Oh My Honey!!山南の気持ちは晴れやかだった。
鉛色の曇天だろうとも、あと1時間もすれば恋人が迎えにくるのだと思えば、浮かれようというものだ。
ペーパーバックも開いただけで進んでいない。
一行読んでは考え事に捕らわれ、一行読んでは物思いにふけり、そのうちに筋がよくわからなくなってやめた。
祖父から譲り受けた腕時計はもうほとんどアンティークだ。けれども、ムーブメントは現役で、しっかりと時を刻んでいる。
「……」
落ちかかる髪を耳にかけ、顔を上げる。
通りには、仕事帰りと思しき人々。週末だからか、皆、楽し気に見えた。
恋人を待つ時間は嫌いではない。
彼とは一年ほどまえから親密な付き合いをしている。年下の、かわいい人だ。一所懸命口説かれて口説かれて、根負けした。
今では、あの時負けておいてよかったと、そう思っている。
年上で、面白味もない自分を、まるで砂糖菓子かなにかのように大切にしてくれる。少しやり過ぎな気はするけれど、それが想いの分なのであればくすぐったい程に喜ばしい。
お互い……というより向こうが時間の読めない仕事についているから、山南はこうして待ち惚けることが多い。それを不安に思ったのは最初だけだった。
なぜなら、いつも、息せき切らして絶対にやってくるから。
どんなに遅くなったとしても、約束を違えられたことはないのだ。
気づかずに口角が上がる。今日もきっと遅刻だろう。そんなことは気にならない。彼の誠を貫いているだけだ。
ただ少しだけ、心配にはなる。オフィスに座っていれば良いタイプの職業ではない。
「……」
カプチーノは、もう底に泡がこびりついているだけだ。文字盤が、そろそろ約束の時間を三十分程すぎることを告げていた。
頭の上の方で、ぱちん、と小さく爆ぜるような音がする。そのうちにぼつぼつと連続して。鉛色の空はついに泣き出してしまった。
傘は持っていない。朝は天気だったから、油断してしまった。
通りの石畳は徐々に色濃く染まり、そのうちに滝の内側にいるような景色になる。
一時、雨宿り客が店内に増えた。
ちょうど、山南の並びに長い髪の美しい女性が腰かけた。ハンカチでぱたぱたと濡れた肩を叩いている。
ちらりと目が合い、軽く会釈して前を向いた。じろじろみるようなことはあまりに不躾だ。
女性は特段気にした様子もなく、湯気の立つコーヒーカップに口をつけていた。
もう開いているだけになっていた本を、鞄にしまう。
薄暗かった空は、段々と夜に飲まれてゆく。雨はまだやまない。
いつの間にか雨宿り客も捌け、店内は閑散としていた。店主はカウンターの内側で眠そうにカップを磨いている。
そのとき、久々にドアのカウベルが鳴った。
山南は、隣の女性と同時に振り返る。
「ごめんね!お待たせ!」
大学生くらいだろうか。朗らかな声の青年が、隣の女性に向かって手を上げている。
彼女ははにかみながら、それでもぱっと花が咲いたように笑う。
「いいえ」
落ち着いた声だったが、それは喜びを隠せるほどではなかった。
そうして、店内には山南だけになってしまった。
店主が、少し気の毒そうにこちらを見たが、すぐカップに集中する。
「……」
予定の時刻から2時間経った。
雨も止みつつある。
閉店は何時だろう。純粋なカフェだけのようだから、そろそろ店じまいではないだろうか。
「どうぞ」
どうしようかと思ったとき、ことん、と湯気の立つカップがサーブされる。
「もう閉店ですが、片付けの間はいて貰って構いません」
それはサービスです、と出されたカップからはミントの香りがした。
言葉通り、店主はドアにCLOSEの看板をぶら下げ、椅子をテーブルに上げ始める。山南は、その言葉に甘えて温かなミントティーに口を付けた。
山南は片手の利きが悪い。怪我の後遺症だが、それのせいで末端もすぐに冷たくなる。冷えた指先に温かなカップは心地よい。
冷えて強張った指先を、温かな手が優しく摩ってくれるのを思い出す。山南よりも、一回り大きな、仕事に荒れた掌。
ふうと湯気を噴くと、ガラス窓が白く曇った。
「お客さん、そろそろ店を閉めます」
後ろから声を掛けられた。はっとして振り返る。
「ああ、すみません。ありがとうございました」
慌てて振り返って、椅子から腰を浮かせる。
「長居してしまって、すみませんでした」
店主はひょいと片眉を上げて肩をすくめる。
「いいえ、でも丁度よかったようですね」
「?」
ほらと、店主の指さす方に向き直れば、男が一人立っていた。
前屈みになって、肩で息をしている。
「またどうぞ」
店主は、店を出た山南の背後で、ひらりと手を振ってドアを閉めた。カランとベルが鳴り、CLOSEの看板がゆれている。
「すみませんっ」
ぜえぜえ言いながら、汗だか雨だかで髪を額にくっつけた斎藤が半ば叫ぶように言う。
「ほ、ほんとは、げほっ」
片手には、不格好な花束。細やかな贈り物としては大きすぎるし、びしょ濡れでなんだかまとまりもない。
「ちゃんと、きょう、」
これ以上ない位、斎藤の肺は目一杯稼働しているのがわかる。見慣れた緑のMA1は水を吸ってしまって重たそうだ。
「ごめ、なさ」
「斎藤君」
「これ、」
ばさり、とその花束を差し出す。ぱしゃぱしゃと水しぶきが飛んだ。
「あの、閉店間際、に、なんとかあるもので、なんで。ちょっと変、かもなんですけど」
なるほど、色も種類もバラバラで、残っていたものを全部まとめてもらったのだろう。
山南は、差し出されたそれを両手で受け取った。
色もデザインもなんだかちぐはぐでまとまりがなくて、それでも、とても綺麗に見える。
「斎藤君」
「はい、」
「ちゃんと、無事、来てくれただけで嬉しいです」
ありがとう、と。
笑い掛ければ、斎藤は走ったせいで真っ赤な顔に、泣きそうな笑みを浮かべた。
「いいえ」
ぎゅうと抱かれると濡れた身体が冷たかった。けれども、そんなことはどうでもよくて、山南は君の選択は正しかったよ、と過去の自分に向かって思うのだった。