ホープ弥鱈は窓越しに、ベランダで煙を吐き出した巳虎を眺めた。この部屋の家主は今現在寒空の下にいる男だが、弥鱈がいるときは決まって外で煙草を吸った。それがあの男の自分への配慮であることは分かっていたが、感謝する謂れはないと、弥鱈は思っている。そもそも百害あって一理なしのモノを壱號の真似をして燻らす巳虎の気が知れない。
暖房の効いた暖かい部屋から、紫煙に合わせて白い吐息が漏れ出る巳虎に目を向けた。カーテンを開け広げ、冷たい窓に触れる。
「巳虎さん」
聞こえるはずのない呼び声で振り向いた巳虎に、弥鱈は内心驚いたが、煙草を吸い終わった為だと気付き安堵した。
「……さみぃな」
言葉と共に震えて部屋へと入ってくる巳虎を迎える弥鱈は呆れたように声を上げた。
「まぁ十分も外に出てれば冷えますよ」
「なんだ、計ってたのか?」
「偶々です」
ガラステーブルに置かれたシガレットケースを横目に、弥鱈は立ってキッチンへと向かう。それからマグを二つ、トレーに載せて運んでくる。
「サンキュ」
「私が飲みたかっただけですから」
「へえ〜」
気のない返事をする巳虎はゆっくりコーヒーへと口付けた。弥鱈は蜂蜜を足すと、スプーンでくるくるとかき混ぜ、隣に座る巳虎へと問う。
「煙草、やめる気ないんですか?」
「どうだろうな」
曖昧に答える巳虎に、特に気にするふうでもない弥鱈は
「そうですか」
とコーヒーを一口飲んだ。
蜂蜜独特の甘い香りが部屋へと広がっていく。
それが先程まで巳虎の吸っていた煙と似ていることを弥鱈は知っていた。
「やめて欲しいか?」
「まさか。私が言って聞く巳虎さんじゃないでしょう」
「はっ」
「壱號立会人が禁煙したら、貴方も考えるでしょうけどね」
「まあな」
「それなら貴方より壱號立会人を籠絡した方が早いでしょうねぇ」
「……なんでだよ」
「お年寄りに禁煙をチラつかせる方が色々と効率がいい」
言うと、弥鱈は飲みかけのマグを置いてその場を離れた。
巳虎は弥鱈を目で追って、それから眼前の真鍮のシガレットケースを眺めた。
プレゼントしてくれた本人はとっくに禁煙している。あのひとがやめた時にやめれば良かったのだ。それがずるずるとそのままになっているのはただの憧れの残骸、それに口寂しさからだった。
弥鱈がやめろと言ってくれるのならば或いは。
「……ねーわ」
自身の性格上頼まないし、弥鱈も受けないだろう。
戻ってきた弥鱈はコーヒーを一飲みすると巳虎へと口付けた。
チュ、と音が鳴って唇が離れる。
「にっが」
「……なに」
「そろそろ煙草がコーヒーで中和されたかと思いまして」
ゆるゆると弧を描く口元に巳虎は
「まだだろ」
とのたまった。
「キスしたかったらコーヒーじゃなくてガムでも噛ませとけ」
「次からはそうします」
今度は巳虎から口づけた。顎を引き寄せて体を密着させ、角度を変えて何度も繰り返される行為は、やがて深さを増して行く。
鼻にかかった声が聞こえて、まるでそれが合図のように睦み合った。
ソファからベッド、ベッドからバスルームへ移動した所で終了し、だらりと四肢を投げ出してクイーンサイズのベッドへと横たわる巳虎の隣に弥鱈が寄り添っている。
「嫌いなんですよ」
「なにが」
「貴方の匂いに混じる煙草の煙が」
弥鱈は同じボディーソープのにおいがする巳虎へと腕を絡ませた。自身よりも体毛の濃い巳虎は体臭も強い。コロンも煙草もいらない。巳虎自身の匂いが欲しかった。
「考えるわ」
「はぁ?」
「禁煙」
「……そーですか」
部屋から見る貴方の背中は嫌いじゃなかったですけど。
それから暫くの後、真鍮のケースは置き物になった。