テラさん、と僕を呼ぶ耳慣れた声は、記憶にある限り今まで聞いた中で最も焦っていたように思う。
予報になかった降雪のおかげで街中どこも大混乱だ。電車は遅延し、スノータイヤへの交換なんていう習慣はない都会の車で道路は渋滞とクラクションの嵐。『午後からはぐっと気温が下がり冷たい雨が降るでしょう、外出の際は暖かくしてお出かけください』。どこの予報を確認しても、総じてそんな一言が添えられていた。天候が崩れるのは覚悟していたけれど、まさかここまで冷え込むとは。
「防寒とか、そういう話じゃないんだよねぇ、こうなっちゃうと……」
雨はみぞれ混じりになり、そして雪へと姿を変えた。雑踏の中、踏み付けられて溶けるよりも早く降り積もり、やがて道行く者たちの足を止める。物珍しさからの行為であるのははじめだけだ。慣れない雪路に帰宅を阻まれ身動きが取れなくなっていく。
しまった、と思った頃にはもう手遅れだった。もっと早く気付いていれば早々に切り上げたけれど、あと少しの仕事を片付けてしまいたくて居残ったのが悪かった。エントランスで立ち往生、しばらく様子を見たものの、それでどうなるわけでもない。ああ、買ってからまだそんなに履いてなかったんだけどな、と足元に視線を落とす。こんな状況で歩くには向かないだろう、無様に転倒することだけは絶対に避けたい。一度唇を引き結ぶ。水気を含んだ雪はきっと一歩踏み出すたびに染み込んでくるけれど、歩き出さなければどうにもならないのだから。
「……よし、行くか」
深呼吸を一つ、冷気の待つドアの先へ。冷たい風がストールをなびかせ、煽られないようにと注意しながら傘を広げた。幸いにも、突風が吹き荒ぶというわけではなさそうだ。これなら大丈夫、背筋を伸ばして重心を引き上げていればいける。歩幅は狭く、一歩ずつきちんと踏み出していけば。ショーウィンドウに映るのは背を丸めて俯く群衆、そんな中で、こんなにも美しく気高く歩けるのは僕ひとりだけ。
ああ、やっぱり素敵、たまらない。そう思って歩みを弛めそうなところを遮ったのは、着信を訴える電子音だ。だれ、こんなタイミングで。光る画面に目をやると、『天彦』と、同居人の一人の名前が表示されていた。
「はいはい、テラくんだけど、」
「テラさん! よかった、繋がって。今どこにいるんです?」
「仕事場の近く。今日は帰るの遅くなるけど、どしたの? 何かあった?」
「何かじゃないでしょう。遅くなるって、帰宅困難ってことじゃないんですか?」
「……まあ、そうだけど」
「やっぱり」
電話して正解でした、と続く言葉はなぜだか溜息とともに吐き出された。何だよ、いきなりかけてきて。目の前で信号が点滅する。いつもなら小走りで渡ってしまうこともあるけれど、今それは危ない。交差点付近に並ぶ店の庇の下は、信号待ちの間、少しでも雪を凌ぎたがる人々で徐々に埋まっていく。
「それで、どの辺りですか? ドレスショップはもう通り過ぎました?」
「銀行と郵便局の交差点、わかるよね? あそこ」
「わかりました、すぐ行きます」
「は? えっ、ちょっと、あまひこ?」
銀行で待っていてください、と一言付け加えられて、すぐに電話は切れた。待ってろって、なに? すぐ行くって、どこからどうやって? 一方的すぎて全然わかんない、いつものこととも言えるけれど。
従わない理由を探した。だけど、頭に浮かべたそれらはどれもいまいちで全然しっくりこなかった。だから止めていた歩みを再開する。今待っているはずの赤信号のほうではなく、人の流れに沿って渡るのは逆の横断歩道だ。
そのあとはあっという間だった。すぐに行くと言った天彦は本当に間もなく現れて、僕の荷物を受け取ると手を引いて歩き出した。本当はその前に、抱き上げられそうになったりさすがに拒否したりというやり取りもあったけれど、そんなことに拘ってる場合でないのは明白だ。すみません、少し歩きます、と言われるがままについていった先は駐車場で、知らない車が停まっていた。どうぞ、と促されるままに助手席に座ると、必然、天彦の運転で走り出す。
「なに、どゆこと? これきみの車? ていうか、運転できるんだ」
「できますよ、皆さんとあの家で暮らしているとなかなか機会がないだけで。テラさんは? 免許、持ってます?」
「一応は。滅多に運転しないけど」
「じゃあもう忘れちゃいました?」
「いや、近場まで車出すくらいならできるよ。でもあんまり複雑な道は走りたくない」
なんでこんな会話してるんだろう。思ったとおり靴の中まで浸水して濡れた足元には、強めの温風が当たっている。膝にはふかふかのブランケットまでかけられて、どこまでも手抜かりがない。どうして、とこれ以上問うならば、これは天彦の優しさ、思いやりなんだと思う。そんなことを考えている間にも、なんてことのない会話ばかりが続いていく。けれど、互いに意図せず芽生えたひとつの間。それが自然と車内の空気を変えた。口火を切ったのは天彦のほうだ。
「どうしてすぐに連絡してくれないんですか」
隣にいる天彦を見つめる。その視線は前を向いていて僕を捉えない。信号はまたしても赤。まだしばらくは停止したままだろう。
「タクシー乗ればいいと思って」
「でも、実際は歩いてましたね」
「しょうがないでしょ、どこにかけても全車出払ってるって言うんだから」
「当たり前です。誰だって同じ事を考えますよ。捕まるわけないでしょう、こんな日に」
「積もるくらい降ってるって知らなかったんだよ、仕事してたから! ていうか、なに? なんでそんなに怒ってるわけ?」
「違います。呆れてるんですよ。こんな天気の中、その靴で歩くなんて」
なんで、どうして。今日はこんな言葉ばっかりだ。わけがわからなくて、わからないまま意味のない会話をして、かと思えば今度は言い合ってる。その理由も知らない、僕も、きっと天彦も。サイドミラーに張り付く雪、その結晶がほどけていく。水滴になるのを見届けると、また次の雪の粒、ひらりと落ちてきて、張り付いて、溶けてなくなるその様を、いつまでも無心で見つめていた。
「……テラさん。足、冷えてつらいでしょう。無茶しすぎです」
緩やかに加速しながら車が動き出す。天彦の運転は慎重だ。慣れていないからじゃなくて、余裕をなくさないように努めている。普段はきっとこんなふうじゃない、もしも一人だったら。同乗者が僕じゃなかったら、ここまではしないんだろう。うそつき、と半ば無意識に声が出て、言い終わってからそんな自分に気が付いた。だから今度ははっきりと言い直す。一度発してしまえばもうその正体は明らかで、言い淀むこともなく言葉になっていく。
「うそつき。天彦、呆れてるんじゃなくて心配なんでしょ。それにやっぱり、ちょっとは怒ってる。ね? テラくんのことが大事なんだよね。頼られたかったんだ?」
身を乗り出して顔を覗く。今度はもっと近くで、濡れたコートに包まれた腕に触れて。こんなふうに接したら、不快さを顕わにこの手を振り払う人間もいると知っている。でも確信があった。天彦はそうはしない。僕をそんなふうに扱うなんて、思い付きもしないかわいい男。
「そうですよ。心配しました。どうして今日に限ってスカート姿なんですか。最近はパンツスタイルが多かったのに。いつもなら自分を最優先にするでしょう、帰れないなら迎えに来てと言ってくれればよかったんです。それなのに、」
「わかった、わかったよごめんって! ほら、テラくんが謝ってるんだよ? 許すよね?」
「当たり前でしょう、謝らなくたって許しますよ」
「じゃ、なんでいつまでも不服そうな顔してんの、」
眉根を寄せたままの天彦がちらりと僕を見てまた前を向く。ねえ今どんな僕が映った? 可愛くて麗しくてとびきり魅力的でしょ、もっとよく見なきゃもったいない。そう伝わっていないはずがないのに、そうしないのは。
「天彦、ねえってば。……僕に怒っちゃったこと、後悔してる?」
「…………はい」
「ふっ、……あっははは! 図星? はーーもう、なにそれ。ふふ、」
美しくて無欠だから、僕は誰に許されなくても問題ない。だけど天彦は、それとは別に僕を甘やかしたがる癖があるから。それにしたって甘すぎる節はあると、さすがにときどきは思うけれど。もう一度触れた腕に今度は少し力を込めて、僕も体を寄せて言う。
「じゃあさ、今日はもう、帰るのやめる?」
言葉を詰まらせた天彦が、驚きを隠さないままにようやくしっかりと僕を見る。こんな距離で目を合わせたらもう誤魔化せない、わかってる。
ずっと丁寧で気を遣った運転をしていたくせに、ここまできて突然、ちょっと無理な車線変更。少しくらいのルール違反があったっていい、そのくらいが程好く楽しめる匙加減だから。帰路から外れた道を進む。先へ行くほど、視界の白色は増していった。