雨の森を二人、歩いていた。
一刻ほどで構いません、あなたの時間をくださいませんか、と差し出された手を取って、連れ出されれば一面の翠。
日暮れ前の天気雨。傘はささずに、けれど紡いだ呪文が纏わせた煙管の煙に護られて、体は濡れることもなく。せっかく出かけるのにこれじゃあ、と雨模様に思い置けば、いいえ、これでいいのです、と振り返った横顔が笑んだ。
「着きましたよ、ヒースクリフ」
「え、ぁ……! すごい、」
「美しいでしょう?」
青、紫、紅桃に白。鞠のように丸く咲いた紫陽花はどれも鮮やかに色付いて、眼前を埋め尽くしどこまでも広がる。息を呑むヒースクリフの傍らで、雨粒を乗せた葉を露の一滴が滑った。そうして滴り落ちた先で、次の花もまた透明な彩りに濡れる。
「ああ、ちょうどいい頃合いです。どうぞ、空もご覧になってください」
頭上に繁る深い碧から抜け出して、見上げた先は夕暮れの染め色。濃藍に近い重さに姿を変えた青空が、皓い光に呑まれた先では山吹に芽吹く。雨粒を滴らせた雲は鴇色に染まりながら流れ、見上げる先も、手の届くすぐ傍でも、目映いばかりの佳趣に言葉も出ない。
「シャイロック、これ、……」
「……賢者様の世界には、“催花雨”という言葉があるのだそうです」
ヒースクリフの手を取って、シャイロックが緩やかに歩を進める。森に息吹く生命の循環、その気配に耳を傾けながら、溶け込むように心を添わせると知覚が澄んでいく。
「どういう言葉?」
「早く咲いてほしいと、花々を促すように降る雨――そんな意味だと教えていただきました。本来は春先の雨を指す言葉だということですけれど……蕾を綻ばせ花開かせる、そんな気分を起こさせるよう促す雨だなんて、胸が高鳴るようです」
その意味を丁寧に味わうように、唇が音に乗せる。笑みを湛える横顔を眺めながら、興趣や閑雅を愛するシャイロックが気に入るのも無理はない、とヒースクリフも微笑んだ。視線に気付いたのか目が合って、柔く絡む指で引き寄せられる。そして、口吻を受けた。繋いだ手に、額に、それから頬に。
「お誕生日おめでとうございます、ヒースクリフ。私からの贈り物は、お気に召したでしょうか」
「俺を祝うために、連れてきてくれたの?」
「今日という日を飾るのに、これほど相応しいものはありませんから。それから私の誘いを受けてくださったことにもお礼を。今日は誰もがあなたの時間を欲しがっていますからね」
「そんな、俺の方こそ……ありがとう、シャイロック。ああ、すごいな本当に。……ずっと見ていたい」
「お気の済むまで、存分に、と言いたいところですが、日が沈む前には戻りましょうか。あなたの笑顔を得たくて帰りを待っている方はまだまだ大勢いらっしゃいますから。独り占めは、それまで……」
目を細めて、シャイロックが囁く。寄せられた唇から溢れる吐息、その甘やかなくすぐりが瞼を伏せる合図になった。
夕去の光と滴る雨音。果てのない彩花の囲繞の中、過ぎ往く刻を繋ぎ止めるものは、今は他に何もない。