龍神伝説裏山にある、社の先に行ってはいけない。
そう言い聞かされていた。その先には大きな沼があって龍神様の住処である。中に入ればたちまち怒りに触れて取って食われる。そして、その後には雨が続いて不作になって村は飢饉に喘ぐだろう、とそう言い伝えられている。
村の神社はその龍神様を奉っていて、春には龍神祭というお祭りも行われていた。祭りでは皆が狐の面を着けて龍神様に神楽を捧げるのだ。何故龍神祭なのに狐なのかと言えば、龍神様に嫁いだ狐がいると伝わっているからだった。
村の大人は決して、社に近づこうとはしない。けれども、美しい蝶がふわふわととんでいたのだ。夏の日差しを浴びて、大きな羽がきらきらとまばゆかった。まるで鱗粉に糸を引くように飛ぶその軌跡に、引き寄せられた。
待って待ってと手を伸ばしても、指先は届かない。追いかけっこをするように、ふらりふらりと飛んでいく。色鮮やかな羽は葉陰に隠れ、木立を縫って、とうとう、姿が見えなくなった。
ふ、と辺りを見回す。
頭の上には覆い被さるように、高い木が枝を交差させている。木漏れ日が遠い。ぐるぐると辺りを見回す。足元からは、草が潰れて青臭い匂いが立ち上っていた。草履からはみ出たつま先が、濡れた土に沈む。
ここは、どこだろうか。
すでに夢のような蝶の姿はどこにもない。鬱蒼たる木々の隙間から、鳥の羽ばたきが立ちすくむ背中を脅かした。
頭の中に、祖母の嗄れた声が蘇る。
ー社の先に行ってはいけねえよ、そうすると龍神様に食われちまうからね
陽に焼けて皺の寄った祖母の手は温かく優しく、背中を撫でる。
ーけっして入ってはならねえよ、帰ぇってこれなくなるからね
通り過ぎた。
夢中で蝶を追った。そのときは頭の隅に浮かびもしなかった。けれど確かに覚えている。
確かに、あの、いつも村を見下ろしている小さな社の横を、通り過ぎてきた。
今になってやっと、自分がしてしまった禁忌に足が竦む。
絶対に入っては行けない場所に入ってしまった。そして帰り方はわからない。ここが社の奥であること以外、なにもわからなかった。もうどの方角から来たのかもわからない。どこをみてもおなじに見える。今前にある木も、振り返った先にある木も、同じにみえるのだ。
もう帰ることができない。
ー帰ぇってこれなくなるからね
耳の奥に蘇る祖母の声に、わけもわからず弾けるように駆けだした。
頬を枝が切りつける、むき出しの臑を鋭い草が擦ってくる、つま先には泥がまとわりつき爪の間に挟まった土が痛い。
つんと滲みる喉の痛みに耐えて走る。
けれど、行けども行けども、何も見えない。木しかないのだ。
何度も蹴躓き、手のひらには小石がめり込んだ。
痛い、怖い。
ついに、木の根に転ばされ泥の中に飛び込んでしまった。
口の中に苦い土の味が広がる。
身体を起こし辺りを見回すが、やはり木しか見えなかった。
帰れない。
着物が泥を吸って冷たい。走っていたせいで気がつかなかったが、いつのまにか空気が冷たくひやりとした。
寒い。
口の中の泥を吐き出して、立ち上がる。
ぐっと涙をこらえて、もう一歩踏み出した。
すると、唐突に、視界が開けた。足元は変わらずぬかるんでいるが、先ほどまで前後もわからず取り囲んできた木がない。
目の前には、夕暮れを吸い込んだ丸い沼が広がっていた。
大きな沼地があって、そこは龍神様の住処である。
ここは、龍神様の家だ。
そう気づくと同時に、食われてしまうと思った。
龍神様が住んでいる、やってきたことに気づかれてしまえばきっと、こんな小さな身体の自分なぞ一口で食われてしまうと。
逃げなくては。でも、どこへ。
じり、と踵を下げたときだった。後ろで、がさりと大きな音がした。
驚いて振り返る。
そこには、白い大きな狼がいた。
「……」
いや、違う。狼よりも鼻面が長いし、耳が大きい。あんまりに大きいので狼かと思ったが、コレは狐だ。
狐は、黒い目でじっとこっちをみている。
やってきたひとを食べるのは、龍神様ではなく狐なのだろうか。
「迷い子か」
狐が言った。
聞き間違いかもしれない。狐が喋るわけがない。飼っている犬も、よく遊びに来る猫も、喋ったりはしない。
「まさか、捨てられたわけではあるまい」
喋った。
鋭い牙をちらつかせながら、確かに狐が喋ったのだ。
ぽかんとしていると、狐はふんとため息をつくように首を振って、沼の方へ向かう。
「金時」
狐の毛並みに、夕日が靡く。よく見れば、白ではなく灰色がかっていた。空に浮かぶ、月に似ている。
「金時、寝ているのか」
呆けたまま眺めていると、そのうちに沼が震えた。
ざわざわと水面が小刻みに波立ち始め、地面が揺れている。
そうして、夕陽の混じった沼がぬっと伸び上がった。
「なんだい兄ィ、もう朝か」
「これから夜だ」
橙色の水の向こうから姿を現したのは、龍だった。
どうみても、龍だ。
金色の身体、長い髭、雷を戴いたような角。神社に奉られている龍神様の絵にそっくりだった。
「ひとのこが迷い込んだ」
「ああ?」
眠たげだった目が開き、ぎょろりとこちらを見る。青空を固めたような目が、そこにいる、小さな子供をうつした。
動くことも出来ず見上げていると、銀色の狐と金色の龍は、四つの眼をむけてくる。
「怪我してんじゃねえか!」
「そのようだ」
ぱかりとひらいた真っ赤な口には、鋭い牙がたくさん生えている。けれども、いっこうに子供をとって食う様子はなく、迷い子はただぼんやりと、龍神様に嫁いだ狐の言い伝えは本当だったんだなあと思っていた。