Fly me to the moon.その店に入ったのはたまたまだった。
仕事の延長で、興味の無い女性だらけの店に連れて行かれ、趣味じゃない香水の匂いに囲まれて辟易していた。
美味くもない酒を注がれ、べっとりと生暖かく柔らかな手に身体を触られるのは不快でしかなくて、はやくその感触をシャワーで洗い流したいという気持ちと、マシな酒で嚥下したいという気持ちがせめぎ合っているところ、ふと目についた小さな看板。
建物の隙間を埋めるように建てられた細長いビルと、その外階段の下にひっそりと着いている妙にクラシカルなドア。アーチを描く扉にはめ込まれた硝子からはオレンジ色の明かりが漏れている。
店先には小さな看板がおかれ、書かれているのは流れるような筆記体でBar.とだけ。
一見会員制かとも思うような非開放感だが、こちらを拒絶するような文字はどこにもない。綱は、ふと止めた足をそのままそちらに向けた。
真鍮のノブ押すと、からん、とカウベルが小さく来客を告げる。
中は、思ったよりも広かった。
ただ、ドアから全体を見渡せる程度の大きさだ。長く店の奥に伸びる止まり木、壁に沿っていくつか設えられている脚の長いテーブル、奥に階段が見えるのは二階があるのかオフィスになっているのかはわからない。隅には小さなピアノがあって、細身の男が曲を奏でていた。
「いらっしゃい」
初老のバーテンダーが、ボトルを傾けながらちらりとこちらを見る。
それ以上の接客はない。綱は店内を観察するのをやめて、バーに近づいた。
「スティンガーを貰えるか」
「かしこまりました」
不快と疲労のまざったぼやけた身体に、刺激が欲しかった。針で突き刺すような刺激が欲しい。
バーテンは作っていたカクテルを手前の客にだしてから、新たに綱のカクテルにとりかかった。何とはなしに、先客の様子を視界の隅に捕らえる。
その手にあるのはロックグラスだ。揺れる琥珀が透けて見える。ウィスキーだろうかと思うが、果物らしきものが一緒に刺さっているから単純にウィスキーだけではないだろう。
綱は自分がよくのむもの位しか覚えていないので、これだけの情報では推理できなかった。
受け取ったのは、ロックグラスが小さく見える程の大男だ。分厚い拳に包まれて、グラスが割れたりしないだろうかと、有りもしないことを思う。
グラスを持たない方の手が、置かれているサングラスの弦を弄ぶ。爪の形がわかるほどの距離だ。
「……」
男は、彫刻家が完璧に大理石から掘り出したかのような横顔を、琥珀色の明かりのなか浮かび上がらせている。長い睫毛を伏せ、肉厚の唇がグラスにキスをする。
「……」
美しい横顔はそのままに、その暗い瞳がころりとこちらを向いた。
「……」
綱は、飛んできた視線を受け流すように、やってきた自分のカクテルに視線をやる。
「お待たせ致しました」
美しい髭の下からかけられる声は、些か高いが不快ではない。今はサーブする側についているが、元々はされる側であると思わせる紳士然とした声音だった。
「ありがとう」
テーブルにおかれたカクテルグラスに指を這わせる。コルク色のコースターに押された店名が、硝子に歪んでいた。
口を付けると、刺すような針の甘さ。
ゆっくりと嚥下する。舌から食道へと流れていく、ウィスキーとミントの香り。
美味しい。
悪くない店をみつけたかもしれない。
ウィスキーの香りの向こうから、より燻されたような香りが漂った。
見れば、男が葉巻に火を付けている。
「……」
煙と、ウィスキーの香り、そして悲しげに奏でられるFly me to the moon。
喋る者はいない。
酒で湿った唇を舐める。
最後の一口を干して、グラスを横へ滑らせる。
ふ、と綱の手元に影が落ちた。
「何、飲んでたんだ?」
見覚えのある指先が、とんとん、とグラスの横を叩く。
顔を上げると、男がバーに寄りかかってこちらを見下ろしていた
「スティンガー」
「へえ」
興味のない返事だ。実際どうでも良いのだろう。
見つめる瞳は、近くでみると青かった。明るい場所でみれば、もっとしっかりと碧眼なのだろう。オレンジ色の微かな明かりの中では、夜の海のようだ。
「君は何を」
男のグラスは遠い。そちらに視線をやりながら言うと、男はぐっと背を反らすようにしながらこたえた。
「オールド・ファッションド」
角砂糖の入った、甘いカクテルだ。
「ふふ」
「何がおかしいんだ?」
さらり、男の髪が揺れる。琥珀色の明かりが、金の髪に星屑を散らす。
「甘いものがすきなのか?」
「……」
問いに、雄々しい眉が、くい、と片方だけ持ち上がった。
器用なことだ。綱は、そんな風に器用に顔の筋肉を動かせない。
「……どうおもう?」
はぐらかされた。
男は、にやりと片頬をあげ額を寄せてくる。
「あんたは、すきだろ?」
男の指が、空になったカクテルグラスの脚をなぞった。
自信に満ちた視線に、苦笑を漏らして首を振る。
爪の先が、ほんの微かに触れあった。
「ふふ」
最後の音を叩いて、静かに曲が終わりを迎える。
綱は、満月のような金色を見上げて、ひそりと笑みを浮かべた。