つむぐとおでかけ旅にお供はつきものなので(紡と蒼星)「へい、そこのお兄さん! 一緒に出かけようぜ」
軽くクラクションを鳴らそうとしたのだが、強く押しすぎて町内に響き渡ってしまった。同居人は訝しげに俺を見下ろして、迷惑そうに眉間のシワを深く刻んでいる。悪かったって、そんな顔すんなよ。
「行かない。俺は部屋で作業の続きを……」
コンビニで糖分を買ってきたのか、蒼星が歩くと、ぱんぱんにお菓子の詰まったビニール袋がふりこのように揺れた。それぜんぶ胃に入れるつもりかよ。
「パーキングエリアのお高いソフトクリーム食べ行こ! 蒼星はパフェの方でいいから。な、行こうよ〜。かもん、かもんそーせー!」
玄関へ向かっていたひょろりと伸びた背がぴたと止まる。くるりとこちらを向いた彼は、ぱたんと助手席のドアを閉じた。あまりに簡単な手のひら返し。俺は頬杖をついて、へらっと笑ったのだった。
小さなエンジン音。アクセルを踏み出した時、バックミラーに蒼星の手元が映る。パックにストローを刺し、ちゅうとコーヒー牛乳を飲む大学生。ほんと、甘いもの好きだなぁ。
ドライブ中、特に会話という会話はなかった。ラジオからは、今流行りのポップスがとめどなく流れていたし、俺は知ったかぶりをしながら、鼻歌を歌った。
時折隣から、音痴だの、ここは空き地じゃないだのと、小言が飛んでくる。じゃあ代わりに歌ってよ。強請ってみたけれど、彼は口を尖らせるだけだった。
もしかしたら蒼星は運転する方が気が楽なのかもしれない。手持ち無沙汰な掌は牛乳パックをぎゅっと握って、とんとんと茶色い箱の側面を叩いていた。
普通は会話がないと居心地が悪いものだ。でも蒼星とは会話がなくてもそわそわしない。こいつはあんまりおしゃべりな方じゃないからだろうか。
だからといって、ずっとだんまりってわけでもない。問いかけがあればこたえる。このくらいが俺達には丁度いいんだと思う。
ちらりと横を見ると、蒼星はさっきから窓の外をぼんやりと見つめていた。赤い切れ長の瞳には白い雲が反射してキラキラしていた。そう見えただけかもしれないけど。
ところが、ETCをくぐる直前になって、蒼星は俺の方を向いて、嫌味をこぼした。嫌だって言ったって走り出したもんは止められないだろ? ったく、紅陽といい、お前ら二人は俺をどうしたって不良にしたいみたいだ。
「紡、俺はまだ死にたくない」
「失礼な! 若葉マーク貼ってても、車の運転はお手のもんだって」
「盗んだバイクで走り出す……」
「こらー、蒼星くん。君はヤンキーと泥棒の違いも忘れちゃったのかなー。俺だってな、地元じゃトラックだって運転してたんだぜ? 舐めないでくれたまえ」
はっはっは。と、オーバーリアクションをしながら、アクセルを強く踏む。今のつかさくんみたいな喋り方だったな。
「……未成年の運転は法律違反だ」
「私有地だから、大丈夫です~」
「私有地?」
「あ、変な想像やめろよ。お前らみたいに別荘があるわけじゃないんだから。畑だよ畑。軽トラとか、そっち系」
蒼星は俺の説明を聞くと、ふっと鼻を鳴らして口角を上げた。……こいつ、馬鹿にしてるな。あぜ道運転するの結構大変なんだぞ! ゆうたのじいちゃんも瀧んとこの息子は筋がいいって褒めてくれたんだから。ちなみにゆうたは小学校の同級生な。
「それで、一般道は若葉マークの初心者くん、どこに行く気なんだ? ……スピードは出しすぎるなよ」
「んー、着いてからのお楽しみ! じゃだめ?」
「紡、車間距離をしっかり取れ」
バックミラーを確認しながら、力んでいた足を緩め、前方車両との距離を取った。助言には素直に従う性質だからな。
ホッとしたように蒼星はふう、と息を吐く。けど、それ以上追求してこなかった。なんだよ、興味ないのかよ。
標識が次々と過ぎ去っていく中、とある看板に目が止まる。羊と馬とそれから、美味しい牛乳を持った牛のイラスト。見つけたときにはもうすでに声に出していた。
「なぁ、蒼星」
「なんだ」
「乗馬って楽しそうじゃないか?」
たった今、注意されたばかりだったが、力んでしまいついアクセルを踏んでしまう。師匠は浮かれ気分の俺を横で、これみよがしに大きなため息を吐いた。
「……馬券を買わされるよりは、幾分かましだな」
「やったあ! じゃあ道の駅で人参買おうぜ」
「お前、切らずに餌をやるつもりか」
蒼星はなんだかんだ言って俺に甘い。助手席に乗った時点で付き合ってくれる気だったに違いないのだ。行き先が決まったことで、俺の鼻歌は声量を増し、蒼星はうるさいと俺の耳を引っ張った。
「うぅ、めっちゃけつ痛え」
牧場で本日二度目のソフトクリーム。パーキングエリアで食べたのより、牛乳の味が濃厚で美味い。疲れた身体に沁みるな~。
「一時間も馬と遊んでたら、筋肉痛になるのも当然だ」
「なんで蒼星は平気そうなんだよ?」
蒼星は俺のソフトクリームのカップからウエハースを抜き取ると、パキッと口に咥えて割った。香ばしい匂いが鼻を掠めた時には、もう甘党大臣の胃の中だ。ちぇ、ウエハースにも足を生やすんじゃねぇよ。
「あぁ。俺も昔私有地で乗り回してもんでな」
これだから金持ちのボンボンは……!
結局、帰りはぴんぴんしてる蒼星が運転してくれた。その日の夜、五号室の明かりは、深夜になってもついたままで、いい気分転換になったみたいだった。瀧くんは優しいので、後でココアでも持っていってやろうと思います。
共闘センセーショナル(紡と紅陽)「へぇ、ここがあのマフィア映画のロケ地か。案外普通の商店街じゃん!」
「昼間はね。暗くなると街灯もなくなるし、裏路地から体格のいい男が出てきたら、それっぽく見えるんだよ」
紅陽はサングラスの人差し指でくいと、上げながら黒いレンズ越しに微笑んだ。芸能人ってなんでこんなにサングラスが似合うんだ。俺がかけても宴会芸かチンピラにしかならないぞ。
「あの映画、俺好きなんだよ」
「ヤンキーが出てくるから? それとも俺がカタギじゃない役だから?」
人を不良と馬鹿にしやがって。一瞬だけ、頬を引きつらせた俺の顔を見て、紅陽はごめんねと形だけの謝罪した。
こら、小首を傾げても許しません。このやり取りにも、もう慣れたけどなー。
「確かこの辺だよな。紅陽が十人斬りするシーン。迫り来る数々の攻撃を避けて、最後に回し蹴りたたき込むの、爽快感があって好きなんだ! 思わず魅入っちまったもん」
「人斬りみたいに言わないでよ」
「いやだって、背後にいた敵にくるって体回転させて蹴り入れるってどんだけ強いんだよって話!」
「ふふ、ありがとう」
そうして、近くのハンバーガーショップに入った俺達は、映画の感想を話したり、裏話を聞いたりしながら、休憩時間を楽しんだ。
「アクション映画が好きなら、今度おすすめをいくつか紹介しようか?」
「おお、ありがとう。今度の三連休、映画三昧しようと思ってたから助かるよ。やっぱ、アクションはいいよな」
「拳で語れるから?」
「それもあるけど、子どもの頃、戦隊もの見なかったか? 俺さー、ちっちゃい頃、悪い奴と戦うヒーローに憧れてたんだ。あと、火がぶわって出るのとかかっこいいし」
「アクションと戦隊ものは別物だからなぁ」
おやつの代わりに購入した特大サイズのフライドポテトは、いつの間にかすっかり冷めてしまっていた。紅陽は殆ど手を付けていない。俺は聞き手に回ることにして、ぱくぱくと細いじゃがいもを口に運んでいった。あ、ごめん。もうぜんぶ食べちゃった。
「ん……? 紅陽、あれどう思う?」
先ほどの裏路地から、腕に大きな入れ墨の入ったスキンヘッドの男が出てきた。男はあろうことか、待ち合わせでもしていたのだろう、女性にしつこく声をかけているようだった。
「少なくとも撮影ではないと思うよ」
「おっけー、そういうとこなら、ちょっと行ってくる」
「こういうとき警察呼ばないで、自分から首つっこみに行くんだから。まったく」
俺が走って店を出た頃、紅陽は食べ終わったトレーを下げ、ハンバーガーショップを後にした。
「あんまりしつこいと嫌われるぜ」
「あぁ? なんだお前。引っ込んでろよ」
これまたモブっぽい台詞だ。エキストラにだったらいつでも参加できそう。俺に興味がわいた隙に、女性は男の拘束から抜け出すと、走り去って行く。これで大丈夫だろう。
「おい、こら! いいとこだったのに。邪魔すんじゃねぇ」
顔面めがけて飛んできた右ストレートをしゃがんで避ける。対象がいなくなり行き場のなくなった体は、大きく左に倒れる。男は足を踏み込み、ぐっと耐えた。
「おもしろいじゃねぇか。ちょっとツラかせや」
「貸してもいいけど、お兄さん、多分後悔することになると思うよ」
男は俺との距離を詰めると、パーカーの胸ぐらを掴んで、俺の踵が持ち上がった。立派な上腕二頭筋からして、見かけ倒しではないらしい。
ちらりと目配せすると、ふっと、白い影が視界から消えた。大人しく引き下がればよかったのに。
「よそ見してんじゃねぇぞ、ごっ、ぁ……!」
男の背中に革靴がぐしゃりと、食い込む。予期せぬ方向からの攻撃にすっかりのびてしまった男は、ふらりと地面に倒れ込んだ。
「何もかかと落とし、お見舞いしなくたってよかったんじゃないか?」
「足技がお好みみたいだったから」
「足のリーチが長いと、攻撃のバリエーションが豊富でうらやましいだけ。ほれ、騒ぎになる前に逃げるぞ」
「あー、もう遅いかもしれないけど。行こっか」
掌をひらひらさせながら走る。数メートル後ろにいたはずの紅陽が歩幅の違いであっという間に俺に追いついた。
「紡くん、楽しいね」
「それは良かった」
へへっと、サングラス越しに見えた笑顔は、すまし顔なんかじゃなくて、ヒーローに憧れる少年のようにキラキラと輝いていた。
数日後、紅陽からメッセージが届いた。しばらくはこちらに来れないという。
当たり前だ。「諸戸宮紅陽似の男性が女性を救出」なんてネットニュースが話題になっちまったんだからな。
有名人は喧嘩もヒーローごっこもほどほどに。
ドキドキ♡スワンボートパニック(紡と琴子) 聞いて下さい。神様仏様、そしてあみだくじの神様。瀧紡十九歳、この人生に一片の悔いなしであります!
「お、じゃあ次はタチ達の番だなー」
うわー、心なしか野崎から後光がさして見える。拝んどこ。ありがたやありがたや。
なむなむと手を合わせていると、困惑した様子の野崎が、なめくじを見るような目で俺を見てきた。おい、露骨な態度やめろよ。
でも、今日の俺はそんな小さなことでイライラしない、だって——。
「琴子ちゃん、頭気をつけてね」
先にスワンボートの中に乗り込んだ俺は、意中の彼女を見上げながら、できるだけ優しく声をかけた。ここで手の一つも差し出せないところが俺。紅陽さんが見たら、×か△のカードを目の前に出してきそうだよ。
「わ、結構揺れるんだね」
「そ、それじゃあ出発するよ」
俺は、カタカタとぎこちなくペダルを漕いで、湖の奥の方に進んでいった。
どうして俺たちが夏の湖畔を満喫しているのかと言うと、簡単に言えば旅行に誘われたからだ。
旅行サークルの旅費は結局見つからなかった。大金だったこともあり、サークルのメンバーはそれぞれ文句を野崎にぶつけていたみたい。
けれど、知り合いが別荘を貸してくれるという吉本先輩の鶴の一声で、なんとかその場は収まったらしい。意外といったら失礼かもしれないが、顔が広いんだな。
コテージはそれなりに大きく、琴子ちゃんに誘われた俺や蒼星、それから斗真やサリーも一緒に旅行に参加することになった。
このコテージは自然の中で過ごすのが売りらしい。カヌーや釣りが出来たり、ゴルフやキャンプで楽しんだり。やれることは様々だ。かくして、暇を持て余した俺達はスワンボートに乗ることになった。
組み合わせのくじは野崎が作った。にやにやと嫌な笑みを浮かべながら手招きをされた。嫌な予感しかしない。仕方なく近づいていくと、野崎はこっそりと俺に耳打ちをした。
「タチ、お前には貸しがあるからな。頑張れよ」
俺の肩を抱き、俺っていい先輩だなぁと声高に去っていく野崎。俺は意味深な発言に首を傾げていたけれど、その意味はすぐに分かった。
「瀧くん、私たちペアみたい。よろしくね」
「琴子ちゃん よ、よろしく!」
ほぼほぼお金もかけずに、好きな子――すでにラブレターを渡している、と憧れのスワンボートでのデートができるなんて……!
なんてすばらしい大学生活なんだ。これぞ青春!
スワンボートに乗るまで、俺はずっと浮かれていた。そりゃあもう、にやけすぎてほっぺたが落ちそうになるくらい。
このデートは既に破綻しているとも知らずに。
「いい天気になってよかったね」
天気の話じゃすぐに終わるだろ、俺の馬鹿。でも、何話せばいいんだろ。
どっ、どっ。鳴っているのは俺の心臓。え、この中結構狭くない? 距離近っ! どうしよう緊張しすぎて、頭ぐわんぐわんする。
琴子ちゃんは動揺する俺とは違って、涼やかな顔で遠くの方を眺めていた。
「漕ぐの結構大変じゃない? やっぱり私も漕ぐよ?」
「大丈夫、大丈夫。俺、体力なら自信があるし」
「ほんとに? 汗すごいよ。このタオル貸してあげる」
くうぅ、今日の琴子ちゃんめっちゃ優しい。対して俺は、気の利いた話の一つもできないし。最悪だ。
俺はお礼を言って青いタオルを受け取ると、首元に流れる汗を拭った。洗って返そうとしたが、気にしないでというので、そのまま返してしまった。年頃なので臭くないか気になってしまう。でも、言い出せないへたれであった。
あっつ……。喉が渇いて仕方ない。そういえば、コテージに着いた時に、ミネラルウォーターをもらったんだった。もらったというか、冷蔵庫に入ってたから取ってきたというのが正しい。。漕ぐのを止め、リュックから取り出した水で喉を潤した。
湖には俺達の他にも客がいて意外と賑わっていた。その殆どが家族連れかカップルのようだったので、俺も相手が相手なら、十メートル先にいる野崎のように、ぶすっと不機嫌を露わにしていたかもしれない。彦根は漕いでいる様子すらない。
ちなみに、中はかなり狭い。ペダルを漕ぐときには膝を曲げ、足を開脚しないと漕げないし、漕いだからといってすうと進む訳でもない。加えて曲がる際にはハンドルをこれでもかと回転させなければいけないから、不自由極まりない乗り物だった。
予想外に体力を持っていかれるし、旬と直羽なんてそうそうに漕ぐのを諦めて、携帯電話とにらめっこしている。
吉本先輩と小池先輩は二人で買い出しに出掛けていたからいない。バーべキューにはビールがないと始まらないからと、小池先輩がお願いをしていた姿がよぎった。
こんなとき足長族である蒼星が乗ったら、三輪車を漕ぐ大人になったと思う。俺は絶対に笑う自信がある。想像したら少し肩の力が抜けた。
でも、あいにくあいつは湖のすぐそばの売店でかき氷を食べながら涼んでいる。隣には同じく汚れることを嫌ったサリーの姿。ほんとちゃっかりよな。
「じゃあ、私はハンドルの方を回すね」
静かなボート上、琴子ちゃんはハンドルを握る俺の手のひらの上に、自分の手を重ねた。
「っ、あり、がとう……!」
肌と肌が触れた瞬間、雷でも落ちたんじゃないかってくらい、背中を何かが駆け巡っていく。俺は背筋をぴんと伸ばしながら、そっと息を吐き、顔を背けた。
すると、コーヒーに口を付けていたサリーと目が合った。一瞬だけ目が丸くなって、口元に笑みが浮かぶ。ふふっと、温かい目で手を振られた。絶対、面白がられている。見てないで助けてほしい。無理だけど。
「あのね、瀧くん。お返事のことなんだけど」
「あ、はい。お返事!」
口からは妙に高い声が出て、俺は耳まで真っ赤にしながら、頭の中で自分に罵詈雑言を吐いた。非常にかっこ悪い。
実は、琴子ちゃんにこの旅行に誘われたときに、俺は彼女にラブレターを渡していた。返事とはきっとその件についてだろう。
「今日の夜、十時半ごろ、四〇四号室に来てくれる?」
「四〇四って、誰も使ってな……」
すると、琴子ちゃんは自分の唇に白い人差し指を当てて、しぃといたずらっ子のように笑った。
「誰かに聞かれると恥ずかしいから」
「分か……っ、た」
そう返事をするのが精一杯だった。
ここまで焦らされて、やっぱり脈がないのかなと思っていただけに、この数十分のやり取りで俺はすっかり骨抜きになってしまった。頭も身体もふわふわしている。天にも昇る気分だった。
結局、俺はろくに会話もできないまま、濁った水面を一周してスタート地点に戻ってきた。
「……紡、どうした? 顔が赤いぞ」
斗真が心配そうな顔で俺の顔を覗き込んでいた。
「斗真、ありがとな。大丈夫大丈夫。ちょっとがんばりすぎた、だっ……」
ぐわんと視界が歪み、俺はその場にしゃがみ込んだ。頭が割れるように痛いし、吐きそう。
口に手を当てて浅く呼吸を繰り返していると、皆が駆け寄ってきた。熱中症か、まさかの船酔いか。どちらにせよ、体調はよろしくない。
「紡、立てるか」
蒼星は俺の肩に手をかけると、斗真に目配せして俺をコテージまで連れて行く。
夏の思い出作りはこれからだっていうのに、なんで、俺のアホ、馬鹿、間抜け! 吐けば楽になれると分かっていたが、ベッドに辿り着く頃には、指の一本すら動かしたくなくなっていた。小さく身体を丸めて目を閉じる。二、三時間もすれば良くなるだろう。楽観的にそう決めつけていた。
けれども、俺を起こしたのは、携帯のアラームでも、友人達の声でもなく、けたたましいサイレンの音だった。
「被疑者、確保!」
乱暴にドアが開け放たれ、外から武装した男たちが俺を取り囲んだ。ぼんやりとした意識の中、手で顔を覆ってなんとか目を開ける。
「な、んだよ。これ……」
ついで、鼻をついたのは錆びた金属のような血の匂い。ベッドや俺の衣服、そして掌はべっとりと血でぬれていた。この血液が誰のものかなんて、今は考える気にならない。血糊だよ、って誰かがドッキリの看板を持って、この馬鹿げた空間に乗り込んできて欲しかった。
訳も分からぬまま連れて行かれた鉄格子の中、俺は殺人事件の容疑者として取り調べを受けることになった。
死亡者は五人。現在意識不明の重傷者四人。そして犯人と思われる逃亡者が一人。
いったい、何が起きたっていうんだ。警察官がバリエーションのない罵声を浴びせる取調室の中で、俺は「知らない」「寝ていただけ」を繰り返し唱えた。だって知らないものは知らないのだから。
真実に辿りつこうにも、牢獄の中は外界とのネットワークは断たれているし、頼みの綱の蒼星は現在集中治療室の中。面会に来てくれる友人は一人もいなかった。
「なんで俺、お前が倒れてる横でずっと寝てたんだよ」
証拠不十分で釈放された俺は、透明なガラスごしに届きもしない声をかける。青白い顔で、同居人は瞳を閉じ、呼吸器マスクと点滴で命を繋いでいた。規則的に流れる機械の音に心臓が握り潰されそう。
俺は鼻の奥がツンとしたのを奥歯をぎゅっと噛んで耐えた。
まだだ、まだ泣いちゃいけない。
俺は、考え続けなくちゃいけない。この事件の犯人も。犯行に使われた青いタオルや自室の枕元にあった遺書の意味も。それが、残された俺の役割だから。
Game over……?
ヒロインだって勇者様(紡とサリーと斗真)「もう! ぜんっぜん、可愛くありませんわ〜〜!」
サリーの声は結構大きかったけれど、ピコピコと騒がしい店内のBGMに吸い込まれて上手く聞き取れない。
「え! なに!」
負けじと俺も声を張る。けれども、サリーはふくれっ面のまま、細い指がトリガーを引いた。画面上のゾンビ達が一斉に倒れる。先程からかなり高い命中率を叩き出していた。
対して俺はマシンガンをぶっぱなしていたが、弾数を減らすだけであまり意味を為していない。飛び道具は向いてないらしい。実際、噛まれる心配さえなければ、その辺の木の棒を拾った方がまともに戦えそうだ。
俺は体力ゲージの四分の一をきり、真っ赤っか。サリーはかすり傷程度。これが現実だとしても、彼女の白いレースの手袋が、緑や赤黒い液体によって汚れることはない。二人の差は歴然だった。
「うわっ、すっげえごついの出てきた」
初めてのボス戦。画面の中ではいくつものゾンビが重なり合うようにくっついている化け物。これ、集合体恐怖症の奴が見たら、発狂しそうだな。お世辞にも強そうとはいえない。ただただ気味が悪かった。
「紡さん。私が本体を探しますから、その間に伸びてくる掌のようなものを打ってください。顔を狙えば怯む筈ですから」
「りょーかい」
わりと残酷なことをはっきりと告げるお姫様だ。何だかんだ文句を言っても、このグロテスクなゲームに耐性があるんだから肝が据わってる。
負けず嫌いの性格もあって、ただで殺られるわけにはいかない。と、でも考えてんだろうな。
俺はできる限り、伸びてくる腕――のようなものにくっついている目玉――に照準を合わせた。マシンガンから飛び出していく銀の弾丸は、威力は弱いものの確実に相手の体力を削っていく。
「紡さん! あと、五秒稼いでくださいまし。次で仕留めます」
サリーが叫んだ瞬間、化け物が呻きながら後ろに後ずさった。なるほど、腕を振り下ろした時にだけ見える、青白い顔のゾンビが本体らしい。
「ひゅーっ! すっげぇ! 銃弾一発でライフめっちゃ減った!」
指示通り、ゾンビが苦しんでる間に俺は攻撃の手を止めなかった。あと少しで、俺たちの勝利が決まるという頃、ゾンビの塊は最後の力を振り絞り、俺に向かって突進してきた。
「……っ! んなの、どう避けりゃあいいんだよ!」
悲しいかな。このゲームには「移動する」ボタンがない。捕まったら後は喰われるか、千切られるかそのどっちかだ。
案の定、俺のプレイキャラクター、ムキムキの上腕二頭筋が眩しい色黒のケインは大きな掌に捕らえられてしまった。このプレス、生身の人間だったら血飛沫ですまないだろうな、おい。あー終わったー。すまん、ケイン。俺を恨むなよ。
「手癖の悪い人、品がありませんわ」
あっちゃーと自分の失態を頬をかいて見守る俺の隣で、サリーは冷静だ。ケインと共にぐるぐると回り始めたデカブツに的確にダメージを与え続けた。
そうして一分後、ケインは名誉の死を遂げ、サリーの分身、メアリーは世界を救ったのだった。一つに束ねられた金髪のブロンドが陽の光に反射して眩しい。
「仇は取りましたわよ」
「ははっ、上手すぎ」
語尾に音符マークでもついてそうな、上機嫌な友人を俺は拍手で讃えた。いつの間にか増えたギャラリーからも盛大な拍手や歓声が鳴り止まない。
「紡、サリー。こっちも終わった」
「斗真! あー、ごめん。結構待たせただろ」
「いや、見ているだけでおもしろかった。さすが、紡とサリー。いいコンビプレーだった」
「まぁ! 本当に取れたんですの? 斗真さん、ありがとうございます!」
斗真はふっと、口元に微笑みを浮かべ、サリーに大きなうさぎのぬいぐるみを差し出した。白いもこもこの毛と大きなピンクのリボン。触り心地も良さそうだ。
ゲーセンに来たのは斗真が興味津々だったから。たまたま通りがかっただけで計画していたわけじゃない。
サリーは初め、乗り気じゃなかった。けど、俺が押し切る形で二人を連れて中に入った。友達とゲーセンで遊ぶのもたまにはいいだろ。
今持ってるぬいぐるみは入口付近にあったもの。サリーが欲しそうにしていたので、斗真にゲーセンを満喫して貰うべく取ってきてもらった。勝者へのご褒美だな。
「いくらかかったんだ?」
ぎゅっと抱きしめて嬉しそうに撫でているサリーには聞こえないように、斗真にそっと耳打ち。口元に手を当てるだけで、屈んでくれるんだから斗真はやっぱり正真正銘のイケメンだ。
彼は眉を下げ、肩をすくめる。アメリカのファミリー向けドラマにありがちな手を上げるポーズ付き。なるほど、イケメンがプレイしてもUFOキャッチャーは貯金箱に変わるらしい。
「お、懐かしいの発見」
俺は曲に合わせて太鼓を叩くゲームの前で、バチをカチカチと鳴らした。よくトキオと対戦したっけ。
「今度はお二人で遊んでみては?」
サリーの提案にのっかり、俺たちはかわるがわるゲーセンにあるいろんなタイプのゲームを楽しんだ。
ダンスバトルにクイズ大会、レーシングゲーム。パンチの威力を測るゲーム機には無理させちまった。俺が叩いたら、びよんびよんバネが揺れちゃって……。二人も苦笑い。壊れてなきゃいいけど。
俺の財布の中身が雀の涙になりかけるほど遊んで、そろそろ帰ろうかって頃、サリーがぶんぶんと頭を振って、まだです、と小さく抗議の声を上げた。
「おともだちとゲームセンターに来たら、あれを体験するのが夢だったんです! 」
「あれ?」
俺と斗真は二人で顔を見合せながら、首を傾げた。サリーはお願いします。と胸の前で手を組んで俺たちを見つめている。
「あれで遊ばずに帰るなんて勿体ないですわ!」
そこまで言うなら、と首を縦に振ってしまったのが運の尽きだった。
「きゃー! 美白ですって! これってデジカメよりも綺麗な写真が撮れるんでしょうか」
「すっごい、居づらい。隣の女子高生の視線が痛いデス。サリーさん」
「なにもやましいことはしてませんわ。堂々としていてくださいまし」
サリーはこちらの弱音をさらりと跳ねのけ、ウキウキしながらフレームを選んでいる。身長差がどうしてもあるので、全身が入るものばかりを選んでいるようだ。
「言っとくけど、俺写真映んの得意じゃないから、変でも文句はなしなー」
「紡、黙っていればすぐ終わる」
斗真の言葉に俺は、目を点にする。……なるほど、斗真は経験済みなわけね。あ〜、俺もどうせなら彼女とイチャイチャしながら撮りたい。 でもなんで女の子ってプリクラ好きなんだろ。携帯電話で撮るのとの違いは、俺には一生分かんないかも。サリーがやりたいなら、付き合うけどさ。
「はい。それでは二人とも、素敵な笑顔でお願いしますわ」
「……努力はする。だが、期待はするな」
「右に同じ!」
サリーを真ん中にガタイのいい男が二人、どこかきごちなさを抱えたまま、狭いシールの中に収まった。
「二人にも差し上げますわ。お友達とプリクラを取るのが夢だったんです。ありがとうございます」
駅で別れる頃、サリーはいつ切ったのかプリクラの一部を俺たちにくれた。
「じゃあ、また明日!」
「お二人ともさようなら」
「あぁ……」
電車に揺られながら手の中にある細長い写真に目を落とす。俺は四枚とも頬が引き攣っている。取られることを意識すると表情を作るのが難しい。
落書きタイム中は、待つ場所もないので斗真と少し離れたところで待っていた。勝手に頭や顔に生えた耳や髭。俺が犬で、サリーはうさぎ。でも、斗真が付けているのは蝶ネクタイのスタンプでちょっと笑えた。アンバランスな感じが逆に合っていると思う。
『ずっとともだちだよ』
敢えてそんなスタンプを押さなくなって、ずっとそのつもりなのに。初めてのプリクラは今も机の引き出しに入っている。まぁ、こういうのも悪くないかな。
この長い長い下り坂を(紡と優) 喉の奥が焼けるように熱い。心臓はポンプのように忙しなく跳ねている。そのせいで、胸の中心部は降り注ぐ日光よりもジリジリと燃えていた。
自転車のペダルを漕ぐ足は、だんだんと重くなってくる。ったく、おかんのチャリ全然使えねえじゃん! ブレーキかかるだけましってレベル。
本日は雲一つない快晴です。気温は三十度を超え、全国的に真夏日となるでしょう。熱中症にお気をつけください。
朝飯をのんびりとかきこんでいたときに、何気なく耳に入ってきた天気予報。最高気温三十三度のテロップに、うげぇと情けない声が出た。夏は好きだけど、寝苦しいのは勘弁して欲しい。
早めに起きたんだったら、愛車の点検くらいしておけと二時間前の自分をぶっ飛ばしたいくらいだ。しっかりと食べた白米のせいで、俺の脇腹がぎりぎりと痛みを訴えた。
「すまん!! 原チャが壊れた」
この町にしちゃあ、でかい公園。俺は待ち合わせの相手に向かって、顔の前で手を合わせた。ばちんと勢いよく鳴った手のひらがじんじんする。
「いいよ。今ちょうどいいとこだったんだ。主人公による推理ショーが始まったところ」
木陰のベンチに座って本を読んでいた彼は、単行本で口元を覆い、くすっと笑った。
携帯を持っていなかった優ちゃんに遅れた理由を告げたのは、待ち合わせ時間から一時間ほどたった頃だった。
「もう帰ったかと思った」
「何かあったのかなって。紡くんは男同士の約束を破る人じゃないだろ?」
「そこのファミレスにでも入っておけばよかったのに」
「人がたくさんいるところは苦手なんだ。……俺が携帯持ってないのが悪いんだし。それにほら、ここ日陰だから」
彼は制服のポケットから青いタオルハンカチを取り出すと、おでこに浮かんだ汗を拭いた。
「休みの日でも制服なのか?」
「あー、うん。今日は学校に行くって親に嘘ついっちゃったから」
「……なんか、ごめん」
優ちゃんは首をふるふると振った。そして、しぃと唇に手を当てる。たまには親に反抗したってバチは当たらないよ。と、彼は幼い笑みを浮かべた。
「じゃあその分楽しもうな」
「そういう紡くんだって制服じゃないか」
「うん。服考えんの、めんどいし。ほら、これ。待たせた詫び!」
自転車のカゴから、自販機で下ろしたばかりのミネラルウォーターを手渡す。
「ありがとう」
夏といえば炭酸だ。と思いつつも、好きなどうか分からなかったので、無難なものを選んだ。俺はコーラのプルタブに爪を引っ掛けて、ぷしゅっと爽快な音を立てた。
「うわっ!」
盛大に吹き出た炭酸ジュースが噴水みたいに上に上がって俺の手を濡らした。慌てて手を前に突き出し、足は後ろにぴょんと下げる。そして足元にできる茶色い水溜まり。初歩の初歩中のミス。だっさいな、俺。
「大丈夫?」
「あんまり……」
心配そうな声の割に口元は笑ってんぞ! ったく、朝から踏んだり蹴ったりだ。
「優ちゃんも転校すんだよな?」
「そりゃあ、琴子と兄妹だからね」
クラスで琴子ちゃんの転校の話を聞いたとき、俺は頭の上に岩が落ちてきた気分になった。
好きな子が夏休み明けにはいない。青春における大損失。担任の長ったらしい話は、ホームルームの間ひとっつも頭に入ってこなかった。
放課後、校庭の端っこで水やりをしていた優ちゃんに声をかけると、さも当たり前という顔で、彼は申しわけなさそうに眉を下げた。
俺が聞かなければ、言うつもりもなかったんだろう。
「じゃあさ、明日どっかに遊びに行こうぜ。映画なんてどう?」
誘ったのは気まぐれだった。
俺と優ちゃんは友達だけど、基本的には学校の中でしか話さなかったし、学年が違えば会わない日が多い。加えて彼らの家は門限があるから、四辻兄妹は放課後すぐに家に帰っていた。
だから、てっきり断られると思ったのに、優ちゃんは行くよとすぐに首を縦に振った。
見るのは隣町の映画館、公開期間ぎりきりのミステリーサスペンス映画。席はがらがらで、俺達以外は三人くらい。ほぼ貸切のような状態だった。
上映後、普通ならその辺のチェーン店に入って感想をいうのがセオリー。でも、優ちゃんはそういう店に入ると、キョロキョロとしていて落ち着きがなかったから、俺の秘密基地に彼を招いた。
秘密基地っていっても、ただの河川敷の橋の下だけど。
トリックはどこまで分かったかとか、犯人は当たったかとか、細かいところまで感想を共有していると、ぐうと腹が鳴った。腹の虫は俺のものではない。
「……恥ずかしいな。結構響いたね」
「うしっ、ちょっと待ってろ!」
俺は土手をかけ登って、自転車に乗る。ポケットの中にはまだ五百円あったから、きっと足りるはずだ。
「おばちゃん、いつもの! 今日は二つで!」
トレーの上にぱらりと二百円を置いて、ありがとう! と紙袋を受け取る。急いで戻ると、優ちゃんは水切りをして遊んでいた。一、二、三、四、五。結構うまい。
「これ、俺から餞別」
二つあった紙袋のうち、一つを押し付ける。中を開くと油とほくほくのじゃがいもの匂い。
「ここのコロッケ、ソース付けなくてもめっちゃうまいから、びっくりするって。夏でもぱくぱくいけるから!」
俺が大きく口を開け、かぶりついたのに続いて、優ちゃんも一口。
「おいしい。ありがとう」
優ちゃんの声はちょっとだけ震えていて、俺から逃げるように視線を外した。丸くて大きな瞳には、夕日が映っていて、そのまま川の中に落っこちてしまうんじゃないかと思った。
「んー。じゃ、そろそろ帰るか!」
食べ終わって、大きく伸びをする。今度は河川敷の階段に向かってゆっくりと歩いた。そっと優ちゃんが後ろから付いてくる。
停めてあった自転車のハンドルに手をかけて、そのままスタンドを外した。手で押して帰ろうとすると、優ちゃんはか細い声で俺の名前を呼んだ。
「紡くん、後ろに乗ってもいい?」
「もちろん!」
俺はにかっと笑うと、サドルに跨った。
ガコンと、自転車の荷台に男一人分の体重が乗る。これはかなり鍛えられそうだと、苦笑い。
横向きに座った優ちゃんの腕が俺の背中に触れる。夏なのに、触れ合ったところがひんやりとしていた。
「お客さん、どこまで行きますか?」
「それじゃあ、待ち合わせした公園までお願いします」
「りょーかい」
ペダルを漕ぐと自転車は右に左にゆらゆら揺れていく。ジョギングコースにも使われるこの土手は、しっかりと整備されていた。俺が石ころでもひかない限りは倒れることはないだろう。
優ちゃんは、水面に映った太陽が川に吸い込まれていくところをじっと見つめていた。
会話はなかったし、後ろの様子が分かるわけでもなかったから、勘だけど。この景色を記憶に刻んでいたのかもしれない。
「やべっ。優ちゃん、しっかり捕まっててくれ」
「え?」
大きめの下り坂、ぼうっとしていたせいで優ちゃんを下ろすタイミングを失った。重力に従って、二人分の体重を乗せた自転車は、ぐんっと前の方につんのめる。風がワイシャツの袖をふわりとさらっていった。
「奥歯、噛んでおけよ」
「……っ!」
腹回りに優ちゃんのがっしりとした腕が巻きついた。さっきまで余裕だったくせに、可愛いところもあるんだな。
長い急な下り坂。自転車のタイヤはペダルを漕がなくたって、どんどんとスピードを上げていく。下った先は、ガードレール、きちんと曲がらなければ、二人とも複雑骨折するかもしれない。
ボロいけど、ブレーキはしっかりしてるみたいで助かったよ。
俺はブレーキにかけた中指と薬指にゆっくりと力を込めていく。キキ―ッ! と、タイヤは小刻みに悲鳴を上げ、黒いゴムの焼けた匂いが鼻を掠めた。
「止ま……った?」
「おう! 結構スリル満点だったろ」
「……へ、ぁ、うん」
優ちゃんは瞳を見開き、白い肌はさらに青白くなっていた。けれども、十秒後には状況を理解して笑いだした。
「ふふ、はははっ! すごい! すごいよ、紡くん! 俺、死んじゃうかと思った」
「あっちゃー、後ろ見てみ」
俺達が通った後がくっきりとアスファルトに残っている。黒い線は、スピードの速さを物語っていた。
「自転車大丈夫?」
「パンクはしてねぇし、大丈夫だろ」
おかんには黙っておけばバレないと思うし。というか勝手に借りてきたから、バレたらヤバい。
「コラー! そこの二人組ー! 自転車の二人乗りを止めなさいー!」
それじゃあ、ボチボチ動きますかと自転車を漕ぎ始める。すると交差点の向こう側から、大嫌いな紺色の制服のお兄さんに声をかけられた。うわ、前に夜中ぶらぶらしてただけで補導してきた警官じゃん。顔バレする前に逃げよ……。
「ん? またお前か!」
無理だったかー。俺は律儀に信号待ちしているお兄さんから逃げるように細い路地に入った。
「明日から止めるから、今日はまた見逃しといてくださーい!」
待ちなさい、と元気な声が夕方の住宅街に響き渡る。
このままでは優ちゃんにも迷惑をかけてしまう。途中で自転車から降りた俺は、優ちゃんに自転車を預けた。
「三十分後、あの公園に自転車持ってきて!」
「え、紡くんは?」
「俺は大丈夫! 適当に警察まくから」
そうして俺はのらりくらりとお兄さんをかわし、なんとか待ち合わせ場所で、おかんの愛車を回収した。
「さっき見た映画の犯人みたいになってるよ」
泥だらけで再会した俺の頬を、優ちゃんが持っていたタオルハンカチで拭く。
「今日はありがとう。楽しかった!」
優ちゃんはにこにこと満足そうな笑みを浮かべながら俺に手を振った。俺も両手を上げて、ぶんぶんと振り返した。
今思えば、休みの日に外で待ち合わせして優ちゃんと遊んだ記憶はこの時しかない。彼も俺も次の約束はしなかったから。
すっかりくたくたになった俺は、自転車を漕がずに引いて帰ることにした。遠くの方で一匹のセミがカラカラと鳴いていた。
もうすぐ青春が終わる。