晴天を縫うひどく喉が渇いて、綱は目を覚ました。
部屋の中は蒸し暑く、やっと夏が終わりかと思ったのだがまだまだ残暑は厳しいようだ。じとりと汗ばむ背中に、眉を顰めた。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、蛇行しながら隣で眠る男の上を横断している。
眠る顔は健やかそのもので、こうして黙っていたら彫刻の如き美しさだ。否、騒がしくとも美しい男だが、表情の抜けた顔は近寄りがたい程だった。
その、白い額に落ちかかる前髪をちょいとよけると、くすぐったいのかまつげが震えた。
起こしてしまってはいけない。綱は、ふうとため息をついて、ベッドから起き上がった。
キッチンはまだ眠っている。
部屋の中は、どこも予想外に暑い。身体の中に熱が籠もったような暑さを感じる。今日はこのまま暑くなるのかもしれない。洗わなくてはいけないシーツがあるし、布団も干したい。
考えながら冷蔵庫を開けた。冷えた空気に包まれ、ぞわっと背中に鳥肌が立つ。汗をかいて冷えたのだろうか。
中には、昨日食べ残したポテトサラダがあった。
「……」
ポテトサラダがある。のだが、これを、どうするんだったか。冷えた空気を浴びながら考えてみても、思考がまとまらない。
冷蔵庫が早く閉めろと警音を鳴らし始める直前で、やっとドアを閉めた。
結果、綱の顔が冷やされただけで、何もなしとげていない。
「……」
次に、野菜室を引き出してみる。
やはりふわりと冷気が立ち上って、鳩尾あたりがぶるりと震えるのを感じた。
野菜室にはレタスと、ルッコラ、椎茸、あと、ブロッコリーと、キャベツと……なんだかいろいろ入っている。入っているが、これをどうしたらよいのだろう。
「……」
結局ここでも結論は出なくて、屈めていた背を伸ばした。
ぎしりと腰に鈍い痛みが走る。昨晩は、そんなに無茶なことをした記憶はないが、年齢のせいかもしれない。三十をこえて久しい。
人から褒められる容姿をしている自覚はあるし、ジムで衰えていると言われたこともない。だが、年齢を重ねていることは事実だ。今はシミや皺のひとつもない顔や身体だが、見えないところから衰えているのかもしれない。
ふと、疑問が浮かんだ。この美しいと褒められる身体が老いていっても、今シーツの海に沈む男は抱きたいと言うのだろうか。
今はまだ良い。だがいずれは辿る道だ。醜くなるかもしれない。それまで共にあるかどうかはわからないが、遅かれ早かれ、そういう欲の対象からは外れるのかもしれない。
鼻の付け根あたりが、ぎゅっと痛んだ。
「おはよ」
はっと顔を上げる。
全く気がつかなかった。キッチンの入り口には、碧い瞳を気だるくくすませた美丈夫が立っていた。
「……お、はよう」
「何してんだ? 朝飯?」
「……あ」
そうなのだろうか。自分は、朝食を作ろうとしていたのだっただろうか。
「どうした?」
金時は短い髪をかき上げながら、ぺたぺたとキッチンに入ってくる。長い両腕の中に綱の身体を閉じ込め、どうしたと顔をのぞき込む。
「なんかあったか?」
「……」
特になにもない。
何もないのだが、掛けられた言葉が耳から入って、頭の中で意味を理解するまでに、なぜか時間がかかった。そして、なんでもない、と答えるために、さらにワンテンポかかる。綱の口は「なんでもない」というだけなのに、ひどく重たかった。
それをどう思ったのか、金時は不安げに表情を曇らせた。
「んだよ、今日仕事んなっちまったの、怒ってんのか?」
怒っている……いや怒ってはいない、仕事になったのか、そういえばそう言っていた。
まるで外国語を頭の中で翻訳するような状態になってしまう。怒ってもいないし、何かあったわけでもない。どうしてかそれがうまく言い表せなかった。
「悪かったよ、昼すぎには帰ってくっから」
ごめん、と的外れに謝罪をされる。
「アンタの好きなもん、買って……あ?」
甘ったるくささやきながら大きな手が伸びてきて、その手がひたりと頬に触れた。途端、金時の凜々しい眉が跳ね上がる。
「あぁ?」
「?」
「あっちぃ。なんだこれ、熱あんのか?」
ぎょっと碧い目をむく。
のぞき込まれて尋ねられても、綱にはわからない。
ただ、まるで行為の最中かのように、視界がすこしだけぼんやりとしていた。
大慌てで脇に突っ込まれた体温計が、液晶に38.6を表示したのをみた金時は、ソファに座っていた綱を抱え上げてそのままベッドへ連れ戻した。
先ほどまで暑いような気がしていたのだが、ふとんにくるまっていても悪寒が背中を這い上がる。どうやら本当に発熱しているらしい。
「今日はどうしても仕事抜けらんねえ、なるべく早く帰ってくるから」
金時は、ベッドサイドにペットボトルを置き、綱の額に冷感シートを貼りながら、綱よりよほどつらそうに眉を寄せている。
「なんか食いたいもんあるか?」
「……」
ない、というかわからない。食欲はなかった。返事に困って、ぼんやりとしたまま首を振る。
金時も綱も、体力お化けと言われる部類で、風邪などめったにひいたりはしない。綱など、珍しすぎて自分の体調不良にも気がついていなかった。
金時は、壊れ物にでも触るかのように、指の背でそうっと綱の頬を撫でる。
「すまねえ、オイラのせいか?」
「……なぜ」
「昨日、その」
「きのう……」
昨日、何か特別なことがあっただろうかと考える。しかし、頭を働らかせようと思うと、ずくんと重たい痛みが走った。発熱に続き頭痛が始まって、綱はどうしようもなさにため息をつく。
「あたまが、いたい」
「!とりあえず、コンビニで買ってきた薬飲めよ、ちゃんとしたの探して買って帰ってくるから。そんで、明日も高いままだったら病院行こうぜ」
「……うん」
病院、健康診断以外でいくのは子供のころ以来だ。行きたくないなと思いながら飲んだ薬はすぐに効いたようで、とろりと瞼が重たくなった。
「寝てな、すぐ帰っから」
「う、ん……」
「なんかあれば電話しろよ」
「ん」
「運転中以外は出られるようにしとくから」
ぽんぽん、と大きな手が布団を叩く。
綱は重たい瞼を懸命に持ち上げて、そろりと手を出した。
指先が、ひんやりとしたシャツの裾を捕まえる。
「何も、いらん」
「そうか?」
「おまえが……」
帰ってくればそれで良い、と動きの鈍い舌で呟くと、布団の上からぎゅうと抱かれた。
「早く、帰る」
「ん」
吐いた息が熱い。
ガチャンと鍵のかかる音が、ひどく遠くから聞こえた気がする。
静まった部屋の中で唐突に孤独を感じながら、綱は気を失うように意識を手放した。
・・・
金時は、そぞろになりそうな意識を必死で集中させていた。
油断すると、布団のなかで苦しんでいる恋人のことを考えてしまう。だが、金時は今日散漫が許されない仕事があるのだ。だからこそ、その恋人を置いて来ざるをえなかった。
とある、オペラで結婚式を挙げそうな名前の雑誌から、インタビューされるのだ。
金時は、自転車ショップを経営している。元は北千住の外れにある少々ヤンチャなバイカー向けのバイクショップを任されたことが始まりだ。エンジンのない二輪車も嫌いではなく、一緒に自転車の取り扱いも始めたところ、世の中に自転車ブームが来た。
おかげで、現在は恵比寿と三鷹に自転車専門の路面店があるし、いくつかのファッションビルのスポーツフロアにも入っている。いわゆる、成功している若い経営者だった。
何度か雑誌の取材を受けたことはあって、特別な仕事というわけでもないが、今回は今日しか体が空かなかったのだ。貴重な休日だが、規則正しく公私をわけてといかないのが、経営者の不便なところであった。
かつてない程に集中して取材を受ける。何枚か写真も撮られた。
「坂田さんは、ご結婚されてないんですか?」
ちらりと、インタビュアーの視線が手元に落ちる。いろんな指にごてごてと重たい指輪をつけてはいるが、その指だけは席が空いていた。
金時は、ジャケットのポケットに意識を向けた。そこが不自然に膨らんでから、もう数ヶ月経とうとしている。
プロポーズ出来ずにいるとこぼし、場が沸いたところで今日の仕事は終わりになった。
先ほど綺麗に撮ってもらった愛車を駆け、帰宅する。途中忘れないように薬と、冷却シートとスポーツ飲料と、アイスとゼリーとヨーグルトとプリンと果物とうどんとそばと卵と、思いつくありとあらゆるものを買った。
きっと苦しんでいるだろう。何か食べたいというものがあれば、すぐに差し出してやりたい。逸る心を落ち着かせながら玄関を開けると、部屋の中には嗅ぎなれない香りが漂っていた。
「……?兄貴……?」
どこか懐かしいような匂いだ。
寝室のドアを開けると、ベッドは蛻の殻だった。首をかしげ、リビングに向かう。
ベランダの窓は開いていて、白いカーテンが帆のように膨らんでいる。
「兄貴?」
探していた人は、床に座り込んでベランダに足を投げ出していた。
その足下には一筋、煙を立ち上げるものがある。
「なにしてんだ……?」
この時間、ベランダ側からは日が差さない。
真っ青な空を背負い、綱はゆっくりと振り返った。
「おかえり」
大きすぎるTシャツは、朝自分が着せたものだ。綱は決して細くはないが、このTシャツは金時のサイズだ。だぶついた襟ぐりからは、くっきりとした鎖骨が浮かび上がっている。
部屋の中の空気が、生ぬるく頬に張り付く。
金時は、青に白く浮かぶその人の姿を、じっと見つめた。
秋になろうとしている、高い空だ。
風が、色素の薄い髪をいたずらにかき混ぜていた。
「おかえり、きんとき」
綱は微かに首をかしげる。薄い唇がほんの少しだけ口角を上げ、黒い真珠のような目が無垢な色をして金時を見上げている。
金時は、持っていた買い物袋をその場に置いた。
ジャケットのポケットを探る。そこには、出番を待ちかねていた小さな箱が入っている。
「兄貴」
「?」
「具合は?」
「熱は下がった」
その場に膝をつく。座っている綱に目線を合わせて、サングラスを胸ポケットにしまった。
「兄貴」
「なに、」
「結婚してくれ」
ぱこ、とその箱を開ける。
中にはメレのダイヤが一つだけついた、シンプルな金色の指輪が一つ、収まっていた。
「は……」
「ずっと言おうと思ってた」
「……」
「結婚、してくんねえか」
ずっと一緒にいたい、と。
将来を請う男を見る目は、まるで奇跡を見たかのような色を浮かべている。綱の手がゆっくりと持ち上がるのを、金時はうるさい程の心音の中、見つめた。
「金時、俺は」
俺は。
このときの数秒間が、金時にとって人生で最も長い待ち時間となるのだった。