桃花園一、陽にはあてぬこと、
二、口をきかぬこと、
三、触れるときには、口枷をとらぬこと、
四、外に持ち出さぬこと、
五、桃以外を与えぬこと、
雨を含んだ柔らかな風が、金時の頬を撫でた。足の裏が苔に覆われた岩を滑る。
転ばないように気をつけながら、長い前髪の隙間から夜空を見上げた。
大きな月が、明るく森を照らしている。
眩しい。
金時は碧い目を眇めた。もやもやとした薄衣をまとった月は、まん丸の輪郭をほんのりと滲ませ、爛々と夜空に浮いていた。
遠くで狼が空気を震わせている。
春を終えた、良い夜だ。
春は暖かくて美しくて華やかだけれど、金時は春が終わり、夏の手前の雨に湿った季節がいっとう好きだ。
夜に向かって冷える風も、気まぐれのように吹くあたたかな風も、土のにおいがしみた空気も、湿気って身体の中に満ちていく空気も、心地よい。
うるうるとした苔の敷布も好きだった。
花の香りも果実の香りもない、緑色の気配。
金時はまるで水の中にいるような心地で、うんと細く白い四肢を伸ばした。
暗い川を覗き込むと、沢蟹がぷくぷくと寝息をもらしている。
しばらくその気泡がはじけるさまを見つめてから、すっくと立ち上がった。
今夜は、もう少し日が昇る方へ向かってみよう。お天道様が顔を出す前に塒へ戻れば良い。
じゅっじゅっと足の裏で苔が水を吐く。川に沿って進む。川面はきらきらと月光の雫を浮かべている。見上げると、まるで双子のような川が夜空にも伸びていた。
川面を彩る金色の雫に、ひとかけら、白いものが見える。
ひらり、ひらりと流れていく。それは、だんだんと量が増え、春にはよく見た花びらの筏だと気づいた。
もう季節は終わったとばかり思っていたが、まだこんなにも花をこぼす木が残っているらしい。
お山のことならばたいてい知っていると思っていたのは、金時の自惚れだったらしい。まだ知らない木がいたのだ。
そのうちに、甘い香りがしてきた。甘く瑞々しいのに、どこか鼻の奥に残る、落ちる直前の桃に似ている。
金時が追いかけていた川は、柳の間に吸い込まれていた。左右に茂った柳の下を潜り、先へ続いている。
「……」
空を見上げる。
大きな月が、朝は遠いと言っている。
逡巡し、金時は柳の葉を搔き分けた。
「あっ」
金時は、はっと両手で目を覆った。まぶしい。お月様のまぶしさとは違う。つんと目をさすようなまぶしさだ。じわじわと涙が出てきて、目を覆っていた手で乱暴に拭った。
涙が引っ込む頃には、目はまぶしさに慣れていた。
まぶしかったのは、あたり一面真っ白い石が敷き詰められていたからだった。
そこいら中に桃がたわわに生り、地面は一面の白。まるでこの世とは思えなかった。一体どこに迷い込んでしまったのかと思いながら、金時は白の間を縫っている川をたどった。
しばらく行くと、川は一つの池につながっていた。蓮の花が生首のように浮いている。
「なんだぁ……?」
「だれ」
首を傾げる金時に、どこからか声がした。はっとしてあたりを見回す。すると、蓮の花の向こう岸に露台があった。金時にはなんだかわからないが、つやつやとした木で組まれている。どうしたら木があんな風になるのだろうか。
そして、その上に大きな花が咲いていた。
「客……ではないな」
「あ、」
花ではない。
「誰だ……?」
花のような、人だ。
そこには、白い花のような人が座っていた。
月の光を浴び、仄白く光って見える。まるで、その光をそのまま織り込んだような白い着物に朝露を浴びた蜘蛛の糸みたいな髪、顔はそこら中に敷かれた石みたいにつるんとしている。
ちらりと見える口の中だけがやたらに赤かった。
「あ……」
「……口がきけんのか?」
怪訝そうに口元を抑える。金時は慌てて首を振った。
「では、そこで……何をしている……?」
「オ、オイラ……」
白い人は、ゆっくりと首を傾げた。木漏れ日のように繊細な髪がさらさらと揺れて、金時の心臓は大きく弾んだ。
足元で、踏みしめた白石がガリリと音を立てる。
「お前、」
つい、と着物の裾から細い指が見えて、金時は弾けるようにその場から逃げ出した。
これが、金時と綱が出会った最初の夜の話である。