「彼は?」
「まだ寝てる。バレないように手を解くのが大変だった」
ベッドを抜け出す際の苦労を思い出し、首を鳴らす。妙な神経を使ったからか、どっと疲労を感じた気がした。
朝の空気と冬の匂いを纏い玄関口に立つ母は、「あなたと離れたくないんでしょう」と何気なく言った。それから傍に置いたキャリーケースとボストンバッグに、優しく触れる。そこには、日用品と食料品が詰め込まれている。後日零を連れて街へ出れば良いだけだから、ここ数日を凌げる食料だけ頼んだ筈だったが、どこの母親も求められたこと以上をしたがるものらしい。
「卵は」
「最重要事項でしょう。忘れる訳がない」
母がそっと叩いたボストンバッグのファスナーを開けると、そこにはしっかり卵が詰め込まれていた。これでひとまず、零が何も口にしないことは避けられた。思わず安堵の息を吐く。視線を感じて顔を上げると、物珍しげな母と目が合った。
「……なんだよ」
「いや? 別に。……ところで、彼、お医者様には診せたの?」
何か言いたげな表情のくせに、少しばかり口元をにやつかせたきり、母は話題を変えた。しかし変わった先の話題も、俺にとっては面白いものではなかった。
「……まだだ。片っ端から当たってはいるが、どこも電話の段階で断られる。零の症状を直接見るまでもなく」
一週間もすれば、あれだけ分厚いファイルにも目を通し終えてしまう。米国の医者にも、英国の医者にも、これだと思った医者には皆声をかけた。しかし彼等はこぞって零の症状を聞くと、「他を当たってくれ」と。それだけだった。戦地に赴いた訳でもなく、決定的なトラウマがある訳でもない、単純な痴情のもつれによるものだろうと、皆口を揃えて言った。なかには「悪戯はよしてくれ」と怒鳴った者もいた。
確かに原因は俺にある。俺が零に理不尽に別れを告げたことが、彼の心に陰を落としてしまったのだろう。しかし痴情のもつれと簡単に片付けれられるような、軽いものではない。
意思の疎通だってままならず、言葉も発せない零を見ても、悪戯だと言えるのか?そう問い詰めたかったが、何度掛け直してもその医者に電話が繋がることはなかった。
「……此処はどう?」
「……?」
腹が立つ事を思い出してしまって、つい顔を歪めて俯いていると、目の前に一枚の紙が差し出される。そこには病院の名前と、それから医者の名前と思しき名前が、紛れもなく母の字で、書かれていた。他にも住所や経歴までも、記載されている。
母さんはその中の住所をそっと指差す。
「幸い、ここからそう遠くはない。軍病院で働いていた経験があるお医者様よ。きっと頼りになる」
「……」
どうせどの医者も同じだろうと、そう思ったのが正直なところだった。しかし腐っても親子であるからか、この思考はすぐに暴かれてしまった。
「あら、諦めの悪い息子だと思っていたけど。私の思い過ごしだったかしら」
「……」
決まりが悪いとはまさにこのことだと思った。肯定も否定もしないままで顔を歪めていると、母は荷物を玄関先に置き踵を返す。
「もう帰るのか」
「いて欲しいの?」
「そうは言ってない。ただ、遣いを頼んでおいて茶のひとつも出さないのはどうかと思っただけだ」
言えば、母はコートの襟元を合わせて高らかに笑った。
「私に気を遣う暇があるなら、少しでも彼に尽くすことね」
.
「零、今日は少し出掛けよう」
例の病院へ行こうと切り出したのは、翌午後のことだった。医者に診せて彼が元に戻ることが一番の願いである筈が、いざ医者に診せたところでどうにもならないと匙を投げられてしまったら…と、どこか恐ろしく、葛藤があった。
零がもし二度と戻れなくても、この先言葉を交わすことができなくても、支えていくつもりではある。しかしやはり、もう一度あの笑顔が見たいし、「赤井」と呼ばれたい。勿論、その願いがどれだけ自分本意であるかは、自分自身一番よく理解しているが。
零はスプーンの先でオムレツをつついて、それだけだった。こちらの言葉に特段反応を示されないことには、もう慣れた。
「……ここから少しだけ離れた場所だ。まあ、車だからすぐ着くが」
「……」
「帰りには何か美味いものを食って帰ろう。良い気分転換になる」
気分転換もクソもあるか、ともう一人の自分が悪態を吐いた気がした。
.
「どこも悪くないけどねえ」
「…………」
予感は的中した。医者は病室から見える中庭で、病院のスタッフ(心理カウンセラーらしい)と並んでベンチへ座る零を眺めながら、そう言った。門前払いをされなかっただけ進展かもしれないが、脳にもどこにも異常が見られず原因もわからないんじゃ、なす術がない。
「……世話になったな。他を当たる」
「ああ、ちょっと待って。治療できないとは言ってないよ」
病室を後にしようと立ち上がると、医者は慌て言った。
「脳や甲状腺に異常がなくたって、彼みたいに心を閉ざすことはたくさんあるよ。人って結構簡単に壊れるからね。どんなに強い人でも」
「…………」
「君、FBIなんだろ? そんな人、たくさん見てきたんじゃないの?」
これだから精神科の医者はいけ好かない。隙さえあれば此方の心のうちを覗こうと試みて、全てを知ったような口をきく。特段返答をしてやることもなく椅子へ座り直せば、医者はにこにこと笑って見せた。
「大丈夫。彼は治るよ」
「……」
いけ好かないことに変わりはないが、零と再会し生活を共にするようになってから一番、心強く感じたことも確かだった。
「ところで、君は彼の面倒を見られるの? 別れてるんだろ?」
「……」
医者には勿論、自分の理不尽と身勝手が零の心を壊してしまったことを説明済みだった。だからこその、痛い指摘だった。
「君にも事情があったことはわかるよ。まだ彼を大切に思っていることもわかる。ただ、僕としては今度は君の心が壊れてしまわないかが心配だ」
「……俺の?」
「変わってしまった恋人を間近で見続けるのは辛いだろ。たとえそれが、自分のせいだったとしても」
「……」
「君まで心を壊す必要はない。彼にとってもそれは本意ではないと思うよ。……だから、よければ」
医者はもったいつける。それからデスクの引き出しを開け、おあつらえ向きのパンフレットのようなものを差し出した。
「うちは大きな病院ではないけどね、その分患者にはしっかり目を配れる。言葉は下品だが、そこが売りなんだ」
「……」
なかなか受け取らずにいると、医者は困ったように笑い、そして無理にそれを押し付け言った。
「前向きに考えておいてくれ」
.
零と生活を始めて一ヶ月が経った。あれからあの薮医者のところへは一度も連れて行っていない。例のパンフレットを開くことすらしなかった。責任は全て俺にある。零を壊してしまったのは紛れもなく俺自身であるし、そしてそんな零を戻してやれるのは自分自身なのだという確信もあった。だから無責任に零を手放すことなど、俺にはできるはずもなかった。
だが、零に好転は見られない。意思の疎通が僅かに可能になったと思ったが、しかし、やはり依然として会話は難しく、こちらの伝えたいことが伝わっているかも不明確だった。あの朝以降、感情を発露させることもほとんどなくなり、零はまた、抜け殻のような毎日を送っていた。
俺の休暇も無限ではない。あと二週間もすれば、また現場に戻らなくてはならない。そうとなれば零と四六時中時間を共にするこの生活も続けられなくなる。職場に犬や子供を連れてくる連中ばかりだ、零の存在も受け止めてくれるだろうことは容易に想像がつくが、しかし、凛とした気高い彼を知っている連中には、今の零を見せたくはなかった。
「……零。少し話がある」
「……」
大きな出窓のそばに置いていたせいか僅かに日焼けした例の病院のパンフレットを手に、ソファに座っている零の隣へ腰掛ける。零の視線はこちらに向かないが、構わずに言葉を続けた。
「……俺の力だけじゃ、君を治してやれない。……だから、……しばらく、医者のところへ行かないか」
言葉では偉そうなことを宣っていたが、知らず知らずのうちに限界を迎えていたのかもしれない。そばにいられたらそれで良いと思っていたはずが、やはり、変わっていく恋人を間近で見続けることは耐えがたかった。
「……俺が責任をとるべきだとは分かっている。だが、……もう一ヶ月だ。一ヶ月俺と過ごしても、事態は何も好転していない。……きちんと医者にかかるべきだ」
零はゆっくりと視線を動かし、俺を見つめる。その瞳は、心なしか不安げに見えた。
「……ほら。この前二人で行った病院だよ。院内も綺麗だし、医者も数名常駐している。……セラピードッグもいるらしい。君、犬好きだろ」
零の視線から逃れるように、パンフレットに視線を落としてページをめくっていく。
「料理もしっかりしてるな。……今と違って、バランスの良い食事が摂れるように……、」
ふと、ページの隅が色を変えた。じんわりと広がっていく染みを作った正体を探るため、顔を上げる。
「…………零?」
視線の先では、零が微かに眉根を寄せていた。そしてまるい瞳からはいっぱいに涙を溢れさせているものだから、俺は言葉を失った。
大した反応もできずに黙りこくり流れ落ちていく涙を眺めてばかりいると、零がぱくぱくと口を動かす。言葉をどうにか出そうと、喉仏が上下している。
「…………っ、……あかい、」
「……君、声が、」
「あ、……あかい、」
零は確かに、はっきりとそう呼んだ。たった一度ではなく、二度も。
「零、……零、俺が分かるのか?」
「っ……う、」
ぎこちなく頷いた零は、また口をぱくぱくと動かしてみせる。途端にスピードを上げた鼓動に突き動かされてしまいそうだったが、零の言葉を待つ姿勢をとった。
「あかい、……あかいが、いい、」
「……!」
「っぼ、僕、……あなたと、いたい、」
胸に何かつかえているように声を出しづらそうにはしているが、苦しそうに、しかしはっきりと、零は言葉を紡いだ。顔を覆う左手の薬指で、俺を責めるように指輪が光る。
「お願い、だから……僕のことひとりに、しないで」
「……っ悪い、悪かった、」
これ以上、涙で歪む瞳を見ていられなかった。昔より華奢になった体を抱き寄せれば、零はおずおず、背に腕を回し返す。
「あ、かい……」
「……君にも言えない、特に秘匿性の高い任務だったんだ。生きて帰れる保証もなかったし、万が一イレギュラーが起こったとき、君と繋がりがあると知られては、君にも危害が及ぶ可能性があった。……だから突然姿を消してしまうよりもきちんと別れを告げて、君との繋がりを完全に断つべきだと思ったんだ。……君を守るためには君に徹底的に嫌われなくてはと、……そう思って、」
顔も見たくないと言い放ったのも、もう二度と現れないでくれと告げたのも、全て真っ赤な嘘だった。零を守るためなら、また憎まれたって良かった。零は誰よりも強い男だと確信があったから、俺のような男にフラれたところで大したダメージもなく、この先もうまくやっていくのだと、そう信じていたからこその行動だったのに。
零は俺の言葉を聞き終えると、背にしがみついている手に更に力を込めた。
「……あ……あなたがもし、……なにもいわずに消えても、ぼく、待てる」
「……」
「っ……僕のこと嫌いになったんじゃないなら、うそでも嫌いだなんていわないでほしかった、」
「ああ、ごめんな……」
「ぼくは、ぼくはもう、おまえを愛してしまったから、」
「……うん、」
「きらいって、顔も見たくないっていわれて、し、しんでしまうくらい、つら、くて、」
息を大きく吸って、声を震わせて、零は一生懸命に言葉を続ける。
「僕の何がだめだったのかたくさんかんがえて、あなたにひとりで会いに行ったこともある、」
「……、」
零を一人にさせてしまった一年半。零が一人で抱えていた孤独や苦しみを悟って、見当違いとは理解しつつも目頭があつくなった。
「ぼ、ぼくにはもう、おまえしか、いない、のに、……」
「……ごめんな、……零、」
誰よりも孤独に強いのではない、そうならざるを得なかったのだと、漸く思い出した。一人になってしまった彼に二人を教えたのは俺なのに、無責任に手を離してしまったことを、強く悔やむ。
「っ……も、もう、」
「……うん」
「もう、……病院に、とか、……い、いわない、?」
「……言わないよ」
体を離した零が、瞳を揺らしながら尋ねた。俺はまた、自身の身勝手で零を一人にさせてしまう寸前だったのだ。安心させるように抱き寄せると、零は分かりやすく安堵の息を吐く。
「……僕、すぐ良くなる、から、……頑張るから、だから、……また、」
肩口に顔を埋めたまま、零が言う。
「また僕を、……好き、に、なってくれますか、」
「……、」
零の誤解は、まだ上手く解けていないようだった。確信を持った俺は、抱き寄せたばかりの零の体をそっと離す。涙やら何やらで顔をぐしゃぐしゃにした零と目が合うと、零は恥ずかしげに唇を噛む。その表情はひどく懐かしく、思わず喉が引き攣った。油断をすれば、俺の声も涙声になりそうだった。
「……俺はな、零」
まっすぐ、真正面から零を見つめて。しっかりと目と目を合わせて、零の意識がきちんと俺に向いていると確かめてから、俺は言った。
「……君をふったあの日から、一度だって君を思い出さなかった日はなかったよ。……都合の良い男だと言われてしまうかもしれないが、……“また”じゃない。“ずっと”君が好きなんだ」
「……、……」
途切れ途切れであったり、まだ拙さは残しながらも折角言葉を発せるようになった筈の零だったが、すっかり黙りこくってしまった。しかしその代わりに何度も何度も頷くものだから、彼の想いは余すことなく伝わった。
「……もう二度と、君を手放したりはしないよ」
言えば、零は濡れた頬を緩ませた。一年半ぶりに見た笑顔は何より尊く、愛おしかった。目の前の零はもう、抜け殻ではなかった。
おしまい!