🍞🍞🍞綱は少し考えて、目的地手前の京橋駅で電車を降りた。
地上に繋がる吹き抜けに植えられた木には、クリスマスを過ぎても尚電飾が飾られている。スクエアガーデンを横目に、上りのエスカレーターで中央通りにでた。
社会人になって最初の年に買ったヴァシュロン・コンスタンタンのパトリモニーは、時刻を正確に伝えてくれる。
14:46。
まだ随分と早いが、本日の仕事は終わっていた。通りを抜けた風がマフラーをはためかせ、その冷たさにぶるりと肩をゆする。
顔には余り出ないが、綱は寒がりだ。早く暖かい部屋の中に帰りたい。そう思うのに、こんな寄り道をしているのは、最近少し運動不足だろうか、などと思っているからと目当てがあったからだ。
中央通りを銀座へ向かい真っ直ぐ進んで、高速にそって有楽町方面へ進む。途中、福井のアンテナショップを見掛け、蟹が食べたくなった。昨年末に蟹をだしてやったら、金時が驚きの集中力で食べていたことを思い出す。また予約してやろうかな、と思いながら視線を右にやれば、目的の店があった。
幸いなことに、列が外に出ていない。天気が余り良くないのと、平日の半端な時間だからかもしれなかった。あとは、売り切れていないことを祈るだけだ。
パンの焼ける、良い匂いに包まれる。果たして、目的のものはそこにあった。
鞄を持つのとは反対の手に大きな紙袋を提げ、綱は機嫌良く外堀通りを歩いていた。数寄屋橋へ向いすすめば、10分程度で日比谷に着く。寒い中歩くことにしてよかった。ふう、と白い息がマフラーの隙間から流れていくのを見ながら、明日のためにスープの仕込みでもしようと考える。
今夜、金時は夜遅いと聞いている。金曜日が遅番になることはしょっちゅうで、特に気にはしていない。その代わり、明日はゆっくりできるはずだ。金時が勤めている居酒屋は、土日が休みだった。飲食業に従事しているわりに、自分と休みが重なるので少し嬉しい。
今夜は午前様だろうが、朝はブランチくらいの時間に起き出してくるだろう。仕込んでおいたスープとサラダに、ソーセージでも焼いてやればきっと喜ぶ。
綱は、紙袋の中をちら、と覗いた。丸い、愛らしい天辺がみえる。紙袋の中には食パンが2斤はいっていた。美味しい食パンである。普段は買うのに列に並ばないといけなかったり、行っても売り切れていたりする。今日は幸運だった。
綱はここのパンが好きだが、金時はまだ食べた事はないはずだ。出してやれば、美味い美味いと食べるだろう。
それを想像すると、自然と口角があがった。綱はあまり情緒豊かではないが、どうしても年下のかわいいひとと一緒にいると、喜怒哀楽が大きくなった。時折、まるで知らない自分のようで、己でも扱いに困ることもあったが、義母はそれを良いことだと喜んでくれる。金時も好ましいと言っていた。いまのところ、綱の感情をそこまで揺するのは金時だけなので、ままならないと思いつつも、これはこれで良いのかもしれないと思うようになっていた。
最近、綱は非常に仕事が多忙であった。休みもままならず、家のことはほとんど金時に任せてばかりで、会話らしい会話すら出来ていなかった。ああ、足りていないな、と日々思いながらも、仕事は急に減ることはなくて、家と職場の往復だったのだ。だが、それも先程山を越えた。今週末はちゃんと二連休だ。金時も仕事だとは聞いていないから、久々にふたりで過ごせる。
今、片手にさげている美味しい食パンは、そんな週末の幕開けに相応しい食事に思えた。
そうして上機嫌に帰宅をし、夕飯は適当にありもので済ませ、明日の仕込みをした。スーパーでアサリを見かけたので、スープはクラムチャウダーに決まった。綱のクラムチャウダーには牛乳と豆乳が入っている。
やはり金時は帰ってこなかったので、ひとり広いベッドで眠った。
カーテンの隙間から差し込む朝日で、綱は目を覚ました。起き上がると身体の上に乗っていた太い腕が、ぽとりと落ちる。しっかりと乾かさずに寝たのであろう髪はしっちゃかめっちゃかに跳ねていたが、それすら愛おしい気がして、ため息をつくように笑った。
起こさないように、そっとこめかみに口づけてベッドを降りる。
シャワーを浴びて、ベランダのプランターに水をやった。ローズマリーとイタリアンパセリは、今日も元気だ。イタリアンパセリをいくつか千切って、硝子戸を閉めた。
シャワーのあと着たのは、金時のTシャツだ。以前、何とはなしに着たときに大層喜ばれたので、時折きている。金時とは上背こそ10センチ程度しか違わないが体格はだいぶ違うので、肩の部分が大きく下がった。
ぶかぶかと振り袖を揺らしながら味見をしたクラムチャウダーは、とても美味しかった。
それから暫くして、のそのそと寝室から熊が起きてきた。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
高い位置からの日差しが、金髪を眩しく照らす。金時は、ソファーで雑誌を読んでいる綱を見て、へらと緩い笑みを浮かべた。
「久しぶり」
「そうだな、忙しくてすまなかった」
金時が起きてきたならば、雑誌などもう不要だ。ほい、とその辺に放って、へらへらと嬉しそうにしている金時の首に腕を回す。
「よくねむれたか?」
「おう」
する、と抱えるように腰に腕を回されるのも、いつの間にか慣れてしまった。少しだけ踵をあげて、軽く口づける。
「クラムチャウダーを作った」
「やった、オイラあれすげえ好き」
今日はゴールデンだな、と笑う口許にもう一度口づけて、離れがたい腕の中から抜け出した。
「……?」
そして、ブランチの準備をしようとキッチンへ向かい、綱は首をかしげた。パンやシリアルはいつもこの棚に入れている。当然、昨日買ってきたあの食パンもここにいれた。
確かにしまったはずだったが、そこには何もなかった。いや常備している、どこにでも売っているロールパンとコーンフレークはある。むしろそれしかない。
「……?」
おかしいな、と他の棚を開けるが、誤って入れたということもなさそうだった。いよいよもって消えてしまった。おかしい、と首を捻りながら、すでにテーブルについてにこにこしている金時を振り返った。
「金時、ここにいれておいた食パンしらないか?」
2斤あったはずだ。知らないよなと思いつつ尋ね、返ってきた言葉に、綱はぴたりと動きを止めた。
「おお、昨日の夜食べたぜ」
なに?
「賄い食う暇なくて、あんまり腹減ったから」
食っちまった、と。
なんの悪びれもなくいう金時に、綱はさーっと心が凪ぐのを感じた。
「パンも米もまだあるから大丈夫だろ?」
ちゃんと確認して食べたと、褒めろと、言わんばかりに言う金時に、綱はつけていたエプロンを外した。
「全部ひとりで食べたのか」
「腹減ってて」
「全部……」
「? 兄ィ?」
「このっ莫迦者っ」
ばしっとエプロンをテーブルに叩きつける。金時はびくりと肩を震わせた。
「あ、あれは、俺が、お前と今日、っ」
どうしてか、血の気が引くように凪いだ心は、瞬間湯沸かしのように突如沸騰した。これが酷く幼い怒りだということに、綱は気がつかない。
かっと血がのぼって、耳の奥でバクバク音がしていた。
「っ!」
はくはくと口をひらくが、言葉がでてこない。罵りたいような気もするが、相応しい言葉が思い付かなかった。それでいて、今の金時の過ちを正しく言及する冷静さもなかった。
耳が熱い。
「兄ィ……?」
なにやら感情を爆発させているらしいが、なにも言わない綱に心配になったのか、金時がそろりと顔を覗き込む。
「こ、の……」
うつむいた綱の顔を覗き込んで、金時はぎょ、と目を見開いた。
「莫迦!」
ぽろり、とその眦から涙がこぼれ落ちるのを、金時は信じられないものを見る目でみた。
「は」
ぽかんとしている間に、綱はBusterと書かれた赤いTシャツの裾をはためかせ、寝室に立て籠る。
「は??」
金時は1拍も2拍も遅れて、やっと固く閉ざされた天岩戸を眺めたのだった。