夜を越えていけ 一 そして、少女は羽化をする
『さぁ、それぞれの役目を果たすんだ』
切り離された岸壁に、届かなかった手。
ただひたすらに名前を呼びながら、小さくなっていく影を見つめていた。
「どうして! どうして、私は行けないの?」
追い続けた影が空に消えたあと、一人そう呟いた。
◇
聖柩から〈聖母の力〉を授かった。
世界を救うため。いいえ、そんな大きなことを考えていたわけじゃない。ただ、大切な人たちと、大好きな場所を守りたかった。汚されたくなかった。そんな必死な想いだった。
「これから、だったのになぁ」
力を授けられて、仲間と一緒に世界中へ羽ばたくつもりだった。仲間と、彼と一緒なら、どんな困難も乗り越えていけると思った。
「でも、私一人になっちゃったわ」
夕闇に包まれた岸壁に、足元からは暗い海が迫っていた。空と海との境界線も消え、世界にたった一人取り残されたような、そんな気がしてしまう。
それでも、私は。
「……絶望なんか、しないんだから!」
私は運命なんかに屈したりはしない。あの日からずっと胸に刻んだ想いは変わらない。
だけど、
「やっぱり、寂しいわ……」
言葉にすると、追うようにして涙が溢れてきた。
……ここには誰もいないから。明日には、前を向いて歩けるから。
「今夜だけは、泣いてもいいわよね……?」
濡れた頬を撫でるように、風が吹いた。
「うっ、うっ、うわあああああん!!!」
声の限り、叫んだ。ポロポロと大粒の涙が大地を濡らした。
でも、いいの。
涙も叫びも、この空と海に溶けてしまうから。寂しさも切なさも、この大地が受け止めてくれるから。
——そして、残るのは、勇気と希望と愛しさ。
さようなら、少女の私。
二 重ねる覚悟
「ククル、ククル!」
声の限り叫んでも、小さくなっていく影にはもう届かなかった。シルバーノアは高度を上げ、岸壁から離れていく。
「なんでだよ! 降ろせ、ククルが……ククルが!」
「アーク、一旦落ち着くのだ」
チョピンのところへ向かおうとすると、後ろからイーガに羽交い締めにされる。
「そうだよ、このままここにいたら僕たちだって危ない」
「分かってる!」
イーガとポコが順に声をかけてくる。頭のどこかではここで喚いても何の意味がないことなんて、分かっているんだ。それでも、あんな顔をしたククルを一人置いて行くなんてできない。
「とにかく、一度離れて立て直すしかあるまい」
「そうするかのう」
チョンガラとゴーゲンが話を進めていくのが聞こえる。ポコが目を真っ赤にして、後に続く。
「先に入っておくぞ」
イーガが腕を緩めると、俺は力なく床に崩れ落ちた。
どうすれば良かったんだろうか。このままここを去ることなんて、俺にはできない。
立ち上がることもできずに、じっと床を睨むしかなかった。握りしめた拳からは血が滲み、体が燃えるように熱い。
「おい」
ククルを迎えに行かないと。
「おい!」
「っう!」
グルグルと回る思考から力尽くで引き剥がすように、トッシュに胸ぐらを掴まれていた。
「話は後だ。 とにかくお前は一回頭冷やせ」
目が合うと、動けなかった。まるで瞳の奥の、心の奥底まで見逃さないように、そんな風に見られていた。
「……分かった」
トッシュは手を離すと、ポンと俺の胸元を叩く。そのまま何も言わずに作戦室へと向かって行った。
◇
一人、窓越しに夜の海を見下ろしていた。エンジンの音に身を委ねていると、心も凪いでくる。
「はぁ、カッコ悪いな」
〈何やってるの、しっかりしなさいよ!〉
〈私は大丈夫よ。 負けないわ!〉
ここにはいない彼女の声が、姿が、鮮明に思い浮かぶ。
「そうか、そうだよな」
ククルは、こんなことで挫けたりしないもんな。
だったら、俺はどうする?聖柩から与えられた〈勇者の力〉を何に使うんだ?
「そんなの、決まってるじゃないか」
そう呟いて顔を上げれば、視界が一気にクリアになった。
さぁ、行こう。
俺たちなら、何だってやってのけてやるさ。
作戦室へと向かう足取りに、もう迷いはなかった。
三 それぞれの
「待たせた。 これからのことについて話したい」
作戦室に現れたアークを見て、僕はもう大丈夫だなって思った。
「一丁前に漢らしい顔するようになったじゃねえか!」
トッシュが嬉しそうにアークの背中を叩く。正直痛そうだけど、アークも心配かけたことは分かっているのか大人しくされるがままにしているみたい。
「さて、今このシルバーノアはスメリア上空からグレイシーヌに向かっておるわけじゃが……」
チョンガラが地図を広げて話し始めると、僕もそちらへ意識を向けた。
◇
「何とかなるかな……。 いや、やらないと!」
作戦会議は一旦終わり、まずは各々身体を休めることになった。まだ眠る気にもなれなくて、手持ち無沙汰になった僕はぼんやりと夜の空を眺める。
これから、僕たちの手で世界を守るんだ。ロマリアの好きになんかさせない。不安がないわけじゃないけど、アークの背中を見ていると僕にも何かできることがあるんじゃないかって思えるようになった。
「なんだポコ。 まだ起きてたのか?」
「わっ、トッシュ! もうビックリさせないでよ」
悪い悪い。そう軽く言いながら、トッシュは僕の隣に並ぶ。隣から漂うアルコール臭に僕が顔を顰めると、さっきまでイーガと飲んでいたと教えてくれた。
「お前は大丈夫なのか?」
「えっ、僕?」
思いもしなかった質問に、僕は答えに詰まった。だって、一番悲しくて辛いのはククルと、そしてアークなんだから。
「お前たち三人は俺と会う前から一緒にいたんだろ」
ああ、僕のことも心配してくれてるんだ。
胸がムズムズして、思わず目を伏せた。
「うん。 寂しいけど、僕は大丈夫だよ」
みんなと話して分かったんだ。離れていても仲間だって、同じ目的に向かって力を合わせることはできるって。きっとククルも同じ気持ちだと思うから。
トッシュは覗き込むように僕の目をじっと見て、満足そうな顔をする。そのまま僕の髪をグシャグシャとかき混ぜた。
「わわっ、何するの!」
「いや、お前らみたいなガキが覚悟決めてんのに、俺も負けてられねぇなって」
嬉しくて仕方ない、そんな顔をトッシュはしていた。
「もう……。 でも、もし。もしも、あのままアークが戻ってこなかったらどうするつもりだったの?」
アークを信じてないわけじゃないけど、それでも不安がなかったわけじゃない。
トッシュは僕の言葉を聞くと、ニヤッと口元をあげた。
「そんときは、殴ってでも目を覚ましてやったさ」
——モンジ流ってやつを見せてやるチャンスだったんだけどな。
何だかよく分からないけど物騒な気配を感じて、アークがちゃんと自分で戻ってこれてよかった……僕は心の底からそう思った。
◇
「ポコは大丈夫みてぇだな」
「うむ。あれでいて、周りをよく見ているからな」
「なーんだ。落ち込んでたら、ここはワシの出番と思っておったんじゃがな?」
「てめぇにそんなセンサイなことできるもんかよ」
「なんじゃと!」
「なんか文句あるのか?」
売り言葉に買い言葉。いつものことと言えばそれまでだが、チョンガラもトッシュもすっかり元のペースに戻っていた。巻き込まれぬように、とイーガは二人から距離をとる。
「あやつら、事の重大さが分かっておるのかのう」
隣から溢れたぼやきに、イーガは何とも返せずにいた。
「……世界を救うと言うのなら、あれくらいがちょうどいいのかもしれんな」
「ゴーゲン殿……」
謎の多い大魔法使いとやらは、そう言い残すと部屋を後にする。
自分の心に、大地に、恥じぬ戦いができているだろうか。
眼前に広がる暗闇に自分の心を見つめた。