
「うん、学校の運動会。夜間の人間も参加してええんやって。わしこういうん参加したことないから、今からもう楽しみで寝られへんわ」
いい年して遠足気分が抜けなくて恥ずかしいが、いかんせんわしには経験がない。
ラブはんはうーんと少し悩んだ後、
「それって、おれみたいな部外者も応援に行っていいやつ?」
と遠慮がちに聞いてくる。
「来てくれるん? 嬉しい! ラブはんがくるなら絶対1等賞取らなあかんなぁ♪」
◇
こはくっちの学校の運動会は昼間と夜間の生徒が合同で行うため、学校近くの大きな陸上競技場が貸切になってたくさんの人が来ている。スタンドにはいろんな人が集まっていて、まるでお祭りみたい。
こはくっちの出番の直前に来たので、こはくっちはすでに競技場のフィールドに集合しているようだった。推しを遠くから見つけることには慣れているし、特に彼の綺麗な髪は一瞬で見つけることができる。
周りの高校生たちもこはくっちの存在に気付いているのか、
「桜河こはく似っていうか、桜河こはくじゃん!!!!!!!」
「もしもしお母さん!!? うちの運動会にこはくくんきてる!!」
「桜河、俺の机使ってるかもしれないのか…」
などとざわざわしている。
こはくっちはこの10年で精悍な顔つきになり、小さくてカワイイ末っ子枠から運動系イケメン枠で活躍している。一方バラエティなどでは的確なツッコミを繰り出して笑いを取り、艶やかな大人の雰囲気もあって、老若男女問わず多くの人を魅了していた。
だから今この競技場にいる高校生だけじゃなくて、応援に来ているような親御さんたちにも大人気で、こはくっちの存在に気付いた箇所からどんどん騒めきが起こっている。
普通こはくっちみたいな現役アイドルが一般の高校に入学した場合、そもそもこういう運動会みたいなイベントには出ないか、少しは顔を隠すと思う。だけど当の本人は帽子もマスクもしないどころか、頭にハチマキを締めて気合いを入れている。…まァこういうところがみんなに好かれる理由なんだろうけど。
「…顔、いい〜……」
「はぁ……すごい……」
「沁みる――」
さっきまでキャーキャーと興奮していた子たちは、今では静かにこはくっちのかっこよさに酔いしれていた。わかる、わかるよォ!その気持ち。こはくっちの綺麗な顔って、なんていうか落ち着いて味わいたくなる顔なんだよねェ〜!
さて、こはくっちが参加するのは200m走。夜間高校には色々な年代の人が通ってるって聞いたけど、公平になるようにだろうか、待機列にはこはくっちと同じくらいの年齢の人が並んでいる。こはくっちは隣のレーンの人と楽しそうに談笑していた。
こはくっちに同級生の友達ができて嬉しい反面、なんだかちょっと羨ましくなってきた。いいなァ。おれもこはくっちと200m走走ってみたかった。
前の組の出走が終わったようで、こはくっちもトラックに入り、スタートの準備を始めた。すーっと目線を動かして何かを探していると思ったら、おれと目が合った瞬間に頬が上がり、目が細まる。
(見とってや)
おれでもなんて言ってるか分かるくらいゆっくり口を動かして、最後にニコ、と優しく笑った。
「ヒッッ………」
「ァ……〜〜」
「もしもしお母さん? あたしをこの学校に入れてくれて……ううん、この世に産んでくれて、アリガト」
「こはく、こっち、見た――」
おれもよく他の子に向けたファンサを、自分に向けられたものだと思って楽しむことがある。アイドルのファンサはみんなのものだもん。だけどごめんね? 今のはおれだけのものなんだ。
おれは今日顔を隠すためにマスクをしてるから、頑張れも大好きも返せない。だから人差し指で小さくハートを描いて、こはくっちの所まで届くよう指で弾いて飛ばした。
こはくっちはそれを手で掴み受け取るフリをすると、掴んで握った拳にそのままちゅっと唇を付けた。
そ、それはやりすぎだよォ〜こはくっち!!
年季の入ったアイドルオタクのおれでもさすがに照れてしまって、マスクを外したいくらい熱が篭った。
実はこはくっちは運動神経がすごく良くて、昔一緒にニューヨークに行った時、パルクールでひったくり犯を息ひとつ上げずに追走していた。
今年は体力自慢の芸能人が集まる年末の番組に出演が決まっているらしくて、最近は家でもトレーニングをしている。これはおれの秘密のアイドルネットワークで得た情報なんだけど、実はニューヨークのマッキーも同じ番組に参加が内定してて、来日予定らしい。ひなた先輩も出演するみたいだから3人が揃うのがすごく楽しみ♪ マヨさんも誘って写真撮ってもらお。
いよいよスタート直前、スマホのカメラをトラックに向けて最高画質で録画する。燐音先輩に撮ってきてって言われてるのと、こはくっちのお姉さんにもこっそり「あの子の初めての運動会やねん、上の姉さんもえらい楽しみにしてて…撮ってきてくれへん?」とお願いされた。
録画ボタンを押した瞬間 パン、と空砲が鳴り響く。
こはくっちの走りは加速が良くて、走り出した瞬間に抜け出した。持久力もあるし、姿勢も良い。真剣な表情、25歳のアイドルが大真面目に鉢巻締めて200mを楽しそうに駆け抜けていった。
一位でゴールしたこはくっちは、小さなメダルを受け取り、同じ組で走った人たちと握手をして肩を叩いている。
『きみが教室に居てくれたらきっと少しは楽しくなるのに』なんてことは中学生の時に毎日妄想した。夢ノ咲に入っても『きみと通えたらきっともっと楽しいのにな』と何回も思った。結局叶うことはなかったけど、今こうして学生を謳歌するきみを見ることができて嬉しい。
……でも、やっぱりちょっと、ほんのちょっとだけ、すっっご〜〜く羨ましい! 25歳にもなって大人気ない自分が恥ずかしい。こはくっちの勇姿も見れたことだしさっさと帰ろ。そう思ってスタンドの出口に向かうと
「ラブはん!」
と目の前に綺麗な髪の男の人が立ち塞がり、伸びやかな声で紡がれるおれの黒歴史のハンドルネームが競技場のスタンドに響く。ニューヨークの街の屋根の上から叫ばれた経験があるから、競技場で叫ばれたところでもうなんとも思わないけど。……ウソ、ちょっとだけ嫌〜。
「ラブ………?」
と誰かが呟くと、それが口火を切ったかのようにあっという間に周囲は騒然とした。
「桜河こはくだ!!!!」
「ってことは白鳥藍良!??」
「わーー!!!!!」
「ラブ…えっあ、藍良くん!?」
ラブ=白鳥藍良が今の高校生にまで浸透している事実がシンプルに辛いよォ…。
「袖じゃないけどここから見てました! こはくくん、すっごくかっこよかったです!」
あっ! ちょっとォ、それはおれの台詞〜!
「ラブはん! 見て! わし1等賞取ったで!」
1位のメダルを掲げて、キラキラと宝石みたいに輝くこはくっちの目はおれだけを見ている。あれだけ沸いていた周囲も一気に静まる。うそ、これっておれ待ち!?
「え! えっとォ…おめでとう! あいらぁぶ!」
「「「「おめでとーーー!!!!!!!!」」」」
「うん! 皆はんおおきに!」
わーっと拍手が巻き起こる。照れくさいけど誇らしい。誇らしいけど照れくさくて視線を下に移すと、運営スタッフっぽい人が「桜河さんどこ行ったか知りませんか?」と探していた。
「あー、こはくっちぃ…?下で呼ばれてるみたいだけど。すぐ戻らなきゃいけないんじゃないの?」
「あ、せやった。どうしてもこれをラブはんに見せたくて来てもうた。」
200mを全力疾走しても息一つ上がらない人が、頬を少しだけ赤くしておれに報告してくれるなんて、こういう子供っぽいところがかわいい。子供時代がどうとかじゃなくて、こはくっちが元々こういう人なんだと気付いたのは最近のことだ。
「なー、これリビングに飾ってもええ? 額縁には入れへんけど。あと今夜ご飯どないしよか? ニキはんとこ行く?」
「う、うん。そうしよっか」
「今日から新メニューらしいで。エビといくらのパスタが美味しそうやったわ♪ 先にニキはんのお店行っててな」
ALKALOIDとCrazy:Bのメンバーくらいしか知らないおれとこはくっちが同居していること、おれたちの今夜の夕飯がエビといくらのパスタであることがこはくっちの同級生やほかのクラスの高校生、その保護者のみなさん、学校の先生にバレたところでこの話はおしまい。