桃花園 弐「なあアンタここでなにやってんだ」
金時は、露台に身を乗り出すようにして肘をついた。
甲冑を着た虫よりもなおつやつやとした板の上に座っている綱は、長い睫を上下に揺する。
それが瞬きなのだと、金時は暫くして気づいた。
あまりに睫が多いので、重たくて疲れたのかと思ってしまった。
「何、とは」
「いっつもここにすわってんのか?」
池の畔に迫り出すように作られた露台。そこにぶら下がっている金時は、ぱちゃぱちゃとつま先を水に遊ばせる。
水面に波が立って、蓮の花が踊った。
「今は夜だから本当はみんな眠ってんだろ?鴉のじいさまが言ってた」
「からすのじいさま」
「鴉のじいさまはなんでもしってんだぜ」
「そうか」
綱はもう一度睫を伏せる。ふさふさとした睫は、飛び立つ前の蒲公英の綿毛に似ていた。
「……ここに、座って」
「おう」
「何を、しているのだろうな。俺は」
「? 誰か待ってんのか?」
「……ああ」
「ふうん?」
待っていると頷く。待ち人というのがどういうものか、金時にはわからない。きっと待っても待っても来ないから悲しいのだろう。綱は、そういう顔をしていた。
「早く来ると良いな」
にっと笑う。
金時は早く、その綱の待っている人が来て、綱がここから動けるようになれば良いのに、と思ったのだ。
そうすれば金時は白い手を引いて柳の下をくぐり、緑の野山に綱を連れ出せる。
けれども綱は金時の言葉に、さっきよりももっと悲しそうな顔をした。
「来なければ、良い」
「どうして」
「……」
綱の指が、金時が、握りしめてそこら中金時の好きな場所をつれて回りたいその小さな手が、ぎゅうと着物の裾を握りしめる。
「いやな、やつなのか?」
真っ黒い目が微かに揺れる。
「あんたをいじめるのか?」
その目が瞼に隠れ、白い兎のような顎がこくりと頷く。金時はかっと頭に電撃が走った。怒りだった。
「そんなやつ、オイラがぶっとばしてやる」
ざわりと金色の髪が戦慄く。怒りを宿した瞳が青く燃え、掴んだ手すりの木がぎしりと悲鳴を上げた。
綱は、はっとして金時の手に指を伸ばす。
綱が動くだけで、辺りの空気は甘くとろけた。
「いけない」
雪の中からとりだしたばかりのように、綱の指先は冷たい。
「いけない、殺されてしまう」
「オイラ強いんだぜ、殺されたりしねえ」
ふるふると首を振る。そのたびに辺りには果実を絞ったかのような甘い香りが漂った。
「それに俺は逃げられない」
「なんでっ」
「歩けない」
瞠目して綱の足元をみる。
綱は、今まで一度も立ち上がって見せたことがない。ずっと今の姿勢のまま座り込んでいる。足をみたこともなかった。
何枚もの布を重ねた着物が、するすると持ち上がる。合わせ目から白いふくらはぎがのぞき、金時は自分でも気づかないうちにこくりと喉をならした。
そして、次に、はっと目を見開く。
「そ、れ」
「歩けないようにされている」
「ねえ、のか?」
「いや?ある」
「?」
綱はくるぶしから下がないように見えた。綺麗な布に包まれている。けれどもその下に、身体を支える足の甲や指があるとは思えなかった。
「ありは、するが……」
白い指先が、くるぶしの辺りを撫でる。
「大きくならないようにされている、まあ、ないのと同じか」
一瞬、意味がわからなかった。
そこにあるはずの足はない。あるはずの場所と綱の綺麗な顔を何度か見比べて、やっと理解した。そして再び、金時は頭のなかに雷鳴が響く。
「ぜってえオレが助けてやる」
「金時」
「アンタにこんなことしたやつぶっとばして、ここから連れ出してやる」
「……」
綱は、金時の怒りに応えない。ただ静かに笑って、そうかと頷くだけだ。
遠くの空で雷鳴が轟いている。
金時は、ぐらぐら煮えるような頭を持て余して、ひやりと冷たい沼に飛び込んだ。