お題 悪童 愛情表現 海に行く登り初めてわずか30分、自分の体力が思っていたよりも快復していない事を実感した七海健人は、疲労と自身へのあきれが混じった、ため息を1つ着いた。
渋谷で散ったと思った自分の命、確かに消えたはずこの身は、何故か今、五体満足のまま動いている。
「いえ、これで満足とは…」
そこまで独り言を言いかけたが、言葉は続かなかった。
痺れる指先、思うように曲がらぬ爛れた腕、すぐに息があがるほど弱った肺、他にも後遺症は多々あるが、七海健人は間違いなく生きている。
死への旅路を辿った者達に思いを馳せれば、まさに満足と言っても過言では無いだろう。
すうっと、息を吸って深く吐き出す、深呼吸は息を吐き切る事が重要だ。吐き切って、また息を吸った途端、新鮮な空気が脆い肺に流れ込んできた。
こうして、自分のリズムを整えていく。
持参したペットボトルのスポーツドリンクに口をつけ、全身に染み渡るのを確認して、七海はまたふらりと立ちあがった。
目的とする先はまだ遠い、不自由な体を支える杖代わりのトレッキングポールを手にして、まだ見えぬゴール地点へ視線を向けた
何度かの休憩を挟み、七海はようやく、ゴールとする山頂に近づいていた。
おかしい、本当におかしい、自分の最後の願いは、異国の海辺に家を建てて、本を読みながら、疲れなどと無縁の生活だったはずなのに
疲労で身体中が震え痛む、呼吸が苦しい、いくら飲んでも、水分が足りないほど汗をかき喉が渇く
それでも、あと少し、ほんの少しで
自分がかけてしまった呪いを祓えるかもしれない
「全く、これだから嫌なんですよ疲れることは…」
ふらつきながらもようやくたどり着いた場所は、山の頂上だった。
目立って大きい山でもない、普通の人ならそれこそ、気軽なトレッキングコースに使われそうな山だ。
それを七海は、富士山登頂にでも挑むかの如く登ってきた。
他の人が居れば、どう考えても大丈夫ですかと、声を掛けたくなるような、疲労困憊の姿で、それでもようやく見つけたそれに、七海は、ハハッと小さく笑った。
「思っていたよりも、小さく見えますね…」
トレッキングポールを手放し、なんとか自分でバランスを取りながら、スマートフォンを取り出し横に向けた。
そのカメラ越しには山頂から見える海、自分が願いという名の呪いを託してしまった少年の故郷の海。
もっと広大に見えるかと思えば、他の山々に隠れてほんのわずか、ばかり青い色が見える。
広大で、手のひらの上に乗るような、小さな海
そうだ、この手に海を乗せてみようか。普段はそんな事を思いもしないのに、達成感からの高揚感のせいか、七海は自分の手のひらにその小さい海を乗せて、シャッターボタンを押した
そして、その画像を添付してメッセンジャーアプリで彼のアカウントにメッセージを送る
「海に来ました。どこの海か虎杖くんはわかりますかね?」
送った直後、待っていたかのように既読が付く。本当は待つはずなどないのに。既読がついたあと、ボイスメッセージの着信音が鳴り出した
「はい、七海です」
「……ナナ、ミン?」
「その呼ばれ方は気に入りませんが、まあ、そうです」
「なんで、なんでっ、それ宮城の、海じゃん!じいちゃんと、山登りに行って、海が、ちょっとだけ見えて、なんで、どうして…ナナミン…」
虎杖悠仁の声はもはや泣き声に変わり、会話が続かなくなった
「虎杖くん、私は生きています。まあ、1度死にましたが、その時に貴方に呪いをかけてしまった」
「……うん…」
「きっと、それは貴方を苦しめたでしょう」
「……それは、否定しない、でも…!」
「虎杖くん、私は生きています。貴方に託したものを、私もまた背負います」
「ナナミン…そんなの、背負わなくていい!俺はナナミンが生きててくれた事が嬉しかった、だけで、背負って、また、ナナミンが…」
思ってはいけないと知りつつも、鼻水をすすりながら、声をガラガラにして自分のために泣く、彼に七海は僅かな愛おしさを感じてしまう
「私がここに来たのは、虎杖くんをもっと知りたいからです。あなたが育った街、空、空気、山、そして海、虎杖くんの基本を知って、そしてもっと虎杖悠仁という存在を知りたいんです。」
「なにそれ…告白かよ」
涙声で、それでもからかうようにいう声に
「告白と受け取ってもらっても構いません。虎杖くん、貴方に背負わせたものを一緒に背負わせてください」
「……うん」
掠れた声でそれでも確かに彼が答えてくれた事に、七海は思わずほっ としている自分がいることに気づいて、ほんの少しだけ気恥しい気持ちになった。もしかしたら表情にも出ていたかもしれない、これが音声通話で?本当によかった。
「でもさーナナミン、なんでいきなりそっちに行くわけ?本当なら俺に会いにくるべきじゃない?」
まだ微かに声は震えていたが、少し落ち着いたのか、虎杖は拗ねたかのような声で問いかけてくる。
「それは先程言ったように、虎杖くんを知りたくなりまして、まずはあなたが見てきた故郷に行ってみようかと」
「ナナミンって、もしかして、こういう時形から入るタイプ?」
「そうかもしれませんね、自分で言うのもなんですが私は愛情表現が苦手なもので」
素直に言い切ってしまうと、電話口からアハハハ!と元気な笑い声が聞こえてきた。まるでその笑顔も見えるかのように。
「ナナミン、俺早く会いたい」
「私もです、と言いたいところですが、せっかくなのでこちらの温泉に一泊してから帰ります」
「はぁ!?こういうのって、普通は飛んで帰ってくるもんじゃないの!?」
「なにせまだ病み上がりなので、一泊だけでは意味がないかもしれませんが、湯治も兼ねてるんですよ」
「ふーん、どこに泊まるの」
「秋保温泉です」
そう答えた瞬間、虎杖の飛び跳ねた声が「おはぎ!!!!!」と叫んだ
「おはぎがなんですか?」
「その温泉の近くにさーお店の名前忘れちゃったけど、おはごの有名な店があるんだよ、ナナミンお土産よろしく!」
「この会話の終わりがおはぎの話ですか…」
七海なりに決意を込めての会話だったはすが、すっかりと日常のなんでもないかのような会話にすり変わっている。もう少し雰囲気と言うものが…と思ったところで
「恋人にお土産おねだりするなんて、いかにも形から、っぽいじゃん?」
それが形からっぽいかは、七海にはわからなかったが、ふふんとばかりに言い返してくる、可愛さに思わず零れそうになった笑い声を唇を噛み締めて我慢する。
「気が向いたら、買って帰ります」
「帰ってきてよ、俺早くナナミンにおかえりって言いたい」
「必ず帰ります」
「うん、待ってる」
これ以上名残惜しくなる前に、それでは、と通話を終了して、七海は再度、遠くに見える海を眺める。心が高揚しているのか、不思議とその小さな青が愛おしく感じた。
目的を終えて山を降ると、見ていたかのように七海のスマホが鳴る。画面に表示された名前にめんどくさいとばかりに唇を歪ませて、通話ボタンをタップする。
「おーい、この悪ガキ」
明らかににやにやした人を揶揄う声が耳に入ってくる。
「誰がガキですか。もうこの歳になったら1歳違いなんてあって無いようなものでしょう」
「そりゃまだリハビリが必要な身体でどっか行ったと思ったら東北ぶらり旅〜恋の情熱編〜に出るような後輩は叱っておかないと、ほら、一応先輩だから」
ゲラゲラと笑いながら今の七海の状況を心から楽しんでいるであろう五条悟の愉快な姿が、先程の虎杖とは別の意味で、目の前に見えるかのようだ。
「まあーとりあえず無事っぽいから、みんなには適当に言っておくわ。あ、1人だけ僕からわざわざ言わなくてもいい生徒がいたみたいだけどー」
「申し訳ありません、今日はこちらに宿を取っているので、そろそろチェックインの時間なんです。それでは」
そう言って、電話を切ろうとすると五条の声が「さいちのおはぎー!」とだけ叫んで通話が終了した
隠せないとは思っていたが、いったいどこまで把握しているのか、全く恐ろしい人物だとこんな所で再確認する事になるとはな、と思いつつも、今更かと考え直し、七海は車に乗り込んで、今夜の宿へと向かった。
しかし、2人ともおはぎが云々と言っていたが、そこまで名物なのだろうか。五条はさいち、と言っていたがそれが店名なのか?
明日検索して行ってみることにしますか、と独り言を呟いた七海健人が、小さなスーパーの中で観光客がひしめき合い、大混雑する光景を見て呆然とするのは、明日の話である。