強みが弱点 夕方の渋谷の交差点。学校や仕事を終えて家に帰る人、これから街に繰り出す人、なんとなく街に入り浸っている人。いろんな人でごった返す交差点を、俺は人に揉まれながら当てもなく歩いている。
たまに人にぶつかられて舌打ちされることあるけれど、八つ当たりされたって文句を言われたってどうだってよかった。
不意に彷徨っていた足が止めてみる。そういえば今どこにいるんだっけ? 我にかえって足元を確認すれば俺は歩道橋の上に立っていた。見上げれば見慣れた窓ガラスが瞳に映る。
また、こんなところにきてしまった。
颯真の病院はこの歩道橋を降りた少し先にある。今更行っても、とうに面会時間は過ぎている。
ずるいな、面会時間を言い訳に使うなんて。
俺は弱い。負けたとも、もう夢を越えることはできないとも言えないで。
年上なのに、あの子達の前で真っ先に弱音を吐いて。
不意に手の中でスマートフォンが小さく震えている。一度や二度で止まらない振動は誰かから電話がかかっていることを示している。
発信先は——宮田颯真。
俺の親友。そして、俺に夢ってなんなのかを教えてくれたかけがえのない相棒。
かけてきたのはこれが初めてじゃない。もうメッセージだって、すごい数送られてる。
出なかったら嫌われちゃうかな。
手の中で四角い電気機器の画面が落ちるのをぼんやり見つめながら、人事のように思った。
「……っ、」
後ろから誰かにぶつかられ、親指が緑色の受話器ボタンに当たった。
出なきゃ、携帯放置してたとか、無くしちゃっててとかなんでもいいから話して。
いくら脳みそから声を発するよう指令を出したって、呼吸することすらわすれたみたいに声が出なかった。
「切るなよ、電話。絶対」
久しぶりに聴いた颯真の声。お前こんなに声出せたんだって思うくらい低くて、冷たい。怒ってる? いやこれは……。
「よかったぁ……! やっと出た。今どこ?」
「外、シブヤにいるよ」
なんて言えばいいのか分からないと避けていたくせに、颯真の声を聴くとふっと肩に入っていた力が抜けるように感じる。でも、それと同じくらい颯真と話すのは苦しい。
なんでも、は話せない。選択肢を一度でも間違えたらゲームオーバーになるような、そういう緊張感が流れていた。
「先に謝っておく。何があったか聞き出した、オレが全部。だから、もう全部知ってるんだ」
こんな時まで後輩に迷惑がかからないように保険をかけている。本当は詮索をしてはいけない、もしくは俺自身に聞かないといけないことを勝手に調べてしまったと先に謝っている。
律儀過ぎる颯真の優しさが今ばかりは胸にちくりと刺さった。じくじくと、やわい皮膚の間から血液が流れ出すみたいに痛みが強くなっていく。
「負けたんだ、大河さんに」
口に出せないと思っていた敗北宣言は、空から降ってくる雨粒のようにするりと地面に落ちた。
他人事のような冷たい響きに、自分が今だに現実を受け止めきれていないらしいと知った。
分かってるんだ、本当は。留学してわざと困難な状況に身を置くことで、自分の感情からずっと目を逸らし続けているってこと。
『颯真を失った、その痛みに耐えきれねえから、颯真の夢にすがって歌ってる』
大河さんの言葉を俺は今も否定しきれないでいる。
だって、俺が今もこの街に立っているのは颯真が理由だから。
俺の敗北宣言に対する颯真からの反応はない。何か言われる前にと、続け様に思ってもいない謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね。颯真の夢、絶対叶えてみせるって言ったのに」
「らしくねえな。謝るなんてさ」
スマートフォンのスピーカーを通して、颯真の声がやけに柔らかかった。渋谷の雑踏は考え事を邪魔するくらいにぎやかで騒がしいのに、颯真の声はスピーカー越しでもとても透き通ってよく聴こえた。
俺が颯真の声に耳を澄ませていた。
しばらく沈黙は続いた。俺の中に伝えたい言葉も伝えるべき言葉も見つかってはいない。状況説明以外に何を話したら良いのか分からない。
だけど、耳は研ぎ澄まされていて電話越しに颯真の息遣いを拾ってはいた。彼は優しいから次に俺にかける言葉を時間をかけて選んでいた。
勢いで電話をかけたはいいが、言葉に詰まったらしい。思ったら即行動するところが颯真らしいと思った。
だから、俺は何も言わずにただ、待った。
「新って『歌うこと』が好きだろ?」
「……? そりゃあね。好きじゃなかったら、こんなにしんどいこと続けられないよ」
てっきり呆れられるか、励まされるかそのどちらかと思っていたものだから、そのどちらでもない回答に面を食らった。
正直呆れられて然るべきだ。かっこ悪い、幻滅したと罵られてもしかたない。
もしくは、優しい颯真のことだから「こんなたころで諦めんのかよ」ってはっぱをかけてくるのかと思った。
でも、違った。
颯真の考えていることはいつも俺の斜め上を行く。ふわふわと浮かんでいる雲のように、見えていると思ったら次の瞬間には流れていってしまう。
昔は、歌えばなんでも分かり合える気がしたのにな。
「そうだよな。留学までしちゃうくらいだもんな。……アメリカでの生活は楽しかった?」
「そりゃあ本場だからね。学ぶことはたくさんあったよ。すごく成長させてもらった」
さっきから質問の意図が分からない。困惑している俺をよそに、颯真は納得したみたいにうんうんとうなづいて、それならさ、と言った。
「新の歌いたい場所で歌えばいいよ」
「どう、いうこと?」
「言葉通りの意味だよ。あのときのオレはさ、新に夢を託すしかなかった。そうしなかったら多分、生きることを諦めてたかもしれない。だから、おあいこだよ。お互い、変に謝るのはよそう」
乾いた唇がわなわなと震えている。急に心臓がうるさく鳴った。そのせいで、肺がきしんで頭ががんがんしてくる。吐きそうだった。
飛んできたボールを見送るどころか、顔面に打たれたみたいな衝撃で。俺が今この街に立っている意味を根底から覆すようなことをさも平然という颯真は、俺のよく知る親友じゃない。
現実を受け入れた大人の声がした。
「これからは、オレの夢じゃなくて新には新の夢を追って欲しい。お前が歌いたいなら、お前が目指したい場所で歌えばいい」
なんで、そんな急に突き放すんだよ。俺はお前のいない街で歌うことが、どんなに物足りないかを知ってるのに。
「なあ、新。お前はどうしたい?」
そんなの分かんないよ。分かんないから俺は今もこの街を彷徨ってる。
「RAD WEEKENDを超えるって、あの夜を超えるんだ、って言ってたじゃないか……」
「そうだよ。オレが言った。本気で目指してた。でも、オレは叶わなかったんだ」
こんなことを言わせたくて、今まで努力してきたわけじゃないのに……。俺は行き場のない感情をただぶつけることしかできなかった。
「RAD WEEKENDを新なら超えられると思ってるし、もしもそれができたら、世界中でオレが一番嬉しいと思う。でも、オレの夢が新から歌を取り上げてしまうのならいらない。オレは新の歌が好きだから。歌うことを諦めてほしくないんだ」
それで会話はおしまいだった。いや、俺が強制的に通話を切った。
切る前に、ちゃんと考えるから、心配しないでとそれらしいことを言った気もするがよく覚えていない。あまり思い出したくなかった。
ただ、颯真と話して大河さんの言葉を否定するだけじゃ、前に進めないと分かった。
「俺自身が颯真抜きであの夜を超えたいか……」
答えがYESにしろ、NOにしろそれが分からない限り、俺はマイクを握ることができないんだろう。
本当は分かってる。言われたことは全部図星で情けない自分を認めたくないだけなんだ。
ただ、俺はこの街でずっとお前と歌っていたかった。でもそのたった一つの願いすら理不尽に奪われた。それがただ悲しくて悔しかったから、颯真の夢を自分の目標にしたんだってこと。
——俺はただ颯真と一緒にもっと歌っていたかった、本当にそれだけなんだ。
高校生になったばかりの俺にできることなんて、颯真の夢を叶えてやること以外思いつかなかった。
颯真にただ生きて笑って欲しかった、生きる理由を作ってやりたかっただけなんだよ。
「他人の夢じゃ、あんなにたくさんの人の想いがぶつかりあったイベント超えられない、か」
今や音楽が俺の生活にはかかせないものになった。そして俺の音楽人生において、颯真の存在はなくてはならないものだった。
どうしたって「颯真のため」という言葉が口をついてしまう。自然と口から出てしまうくらい、何度も言葉にしたせいかもしれないな。
だからあいつを切り離して、自分の気持ちを考えることは、俺にとってなかなかに難しいことだった。
眠らない街で幾度夜を明かしたって未だに答えは見えてこない。今はまだ俺の中に答えはあるだろうと信じて考え続けるしかない。
ふと、立ち止まる俺の背に一人のミュージシャンの歌声が届く。観客はほとんどいなくて、平凡で単調な音がシブヤの喧騒にのまれている。
この街には、こういう人が星の数ほどいるんだろう。
俺もきっとそのうちの一人だ。
音楽がやっと好きになったと思ったら、すぐ孤独になる。これじゃあまるで音楽が嫌いみたいだ。
音楽もビビッドストリートも似ているな。受け入れられたと思ったら突き放される。それでも俺はそのどちらも捨てられずにいた。
俺は一人でもこの街で歌い続けたいのか、その答えを探して、前に一歩踏み出した。